最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(2)

2010-05-29 07:16:25 | 日記



●パソコンショップの店員


 こういう書き方ができるようになったのは、私もその年齢に達したから、ということ
になる。
パソコンショップの店員には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう
店員を見ていると、ときどき、こう考える。
「だから、どうなの?」
「この人たちは、自分の老後をどう考えているんだろ?」
「もったいないな」と。


 つまりパソコンショップの店員の目的は、パソコンを客に売ること。
しかしそんな仕事を、仮に10年つづけていても、身につくものは何もない。
店が大きくなり、支店がふえれば、支店長ぐらいにはなれるが、そこまで。
だから「だから、どうなの?」となる。


 つぎにパソコンショップの店員たちは、よく勉強している。
その道のプロである。
しかしプロといっても、一般ユーザーの目から見てのプロに過ぎない。
パソコンを自由に操ることはできるが、その先、たとえばプログラミングの仕事とか、
さらには、スーパーコンピュータの操作となると、それはできない。


 そこで私はこう考える。
「こうした知識と経験を使って、別の仕事をしたら、すばらしいのに」と。
たとえばデザインのような、クリエイティブな仕事でもよい。
それが「もったにないな」という気持ちに変わる。


 そこでメタ認知能力の登場!
(1) 自分の置かれた職場環境の把握
(2) その職業を長くつづけたときの、メリット、デメリットの計算
(3) 老後が近づいたときの、将来設計
(4) 収入の具体的な使い道などなど。

 
 そうしたことを順に考え、自分の生活の場で、位置づけていく。
中には、「お金を稼いで、高級車を買う」という人もいるかもしれない。
しかしそれについても、メタ認知能力が関係してくる。
「だから、それがどうしたの?」と。
 高級車を乗り回したからといって、一時的な享楽的幸福感を味わうことは
できる。
が、できても、そこまで。
4~5年もすれば、車は中古化して、当初の喜びも、半減する。


 ……つまりこうしてパソコンショップの店員は、メタ認知能力が少しでもあれば、
「もったいないな」を自覚するようになる。
また自覚すれば、生きざまも変わってくる。
同じ店員をしながらも、ただの店員で終わるか、あるいはつぎのステップに進むか、
そのちがいとなって、現れてくる。


 が、このことは、家庭に主婦(母親)として入った女性についても、言える。


●生きざまの問題に直結


 日常的な作業(=ルーティンワーク)だけをし、またそれだけで終わっていたら、
その女性の知的能力は、(高度)とは、ほど遠いものになってしまう。
電車やバスの中で、たわいもない愚痴話に花を咲かせているオバチャンや、オジチャン
たちを見れば、それがわかる。


 そこで重要なことは、あくまでもメタ認知能力の訓練のためということになるが、
つねに問題意識をもち、(問題)そのものを、身の回りから見つけていくということ。
問題あっての、メタ認知能力である。


 社会問題、政治問題、経済問題、さらには教育問題などなど。
あえてその中に、首をつっこんでいく。
ワーワーと声をあげて、自分で騒いでみる。
私はそのとき、そのつど文章を書くことを提唱するが、これはあまりにも手前みそ過ぎる。
が、(書く)ということは、そのまま(考える)ことに直結する。
ほかによい方法を私は知らないので、やはり書くことを提唱する。


 で、こうして書くことによって、たとえば今、「メタ認知能力」についての理解を
深め、問題点を知ることができる。
同時に、応用分野についても、知ることができる。
こうして自分がもつ知的能力を高めることができる。
そしてそれがその人の生きざまへと直結していく……。


 簡単に言えば、「自分の意識を意識化すること」。
それがメタ認知能力ということになる。

オックスフォード英英辞典によれば、「Meta」は、「higher(より高度の)」「beyond
(超えた)」という意味である。
「より高度の認知能力」とも解釈できるし、「認知能力を超えた認知能力」とも解釈
できる。


 私はこのメタ認知能力の先に、(ヒト)と(動物)を分ける、重大なヒントが隠されて
いるように感ずるが、それは私の思いすごしだろうか?
つまりメタ認知能力をもつことによって、ヒトは、自らをより高いステージへと、自分を
もちあげることができる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 メタ メタ認知能力 metacognitive ability 高度な知的活動)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司


【メタ認知能力】(追記)(Metacognitive Ability)


+++++++++++++++


この数日間、「メタ認知能力」という
言葉に、たいへん興味をもっている。
以前にも何度か、それについて書いた
ことがある。
が、そのときは、それほど
重要視していなかった。
しかしその後、知れば知るほど、
なるほどと思う場面に遭遇した。
「メタ認知能力」……まさに人間だけが
もちうる、最高度の認知能力という
ことになる。


+++++++++++++++++


●食欲とメタ認知能力


 食欲中枢は、脳の中でも視床下部というところにあることがわかっている。
そこにあるセンサーが、血糖値の変動を感知して、食欲を増進させたり、反対に
食欲を減退させたりする。


 しかしこれら2つの働き、つまり(食欲増進)を促す中枢部と、(食欲抑制)を
促す中枢部が、最近の研究によれば、別々のものというところまでわかってきている。
これら2つの中枢部がたがいに連携をとりながら、もう少し具体的には、絶妙なバランス
をとりながら、私たちの(食欲)を、コントロールしている。


●意識を意識する


 もちろん私たちは、こうした知識を、本という(文字)を通して知るしかない。
頭を開いて、その中を見て知るわけではない。
が、想像することはできる。


たとえば空腹感を覚えたようなとき、「血糖値がさがってきたぞ」とか、など。
 血糖値がさがると、胃や腸が収縮し始める。


空腹になると、おなかがグーグーと鳴るのはそのためだが、そうした変化に合わせて、
空腹感がどういうものであるかを知る。


 このとき、「ああ、腹が減ったなあ」だけでは、メタ認知能力はないということに
なる。
が、このとき、自分の脳みその中の変化を、想像してみる。
「ああ、今、食欲増進中枢部が働いているぞ」
「今度は、食欲抑制中枢部が働いているぞ」と。


 こうして自分の意識を、別の意識で客観的に評価する。
それをする能力が「メタ認知能力」ということになる。


●2つの働き


 これもひとつのメタ認知能力ということになるのか。
たとえば講演などをしているとき、自分の脳の中で、2つの働きが同時に起きている
のがわかる。
ひとつは、講演の話の内容そのものを考えること。
「この話には、異説があるので、注意しよう」とか、「この話は、もう少し噛み砕いて
話そう」とか、考える。


 もうひとつは、話しながらも、「残り時間があと20分しかないから、少し結論を
急ごう」とか、「つぎにつづく話は、途中で端折ろう」とか、時間を意識すること。
この両者が、交互というよりは、同時進行の形で働く。


 つまり講演している私を、別の意識が客観的にそれをみて、私にあれこれと命令を
くだす。


●知的能力


 教育の世界の話になると、ぐんと具体性を帯びてくる。
たとえば今、掛け算の九九練習している子ども(小2)を、頭の中で想像してみてほしい。
その子どもは懸命に、「二二が4、二三が6……」と暗記している。
そのとき子どもは、「なぜそれを学習しているのか」「なぜそれを学習しなければならな
いのか」「学習したら、それがどう、どのように役立っていくのか」ということについては、
知る由もない。


 「掛け算は覚えなければならない」という意識もない。
ないから、先生や親に言われるまま、暗記する……。


 これは子どもの世界での話だが、似たような話は、おとなの世界にも、いくらでもある。
またその程度の(差)となると、個人によってみなちがう。
言い換えると、メタ認知能力の(差)こそが、その人の知的能力の(差)ということにな
る。


●自己管理能力とメタ認知能力


 たとえば若い男性の前に、裸の女性が立ったとする。
かなり魅力的な、美しい女性である。
そのとき若い男性が、それを見てどのように反応し、つぎにどのような行動に出るかは、
容易に察しがつく。


 が、そのときその若い男性が、自分の中で起きつつある意識を、客観的にながめる
能力をもっていたとしたら、どうだろうか。


「今、視床下部にある性欲本能が、攻撃的な反応を示し始めた」
「ムラムラと湧き起きてくる反応は、食欲増進反応と同じだ」
「今、ここでその女性と関係をもてば、妻への背信行為となる」など。
いろいろに考えるだろう。


 こうしてメタ認知能力をもつことによって、結果的に、大脳の前頭連合野が分担する、
自己管理能力を、より強固なものにすることができる。


●スーパーバイザー


 「意識を意識する」。
それがメタ認知能力ということになるが、もう少し正確には、「意識を意識化する」という
ことになる。


 もちろんその日、その日を、ただぼんやりと過ごしている人には、(意識)そのものが
ない。
「おなかがすいたら、飯を食べる」
「眠くなったら、横になって寝る」
「性欲を覚えたら、女房を引き寄せる」と。


 が、そうした意識を、一歩退いた視点から、客観的に意識化する。
言うなれば、「私」の上に、スーパーバイザー(監督)としての「私」を、もう1人、置く。
置くことによって、自分をより客観的に判断する。
たとえば……。


 「今日は寒いから、ジョギングに行くのをやめよう」と思う。
そのときそれを上から見ている「私」が、「ジョギングをさぼってはだめだ」
「このところ運動不足で、体重がふえてきている」「ジョギングは必要」と判断する。
そこでジョギングをいやがっている「私」に対して、「行け」という命令をくだす。
言うなれば、会社の部長が、なまけている社員に向かって、はっぱをかけるようなもの。
部長は、社員の心理状態を知り尽くしている。


●うつを知る


 メタ認知能力は、訓練によって、伸ばすことができる。
私なりに、いくつかの訓練法を考えてみた。


(1) そのつど、心(意識)の動きをさぐる。
(2) それが脳の中のどういう反応によるものなのかを知る。
(3) つぎにその反応が、どのように他の部分の影響しているかを想像する。
(4) 心(意識)の動きを、客観的に評価する。
 この方法は、たとえば(うつ病の人)、もしくは(うつ病的な人)には、とくに
効果的と思われる。
(私自身も、その、「うつ病的な人」である。)


 というのも、私のようなタイプの人間は、ひとつのことにこだわり始めると、そのこと
ばかりをずっと考えるようになる。
それが引き金となって、悶々とした気分を引き起こす。


 そのときメタ認知能力が役に立つ。
「ああ、これは本来の私の意識ではないぞ」
「こういうときは結論を出してはいけない」
「気分転換をしよう」と。


 すると不思議なことに、それまで悶々としていた気分が、その瞬間、とてもつまらない
ものに思えてくる。
と、同時に、心をふさいでいた重い気分が、霧散する。


●メタ認知能力


 メタ認知能力を養うことは、要するに「自分で自分を知る」ことにつながる。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。


「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている。
が、実のところ、そう思い込んでいるだけで、自分のことを知っている人は、ほとんど
いない。


(私が断言しているのではない。
あのソクラテスがそう言っている。)


 が、メタ認知能力を養うことによって、より自分のことを客観的に知ることができる。
「私は私」と思っていた大部分が、実は「私」ではなく、別の「私」に操られていた
ことを知る。
それこそが、まさに『無知の知』ということにもつながる。


 もちろん有益性も高い。
その(有益性が高い)という点で、たいへん関心がある。
応用の仕方によっては、今までの私の考え方に、大変革をもたらすかもしれない。
またその可能性は高い。


 しばらくはこの問題に取り組んでみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 メタ認知能力 Metacognitive Ability)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

(3)

2010-05-29 07:15:57 | 日記



【自己管理能力】


●前頭連合野


+++++++++++++++++++++++++++++++


前頭連合野は、言うなれば、知性と理性のコントロール・センター。
その働きを知るためには、ひとつには、「夢」の内容を知るという方法
がある。
夢を見ているときには、前頭連合野は、働いていない。
そのため、人は、支離滅裂な、前後に脈絡のない夢を見る。
言い換えると、もし前頭連合野の働きが弱くなれば、私たちの思考は、
ちょうど夢を見ているような状態になる。
もしそうなれば、自分でも、何をどう考えているか、さっぱりわからなく
なるだろう。
もちろん自分の考えをまとめることさえできない。
電車に乗り遅れる夢を見るように、ただあわてふためくだけで、それで
終わってしまう。
いつもの私の夢が、そうだ。


+++++++++++++++++++++++++++++++


●前頭連合野


 人間の脳みその、約3分の1は、前頭連合野と呼ばれる部分だそうだ。
人間は、とくにこの部分が発達している。
そのため、猿やチンパンジー、古代人の骨格と比べても、人間の額は大きく、広い。
言うなれば、知性と理性のコントロール・センター。
それがこの前頭連合野ということになる。
が、もしこの前頭連合野の働きが鈍くなったら・・・。


 私たちの思考は、ちょうど夢を見ているときのような状態になると考えられる。
というのも、人間が眠っている間というのは、前頭連合野も、眠った状態になっている。
反対に、そのことから、前頭連合野の働きを、私たちは知ることができる。


●今朝の夢


 実のところ、今朝の夢というのは、よく覚えていない。
夢というのは不思議なもので、半日もたつと、それが今朝の夢だったのか、それとも何日
も前に見た夢だったのか、わからなくなる。
 が、今朝見た夢は、こんなものだった。


 山の中の、どこかの駅に向かっている。
新幹線の中のようだが、窓がなく、貨物室のようになっている。
それが川沿いを走ったり、山の中を走ったりしている。
ところどころ線路が切れているが、新幹線は、そのまま走り続けている。
が、やがて、森のようなところをぐるりと回ったところで、新幹線は止まる。


 中央にプラットフォームがあって、その向こうには、別の電車が待っている。
ローカル線である。
切符を買うために、駅舎へ向かうが、料金がわからない。
長野を通って、仙台へ行く・・・というようなことを、私は話している。
途中、高い山を電車は越えるらしい。
山の途中には、ひなびた温泉街がいくつも並んでいる・・・。


●小鳥の思考


 理屈で考えれば、矛盾だらけの夢である。
夢の内容に連続性がない。
それに非合理。


 そこで私は、ふとこう考えた。
前頭連合野がまだ未発達だったころの人間は、こうした思考方法を、日常的にしていたの
ではないか、と。
 もちろん目の前に見える(現実)に対しては、現実的な行動をする。
餌となる食べ物があれば、それを口にするまでの行動を開始する。
危険が迫れば、それを回避するための行動を開始する。
しかしこと(思考)ということになると、それをまとめあげ、合理的に判断し、前後を論
理的につなげる能力はない。
恐らく、目を閉じたとたん、私たち人間が夢を見ているときのような状態になるのではな
いか。


 ミミズが地面をはっている。
その横に、大きな木の枝がある。
木の枝の中には、おいしそうな種がいっぱいつまっている。
それを高い空を飛びながら、上から見ている、と。
 小鳥なら、きっとそんな光景を思い浮かべるかもしれない。
もちろん言葉もないから、それを的確に、別の鳥に知らせることもできない。


●理性の源泉


 が、人間のばあいは、目を閉じても、それで前頭連合野の活動がそこで停止するわけで
はない。
目を閉じていても、言葉を使って、ものごとを論理的に考え、理性的な判断をくだすこと
ができる。
それがしっかりとできる人のことを、理性的な人といい、そうでない人を、そうでない人
という。
程度の差は、当然、ある。
言うなれば、神に近いほど、理性的な人もいれば、反対に、動物に近いほど、そうでない
人もいる。
その(ちがい)は何によって生まれるかといえば、結局は行きつくところ、(日々の鍛錬)
ということになる。


 このことは幼児期前期の子どもたちを見れば、よくわかる。
エリクソンが、「自律期」と名づけた時期である。


●自律期


 年齢的には、満2歳から4歳前後ということになっている。
実際には、乳幼児期を脱し、少年少女期へ移行する、その前の時期までということになる。
この時期の子どもは、親や先生に言われたことを忠実に守ろうとする。
この時期をとらえて、うまく指導すると、いわゆる(しつけ)がたいへんしやすい。
が、この時期に、(いいかげんなこと)をしてしまうと、子どもはやがて、ドラ息子、ドラ
娘化する。


 ものの考え方が享楽的になり、自己が発する欲望に対して、歯止めがきかなくなる。
わがままで、自分勝手。


感情のコントロールさえ、ままならなくなる。


 つまりこの時期に、前頭連合野の働きが活発になり、ある程度の形がその前後に形成さ
れると考えてよい。
もちろんそれ以後も、前頭連合野の形成は進むだろうが、原型は、その前後に形成される
と考えてよい。


●夢と前頭連合野


 そこでこう考える。
夢の中でも、前頭連合野を機能させることはできないものか、と。
しかしそれでは、睡眠が妨げられることになる。
ただ、ときどき、ほとんど起きがけのころだが、夢と現実が混濁するときがある。
そういうときというのは、かなり理性的な判断(?)ができる。
「これは夢だぞ」と、自分で、それがわかるときさえある。
あるいはこんなこともあった。


 この話は少し前にも書いたが、こんな夢を見たことがある。


 歩いていて、その男女の乗った車に、体をぶつけてしまった。
中から男が出てきて、ワーワーと大声を出して、私に怒鳴った。
で、私は目を覚ましたが、そのときのこと。
私はそれが夢だったと知り、もう一度、夢の中に戻りたい衝動にかられた。
夢の中に戻って、その男女の乗った車を、足で蹴飛ばしてやりたかった。
 が、このとき、脳のほとんどは覚醒状態にあったが、前頭連合野だけは、まだ半眠の状
態であったと考えられる。
前頭連合野が正常に機能していたら、「蹴飛ばしてやる」ということは考えなかったかもし
れない。
それ以前に、「夢は夢」と、自分から切り離すことができたはず。


 ・・・などなど。


前頭連合野の働きをわかりやすく説明してみた。
今度の高校生のクラスで、こんな話を、子どもたちにしてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 前頭連合野 前頭前野 理性の府 夢と理性)


【薬物療法】(フィードバック現象)(自己管理能力に関して)


【ある中学校での講演での要旨】


++++++++++++++++


先日、中学校での講演のレジュメを
考えた。


で、その一部を、中学生たちにして
みたら、みな、「つまらない」と。


そこでそのレジュメは、ボツ!


そこで改めて、考えなおしてみる。


(荒削りの未完成レジュメなので、
その点を含みおきの上、お読みくだ
さい。)


++++++++++++++++


●初恋


 私は、中学生になるまで、女の子と遊んだ経験がない。当時は、そういう時代だった。
女の子といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」と、みなにからわかわれた。
私も、からかった。


 その私が、中学2年生のときに、初恋をした。相手は、恵子(けいこ)さんという、す
てきな人だった。


 毎日、毎晩、考えるのは、その恵子さんのことばかり。家にいても、恵子さんの家のほ
うばかり見て、ときには、ボーッと何時間もそうしていた。恵子さんの家のあたりの空だ
けが、いつも、虹色に輝いていた。


 で、ある日、私は思い立った。そして恵子さんに電話をすることにした。


 私は10円玉をもって、電車の駅まで行った。公衆電話はそこにしか、なかった。家に
も電話はあったが、家ですると、親に見つかる。


 私は高まる胸の鼓動を懸命におさえながら、駅まで行った。そして電話をした。それは
もう、死ぬようない思いだった。

 で、電話をすると、恵子さんの母親が出た。私が、「林です。恵子さんはいますか?」と
電話をすると、母親が電話口の向こうで、恵子さんを呼ぶ声がした。「恵子、電話よ!」と。


 心臓の鼓動はさらに、高まるばかり。ドキドキドキ……と。


 そしてその恵子さんが、電話に出た。そしてこう言った。


 「何か、用?」と。


 そのときはじめて、私は気がついた。私には、何も用がなかった。ただ電話をしたかっ
ただけ。だから、その電話はそれでおしまい。私は何も言えず、電話を切ってしまった。


●フェニルエチルアミン


 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。


 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。


その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、
麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、
それほど長くない。短い。


 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その
物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなって
しまう。


しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌され
ない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづ
くことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに
慣れてしまう。


 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。


 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。


●リピドー(性的エネルギー)


 このフェニルエチルアミン効果と同時進行の形で考えなければならないのが、リピドー、
つまり、「性的エネルギー」である。


 それを最初に言い出したのが、あのジークムント・フロイト(オーストリアの心理学者、
1856~1939)である。


 「リピドー」という言葉は、精神分析の世界では、常識的な言葉である。「心のエネルギ
ー」(日本語大辞典)のことをいう。フロイトは、性的エネルギーのことを言い、ユングは、
より広く、生命エネルギーのことを言った。


 人間のあらゆる行動は、このリピドーに基本を置くという。


たとえばフロイトの理論に重ねあわせると、喫煙しながらタバコを口の中でなめまわすの
は、口愛期の固着。自分の中にたまったモヤモヤした気分を吐き出したいという衝動にか
られるのは、肛門期の固着。また自分の力を誇示したり、優位性を示したいと考えるのは、
男根期の固着ということになる。(固着というのは、こだわりと考えると、わかりやすい。)


 つまり、フロイトは、私たちのあらゆる生きる力は、そこに異性を意識していることか
ら生まれるというのだ。


 男が何かに燃えて仕事をするのも、女がファッションを追いかけたり、化粧をするのも、
その根底に、性的エネルギーがあるからだ、と。


●性的エネルギー


 このことと、直接関係あるかどうかは知らないが、昔、こんな話を何かの本で読んだこ
とがある。


 あのコカコーラは、最初、売れ行きがあまりよくなかった。そこでビンの形を、それま
でのズン胴から、女体の形に似せたという。胸と尻の丸みを、ビンに表現した。とたん、
売れ行きが爆発的に伸び、今のコカコーラになったという。


 同じように、ビデオも、インターネットも、そして携帯電話も、当初、その爆発の原動
力となったのは、「スケベ心」だったという。そう言えば、携帯電話も、電子マガジンも、
出会い系とか何とか、やはりスケベ心が原動力になって、普及した?


 東洋では、そしてこの日本では、スケベであることを、恥じる傾向が強い。仮にそうで
あっても、それを隠そうとする。しかし人間というのは、ほかの動物たちと同じように、
基本的には、異性との関係で生きている。つまりスケベだということ。


 人間は、この数一〇万年もの間、哲学や道徳のために生きてきたのではない。種族を後
世へ伝えるために生きてきた。「生き残りたい」という思いが、つまりは、スケベの原点に
なっている。だから、基本的には、人間は、すべてスケベである。スケベでない人間はい
ないし、もしスケベでないなら、その人は、どこかおかしいと考えてよい。


 問題は、そのスケベの中身。


●善なるスケベ心


 ただ単なる肉欲的なスケベも、スケベなら、高邁な精神性をともなった、スケベもある。
昔、産婦人科医をしている友人に、こんなことを聞いたことがある。


 「君は、いつも女性の体をみているわけだから、ふつうの男とは、女性に対して違った
感情をもっているのではないか。たとえばぼくたちは、女性の白い太ももを見たりすると、
ゾクゾクと感じたりするが、君には、そういうことはないだろうな」と。


 すると彼は、こう言った。「そうだろうな。そういう意味での、興味はない。ぼくたちが
女性に求めるのは、体ではなく、心だ」と。


 たぶん、その友人がもつスケベ心は、ここでいう高邁な精神性をともなったスケベかも
しれない。


 では、私にとっての性的エネルギー(リピドー)は、何かということになる。


 私は、それはひょっとしたら、若いころの、不完全燃焼ではないかと思うようになった。
私は若いころは、勉強ばかりしていた。大学時代は、同級生は、全員、男。まったく女気
のない世界だった。その前の高校時代は、さらに悲惨だった。私は、まさに欲求不満のか
たまりのような人間だった。


 だから心のどこかで、いつも、チクショーと思っている。その思いは、いまだに消えな
い。そしてそれが、回りまわって、今の私の原動力になっている? そう言えばあの今東
光氏も、昔、私にそう話してくれたことがある。彼もまた、若いころは、修行、修行の連
続で、青春時代がなかったと、こぼしていた。


 何はともあれ、私たちは、いつも、異性を意識しながら生きている。男がかっこうを気
にしたり、女が化粧をしたりするのも、原点は、そこにある。そしてそういう原点から、
それぞれが、つぎのステップへと進む。あらゆる文化は、そうして生まれた。哲学にせよ、
道徳にせよ、あくまでも、その結果として生まれたに過ぎない。


 さあ、世の男性諸君よ。女性諸君よ。それに中学生諸君よ、スケベであることを、恥じ
ることはない。むしろ、誇るべきことである。もし、心も体も、健康なら、あなたは、当
然、スケベである。もしあなたがスケベでないなら、心や体が病んでいるか、さもなけれ
ば、死んでいるかのどちらかである。


 あとはそのスケベ心を、善なるスケベ心として、うまく昇華すればよい!


●自我構造理論


 が、それがむずかしい。この性的エネルギーというのは、基本的には、快楽原理の支配
下にある。油断をすれば、その快楽原理に溺れてしまう。


一方、その私はどうかというと、私も、ふつうの人間。いつもそうしたモヤモヤとした快
楽原理と戦わなくてはならない。しかしそれを感じたとたん、「邪悪な思い」と片づけて、
それをまた心のどこかにしまいこんでしまう。


 こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うま
く説明できる。


 私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネ
ルギーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、
理性もない。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。


 そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」とい
う理性である。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑
制する。


●イドと自我の戦い
 

しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の働
きが強ければ、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと思わ
れる。


 同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)
でも、説明できる。


 今回は、みなさんに、そのEQテストなるものをしてみたい。(後述)


 EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程
度、(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴール
マンは、(1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)
他人への思いやり、(5)人間関係の5つをあげた。)


 つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということにな
る。

(4)

2010-05-29 07:15:32 | 日記



●教師という仮面


 ところで、教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といっ
てもよい。おおかたの人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であると
いう前提で、ものを考える。接する。


 そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接す
る。しかしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性
がある。こんなことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、
まったく分離してしまうということは、危険なことでもある。


 ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。


 そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演
じていると、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、
弱い。長く、つづけることはできない。


●自己管理能力


 人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)
はどこにあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと
言えば、自我のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうで
ない人を、(見かけ上、すばらしい人)という。


 さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうた
めに、こんな話を書きたい。


●思春期に肥大化するイド


 昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。


 私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていっ
た。黒い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。


 その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車
がいないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。


 最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼
児ほど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、
子どもは、とたんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。


 なぜか?


 それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。


 思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはド
ロドロとした欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我の
もつ管理能力が低下する。


 言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当に
すばらしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い
(?)。


●では……


 ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。


 最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らな
ければならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみど
ころがない。ドロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イド
は、私の生きる原動力となっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこか
ら生まれる。


 そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を
抱きたい」「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。


 イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンの
ようなもの。


 そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドル
をとりつける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコント
ロールする部分が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、
しかしそう考えると、(私)というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、
そうしてできあがった、(車)のようなもの、ということになる。


 つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)と
いうことになるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボ
ロで、故障ばかり繰りかえす……。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自我
構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)


●エスの人


 さらに話を進めたい。


フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、
(3)エスの人に分けた。


 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。


 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あな
たとのセックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっ
ては、セックスは、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう
割り切って、その場を楽しむ。その女性と、セックスをする。


 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。


 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の
人生をけがすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちも
ないわけではない。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。


 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。


 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、
何度か浮気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするの
が男」と考えて、その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。


 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に同居する。完全に超自我の人はいない。
いつもいつもエスの人もいない。


 これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。


 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。


 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけ
て食べてしまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲
んでしまいました」と。


 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していい
ことと悪いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝
動的。その場だけを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイ
ト人生を送っているという。


 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強
い人」ということになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、そ
の自我の確立が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考え
てよい。もう少し専門的には、精神の内面化が遅れた。


 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、
かかっている。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールす
るしかない。外の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人
にとっては、そうだ。


 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの
人を、「カタブツ人間」という。


 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大
切なのは、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談
も言いあう。しかし守るべき道徳や倫理は守る。


 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、
Fさんの相談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれ
ないが、私には、どうしてよいか、わからない。(ごめんなさい!)


●話を戻して……


 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。


(1)横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2)駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3)電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4)ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5)サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。


 (1)~(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトが
いうところの「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れ
ている人とみる。つまりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あ
なたの夫か、妻なら、そもそも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もし
それがあなたなら、あなたがこれから進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。


 反対に、そうでなければ、そうでない。


●オーストラリアでの経験


 私のオーストラリアの友人に、B君がいる。そのB君と、昔、こんな会話をしたことが
ある。南オーストラリア州からビクトリア州へと、車で横断しようとしていたときのこと
である。私たちは、州境にある境界までやってきた。


 境界といっても、簡単な標識があるだけである。私は、そのとき、車の中で、サンドイ
ッチか何かを食べていた。


B君「ヒロシ、そのパンを、あのボックスの中に捨ててこい」
私 「どうしてだ。まだ、食べている」
B君「州から州へと、食べ物を移してはいけないことになっている」
私 「もうすぐ食べ終わる」
B君「いいから捨ててこい」
私 「だれも見ていない」
B君「それは法律違反(イリーガル)だ」と。


 結局、私はB君の押しに負けて、パンを、ボックスの中に捨てることになったが、この
例で言えば、B君は、超自我の人だったということになる。一方、私は自我の人だったと
いうことになる。


 で、その結果だが、今では、つまりそれから36年を経た今、B君は、私のもっとも信
頼のおける友人になっている。一方、私は私で、いつもB君を手本として、自分の生き方
を決めてきた。私は、もともと、小ズルイ人間だった。


●信頼関係は、ささいなことから


 私とB君とのエピソードを例にあげるまでもなく、信頼関係というのは、ごく日常的な
ところから始まる。しかも、ほんのささいなところから、である。


先にあげた(テスト)の内容を反復するなら、(1)横断歩道でも、左右に車がいなくても、
信号が青になるまで、そこで立って待つ、(2)駐車場に駐車する場所がないときは、空く
まで、じっと待つ、(3)シルバーシートには、絶対、すわらない、(4)ゴミや空き缶な
どは、決められた場所以外には、絶対に捨てない、(5)サイフは拾っても、中身を見ない
で、交番や、関係者(駅員、店員)に届ける。そういうところから、始まる。


 そうしたことの積み重ねが、やがてその人の(人格)となって形成されていく。そして
それが熟成されたとき、その人は、信頼に足る人となり、また人から信頼されるようにな
る。


 先のB君のことだが、最近、こんなことがあった。ここ数年、たてつづけに日本へ来て
いるが、車を運転するときは、いつもノロノロ運転。「もっと速く走っていい」と私が促す
と、B君は、いつも、こう言う。


 「ヒロシ、ここは40キロ制限だ」「ここは50キロ制限だ」と。


 さらに横断歩道の停止線の前では、10~20センチの誤差で、ピッタリと車を止める。
「日本では、そこまで厳格に守る人はいない」と私が言うと、B君は、「日本人は、どうし
て、そうまでロジカルではないのだ」と、逆に反論してきた。


 「ロジカル」というのは、日本では「論理的」と訳すが、正確には「倫理規範的」とい
うことか(?)。


 しかしこうした経験を通して、私は、あらゆる面で、ますますB君を信頼するようにな
った。


●友人との信頼関係


 友人の信頼関係も、同じようにして築かれる。そして長い時間をかけて、熟成される。
しかしその(はじまり)は、ごく日常的な、ささいなことで始まる。


 ウソをつかない。約束を守る。相手に心配をかけない。相手を不安にさせない。こうし
た日々の積み重ねが、週となり月となる。そしてそれが年を重ねて、やがて、夫婦の信頼
関係となって、熟成される。


 もちろんその道は、決して、一本道ではない。


 ときには、わき道にそれることもあるだろう。迷うこともあるだろう。浮気がいけない
とか、不倫がいけないとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。大切なことは、
仮にそういう関係をだれかともったとしても、その後味の悪さに、苦しむことだ。


 その苦しみが強ければ強いほど、「一度で、こりごり」ということになる。実際、私の友
人の中には、そうした経験した人が、何人かいる。が、それこそ、(学習)。人は、その学
習を通して、より賢くなっていく。


●超自我の世界


 フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう
一つの自我、つまり(超自我)があるという。


 この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。


 たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。しかし
あいにくと、お金がない。それを手に入れるためには、盗むしかない。


 そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人
の自分が、「待った」をかける。「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れ
られるぞ」と。そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。


 このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。ボケ方にもいろいろあるよ
うだが、ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。つまりその老人は、気が向く
まま、思いつくまま、行動するようになる。


 ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。


●シャドウ


 もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであ
れば、それが超自我となって、その母親に作用するようになる。母親は無意識のまま、そ
れがよいことだと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。


 そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわ
けではないが、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いてし
まう。そしてそれが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、離
れていく。「何だ、お母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。


 だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子ども
が、かえって、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放
化したりすることなどがある。非行に走るケースも珍しくない。


 それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。が、それだけでは、
しかしではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。


 そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。


 子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我を自分のも
のにしてしまう。もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に根ざしたものであ
れば問題はない。


 子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。しかしたいていの
ばあい、この超自我には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。その醜い部分だ
けを、子どもが引きついでしまう。


 それがシャドウということか。


 話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。


つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操ってい
る、もう1人の(私)がいるということ。簡単に考えれば、そういうことになる。


 そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用
しない。つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。


 そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子ども
ではなく、親自身の(超自我)ということになる。昔から日本では、『子は親の背中を見て
育つ』というが、それをもじると、こうなる。


 『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。親が自分をしつけな
いで、どうして子どもをしつけることができるのかということにもなる。


 話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えて
みたい。


●【EQ】


 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emo
tional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指
数」では、主に、つぎの3点を重視する。


(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性


 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。


 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。


●行動面の管理能力


 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管
理能力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果
たせない。


 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを
行動に移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階にな
っても、その時点で、これまた迷うかもしれない。


 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊し
た例としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その
人の生死にかかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、
自殺行為も、それに含まれるかもしれない。


 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよ
う。


そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほう
がよい」という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くに
しても、「いやだ」という思いと戦わねばならない。


 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをす
すめられて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に
染まりやすい子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。


 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)
という、行動面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとでき
るかどうかで、その人の人格の完成度を知ることができる。


 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自
我の人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

(5)

2010-05-29 07:14:59 | 日記



●精神面の管理能力


 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐
怖症、飛行機恐怖症など。


 精神的な欠陥もある。


 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判で
きなくなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に
似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかも
しれない。)


 具体的には、パニック状態になってしまう。


 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与
える。


 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身を
コントロールしていくということ。


 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そ
ういうとき、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、
そんなわけで、そういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをお
りたとたん、ヘナヘナと地面にすわりこんでしまうこともある。


 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされ
る。「わかっているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私
の人格の完成度は、低いということになる。


●感情面の管理能力


 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い
人ということになる。


 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がない
ことにより、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、
ふだんは、快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。


 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。
その人はいつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、ど
うしても足が遠のいてしまう。


 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のド
ラマをつくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するか
である。


 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワ
イフは、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになる
が、感情的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出し
て、相手を罵倒したのを、見たことがない。)


 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまっ
て……」ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。


 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、
結局は、だめだった。


 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そ
のつど、自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くという
のは。とてもよいことだと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。


 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、
その場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。


(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の
機会に考えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 
人格の完成)


+++++++++++++++++++++


ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて、
それを診断テストにしたのが、
つぎである。


****************

【子どもの心の発達・診断テスト】


****************


【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)


●社会適応性


 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。


(1)共感性


Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。


○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力


Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは
……


○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力


Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子
どもは
……。


○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ


Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。


○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)


(5)楽観性


Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子ど
もは…
…。


○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……


○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)


***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の
高い子どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてある。集計結果などは、
HPのほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。当日、会場で、診断テスト実
施。)


***************************


●順に考えてみよう。


(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーター
が、「共感性」ということになる。


 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲
しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。


 その反対側に位置するのが、自己中心性である。


 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、
その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。


 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さ
らにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、
権威主義、世間体意識へと、変質することもある。


(2)自己認知力


 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私
は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。


 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているか
わからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっ
きりしない。優柔不断。


反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っ
ていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示
すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。


(3)自己統制力


 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子
どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。


 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらに
ためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。


 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけ
のために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわ
らず、お菓子をみな、食べてしまうなど。


 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口
にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統
制力の弱い子どもとみる。


 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制
力に分けて考える。


(4)粘り強さ


 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界
を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。


 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題
のある子どもでも、短気な子どもは多い。


 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気に
なる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ
子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。


 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。


(1)楽観性


 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向き
に、ものを考えていく。


 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしな
ところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、
悩んだりすることもある。


 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。


 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲
気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。


 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観
的と言えば、楽観的。超・楽観的。


 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア~い」
と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。
さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、
しかたないでしょう」と。


 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、
考える人もいる。


(2)柔軟性


 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。


 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。


 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくな
になる、かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何ら
かの問題がある子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。


 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをし
なかっ
た子どもがいた。


 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚
園でも、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。


 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまって
しまう子どもがいた。


 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」
と、最後までがんばった子どもがいた。


 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができ
る。柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)


●終わりに……


 私は私と考えている人は多い。しかし本当のところ、その「私」は、ほとんどの部分で、
「私であって、私でない部分」によって、動かされている。


 その「私であって私でない部分」を、どうやって知り、どうやってコントロールしてい
くか。それができる人を、自己管理能力の高い人といい、人格の完成度の高い人という。
そうでない人をそうでないという。


 思春期は、それ自体、すばらしい季節である。しかしその思春期に溺れてしまってはい
けない。その思春期の中で、いかに「私」をつくりあげていくか。それも、思春期の大切
な柱である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
思春期 自我構造理論 中学生)


●おまけ


 当日の人格完成度テストで、満点もしくは、それに近い点数を取った子どもには、私の
本をプ
レゼントする予定。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自己管理能力 学習指導困難児 フィードバック)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                      
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

●BW子どもクラブ(数の大小)

2010-05-28 10:05:46 | 日記
【5歳児・大小感覚+数の大小】

●BW教室より、おうちの方へ


今週は、大小感覚+数の大小についての学習を進めました。
途中、ひとり声をあまり出さない子どもがいましたので、
何とか声を出させようと、ややふざけたシーンもありますが、
許してください。
(これも指導のうち?、です。)

大小弁別→相対的な見方、考え方→数の大小と学習を進めました。
子どもたちが「数は楽しい」と思ってくれたら、それで成功!
あとは子どもたちは自分の力で伸びてくれます。

(1)
<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/XZNVk7l7aX8&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param></object>

(2)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/hamUaLVUs_Y&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param></object>

(3)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/uwjr4GAFP-0&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param></object>

(4)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/f5T7bhBx_38&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param></object>

(5)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/Cp_P1QpD-TI&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param></object>

(6)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/Cp_P1QpD-TI&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param></object>


●直接「BW公開教室」へ来てくださる方は、
  
  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

より、どうぞ!


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●愛情の勝利(2人のてんかん症の子どもをもって)

+++++++++++++++++

現在、小学3年生のM男君と、小学
6年生のS男君が、同じ教室で
肩を並べて、学習している。
私の教室へ来るようになって、もう
5、6年になる。

そのM男君と、S男君のすばらしい点は、
何よりも、心が暖かいこと。
だれよりも、心が暖かいこと。
ほかの子どもたちと比較してみると、それが
よくわかる。
比較してみないと、わからない。
子どもが生来的にもつ(温もり)というのは、
そういうもの。

理由は、もちろん、愛情豊かな家庭環境で
育てられたこと。
とくに母親の、子どもたちにかける愛情が
すばらしい。
何もかも溶かし込んでしまうような、
おおらかな愛情で、お母さんはいつも
子どもたちを包んだ。

もちろん溺愛ではない。
テストの点数がどんなに悪くても、お母さんは、
いつも笑っていた。
そういうおおらかさである。

が、M男君も、S男君も、ともに、
小児てんかん症に苦しんだ。
長い闘病生活だった。
が、お母さんはめげなかった。
いつも明るい笑顔を絶やさなかった。
その病気についても、勉強した。
結果、「この子たちは叱ってはだめ」という
ことを学んだ。
だから父親には、いつもこう言ったという。

「お願いだから、どんなことがあっても、
この子たちを、叱らないで」と。
それがお母さんの口癖だったという。

その結果、……というより、こんなメールが
届いた。
読んだ。
うれしかった。
そのまま紹介する。
(一部省略したものの、原文のまま。)

バンザーイ!
おめでとう!
お母さんの勝利ですよ!!

++++++++++++++++++++++++++

●林先生へ

おはようございます!

昨夜は、楽しいお話を聞かせていただき、有難うございました。
こちらこそお礼の連絡が遅くなり、
お詫びのメールまで頂いて、申し訳ありません。

弟のM男(小3)ですが、てんかんの症状が脳波にでなくなり、
薬(テグレトール)の服用を終了しました。
5/10で終了し、そろそろ薬の効果が消えている頃だとおもいます。

兄のS男(小6)が発病してから弟のM男もなり、その間8年間本当につらかったですが、
一番辛かったのは、毎日薬を飲んでいた本人達でしょう。
(二人とも最後の薬を飲んだ後、万歳しました。)

昨年夏S男は完治し、M男も今年の夏の検査で脳波に以上が無ければ、
完治に至ります。(病院に行かなくて良くなります)

「現実を受け入れる」中々出来なかったけど、
振り返れば、生きていく事の辛さや大切さを学んできたと思います。

仕事に追われる中、留守がちな母ですが、
今もまだ「本当にこれでいいのかな?」と思いながら
毎日を大切に生活してます。

まだまだ親子共々未熟ですが、はやし先生にお世話になりながら、
先生にお願いしたいと思います。

これからも、宜しくお願いします。

☆弟のM男の成長!!!

 昨年まで、授業態度を参観会で見ていたところ、
席に座っているのがやっとの事!(一人殻に閉じこもった状態)
授業なんて全然聞いていませんでした。

 今年4月の参観会では、回りの友達と楽しそうに話していて、
授業を聞いていないけど、ようやく授業に溶け込んでいる姿を見ました。
 嬉しかったです!

学校の先生方と色々ありましたが、明らかに変わった姿
M男は、担任の先生が好きなようで、話をしてくれます。
「今度の先生!美人だよ」って始業式に話してくれました。

 これからも二人の成長がたのしみです。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司