最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(2)

2009-12-12 08:25:55 | 日記


 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気にしない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

● 「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
● 子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接する。
● きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというのは、避ける。
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【感情の発達】

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに発達する、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということになる。これらの感情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展していく。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)〇歳~一歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)一歳前後~二歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的な感情の形成期。

(複雑感情形成期)二歳前後~五歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情などの、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。しかしその日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が仕事を休んで、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼしたのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさである。そこで授業が終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。すると、Uさんは、こう言った。「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と涙が出てきちゃった」と。Uさんは、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成するということ。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反対の立場で考えてみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感情は、いつごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。では、小学生だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、すでに今の感情をもっていたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見るたびに、すぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、まるで子どもあつかいしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るのもつらいような踊りをさせてみたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうまん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカにするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。またそういう前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき年長児たちにこう言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。すると子どもたちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌っている。もうそろそろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだろうか。「幼稚園」ではなく、「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。あるいは英語式に、「プレスクール」でもよい。しかし「幼稚園」は、……?
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Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【不安なあなたへ】

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメールをもらった。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き離したいと思い、サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっしょについてきそうな雰囲気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなりません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まずいない。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れてしまう。不安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げるものではなく、乗り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえしているうちに、心に免疫性ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自動車。私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、心配でならなかった。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、「事故を起こさなければいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、ときどき仕事先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワイフは、「まだよ」と言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたとたん、ザワザワとした胸騒ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四時間か五時間。途中で食事をしても、六時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし高速道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だけが、ジリジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、今、着いたよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ごろ浜松に着いたけど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもである。そこで「あぶなくなかったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周してきたから」と。北海度! 一周! ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなった。「勝手にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、横浜と浜松の間を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復するのは、私たちがそこらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何時に出る」とか、「何時に着く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのことで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。この埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

● 親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
● 何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
● しかしその友だちとは、仲がよい。
● そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
● が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
● そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」と言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るようなもの。子どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れることになる。そんなわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなことは、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、過干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になりやすい。子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、この母親のばあいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもにどうあってほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いている。「いつも私の子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うちの子は、ダメになってしまうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけないことは、今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従的になるのは、そもそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。決してその友だちによって、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、親から見れば、もの足りないことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地のよい世界なのである。つまり子ども自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式の指示を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親の姿勢に反発するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかたないとしても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親にも、できることと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがある。そのあたりを、じょうずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができない親は、そうでないということになる。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いついたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私は私で勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう何でもない、ごくふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから気づく。健康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。だれに感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とくに「人間」はそうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこちら側の問題ということになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言にも、『相手はあなたが相手を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、これを「好意の返報性」という。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見えるのは、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるということ。価値観の限定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他人もそうでなければならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引きこもりが、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっていることすら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれない。

 しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るようになった。が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワルガキ仲間」だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな遊びを教えたらしい。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものころは、あんな子と遊んでほしくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていました」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子どもに見えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起き、その問題が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。とたん、問題が解決するのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があるとみてよい。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなことでも、だ。たとえば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子ども自身は、指しゃぶりをしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものがないのと同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令したり、禁止したりしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、そういう友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、あくまでも親の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そういう友だちを、子ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそうであるように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのようなもので、たとえ親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなければ、あなた自身のことで考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、いちいち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものころ、あなたはそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威主義の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育てが、どこか押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかりが強く、このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せやすい。何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三〇歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。親なんてさみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいることを、「嫁に取られた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、子どもを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題ということになる。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、モノでもない。「親子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから親子でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそれまでは母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母に話したとき、母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩れてしまった。私が二三歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大学を出て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶望の底にたたき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会でも、自分の職業をみなに、話すことができなかった。

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