最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●不安なあなたへ(1)

2009-12-12 08:26:13 | 日記
●子どもの心がつかめない(?)

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心がつかめない娘(小6)について、
そのお母さんから、こんな相談があり
ました。

この問題について、考えてみたいと
思います。

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どこからお話ししていいのか分りません。沢山の問題があるように思うのですが・・・。
どうか、少しでも、問題点が整理できればと、こちらのHPに投稿させて頂きました。

事の始まりは、先日娘の担任の先生から電話があったことです。

「実は、P子さん(=私の娘、小6)が、最近、A子さんにひどい言い方をしているようだ。下校中、上下関係があるように見える」と言われました。それがたいへん、気になりました。

さらに、「実は去年の冬ごろ、ちょっとした事件がありまして」と、聞かされました。

先生の話の内容は、こういうことでした。娘のP子が、B子さんに本を貸したのですが、なかなか返してくれないので、「返して」と言ったところ、B子さんは、「私は借りていない」と言ったとのこと。

「確かにB子さんに貸したはず」と娘は言いましたが、しかし別の子から、「あっ、私、借りてるよ」と、本を渡されました。娘はB子さんに謝り、この件は終了しました。

ところが、その後、B子さんが、「私のペンがない!」と騒ぎ出しました。周りの友人も手伝って、探したところ、それが娘のP子の筆箱の中に、あったというのです。「あっ、そのペン私のじゃない?」と、B子さんが言ったといいます。それを見ていた先生も中に入り、娘に聞くと、「違う、これはお母さんに買ってもらったもの」と答えたというのです。

先生は「じゃあ、お母さんに聞いてもいいですか?」と、娘のP子に訪ねると、「ダメ」と答えたというのです。

それはおかしいなーと、いうことで、周りからも疑われた。・・・・と、いう事がありました。先生は、「もう、このことは済んだことなので、いいのですが・・・・。しかしP子さんが、A子さんにひどく当ることなどを、とても心配しています。おうちでも話しあってみてください」と言いました。

 初耳でした。でも、結果として娘はみんなの前で泥棒にされてしまったのでしょうか。
とにかく、真実を知りたいと、私は、娘に聞いてみました。

まず、A子さんのことですが、娘のP子は、「思い当たることはない、何の事を言っているのかわからない」と言いました。無意識でも、つまりこちらがその気でなくても、相手が傷ついているとしたら、とっても悲しい事だから、これから気をつけてねなどと、話しました。次にペンの事を聞いたのですが、その話になるろ、娘は泣きだしてしまいました。

 ・・・・実はこのずっと以前から気になっていたのですが、子どもたちは文房の交換をしているようです。「このペンどうしたの? この前買ったペンはどこ行ったの?」と私がP子に聞くと、屈託なく、「うん、友達が交換してっていうからいいよって」とか言います。

私「え? 何で?」
娘「どうしても欲しいって言うし、交換ならいいかなって。それに断る理由がないから」とのこと。

これもショックでしたが、きちんと「物をもっと大切にして欲しい。簡単に交換しないでほしい。。。」などなど沢山話しこれからはしないでねと、そのときは、そういう話で終わりました。

 で、本題ですが、「ペンのことだけど、こんなことがあったんだって? そのペンはどうしたものなの?」と聞くと、娘はなかなか答えようとしませんでした。そこで(1)持ってきてしまった、(2)拾った、(3)自分で買った、(4)その他の中のどれ?、と聞くと、やっとの事で、「交換したもの」と言いました。

「じゃあ何であの時、そういわなかったの?」と聞くと、泣くばかりです。泣いて泣いて、やっと聞けたのが、「交換しようって言われてしたのに、Bちゃんがどうしてそんな事を言い出したのか分らなくって」と。

私「あなたは泥棒だと、他の人はそう思うよ、それでもいいの?」
娘「盗んだと思われてもいい。それでも自分の思いは言えない」と。

 最近、大きくなってきて、少し手が離れてきたと思って手を抜いてしまったと、我にかえりました。低学年のころは、毎日のように主人と夜、子どもたちのことについて話し合っていたのも、最近ではしていない事にも気付かされました。

で、昔からの悩みの種は、娘(相談の娘小6・この下に小3の妹がいます)の、対人関係についての問題です。

私が働いていたため、娘が1歳半のときから保育園へ預けました。教育熱心で有名な保育園でしたが、右を向きなさいと指示されても、右を向かないような娘でした。そんなわけで、先生も、娘にかなり手を焼いていたようでした。何度も主人と呼び出されては、「お宅の子は人を見る」とこんこんと言われました。

人見知りが極端にはげしく、突然話し掛けられたりすると、かたまって口を閉ざしたり、下を見る、隠れるなどの行為をしました。ですから、極力休日は、家族で一緒にのんびりゆったり、栄養を蓄えるつもりで、常に皆で横に手をつなぎ、時には後ろに回り背中をなでながら過ごしていました。

小学校の入学時には、「大丈夫、なにも心配要らないよ」と、ぽんっと送り出したりしましたが、当時は、本当に元気よく通っていました。が、大人に理解されにくい性格は中々変わることもなく、「こう思ってるんだよ!」などと、口にした事は無いようです。

が、その一方で、娘は、地道に努力するタイプで、昨年、放送委員になったのですが、家で練習し、運動会やおひつの放送も、物怖じせず、こなしていきました。

一時期、これは、何かの障害なのではないかと、悩みました。が、素人判断も出来ず、なんとかやっていけていましたので・・・・。

現在も、三者面談などでは体をこわばらせ、手に冷や汗をかいています。落ち着きがなくなり、なんとか作り笑いをしてみせたりするのですが、それも先生にはふざけているように見えるのか、あまりよい印象は与えていないようです。

 そのような関係の先生ですが、今回の話し合った結果を、その先生に連絡しました。

私としては、なんとか、先生にだけでも誤解を解きたい。このままでは娘のP子がかわいそうとの思いで話しました。

先生は「分りました。ペンの事は申すんでしまった事なので、(確かに時がたちすぎている)、今さら蒸し返すのも何ですのでやめます」と言ってくれました。またペンのことについては、「やはりあのペンはB子さんのものだったわけだ。でも、B子さんは、交換した気は全く無いですよ」とのこと。私は「また相談にのって頂きたいので、よろしくお願いします」と言えただけです。

先生は、本当に娘のことを心配しているのか不安になりました。なぜ先生は、娘の側を少しでも見ようとしてくれないのでしょうか。私は常に平等を心がけ、こちらが悪いのでは、と思いながら話を聞くようにしているのですが。。。

長々とすみません。娘から話しを聞いて、娘には、「お母さんは、あなたを信じている。本当に信じている。世界で一番の味方だから」「分った、お母さんが守ってあげる。心配しないで。でも、努力しようね」と、言いました。

A子さんには本当に申し訳ない事をしたと思っています。とてもおとなしい子です。B子さんは、大人うけする、ハツラツとしたとても気持ちのいい子です。クラスのリーダー的存在。親友の子と喧嘩をした時だけ、娘に愚痴を言いにくるようです。

私は今、娘に何をしたらいいのか。先生に何を言ったらいいのか。主人とも話し合っていますが、行き詰まってしまっています。

本当に長くなって申し訳ありません。毎晩、この問題を考えていると、眠れません。アドバイスをお願いします。
(大阪府、KR子、P子の母親より)

【はやし浩司より、P子さんのお母さんへ】

 メール、ありがとうございました。

 まず、最初に、一言。

 この種の問題は、たいへんありふれた問題です。はっきり言えば、何でもない問題です。

 まず、A子さんについてですが、A子さんは、P子さんに、いじめられていると訴えただけのことです。ただP子さんには、その意識はなかった。つまり(いじめている)という意識がないまま、結果として、いじめているという雰囲気になってしまった。それだけのことですが、これも(いじめ)の問題では、よくあることです。

 B子さんとの本のトラブルについては、P子さんが、ウソを言っているだけのことです。何でもない、つまりは、子どもの世界では、よくあるウソです。一応たしなめながらも、おおげさに考える必要は、まったくありません。

 思春期の子どもは、自立を始めるとき、それまでになかったさまざまな変化を見せるようになります。フロイトの説によれば、イド(心の根源部にある、欲望のかたまり)の活動が活発になり、ときとして、子どもは欲望のおもむくまま、行動するようになります。

 ウソ、盗みなどが、その代表的なものです。万引きもします。性への関心、興味も、当然、高まってきます。しかしそういう形で、つまり親や社会に対して抵抗することで、子どもは、親から自立しようとします。

 ですから、ここに書いたように、一応はたしなめながらも、それですませます。あなたのように、子どもを追いつめてはいけません。これはP子さんの問題というよりは、完ぺき主義(?)のあなたのほうに問題があるのではないかと思います。

それともあなたは、子どものころ、あなたの親に対して、ウソをついたことはないとでも言うのでしょうか? ものを盗んだことはないとでも言うのでしょうか? 親の目の届かないところで、男の人と遊んだことはないとでも言うのでしょうか? もしそうなら、あなたは修道女? (失礼!)

 もしP子さんに問題があるとするなら、乳幼児期に、母子の間で、しっかりとした信頼関係が結べなかったという点です。母子の間でできる信頼関係を、心理学の世界では、「基本的信頼関係」といい、それが結べなかった状態を、「基本的不信関係」といいます。

 この信頼関係が基本となって、その後、先生との関係、友人関係、異性関係へと発展していきます。

 そのころの(不具合)が、今、P子さんの対人関係に、影響を与えているものと思われます。が、しかしそれは遠い過去の話。今さら、どうしようもない問題です。

 ですから今は、「うちの子は、人間関係を結ぶのが苦手だ」「他人に心を開くのが苦手だ」「外では無理をして、いい子ぶる」「自分の心の中を、さらけ出すことができない」と、割り切ることです。だれでも、ひとつやふたつ、そういう弱点があって、当たり前です。

 大切なことは、そういう子どもであることを、認めてあげることです。認めた上で、P子さんを理解してあげることです。「なおそう」とか、そういうふうに、考えてはいけません。(どの道、今さら、手遅れですから……。)

 あとはP子さん自身の問題です。もしP子さんが、もう少しおとなになり、人間関係の問題で悩むようなことがあったら、ぜひ、私のHPを見るように勧めてあげてください。あるいはマガジンの購読を勧めてあげてください。無料です。同じような問題は、そのつどテーマとして、マガジンでもよく取りあげていますので、参考になると思います。

 で、今、あなたの目は、P子さんのほうに向きすぎています。そんな感じがします。しかも、P子さんへの不信感ばかり……! 心配先行型の子育てが、いまだにつづいているといった感じです。

 ですからあなたはあなたで、もう少し、外に向かって目を向けられたらどうでしょうか? 多分、あなたはP子さんにとっては、うるさい、いやな母親と映っているはずです。たかがペンぐらいの問題で、親からここまで追及されたら、私なら、机ごと、親に向かって投げつけるだろうと思います。ホント! 今では、ペンといっても、いろいろありますが、100円ショップで、3~5本も買える時代です。

 いわんや子どもが泣きだすほどまで、子どもを追いつめてはいけません。またこの問題は、そういう問題ではないのです。

 さらに学校の先生も、それほど、おおげさには考えていないはずです。先にも書きましたが、こうした問題は、まさに日常茶飯事。ですから、先生がP子さんのことを悪く思っているとか、娘が誤解されてかわいそうとか、先生が親側に立ってものを考えてくれないとか、そういうふうに考えてはいけません。

 またP子さんに向かって、「信じている」とか何とか、そんなおおげさな言葉を使ってはいけません。また使うような場面ではありません。繰りかえしますが、たかがペン1本の問題です。わかりやすく言えば、P子さんが、B子さんのペンを盗んで、自分の筆箱に入れた。それだけのことです。

 多少の虚言癖はあるようですが、それもこの時期の子どもには、よくあることです。(もちろん病的な虚言癖、作話、妄想的虚言などは、区別して考えますが……。)

 あなたにも、それがわかっているはず。わかっていながら、P子さんを追いつめ、P子さんの口からそれを聞くまで、納得しない。つまりは、あなたは、完ぺき主義の母親ということになります。

 P子さんは、いい子ですよ。放送委員の一件を見ただけでも、それがわかるはず。そういうP子さんのよい面を、どうしてもっとすなおに、あなたは見ないのですか。あなたが今すべきことは、そういうP子さんのよい面だけを見て、あなたはあなたで、前を見ながら、前に進む。今は、それでよいと思います。つまりは、それが(信ずる)ということです。言葉の問題ではありません。

 またこうした問題には、必ず、二番底、三番底があります。あなたはP子さんの今の状態を最悪と思うかもしれませんが、しかし、対処のし方をまちがえると、P子さんは、その二番底、三番底へと落ちていきますよ! これは警告です。

 反対の立場で考えてみてください。私なら、家を出ますよ。息が詰まりますから……。P子さんが、家を出るようになったら、あなたは、どうしますか。外泊をするようになったら、どうしますか。

 ですから今は、「今以上に、状態を悪くしないことだけを考えなら、様子をみる」です。

 だれしも、失敗をします。人をキズつけたり、あるいは反対に人にキズつけられながら、その中で、ドラマを展開します。悩んだり、苦しんだり……。そのドラマにこそ、意味があるのです。子どもについて言えば、そのドラマが、子どもをたくましくします。

 P子さんは、たしかにいやな思いをしたかもしれませんが、それはP子さんの問題。親のあなたが、割って出るような問題ではないのです。親としてはつらいところですが、もうそろそろ、あなた自身も、子離れをし、P子さんには、親離れをするよう、し向けることこそ、大切です。

 とても、ひどいことを言うようですが、私はあなたの相談の中に、子離れできない、どこか未熟な親の姿を感じてしまいました。あなたはそれでよいとしても、P子さんが、かわいそうです。

 で、たまたま昨夜、『RAY』というビデオを見ました。レイ・チャールズの生涯をつづったビデオです。あのビデオの中で、ところどころ、レイ・チャールズの母親が出てきますが、今のあなたに求められる母親像というのは、ひょっとしたら、レイ・チャールズの母親のような母親像ではないでしょうか。

 最後に、もう一言。

 こんな問題は、何でもありませんよ! 本当によくある問題です。ですから、「A子さんに申し訳ない」とか、B子さんがどうとか、そんなふうに考えてはいけません。今ごろは、A子さんも、B子さんも、学校の先生も、何とも思っていませんよ。

 あなた自身が、心のクサリをほどいて、自分のしたいことをしたらよいのです。心を開いて! 体は、あとからついてきますよ!

 すばらしい季節です。おしいものでも食べて、あとは、忘れましょう! 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子どもの虚言 子供の虚言 盗み)

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いくつか、今までに書いた
原稿を添付しておきます。

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【信頼関係】

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答えてあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これを第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくことができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

(2)

2009-12-12 08:25:55 | 日記


 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気にしない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

● 「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
● 子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接する。
● きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというのは、避ける。
(030422)
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 信頼関係 親子関係 親子の信頼関係 基本的信頼関係 不信関係 一貫性)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 

【感情の発達】

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに発達する、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということになる。これらの感情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展していく。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)〇歳~一歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)一歳前後~二歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的な感情の形成期。

(複雑感情形成期)二歳前後~五歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情などの、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。しかしその日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が仕事を休んで、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼしたのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさである。そこで授業が終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。すると、Uさんは、こう言った。「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と涙が出てきちゃった」と。Uさんは、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成するということ。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反対の立場で考えてみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感情は、いつごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。では、小学生だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、すでに今の感情をもっていたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見るたびに、すぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、まるで子どもあつかいしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るのもつらいような踊りをさせてみたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうまん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカにするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。またそういう前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき年長児たちにこう言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。すると子どもたちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌っている。もうそろそろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだろうか。「幼稚園」ではなく、「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。あるいは英語式に、「プレスクール」でもよい。しかし「幼稚園」は、……?
(030422)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 基本感情 人間的感情形成 感情形成期)

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【不安なあなたへ】

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメールをもらった。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き離したいと思い、サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっしょについてきそうな雰囲気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなりません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まずいない。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れてしまう。不安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げるものではなく、乗り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえしているうちに、心に免疫性ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自動車。私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、心配でならなかった。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、「事故を起こさなければいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、ときどき仕事先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワイフは、「まだよ」と言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたとたん、ザワザワとした胸騒ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四時間か五時間。途中で食事をしても、六時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし高速道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だけが、ジリジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、今、着いたよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ごろ浜松に着いたけど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもである。そこで「あぶなくなかったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周してきたから」と。北海度! 一周! ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなった。「勝手にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、横浜と浜松の間を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復するのは、私たちがそこらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何時に出る」とか、「何時に着く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのことで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。この埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

● 親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
● 何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
● しかしその友だちとは、仲がよい。
● そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
● が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
● そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」と言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るようなもの。子どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れることになる。そんなわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなことは、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、過干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になりやすい。子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、この母親のばあいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもにどうあってほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いている。「いつも私の子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うちの子は、ダメになってしまうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけないことは、今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従的になるのは、そもそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。決してその友だちによって、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、親から見れば、もの足りないことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地のよい世界なのである。つまり子ども自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式の指示を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親の姿勢に反発するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかたないとしても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親にも、できることと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがある。そのあたりを、じょうずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができない親は、そうでないということになる。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いついたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私は私で勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう何でもない、ごくふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから気づく。健康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。だれに感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とくに「人間」はそうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこちら側の問題ということになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言にも、『相手はあなたが相手を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、これを「好意の返報性」という。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見えるのは、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるということ。価値観の限定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他人もそうでなければならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引きこもりが、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっていることすら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれない。

 しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るようになった。が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワルガキ仲間」だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな遊びを教えたらしい。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものころは、あんな子と遊んでほしくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていました」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子どもに見えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起き、その問題が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。とたん、問題が解決するのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があるとみてよい。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなことでも、だ。たとえば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子ども自身は、指しゃぶりをしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものがないのと同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令したり、禁止したりしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、そういう友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、あくまでも親の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そういう友だちを、子ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそうであるように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのようなもので、たとえ親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなければ、あなた自身のことで考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、いちいち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものころ、あなたはそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威主義の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育てが、どこか押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかりが強く、このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せやすい。何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三〇歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。親なんてさみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいることを、「嫁に取られた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、子どもを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題ということになる。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、モノでもない。「親子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから親子でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそれまでは母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母に話したとき、母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩れてしまった。私が二三歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大学を出て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶望の底にたたき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会でも、自分の職業をみなに、話すことができなかった。

(3)

2009-12-12 08:25:37 | 日記


●生きる源流に 

 子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子どもは生きている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。

 若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは事実である。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、さらにはよい仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似ている。「うちの子は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲームをしながら、「エメラルドタウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものようなもの。あるいは、どこがどう違うのというのか。(だからといって、それがムダといっているのではない。そういうドラマに人生のおもしろさがある。)

 私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよい。またそこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、五、六〇年先には、この世界から消えてなくなる。子どもだって、一〇〇年先には消えてなくなる。そういう人間どうしが、今、いっしょに、ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あなたは子育てにまつわる、あらゆる問題から、解放される。

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだけではすまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。

 「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。しかしその子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなたはダメな子だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子どもは自己不信から、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなってしまう。へたをすれば、一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。

【ASさんへ】

メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの内容は別として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不安の根底にある、「わだかまり」ではないかということです。

 ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか心配先行型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は何かといえば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな「わだかまり」があったことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼児期、少女期にあるのではないかと思われます。

 こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。あなた自身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていなかった可能性があります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関係を結ぶことができなかったことが考えられるということです。

 いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップを経て、形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許される」という絶対的な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味です。

 これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあと、園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなります。どこかいい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出すことができないからです。

さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。自分の子どもすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学では、あらゆる信頼関係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)具体的には、夫や子どもに対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基底不安を感じたりしやすくなります。子どもへの不信感も、その一つというわけです。

 あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」という意味で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的にどうこうというのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、親に対して、全幅に心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそうなら、「恵まれた環境」ということになります。そうでなければ、そうでない。

 しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こうした問題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国というか、こと子育てについては黎明(れいめい)期の国ということになります。

 では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始めます。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じような手法を用います。まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言えば、自分の中の過去を知るということです。まずいのは、そういう過去があるということではなく、そういう過去に気づかないまま、その過去に振りまわされることです。そして結果として、自分でもどうしてそういうことをするのかわからないまま、同じ失敗を繰りかえすことです。

 しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりますが、やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになります。

 さらに具体的に考えてみましょう。

 あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるいはさらに、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青年期にかけて、不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。

 こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成りたっているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとしたら、あなたが考えているより、深いということです。

 そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、本当にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子どもを嫌っているのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の子どもを判断しているのではないかということです。

 このとき注意しなければならないのは、(1)許容の範囲と、(2)好意の返報性の二つです。

 (1)許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭ければせまいほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これは私の経験ですが、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければなりません。(当然ですが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言っていたのでは、仕事そのものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面のときから、その子どもを好きになります。
 
 といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかしこれだけは言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。とくに幼児については、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。ですからASさんも、一度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさわしくない子どもかどうか、一度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前にもう一つ大切なことは、あなたの子ども自身は、どうかということです。

 子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるようにしかならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作るようなものです。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の関係が、今の関係というわけです。

 だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとしても、それはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある程度は干渉できても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰りかえし起きてきます。たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなとき、など。

 しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるかどうかということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに反対する権利はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どんな友だちを選んだとしても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題ということです。

 しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、判断して、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずるのです。「うちの子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずはない」と考えのです。

 そこで出てくるのが、(2)好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っていると、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子どもだと思っていると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そしてあなたの前で、自分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、たいがいの人間関係は、ますます悪くなっていきます。

 話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バトルを繰りかえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。こうした例をみてみてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということです。とくに、姑が嫁にもつ、第一印象が重要です。

 最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思うと、何かにつけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えようと、ますますよい嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。こうした相乗効果が、たがいの人間関係をよくしていきます。

 そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていませんか。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題ということになります。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあなたは悪くない面まで、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子どもは、あえて自分の悪い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不思議なもので、自分をよい子だと信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せようとします。

 あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも言えます。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験しておくことは、それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間になることが知られています。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要といえば必要なのです。むしろまずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子どものときは、優等生で終わるかもしれませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、さまざまな問題を引き起こすようになります。

 もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですからこれからのことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなことは、何度も起きてきます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが子ども。そして子育て。そういう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設計図に子どもをあてはめようとすればするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設計図から離れていきます。そして「まだ前の友だちのほうがよかった……」というようなことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だちとつきあうようになります。

 今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三番底」とか呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。

(1) 相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもしろい子ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあげてね。きっと喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコントロールします。

(2) あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まっているわ」「あなたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。これから先、子どもはあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき子どもは、あなたの信頼をどこかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかけるようになります。「親の信頼を裏切りたくない」という思いが、行動を自制するということです。

(3) 「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あきらめは、悟りの境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。子どもというのは不思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。伸びも、そこで止まります。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始めます。「まだ何とかなる」「こんなはずではない」と、もしあなたが思っているなら、「このあたりが限界」「まあ、うちの子はうちの子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いなおすようにします。

 以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったところもあるかもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことについて、また何か、わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼します。
(030516)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 さらけ出し 子育て不安 育児ノイローゼ)

●誰が永遠に生きたいか

2009-12-12 08:14:24 | 日記
●Who wants to live forever?

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よく知られた曲に、「Who wants to live forever?(だれが永遠に生きたいか?)」

というのがある。

いろいろなシンガーが歌っているが、私はグレゴリアンが歌うのが、好き。

おごそかで、それに重みがある。

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●どう死ぬか

「だれが永遠に生きたいか?、いや、だれもそんなことを望んでいない」と。

が、もし、私から(考える力)が消えたとしたら……。

「死んでもいい」とは思わないかもしれないが、「生きていても意味はない」と

思うかもしれない。

どこかのオバチャンと、意味のない会話をつづけるようになったら……。

(オバチャンでなくても、オジチャンでもよいが……。)

考えるだけでもゾッとする。

それにいつまでも無駄に生きて、ワイフや息子たちや、その家族の死を見るように

なったら、たぶん、今の私なら、それに耐えられないだろう。

生きていることをのろうようになるかもしれない。

人は、いつも、どう生きるか考える。

しかしそれではいつまでたっても、結論は出てこない。

そこで発想を変えて、どう死ぬかを考える。

その結果として、どう生きるかが決まってくる。

「永遠に生きよう」と思うから、苦しむ。

悩む。

しかし「永遠に生きても無駄」と考えることによって、その先に、生き様(ざま)が

見えてくる。

それがわからなければ、あのオバチャンたちの、とりとめのない、いつまでも

つづく無意味な会話に耳を傾けてみることだ。

(繰り返すが、オバチャンでなくても、オジチャンでもよい。

以下、すべて同じ。)

ペチャペチャ、クチャクチャ……と。

人生の晩年にあって、しかも人生の完成期にあって、その程度の会話しかできない。

そういう自分に恥じることもなく、ただしゃべりつづける。

「隣の息子がね……」「うちのダンナがね……」「娘の婿がね……」と。

●脳みその穴

ある年齢になると、脳みその下に、穴があく。

その穴から、知識や知恵、経験が、ボロボロとこぼれ落ちていく。

もっとも私がそれに気づいたのは、50歳も過ぎてからのことだった。

当時、こんなことがあった。

何かの原稿を書いているとき、「?」と思った。

「以前にも、同じことを書いたことがあるぞ」と。

そこで自分の原稿集をさがしてみると、ほとんど同じ内容の原稿があることを知った。

しかも私にとってショックだったのは、「遠い昔に書いた原稿」と思っていた

その原稿が、ほんの、その数年前に書いた原稿だったことだ。

つまりその数年の間に、自分が書いた原稿の内容すら、忘れてしまっていた。

以来、私はいつも自分の脳みそを疑ってみるようになった。

つまりそれまでの私は、脳みそというのは、進歩することはあっても、退化する

ことはないと信じていた。

とくに私が考えて、自分で書いた文章については、そうだった。

しかし実際には、書いた先から、ボロボロとこぼれ落ちていく。

●穴との戦い

脳みその穴にパッチを当てる方法は、残念ながら、ない。

それは健康法と似ている。

運動をやめたとたん、肉体は衰え始める。

不健康になっいくのを止める方法はない。

それと同じように、穴は穴として認める。

その穴からは、常に一定の知識や知恵、経験は、ボロボロとこぼれ落ちていく。

であるとするなら、それ以上のものを、上から補充していくしかない。

これも健康法と似ている。

放っておいたら、肉体の健康はどんどんと衰えていく。

であるとするなら、それ以上の運動をして、自分の体を鍛えるしかない。

日々の鍛錬こそが、健康法の秘訣ということになる。

が、それには常に、ある種の苦痛がともなう。

寒い朝に、ジョギングに出かけるような苦痛である。

あるいは難解な数学の問題を与えられたときのような苦痛である。

その(苦痛)を乗り越える勇気と努力が必要。

それがなければ、人間は、どんどんと、あのオバチャンになっていく。

●「♪だれが永遠行きたいか?」

「♪だれが永遠に生きたいか?」は、もともとは、SF映画の主題歌では

なかったか。

時代を超えて戦う、勇者と悪魔の戦いの映画だった思う。

映画そのものは、見るに耐えないというか、駄作(失礼!)。

で、主題歌だけが、ひとり歩きの形で、よく知られるようになった。

で、その曲を聴きながら、私はこう考えた。

「オバチャンのようになって、だれが永遠に生きたいか?」と。

……こう書くと、世のオバチャンたちは、怒るかもしれない。

しかしあえて言うなら、私が言うオバチャンというのは、こうした文章を

ぜったいに読まない。

電車やバスの中で、大声で、ギャーギャー、キャハハハと騒ぐことはあっても、

こうした文章は、読まない。

そもそも、そういう向上心をもっていない。

向学心もない。

あるいは、こういう文章を見せても、手で払いのけてしまう。

「私には、そういうものを読んでも、わかりません!」と。

(追記)

先日も、電車の中で、実にそれらしいオバチャンが、2人、こんな会話をしていた。

一部だけだが、こう言った。

「うちのあのバカ○(=弟の名前らしい)ったら、親の一周忌にも来なかった。

親の葬式に来ないようなヤツは、地獄よねエ」

「そうよ。親の一周忌くらい、どんなことがあっても、来るべきよねエ」と。

私の頭の中で、脳細胞がショートするのを感じた。

バチバチ、と。

それでその女性たちの会話に、耳を傾けた。

けっして盗み聞きしたわけではない。

向こうのほうから声が聞こえてきた。

……が、話の内容をコメントするつもりは、まったくない。

あまりにも愚劣で低劣。

言い忘れたが、年齢は2人も50歳くらい。

その話を電車を降りてからワイフにすると、ワイフはこう言った。

「ああいう人たちが、古い常識を、つぎの世代に伝えていくのね」と。

そう、そういう人たちが、(大勢)を作っていく。

そしてそれが大きな流れとなって、つぎの世代に伝わっていく。

が、この(大勢の流れ)を変えることは容易なことではない。

巨大な流れである。

私「そういう流れを変えないかぎり、日本は変わらないよね」

ワ「そうよね。100年後も、200年後も、同じようなことを言う人が

出てくるわ」

私「しかしいつも不思議だと思うのは、そういう女性たちでも、若いときがあった

と思う。そういう若いとき、何をしていたんだろう」

ワ「自分を変える暇など、なかったのよね」と。

本来なら、若い人たちが問題意識をもって、古い因習やタブー、それにカビの生えたような常識を変えていかねばならない。

しかしそれをしないまま、歳だけは取っていく。

そして大半の女性たちは、私が見たようなオバチャンになっていく。

それでいいのか、世の女性たち!

このままでいいのか、世の女性たち!

エリクソン

2009-12-12 08:07:57 | 日記
●エリクソンの心理発達段階論

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エリクソンは、心理社会発達段階について、

幼児期から少年期までを、つぎのように

区分した。

(1) 乳児期(信頼関係の構築)

(2) 幼児期前期(自律性の構築)

(3) 幼児期後期(自主性の構築)

(4) 児童期(勤勉性の構築)

(5) 青年期(同一性の確立)

(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

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●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、

たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、

善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。

さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に

なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、

逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、

これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が

「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、

考え方に、大きな影響を与える。

わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども

(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、

そうでなければそうでない。

しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、

たいへん難しい。

実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。

私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。

その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。

「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。

それが世間の常識にもなっている。

しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。

それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。

フロイト説に従えば、2~4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と

思い込んでいるのだろう。

が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。

つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。

その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。

「明るく、朗らかな子ども」と。

しかしそれは仮面。

その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。

で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。

集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の

人間を演じてしまう。

自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。

さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。

(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)

いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。

心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。

信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、

成り立つ。

「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。

「私は何をしても許される」という安心感。

親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。

この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が

あげられる。

「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。

たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな

言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。

してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と

言った年長児(男児)がいた。

友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が

いた。

そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて

しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。

ひとりで遊ぶことができない。

あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。

これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから

つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく

(エリクソン)。

勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、

実際には、両者の間には、連続性がある。

子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。

それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、

自我の同一性を確立する。

自我の同一性の確立している子どもは、強い。

どっしりとした落ち着きがある。

誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。

が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。

心理的にも、たいへん不安定となる。

その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる

ことが知られている。

たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい

自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型

(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。

もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。

「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って

しまう。

断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正されたり

ということは、まず、ない。

その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。

が、それまでまったくの無知というわけではなかった。

私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。

しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、

やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察

することができた。

これは私にとって、大きな収穫だった。

つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、

「上」から見ていた。

また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。

そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の

未来像を見ることができるようになった。

と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。

さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。

それを知ることができた。

●では、どうするか?

私たちはみな、例外なく、乳幼児期に作られた「私」の上に載っている。

「乗っている」と書くほうが正しいかもしれない。

そのために、「私」を知るためには、まず自分自身の乳幼児期をのぞいてみる。

ほとんどの人は「乳幼児には記憶はない」と思っているが、これはとんでもない誤解。

あの赤ん坊にしても、外の世界から、怒涛のように流れ込んでくる情報をすべて、

記憶している(ワシントン大学、メルツォフ、ほか)。

「記憶として取り出せないだけ」で、記憶として、ぎっしりと詰まっている。

言い換えると、あなたや私は、そのころ作り上げた(自分)に、それ以後、

操られているだけと考えてよい。

自分を知れば知るほど、それがわかってくる。

たとえば先にあげた、「子どものころから、だれにも愛想のいい子」と評されて

いた子どもというのは、私自身のことである。

私は、子どものころ、だれにでもシッポを振り、そのつど、「いい子」と思われる

ことで、自分の立場を取りつくろっていた。

中学へ入ってから猛烈に勉強したが、好きだったからしたわけではない。

どこか自虐的だった。

先にあげた、(1)攻撃型の変形と考えられる。

本来他人に向かうべき攻撃性が、自分に向かった。

が、それは「私」であって、「私」ではなかった。

私自身は、疑い深く、嫉妬深く、それだけに、だれにも心を許さないタイプの

子どもだった。

おとなになってからも、そうだった。

表面的には、だれとでもうまく交際したが、それはあくまでも表面的。

相手が一線を越えて、私の中に踏み込んでくるのを許さなかった。

また相手がたとえ心開いていても、それを理解できなかった。

あるいはその下心を疑った。

そんな私が現在の仕事を通して、自分に気づき、そしてやがてどうあるべきかを

知った。

教えている幼児の中に、自分に似た幼児を発見したのが、きっかけだった。

それが「自己開示」という方法である。

●自己開示

「自分のことを、他人に開示していく」。

「あるがままの自分を、まず他人に語っていく」。

「偽らず、思ったことを言い、文章にして書いていく」。

自己開示にも段階論がある。

最初は、自分の過去から話す。

つづいて心の中を話す。

最終的には、自分にとって、もっとも恥ずかしい話や、さらには性遍歴まで

開示していく。

(もっともそれは、他人といっても、身内のごく親しい人に対してで、

じゅうぶんだが……。)

その段階まで開示してはじめて、それを「自己開示」という。

私のばあいは、こうして文章にすることによって、自己開示をしている。

最初は、家族のことを書き、やがて自分のことを書いた。

……といっても、それにも、10年単位の時間が必要である。

「今日、気がついたから、明日から……」というわけには、いかない。

この問題は、「根」が深い。

乳幼児期の発達心理段階が、「本能」に近いレベルまで、脳の奥にまで

刻み込まれている。

自分の意思や理性の力で、コントロールできるようなものではない。

だから……と書けば、あまりにも見え透いているが、乳幼児期の子育てというのは、

一般で考えられているよりも、はるかに奥が深く、重要である。

それに気がつくかどうかは、ひとえに、「知識」による。

言い換えると、こと子育てに関して言えば、無知そのものが、罪と考えてよい。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供 子供の問題 家庭教育 エリクソン 社会心理学 発達段階論 幼児の自立性 

幼児の自主性 信頼関係 基本的信頼関係 自己開示)

(補記)

こうした発達段階には、連続性がある。

(信頼性の構築)→(自律性の構築)→(自主性の構築)→(勤勉性の構築)

→(自我の同一性の構築)へ、と。

そして青年期前期の(親密性の構築)→後期の(生殖性の構築)→老年期の

(統合性の構築)へとつながっていく。

当初の(信頼性の構築)に失敗すると、自律性、自主性がそこなわれる。

自主性がなければ、勤勉性は生まれない。

さらに(親密性の構築)に失敗しやすくなる。

具体的には、恋愛、結婚へと、自然な形で進めなくなる。

が、最大の問題は、老年期の(統合性の構築)ということになる。

人は、最終的に、(人間としてすべきこと)を発見し、そこへ自分を統合させていく。

この(統合性の構築)に失敗すると、老後そのものが、あわれでみじめなものになる。

悶々とした孤独感と悲哀感を闘いながら、それこそ1年を1日にして過ごすようになる。

何度も書くが、孫の世話と庭いじり。

それがあるべき老後の姿ではない。

理想の老後でもない。

私たちは、命の最後に、その「命」を、つぎの世代の人たちのためにつなげていく。

具体的には、真・善・美の追求がある。

その真・善・美の追求には、(終わり)はない。

それこそ死ぬまで、ただひたすら、精進(しょうじん)あるのみ。

「死」は、その結果としてやってくる。

(補記2)

私たちの世界から見ると、小学1年生ですら、大きな子どもに見える。

いわんや中学生や高校生ともなると、おとなというより、反対に若い父親や母親を

見ていると、高校生と区別できないときがある。

それはともかくも、そうした若い人たちが、たとえば異性との間でうまく恋愛感情が

育てられないとか、あるいは結婚までもちこめない、さらには、夫婦の性生活が

うまく営めないというのは、こうした心理発達段階の過程で、何らかの障害があった

ためと考えてよい。

が、こうした問題(障害)が起きると、どの人も、その時点での修復を試みる。

しかし先ほども書いたように、「根」は、もっと深いところにある。

その「根」まで掘り起こさないと、こうした問題の本質は見えてこない。

また本質を見ることによって、問題の解決の糸口を手にすることができる。

まずいのは、そうした「根」に気づかず、ただいたずらに、振り回されること。

というのも、愛情豊かで、かつ恵まれた環境の中で、スクスクと(?)、

心理的発達を遂げる人のほうが、実際には、少ない。

ほとんどの人が、それぞれの立場で、それぞれの環境の中で、何らかの問題を

かかえながら、おとなになっている。

問題のないおとなのほうが、少ない。

だから問題があるからといって、自分を責める必要もないし、過去をのろう必要も

ない。

(私も一時期、父や母をうらんだことがあるぞ。)

大切なことは、まず、「私」に気がつくこと。

あとは時間が解決してくれる。

「すぐに……」というわけにはいかないが、あとは時間が解決してくれる。

(補記3)

そういう意味でも、幼児教育のおもしろさは、この一点に凝縮される。

子どもを見ながら、いつもそこに「私」を見る。

「私の原点」を見る。

が、幼児を未熟で未完成な人間と見るかぎり、それはわからない。

幼児を「上」からだけ見て、「こうしてやろう」「ああしてやろう」と考えて

いる間は、それはわからない。

幼児に対して謙虚になる。

1人の人間として、認め、そこから幼児を見る。

すると幼児のほうから、「私」を語ってくれる。

「あなたは、こうして『私』になったのですよ」と、幼児のほうから話してくれる。