最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●9月20日号(4)

2009-09-20 06:45:29 | 日記


(付記)

ホメオスタシス……「平衡状態」「定常状態」の意。生物が環境のさまざまな変化に対応し、
生物体内の形態的、生理的状態を安定な範囲に保ち、生存を維持する性質。アメリカの生
理学者のキャノンが提唱(国語大辞典)。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●時代遅れ(ネット時代)

++++++++++++++++

総務省の調査でも、インターネットの人口普及率は、75%を超えた。
75%と言えば、「ほぼ全世帯」と考えてよい。
(75%の人なのか、75%の世帯なのかによっても、中身はちがってくるが……。
それに子どもや老人が、この数字の中に含まれているか、いないかによっても、
中身はちがってくるが……。)

ともかくも、今や、ネット時代。
そんな時代にあって、今朝(19日)、ヤフー・ニュースに、こんな記事が載っていた。
何でも「あれもダメ」「これもダメ」式の公職選挙報が、時代に流れに即していないという。
たとえば、マニフェストの配布場所は決められている。
インターネットで選挙を呼び掛ける行為は禁止されている、などなど。
一部を紹介する。

『……ネットの人口普及率は総務省調査で75%を突破したものの、本来ネットは選挙運
動には使えない。しかし、各党は事実上のマニフェストをホームページ上に公開。K党広
報部長は「事前運動と指摘されないようテキスト版を載せた」とし、各党とも表向きは「選
挙公約ではなく、政権政策」。公示後は更新もできないため、「こうでもしないと政策が伝
わらない」というのが本音だ』(時事通信・8月19日)。

●私の経験から

 本(=書籍)とインターネット。
私はこの9年近く、本を、まったく書いていない。
「本」の限界を強く感ずるようになった。
だいたい私の書いた本は、売れない。
この世界、知名度が何にもまして、優先する。
知名度といっても、(テレビへの露出度)を意味する。

 頭をさげながら、本を出してもらう。
頭をさげながら、本を売ってもらう。
しかし本は売れない。
今度は、売れなかったことで、頭をさげる。
毎回、この繰り返し。

 本を出してもらうまでが、これまたたいへん。
何度も東京まで足を運ばねばならない。
加えて無駄な接待。
頭ペコペコ、またペコペコ……。

●インターネットの可能性

 そこで私は、(本)から(ネット)に、発表媒体を替えた。
とたん、目の前の世界が、変わった。
広がった。
ネットのすばらしいところは、(地域性)がないということ。
(地方性)と言うべきか。
(東京)という(中央)を飛び越えて、一気に(世界)に向かって、原稿を発表できる。
この狭い日本の中だけで見ていると、(東京)と(浜松)の落差は大きい。
しかし(世界)から見ると、(北海道)も、(沖縄)も、同じ。
(東京)と(浜松)のちがいなど、(点)に過ぎない。

 ネットを通して、少なくとも私は、(地方コンプレックス)を、完全に吹き飛ばすことが
できた。

 それ以後のネットの発達には、驚くべきものがある。
たとえば昨年の2月ごろ、アクセス数を合計してみた。
すべてのページにアクセスカウンターを設置しているわけではないが、それでも
合計してみると、月間10万件を突破していた。
(1人で、10回アクセスしても、10件とカウントされるので、10万件イコール、
10万人という意味ではない。)

 それがこの5月には、何と、30万件を突破した。
1年とちょっとの間に、3倍以上になったことになる。
ネットが、確実に世論のみならず、逆に、印刷媒体を凌駕(りょうが)しつつある。

 つい先日も、ある知人から、こんなニュースがもたらされた。

「(林さんの原稿が、以下の雑誌で紹介されます。)……広告媒体は10/1発売 COMO、10/2
発売 オレンジページ 、10/7発売ESSE、10/7発売 LEE、などを想定しているとのこ
とです。
全国区の有名雑誌での掲載は初めてですので、本当に嬉しく思っております」と。

●時代錯誤

 こういう(流れ)の中、いまだに(印刷物)にこだわる人も多い。
それはそれでしかたないとしても、(法律)そのものが、(印刷物時代)を、ベースに
して作られているというのは、おかしい。
これを時代錯誤と言わずして、何と言う?
時代遅れと言ってもよい。

 その一例が、先にあげた公職選挙法である。
「あれもダメ」「これもダメ」という規制、規制の網をくぐりぬけて、ネット人口は、
好き勝手なことをしている。……好き勝手なことができる。

 たとえば今、こうして書いている文章は、10分後には、ネットに乗る。
(「載る」ではなく、「乗る」。)
Goo-Blogのばあい、24時間後には、約2000人の人の目にとまる。
反応も速い。
(「早い」ではなく、「速い」。)
私の書いた文章について、コメントがズラリと並ぶ。
「はてなBLOG」だけでも、毎日、40~60件の書き込みがある。
多いときは、200件を超える。

●誤解

 これに対して、ネットに対する誤解と偏見も、根強い。
よく聞かれるのは、「ネットの情報は、信頼性がない」「ネットの情報は、軽い」など。
つまり情報源としては、それなりの価値はあるが、本のそれには、とてもかなわない、と。

 ある読者は、ていねいにこう書いて教えてくれた。

「本は、出版されるまで、編集部や販売部の担当者の目をくぐり抜けなければなりません。
その間に文章は洗練され、内容も整えられます。
しかしネットに流される文章には、そうしたプロセスがないのです」と。
つまり「いいかげん!」と。

 ならば聞きたい。
私がここに書いている文章と、書店で並んでいる本に載っている文章を、くらべて
読んでみてほしい。
「本に載っている文章だからすばらしいとか、ネットに乗っている文章だから、意味が
ない」というのは、偏見もよいところ。
私のばあい、本を書いているときも、こうしてネットに文章を書いているときも、
真剣度は同じ。
手は抜かない。
量を多く書いているから、その分、校正、推敲に書ける時間が少なくなるのは、しかたの
ないこと。
誤字、脱字は、いくら注意していても、避けられない。
(本のばあいは、出版社が、校正屋と呼ばれる、プロに文章を校正させている。)

 しかしそれを除けば、「ネットに乗っている文章だから……」という批判は、こと私の
書いている文章について言えば、当てはまらない。

●今は過渡期

 現在は、(印刷物)から(非印刷物)への過渡期と考えてよい。
ネットにも、いろいろな問題点がある。
未熟な点もある。
改善すべき点も多い。
それは認める。

しかしそれらの問題点は、日進月歩の時代の中にあって、日々に解決されつつある。
が、それ以上に、ネットのもつすばらしさが、ますます見なおされてきている。
動画や音声が、そのまま送信できるようになった。
それがいとも簡単にできるようになった。

 やがて「ネットに乗っている文章だから……」と陰口をたたく人もいなくなるだろう。
念のため、このエッセー(「時代遅れ」)については、一度、きちんと推敲、校正をして
からネットに乗せてみたい
「いいかげん」という陰口を叩かせないぞ!

 さあ、どうだ!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●「偉そうなこと言うな!」

+++++++++++++++++++

今日、ある人(女性・60歳くらい)から、
こう言われた。

「偉そうなこと言うな!」と。
いきさつがある。
その場の雰囲気もある。

が、それについては、ここには書けない。
ともかくも、その女性は、私に、そう言った。

この言葉は、強烈に私の心に打撃を与えた。
つまりその一言で、私はその女性への思いが、
消えた。
完全に消えた。
今まで積み重ねてきた関係が、土台から
崩れ去った。

その女性が、まさか、そう言うとは、
思ってもみなかった。
ある程度の信頼関係はできあがっていると
思っていた。
しかし内心では、強く私に反発していたらしい。
だからこそ、とっさの拍子に、そういう言葉が出てきた。

心理学の世界でも、ときとしてこうした現象が起こる
ことが、証明されている。
いわゆる「思わず本音が……」という、あれである。
「言ってはいけない」と思っていると、かえって
そのことが口から出てきてしまう。

60歳ともなるとなおさらで、自分をコントロールする
気力そのものが、弱くなる。
だからよけいにそういう現象が起きやすくなる。

「なるほど」と思ったとたん、残念だが、その女性への
思いが、すべて吹き飛んでしまった。
恐らくその女性は、私という人間を外から見ながら、
いつも、「何を偉そうに!」と思っていたにちがいない。
私自身は、偉そうにしていたつもりはないのだが……。

しかしよい勉強になった。
こうしてものごとを評論すること自体、(偉そうなこと)。
地位も肩書きもない私が、教育を論じ、社会を論じ、世界を
論ずる……。
なるほど私がしていることは、(偉そうなこと)そのもの。
その女性は、それをわかりやすい言葉を使って、指摘した。

これからは気をつけよう。
人というのは、わからない。
本当にわからない。
外の様子からだけでは、ぜったいにわからない。
その気はなかったのだが、私も知らず知らずのうちに、
偉そうにしてみせていた。

これからは、もう少し謙虚になろう。
ただし一言。
『口は禍(わざわい)の門』という。
『舌は禍の根』※ともいう。
一度出た言葉は、簡単には消えない。
この先のことはわからないが、その女性との関係が
修復されることは、ないだろう。
人生は、それ以上に短い。
修復するための時間があったら、ほかの人との親交を深めることに
使いたい。

(注※)
『口は是れ虎に似て、人われの身を害す。
舌は是れ剣に似て、人われの命を絶つ』(古事)ともある。
舌の一撃は槍の一撃より悪いことを言ったもの。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                      
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

●実家離れ

2009-09-19 22:50:40 | 日記
●「実家」離れ

++++++++++++++

「親離れ」「子離れ」という言葉がある。
同じように「実家離れ」というのもある。
50歳を過ぎても、60歳を過ぎても、
「実家」「実家」と、何かにつけて、
実家に入り浸りになる。

 背景には、未熟な精神性があるのだが、
マザコンというケースも少なくない。
概して、女性に多い。

(「マザコン」というと、男性だけの問題
と考える人も多いが、女性にも多い。
同性であるだけに、外からは、わかりにくい。)

+++++++++++++++++

●嫁ぎ先?
 
 Mさん(現在55歳、女性)は、結婚してすでに30年以上になる。
夫は公務員で、代々つづいた「家」を守っている。
しかしMさんにとっては、自分の生まれ育った実家が、「家」。
傍から見ていると、そんな感じがする。

 ことあるごとに実家に足を運び、実家を守る弟氏(現在50歳)に、あれこれと指示する。
冠婚葬祭は言うに及ばず、実家の母親(実母)の世話の仕方にまで、口を出す。
墓参りにしても、嫁ぎ先の墓参りよりも、実家の墓参りの回数のほうが多い。
ときどき弟氏が、「お前は、H家に嫁いだのだから、H家の人間だ」といくら諭しても、それが理解できない。
理解できないばかりか、他人には、こう言う。

「N夫(=その女性の弟氏)は、私に頼ってばかりいる」「N夫は、自分では何もできない」「先祖をきちんと供養していない」と。

●実家意識

 「実家」意識の強い人は多い。
ことあるごとに「実家」という言葉をよく使う。
これも「家族自我群」の一種ということになる。
「家族」というしがらみが、無数に「私」にからんでくる。
その呪縛感を「家族自我群」という。

 その家族との関係が良好な間は、家族自我群も、よい方向に作用する。
が、どこかでその歯車が狂う。
そういうケースも多い。
とたん家族自我群は、その人を苦しめる(責め具)として機能する。
「家」に縛られ、「家族」に縛られる。
その呪縛感の中で、もがき苦しんでいる人は多い。

●マザコン

 Mさんのケースは、やや特殊である。
結婚して、H家に嫁いではみたものの、そのH家には同化できなかった。
もともと望んだ結婚ではなかった。
それもあった。
が、それ以上に、Mさんは、マザコンだった。
親を絶対視しながら、同時に親離れできないまま成人になった。
40歳を過ぎても、「母ちゃん」「母ちゃん」と言っては、実家に帰っていた。
50歳を過ぎても、「母ちゃん」「母ちゃん」と言っては、実家に帰っていた。

 が、そういう自分を、「孝行娘」と誤解していた。

●特徴

 このMさんというのは、架空の女性である。
いくつかの例を、ひとつにまとめてみた。
しかしこういう例は、多い。
地方の農村部へ行けば行くほど、似たような話を耳にする。

 特徴としては、つぎのようなものが、あげられる。

(1) 嫁いでも、嫁ぎ先と同化できない。
(2) 嫁いでも、実家意識が強く、実家への帰趨(きすう)本能が強い。
(3) 実家を絶対視する。
(4) ものの考え方が、権威主義的。
(5) 家父長意識、上下意識が強く、「先祖」という言葉をよく使う。

 本来なら、結婚し、相手の夫の側に籍を入れたら、少なくとも夫側の「家」と自分の実家を同等にみる。
あるいは「家」意識そのものを、平等に否定する。
さらに言えば、親が子離れし、子どもが親離れするように、「家」離れをする。
その上で、親子という関係であっても、一対一の人間としての人間関係を築く。

●G・ワシントン

 どうであるにせよ、今どき、「家」意識をもつほうが、おかしい。
江戸時代の昔ならいざ知らず。
今は、そういう時代ではない。
また人間が、「家」に縛られる時代ではない。

 名前(姓)にしても、そうだ。
私の知人の中には、「ルーツさがし」と称して、家系図づくりに熱中している人がいる。
人、それぞれ。
しかしあの福沢諭吉は、アメリカで、こんなことに驚いている。

 福沢諭吉が、G・ワシントンの子孫についてたずねたときのこと。
まわりにいた人たちが、みな、「知らない」と答えた。
当時の日本では考えられなかった。
今の日本でも、考えられない。
「G・ワシントンの子孫がどうなっているか、わからないだと!」と、まあ、福沢諭吉は、そんなふうに驚いたにちがいない。
つまり日本の常識は、けっして世界の常識ではない。

 ちなみに私の祖父は、百姓の出。
一度、祖父は私を、祖父の生家へ連れていってくれたことがある。
土壁むきだしの、窓もないような粗末な家だった。
私が小学6年生か、中学1年生のときのことである。

 だからこれは私のひがみかもしれない。
家系を誇る人に出会うたびに、内心では、「ごくろうさま」と思う。

 今、「私」がここにいる。
ここに生きている。
それでじゅうぶん。

●自己認知力

2009-09-19 22:33:27 | 日記
●自己認知力

+++++++++++++++++

自分を、自分で、評価する能力があるかないか。
その能力のことを、「自己認知力」という。
ピーター・サロベイの説く「社会適応性」、つまり
EQ論(人格の完成度論)でも、重要なキーワードの
ひとつになっている。

自分で自分を評価する能力の高い人を、自己認知力の
高い人という。
そうでない人を、低い人という。

が、一般的には、自分のもつよい能力を、正当に評価する
能力のことを、「自己認知力」という。
あるいは「私の能力はすぐれている」と信ずる能力のことを、
「自己認知力」という。

この自己認知力には、2種類ある。

(1) 能力があり、それを評価する能力がある。
「自分にはどのような能力があるか」を知る能力をいう。
(2) 能力がないのに、それを評価する能力がない。
「自分には、どのような能力がないか」を知る能力をいう。

ふつう「自己認知力」というときは、前者をいう。
が、後者のケースも少なくない。
最近、私は、こんな話を聞いた。

+++++++++++++++++

●ある葬儀で

 義兄がある葬儀に参列した。
そこでのこと。
亡くなったのは、87歳の女性。
喪主は、その女性の長男、60歳。
ところが、である。
その長男の嫁(58歳)の様子が、異様だったという。
義兄は、こう話してくれた。

「だんなは昔から、静かな人だった。
そのこともあって、嫁が、ひとりではしゃいでいた」と。

私「はしゃいでいた?」
義「そう、はしゃいでいた。キャッキャッと笑ったり、大声で世間話をしていた。ハイになっていた。みな、眉をひそめていたよ」と。

●「私が主人公」

 何かにつけ、自己中心性の強い人は、自分が目立たないと気がすまない。
俗にいう「目立ちたがり屋」というのが、それ。
義兄が言うには、その女性(嫁)が、そうだったという。

 火葬場で火葬を待っているときも、三日目、初七日の法事のときも、「まるでクラブのホステスのように、みなのところを回り、世間話を繰り返していた」と。

「ふつうなら、親(義母)の葬式だから、嫁というのは、しおらしくしているもの。
しかしその女性(嫁)は、まるでパーティでの主人公のように振舞っていました。
で、驚いたのは、火葬が終わって、一度祭事会館へ戻ったときのことです。
最後の焼香というところで、みなの前で、オロオロと泣き崩れてしまったのです。
あれには、みな、あっけに取られました。
というのも、亡くなった女性(姑)とその女性(嫁)とは、昔からうまくいっていなかったことを、みな、知っていたからです」と。

●現実検証能力

 「自分が今、どういう状況に置かれているか」「自分が今、みなに、どう思われているか」。
それを「現実検証能力」ともいう。
しかし「自己認知力」と「現実検証能力」の境目が、よくわからないケースも少なくない。
その女性(嫁)を例にあげて、考えてみよう。

 その女性(嫁)の言動は、たしかに「ふつうではなかった」(義兄談)。
しかしその女性(嫁)は、自分が他人にどう思われているか、それが判断できなかった。
つまり自分を客観的に評価する能力に、欠けていた。
最後の焼香のところで、オロオロと泣き崩れてしまったときも、(横にいた夫が、体を支えたが)、みなはあっけに取られ、言葉を失った。

 が、そこは葬儀の場所。
現実を正確に知る能力があれば、態度ももっと別のものになっていたはず。

●まるで自分のことがわかっていない

 「あの女性(嫁)はね、一族の中でも、変わり者ということになっていますよ」と、義兄は話してくれた。
「ところが、自分では、よくできた嫁と思い込んでいるのですね。みなに好かれ、尊敬されていると思い込んでいるのですね」とも。

 そういう人は、少なくない。
まるで自分のことがわかっていない。
自己中心性が肥大化した人を、自己愛者という。
その自己愛者の症状とも似ている。
完ぺき主義で、他人の批判を許さない。
まちがいを指摘されると、それだけでパニック状態になってしまう。
ギャーギャーと泣きわめく。
あるいは激怒する。

 他人に心を許さない。
許さない分だけ、心の中はいつも緊張状態。
ささいなことでカッとなりやすい。

●自己認知力

 こういうケースも、「自己認知力」という能力で判断する。
自分にその能力がないのに、それを客観的に評価できない。
あとは思い込みと過信、独断と偏見だけで、ふつうではない行動を繰り返す。

 この話をワイフにすると、ワイフはすかさず、こう言った。
「そういう人って、意外と多いわよ」と。

私「ぼくだって、そうかもしれない」
ワ「そうね、あなたにも、そういうところがあるわね」
私「だろ……」
ワ「ほら、学者とか、研究者と言われる人の中にも多いということよ」
私「そうだね。その分野のことはよく知っているけど、その外の世界を知らない。教師の世界も、似たようなものだよ」と。

●では、どうするか

 「自分は他人から、どう見られているか」。
それをいつも自分に問いかける。
(だからといって、他人に迎合しろということではない。誤解のないように!)
私も最近、こんな経験をときどきする。
「私のことを好意的に思ってくれているはず」と信じている人に、裏切られるようなケースである。
それに気づいて、「ああ、ぼくって、そんなふうに思われていたのだ」と、驚いたりする。
最近でも、生徒(中学生)に、こう言われたことがある。
「先生(=私のこと)って、キレやすい」と。

 また反対に、意外な人に、高く評価されているということもある。
つまり自分が他人にどう見られているかを、的確に判断するのは、それくらい難しいことでもある。

●自己中心性

 自己認知力は、このように一方で、その人の自己中心性と深く結びついている。
が、ある程度、自己認知力を高めるためには、ある程度、自己中心的でなければならない。
「私はすばらしい」という思い込みが、その人の自己認知力を高める。
その人を伸ばすということもある。

 が、同じ自己認知力でも、「まるで自分のことがわかっていない」という自己認知力は、いただけない。
自分に能力がないのに、それに気づいていない。
プライドばかり強くて、箸にも棒にもかからない。
さらに愚かなことをしながら、それを愚かなこととさえ気がつかない。
そういう人のことを、俗世間では、「バカ」という。
(「バカなことをする人を、バカという。頭じゃないのよ」(フォレスト・ガンプ)。)
 
【補記】

●加齢とともに……

 私の印象では、加齢とともに、自己中心性が強くなっていく人と、反対に『老いては』に従え』式に、自己中心性が弱くなっていく人がいるように感ずる。
そしてそれは、脳の働きとも、密接に関連している(?)。

 たとえば認知症か何かになると、極端に自己中心性が強くなる人がいる。
人格そのものが、崩れるというか、変化する人も珍しくない。
心の余裕がなくなり、思慮深さが消える。
ささいなことでピリピリと反応し、ときに激怒したり、泣き叫んだりする。

 要するに、これは習慣の問題ということになる。
能力ではなく、習慣。
日ごろから、考えるクセがあるかないかということ。
考えるクセが身についていれば、あえて「自己認知力」などという言葉は使わなくても、自分のことを正当に評価できるようになる。
そうでなければ、そうでない。
その(ちがい)は、老齢期になると、さらにはっきりとしてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自己認知力 自己評価力 人格の完成度 サロベイ EQ論)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●自己認知力

●子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気になる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア~い」と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではないが……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくなることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわり、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこだわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてかかって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが……。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子どもとみる。
(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●ペイ・フォワード

2009-09-19 21:47:20 | 日記
●Pay Forward(ペイ・フォワード)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ハーレイ・J・オスメント(少年)主役の映画に、『ペイ・フォワード(Pay it Forward)』(2000年作品)というのがあった。

1人の人が、それぞれ3人の人に、善意の行為を手渡していけば、世界が変わる、と。
1人の少年がそのアイディアを思いつく。
そして彼は、それを実行する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●ペイ・フォワード運動

「システムとしては、非常に単純明解なものです。つまり、人は他人から厚意を受けた場合、その相手にお返しをしようとしますね。そうすると、その厚意は当事者間のみで完結して終わってしまいます。しかし、この“厚意”を受けた相手に返すのではなくて、次の人に別な形で『渡して』みたら、どうなるでしょう? それを、1人の人が別の新たな3人に『渡して』いったとしたら・・・」(「ペイ・フォワード運動」HPの解説より、転載」。)

●すばらしいこと

 ハーレイ・J・オスメントといえば、同時期、『シクス・センス』という映画でも主演を演じている。
もの静かで、それでいて理知的な演技が、見事だった。
映画『シクス・センス』から受けた衝撃は大きかった。
見終わったあと、頭の中で、バチバチと火花が飛んだ。
常識がひっくり返った、
そののち、この映画の(流れ)は、『マトリックス』、さらに最近の『ミラーズ』へと、つづく。

 それはさておき、今日、私の周辺で、こんなすばらしいことがあった。

●山荘で

 今日は土曜日。
午後からワイフと山荘へ向かった。
伸びすぎた梨の木を切り倒すためである。
このところ山荘周辺に、猿が出没する。
その猿が、いたずらをする。
雨どいを破壊したり、テレビアンテナを折ったりする。

 そこで餌になるような実をつける木を切ることにした。
先日は、栗の木を切った。
で、今日は梨の木

●草刈り

 驚いたことに、行ってみると、山荘周辺の雑草が、きれいに刈り取られていた。
明らかにプロの手さばき!
しかも刈り取った雑草まで、始末してあった。

 私はだれが刈ってくれたか、すぐわかった。
親しくしている、Kさんである。
が、それだけではなかった。

●プロの手さばき

 大通りをはずれたところから、山荘までつづく道は、500~600メートルある。
細い一本道である。
しかし私たち以外は、ほとんどだれも使わない。

 で、2週間ほど前のこと。
私は運動もかねて、この道の400~500メートル分の道路わきの草を刈った。

 草刈りは嫌いではない。
ストレス解消にもなる。
背丈の伸びた夏草を、草刈り機でバリバリ、ウィーン、バリバリと刈っていくのは、たいへん気持よい。
爽快感すら、覚える。
それでそうした。

 が、今日、その道を通ってみると、両側の草が、きれいに刈り取られていた。
こちらも見るからに、明らかにプロの手さばき!

●刈り残し

 草刈りにも、じょうず、へたがある。
じょうずな人が草を刈ると、地面の小石だけを残したような草の刈り方をする。
全体に地面をなめるように、均一的な刈り方をする。
見た目にも美しい。
が、へたな人が草を刈ると、まるでぼさぼさのトラ刈りのようになる。
刈り残しが、いたるところで草の柱のようになる。

 私は草刈りは嫌いではないが、いくら努力しても、うまく刈れない。
が、山荘のまわりの草が、きれいに刈り取られていた!

●みなが、草刈りをしてくれた!

 先ほど「それだけではない」と書いたが、それだけではなかった。
500~600メートルの道の両側の草も、きれいに刈り取られていた。
こうした農道は、いろいろな地権者が入り組んでいる。
Kさんの土地もあれば、Uさんや、Hさんの土地もある。
その中を、農道が通っている。

 で、私はひまがあると、ときどき、その農道脇の草を刈っている。
私たち自身のためでもある。
放っておくと、両側から夏草が、道路をおおう。
車が通るのがやっとというほど、道が狭くなる。

●トラ刈り

 けっして手を抜いているわけではない。
しかし私が草を刈ると、先にも書いたように、トラ刈りのようになる。
だから草を刈りながら、いつも、「Kさんたちが見たら、笑うだろうな」と思っていた。
まあ、笑われてもしかたないような刈り方しか、私にはできない。

 が、私の行為が、農家の人たちに、別の形で伝わった。
もちろん私には、「みなのためにしている」とか、「してやっている」とかいう意識は、みじんもない。
あくまでも私のため。
が、それを農家の人たちは、よいほうに解釈してくれた。

 まずKさんが、自分の土地の中の草を刈った。
それを見て、Uさんや、Hさんたちが、草を刈った。
ついでにKさんは、私の山荘のまわりの草も刈ってくれた。

 私はそれを知って、うれしくなった。
久しぶりに、胸の中がポーッと暖かくなった。

●ワイフと・・・

私「みんなが、山荘のまわりの草を刈ってくれたんだよ」
ワ「Kさんたちね」
私「そうだね」
ワ「それにしても、きれいね」
私「うん・・・」
ワ「お礼の電話でもしたら・・・?」
私「・・・しないよ。また近く、道路の草を刈って、返すよ」と。

 家のまわりを見やりながら、私は、映画『ペイ・フォワード』を思い出していた。
1人の人の善意が、いつの間にか、他人の心を動かし、その輪がどんどんと広がっていく。
そして気がついてみたら、その輪が、いつの間にか、自分のところに戻ってくる。
戻ってきて、自分の心を暖かく包んでくれる。

 私はきれいに刈り取られた山荘の周辺を見ながら、そう思った。

さわやかな、さわやかな、どこまでもさわやかな秋のはじめの乾いた風が、下の森からやさしく吹いていた。
うれしかったプラス、たのしかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW Pay it forward ペイ・フォワード 夏の草刈り はやし浩司)

●活動と離脱  ●ニューロン

2009-09-18 10:41:28 | 日記
●離脱と活動

+++++++++++++++++++++

先日、ある会場で、退職者を対象にした講演会があった。
その中で、講師(75歳くらい)が、こう言った。
「老後になったら、生活をコンパクトにすることが大切です」と。

「コンパクト」とは、つまり、「身辺の整理をし、住む世界を小さくしろ」ということ。
一理あるが、私は、ふと考えた。
「どうしてコンパクトにしなければならないのか」と。

つまりその講師の説いたのは、「離脱理論」のひとつということになる。
たしかにそういう部分はないわけではない。
行動範囲も狭くなる。
思考力も低下する。
運動能力も衰える。
それに合わせた環境づくりは、欠かせない。

+++++++++++++++++++++

●「老齢」と「老化」

 私たちはみな、例外なく、歳をとる。
それを「老齢」という。
英語では、「エイジング(Aging)」という。
しかし「老齢」イコール、「老化」ではない。
歳をとったからといって、ジジ臭くなることはない。
ババ臭くなることはない。

 そこで登場するのが、離脱理論と活動理論。

 老齢期に入ったら、社会から離脱していく。
そのための理論が、「離脱理論」(カミング・ヘンリー)(「心理学用語」渋谷昌三)。

 一方、老齢期に入っても、それまでと同じように、あるいはさらに活動的に生きていく。
そのための理論が、「活動理論」(フリードマン・ハヴィガースト)(「心理学用語」渋谷昌
三)。

 日本でいう、「退職後は、庭いじりと孫の世話」というのは、まさに離脱理論ということになる。

●サクセスフル・エイジング

 しかし老齢期に入ったら、どうしてそれまでの生き方を変えなければならないのか。
渋谷昌三氏の「心理学用語」の中に、こんな参考になる表現がある(同書・かんき出版)。

(1) サクセスフル・エイジング(Successful Aging)(成功した老齢期)
(2) プロダクティブ・エイジング(Productive Aging)(生産的な老齢期)

 自分なりに、この2つを解釈してみたい。

 老齢期は、それまでの人生の積み重ねの結果としてやってくる。
その(結果)をみれば、成功・失敗が、わかる。
(どういう状態を成功といい、どういう状態を失敗というかは、それぞれに、いろいろな考え方がある。)
恐らくサクセスフル・エイジングというのは、それなりにのんびりと、優雅に暮らすことができる老後をいうのだろう。
「老化の過程にうまく適応して、幸福な老後を送ること」(同書)とある。

 それに対して、「老齢期こそ、もっと活動的に生きよう」というのが、プロダクティブ・エイジングということになる。

●プロダクティブ・エイジング

 プロダゥティブ・エイジングといえば、すぐさま頭に思い浮かぶのが、「統合性の確立」。これについては、たびたび書いてきた。
で、今回は、それはさておき、もっと日常的なレベルで、プロダクティブ・エイジングを考えてみたい。
つまりどうすれば、私たちは老齢期を、さらに生き生きと生きることができるか、と。

「高齢者が社会の中で、いかに生産的に生きるか」(同書)と。

 少し前、日本のおバカ首相が、こう言った。
「高齢者は、働くしか才能がない」と。
恐らく、「高齢者は、働くしか能(のう)がない」と言うべきところを、「才能」と言ったのだろう。
あの人の国語力は、小学生程度(?)。
「才能」でも「能」でもよいが、これほど私たちの年代の者を怒らせた言葉はない。

私たち自身が、「働くしか能がないので……」と言うのは、構わない。
もっと言えば、「国民年金など、アテにならないから、死ぬまで働くしかない」。
しかしそれを他人、なかんずく首相に言われると、腹が立つ。

 が、怒ってばかりいてはいけない。
私たちは、プロダクティブに生きてこそ、老齢期を乗り越えることができる。

●では、どうすればよいのか

 重要なのは、「社会」と、接点を保つこと。
仕事をするのがいちばんよいが、ボランティア活動、近隣づきあい、地域活動などなど。
その中から、(自分ができること)(自分がすべきこと)を見つけながら、それを昇華させていく。

 私のばあいは、仕事第一に考えている。
「社会」というより、「子どもたち」との接点を失ったら、私は私でなくなる。
それが自分でもよくわかっている。

 そのためにどうするか。
それが現在の思考、行動の原点になっている。
つまりその上で、原稿を書き、人生を考える。
こうしてパソコンに文章を叩き出すのも、そのひとつ。
書くのが楽しいというよりは、頭の中にあるモヤモヤを吐き出す。
吐き出したときの爽快感には、格別なものがある。

 それにもうひとつ目標がある。
こうして書くことによって、脳みその健康を維持する。
同時に、「精進(しょうじん)」。

 もともと私の素性はよくない。
自分でも、それがよくわかっている。
だからそういう自分に、言い聞かせるために書く。
「これをしろ」「これをしてはいけない」と。
一日でも油断すると、私の人間性は、即、後退に向かう。

 こうした方法が、みなに効果的とは思わないが、しかしそれぞれがそれぞれの環境の中で、プロダクティブ・エイジングを目指す。
そうすれば、若い人たちの私たちを見る目も変わってくるだろう。
同時に、社会に、大きく貢献できる。

 けっして老齢イコール、老化と考えて、自分自身までコンパクトにしてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 離脱理論 プロダクティブ エイジング 豊かな老後 老後論 はやし浩司 活動理論)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●ニューロンとシナプス

+++++++++++++++++++++++

「脳のからくり」(茂木健一郎・新潮文庫)によれば、
脳の中には、1000億個のニューロン(神経細胞)があるという。
その1個ずつのニューロンから、細長いひものような神経突起が、
約1万本も伸びているという。
そしてその神経突起どうしが、「手をつないでいる部分」(同書)を、
シナプスという。
1000億個のニューロンが、1万本ずつの神経突起を伸ばしているから、
そのためシナプスの数は、なんと1000兆個にもなるという。

++++++++++++++++++++++++

(ニューロン)……(神経突起)……(シナプス)。

 わかりやすくチャート化すると、こうなる。
それにしても、1000兆個というのは、すごい!
こうしたニューロンが私たちの知覚、行動、思考をコントロールしている。

 で、興味深いことは、こうしたニューロンは、パソコンのメモリーと同じように、(プラス)(マイナス)の単純なスイッチでできているということ。
そういう点では、脳の構造とパソコンの構造は、たいへんよく似ている。
そこで計算してみよう。

 メモリーの基本的単位になっているのが、GB(ギガバイト)。
現在(2009)、2~4GBのSDメモリーや、USBメモリーが、1000円前後で売られている。

 1GBは、約11億バイト(10億7374万1824バイト。
1GBは、1024メガバイト。
つまり10の9乗。)

 数字が複雑なので、ここでは1GBを10億バイトとして計算してみる。
すると、人間の脳の中にあるシナプスの1000兆個を、10億個で割ってみると、人間の脳は、100万GBということになる。
(1000万÷10で計算すればよい。)
 
 100万GBというと、今では1テラバイト(=1000GB・10の12乗バイト)のハードディスクさえ売りに出ているから、その1テラバイトのハードディスクで計算してみると、こうなる。

 100万GB÷1000GB=1000!

 つまり1テラバイトのハードディスクを、1000個つなげると、人間の脳の中にあるシナプスと同じ数になる!
この1000個を、多いとみるか少ないとみるか?
意見の分かれるところだが、私は、「いよいよここまで来たか!」と驚く。

 1テラバイトのハードディスク(価格は、現在8000円前後)を、1000個つなげると、人間の脳と同じになる!
1000個というと、たいへんな数だが、しかし不可能な数ではない。
あと5年もすれば、10テラバイト、さらに10年もすれば、100テラバイトの記憶媒体が生まれるだろう。
そうなれば、小さな記憶媒体の中に、人間の脳をそのままコピーすることも可能になる。

 もっとも人間の脳のばあい、すべてのニューロンが活動しているわけではない。
実際、活動しているのは、3分の1程度とも言われている。
さらに今、意識している部分についていえば、数10万分の1とも言われている。
だから、仮に100テラバイトの記憶媒体が生まれれば、それでじゅうぶんということになる。

 もっとも神経突起は、言うなれば蜘蛛の巣状に脳の中で入り組んでいる。
それをひとつずつ取り出して、記憶媒体にコピーするというのには、別の問題もある。
しかしコンピュータに、人間の脳と同じ働きをさせることは、それで可能になる。
おもしろいというより、恐ろしい(?)。

 『脳のからくり』を読みながら、本文とは別に、そんなことを考えた。
(090918)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 シナプス ニューロン 1GB 1TB)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司