最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●内面対話法

2009-12-16 17:57:21 | 日記
●内面対話法(内的対話法)(自分を知るために)


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自分を知る……つまり「私」の中の深層部(=深層心理)を
知るためのひとつの方法として、「内面対話法」というのがある。
(この名称と方法は、私が考えた。)


簡単に言えば、頭の中に、別のだれか(=自分)を思い浮かべ、
その人と対話をすることによって、自分の心の
奥深くに潜む「私」を知るという方法である。


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【方法】


 静かな場所を選ぶ。
周囲は、暗いか、薄暗いところがよい。
目は閉じる。


 閉じると、あたりはぼんやりとした暗闇に包まれる。
その闇の向こうに、問いかける相手を想像する。
ぼんやりとした輪郭(りんかく)程度でよい。
その相手というのは、あなた自身でもよいし、別のだれかでもよい。
その相手に向かって、いろいろ、問いかけてみる。
問いかけながら、その答の中から、自分で気がつかなかったものを見つけていく。


●対話


 問いかける内容は、何でもよい。
何か、あなたが今、悩んだり、苦しんだりしていることがあれば、それについて問いかけるのがよい。


問:あなたはだれか?
問:あなたは何をしているか?
問:あなたは何をしたいか?
問:あなたの心をふさいでいるものは、何か?
問:どうして悩んでいるか?
問:どうすればよいと思っているか?
問:何かよい方法を、あなたは知っているか?
問:あなたはどこに原因があると思うか?


 頭の中で、その相手がどう答えるかについては、何も考えてはいけない。
相手がだまっていたら、そのままにしておく。


 こうして自分に問いかけながら、その中から自分を発見していく。


●私のばあい


 いきなりやっても、ザワザワとした感じになってしまう。
就寝前、あるいは寝起き後がよい。
で、私は、この方法を、いろいろな場所で試している。
「私の中の私」に、いろいろ質問している。
いつの間にか、そういう習慣が、身についてしまった。


「そこにいる君は、だれか?」……(ぼんやりとした黒い影、無言)
「君は、なぜ、そこにいるのか?」……(無言)
「気分は、どうだ?」(何度も問う)……「ぼくは何ともない。お前はどうだ?」
「君は、暗いな」……「見た感じで、決めつけるな」
「何か、しゃべれ」……(無言)
「会話は嫌いか?」……「わずらわしい」と。


●本当の私


 子どものころから、私は快活な子ということになっていた。
しかし本当の私は、混雑した場所が嫌い。
集団の中に入ると、すぐ神経疲れを起こす。
旅行でも、集団で行くよりは、少人数、
あるいはひとり旅のほうを、好む。


 そういう(私)が、こうした内面対話法の中でも、顔を出す。
私は、自分では騒々しい人間だと思うが、しかし騒々しいところが嫌い。
とくにあの女性たちがする、おしゃべりが、苦手。
これには私の母や姉が、たいへんなおしゃべりで、口うるさかったことが関係している。


●自己暗示


 内面対話法は、自己暗示法としても、応用できる。
暗闇の中の自分に語りかけることによって、深い、無意識の世界にいる自分を、作り変えることもできる(?)。
そういう論文は見たことはないが、理論的には、可能なはず。


「お前なア、取り越し苦労ばかりしているが、もう少し、他人を信用しろ」……(無言)
「このところ運動量が減っている。もっと運動しろ」……「そうだな」
「どういう運動が必要と考えているんだ?」……「上半身の運動かな」
「グチを言うなよ。見苦しいぞ」……「うん」
「何でも、先手、先手で、やるんだ」……(無言)
「Aさんには、親切にしてやれ。さみしがっているぞ」……(わかった)と。


 応用の仕方は、いろいろある。


 ほかにいくつか気がついた点をメモしておく。


●もう1人の私


意識している私を、「私A」とする。
内面対話法による私を、「私B」とする。
この私Aと、私Bは、明らかに価値観がちがう。
性質も性格も、ちがう。


 私Aは、ひょうきんで、冗談が好き。
おしゃべりで、社交的。
正義感が強く、議論好き。


一方、私Bは、あまり冗談を言わない。
カタブツで、まじめ。
冷静で、それでいて、面倒くさがり屋。


 恐らく人によって、私Aと私Bは、ちがう。
で、これはあくまでも私のばあいだが、私は基本的には、私Bのほうが、本当の私ではないかと思う。
しかし長い人生の間に、生きる技術として、私Aを身につけてきた。
またそういう環境で、生まれ育ってきた。


 ともあれ、だからといって、深刻に考える必要はない。
内面対話法といっても、心の遊びのようなもの。
適当にやって、適当に楽しめばよい。


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●(補記)信仰的連帯性


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この内面対話法というのは、信仰者と
言われる人たちは、日常的に経験している。
とくに仏教では、「心仏」という言葉を使う。
「仏は心の中にいる」と説く。


(本当は「いる」のではなく、「いると思っている」だけ
なのだが……。)


あるいはキリスト教徒も、同じようなことを言う。
ともに内面対話法を使い、自分の心の中の、仏や神と対話する。


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 仏教の世界には、「異体同心」という言葉がある。
「体は別々でも、心はひとつ」という意味である。
何かの対象物に向かって祈ったり、唱題していると、あたかもみなの心が、仏(神)の小心と融合し、一体化したかのように感ずることがある。
信仰の世界だけではない。
スポーツの世界でも、音楽の世界でもよい。
みなでひとつのチームを応援したり、コンサートで熱狂しているようなときを想像してみればよい。


こうして信仰者たちは、連帯性を感ずる。
が、この連帯性こそが、こうした信仰の最大の魅力ということになる。
こうした連帯性があるからこそ、信者どうしは、ときには親子以上、兄弟以上の関係を結ぶことができる。
連帯性を感じたとたん、孤独が癒される。
この魅力は、何ものにも代えがたい。


一方、教団側は、それを熟知しているから、それを利用して信者を教団に縛る。
「この教団から離れたら、地獄へ落ちますよ」と。
(実際、教団から離れた直後というのは、地獄へ落ちたかのような孤独を覚えることが多いが……。)


●宗教戦争


 ここにも書いたように、信仰的連帯性は、きわめて強固なものである。
その世界を知らない人には、想像もつかないような世界と言ってもよい。
古今東西、「宗教戦争」と言われるものが、どういうものであったかを知れば、それがわかるはず。
信者たちは、命をかける。
現在のイラク、アフガニスタンを例にあげるまでもない。
とても残念なことだが、アメリカ軍には、それがわかっていない。
つまりどれほど長く戦ったところで、アメリカ軍に勝ち目はない。
信仰的連帯性というのは、そういうもの。


●問題点


 思想は大脳の皮質部(連合野)を支配する。
しかし信仰は、その何10万倍もあるとされる、深層心理部を支配する。
信仰は理屈ではない。
信仰を理屈で考えても、意味はない。
そこで内面対話法ということになるが、信仰者のばあい、内在する(相手)というのは、彼らが信仰する神(仏)ということになる。


 ある男性(40歳くらい、当時)は、こう言った。
「古い寺で、徹夜で読経していたときのこと。
自分の周りで、何10人もの人たち(=死者たち)がいっしょに唱和してくれた」と。


 また別の女性(40歳くらい、当時)は、こう言った。
「私は目を閉じれば、そこにいつも神の存在を感じます」と。


 それぞれの人は、それぞれの思いをもって信仰の世界に入る。
両親の死や病気、家族や経済的な問題など。
だからそういう信仰を否定してはいけない。
そっとしておいてやることこそ、大切。


 問題という問題ではないかもしれないが、しかしときとして、人はそれを神や仏と錯覚することもある。
内面対話法には、そんな問題も隠されている。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 内面対話法 内面的対話法 私の中の私 私論)



Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司


●Sさんの死


 いろいろ世話になった、土建業者のSさん(男性)が、おととい亡くなった。
ここ数年、人工透析を受けていたというから、そのつど心配はしていたが、まさかこんなに早く亡くなるとは思っていなかった。
年齢は確かではないが、いつだったか、私より、5~6歳若いということを知った。
それによれば、享年、52~3歳ということになる。


 暴飲暴食、それにヘビースモーカー。
最後に世話になったとき、Sさんは、緑内障か何かで、左目が見えなかったのではないか。
小路から大通りに右折して出るとき、左側から来た車と、あやうく衝突にしそうになったことがある。
以来、あれこれ理由をこじつけ、Sさんの運転する車には、乗らないようにしていた。
が、亡くなってみると、それもよい思い出。


私の代わりに、息子に、今日は葬儀に行ってもらった。


●アルツハイマー病の、初期の初期症状


 アルツハイマー病の初期の、そのまた初期症状があるという話は、よく聞く。
医学書にも、そういう症状が載っている。
そのひとつが、心の余裕がなくなってくること。


 ふつうなら笑ってすますようなころでも、このタイプの人にはそれができない。
こんなことがあった。


 ワイフがXさん(当時64歳、女性)に、何かのことで、3桁の番号を話したときのこと。
ワイフは、「347」と言った。
そのときXさんは、「347……ね」と言いながら、自分の手帳にメモを取った。
が、ワイフが見ると、それに、「473……」と書こうとしていた。
そこでワイフが、Xさんに、「473ではないですよ。347……」と言いかけたところで、Xさんは、激怒。
血相を変えて、こう怒鳴ったという。


「わかっています。今、3と書こうとしていたところです!」と。


 アルツハイマー病の初期の人が、取り繕(つくろ)いや、つじつま合わせがうまくなるというのは、よく知られている。
しかしその前の段階として、怒りっぽくなるということは、あまり知られていない。
怒りっぽくなるというよりは、心の余裕がなくなり、ささいなミスを指摘されただけで、おおげさに激怒したりする。


 ふつうなら、(「ふつう」という言葉は適切ではないかもしれないが)、笑ってすます。
「ハハハ、3でしたね。ハハハ」と。


 この「ハハハ」と笑ってすます部分が少なくなってくる。
言い換えると、心の余裕をもつということによって、認知症になるのを防げるのではないか。
たとえばジョーク。
ジョークの通ずる人は、それだけ心が広い人ということになる。
同時に、少なくとも、アルツハイマー病の心配はない人ということになる。


 今日、車の中で、ワイフとそんな会話をした。


●気候


 冬になるたびに、こう思う。
「浜松に住むようになって、よかった」と。


 浜松、とくに浜名湖周辺は、日本でも鹿児島県につぐ、気候の温暖な地域として知られている。
真冬でも、緑の木々が美しい。
種類も豊富。


 が、その一方で、地球温暖化(Global Warming)が、問題になっている。
この浜松も、温暖な気候が、ますます温暖化している。
ときどき喜んでいていいのかなあと、迷う。


 しかしここは楽天的にとらえるしかない。
心配しても、しかたない。
暖かい冬、おおいに結構、と。
(無責任な発言で、ごめん!)。


 そんなこともあって、今日、ワイフと西区引佐町にある、城山公園に登ってみた。
12月16日。
今ごろ、この浜松では、紅葉が、もっとも美しくなる。
全国的にみれば、もっとも遅い秋。
マガジンに載せる写真を、30枚近く撮った。


●どこかのバカ


 どこかのバカ知事が、こう言ったそうだ。
「(現在の)福祉制度は、障害者を生き延びさせるだけだ」と。


 こういうバカがいるから、日本はよくならない。
またこういうバカを選ぶ選挙民がいるから、日本はよくならない。
この発言を裏から読むと、「障害者は、早く死ね」という意味になる。
小学生だって、わかる。
小学生だって、こんなバカなことは言わない。


 が、当の知事は、「辞任しない」と、がんばっているという。


●天皇の政治利用


 一方、中央では、天皇の政治利用が問題になっている。
民主党のOZ氏の要請で、天皇が急きょ、中国の副首相と会うことになった。
それについて、宮内庁の長官が、苦言を呈した。
これにOZ氏が反発。
右翼も、反対の立場で、反発。
自民党も反発。
何だか、三つ巴(どもえ)、四つ巴の混乱を呈してきた。


 しかし肝心の天皇の意思が見えてこない。
つまりこのあたりに、日本の天皇制度の最大の問題が隠されている。


 私たちは一度だって、天皇の意思を確かめたことがない。
本当の気持ちを聞いたことがない。
「天皇という、日本国にあって最高の要職を務めていただけますか?」と。
そういうことを一度もしないでおいて、「天皇は幸福なはずだ」と決めつけてかかるのも、どうか?


 「政治的利用」とは言うが、天皇だって1人の人間。
いろいろな思いもあるだろう。
意見もあるだろう。
政治的な意見も、当然、それに含まれる。


 言論の自由とはいうが、天皇には、言論の自由すらない。
それがいかに窮屈なものであるかは、私にはわかる。
わかるから、もし私なら、「天皇か、それとも自由か」と問われれば、迷わず、「自由」を選ぶ。
そのことは、以前、『世にも不思議な留学記』の中でも書いた。


 会いたければ会えばよい。
会いたくなければ、会わなくてもよい。
「1時間くらいなら、何とか……」ということになるかもしれない。
「このところ、体の調子がよくありませんから……」ということになるかもしれない。
天皇がどういう判断をしても、私たちは天皇を支持する。

 それが民主主義の精神ではないのか。


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『世にも不思議な留学記』より


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王子、皇太子の中で【27】


●VIPとして


 夏休みが近づくと、王子や皇太子たちは、つぎつぎと母国へ帰っていった。もともと彼らは、勉強に来たのではない。研究に来たのでもない。目的はよくわからないが、いわゆるハクづけ。


 ある国の王子の履歴書(公式の紹介パンフ)を見せてもらったことがある。当時は、海外へ旅行するだけでも、その国では重大事であったらしい。それには旅行の内容まで書いてあった。「○○年X月、イギリスを親善訪問」とか。


 一方、オーストラリア政府は、こうしたVIPを手厚く接待することにより、親豪派の人間にしようとしていた。そういうおもわくは、随所に見えた。いわば、先行投資のようなもの。一〇年先、二〇年先には、大きな利益となって帰ってくる。


 私のばあいも、ライオンズクラブのメンバーが二人つき、そのつど交互にあちこちを案内してくれたり、食事に誘ってくれたりした。おかげで生まれてはじめて、競馬なるものも見た。生まれてはじめて、ゴルフコースにも立った。生まれてはじめて、フランス料理も食べた。


●帝王学の違い?


 私たち日本人は、王子だ、皇太子だというと、特別の目で見る。そういうふうに洗脳されている。しかしオーストラリア人は、違う。イギリスにも王室はあるが、それでも違う。少なくとも「おそれ多い」という見方はしない。


 このことは反対に、イスラム教国からやってきた留学生を見ればわかる。王子や皇太子を前にすると、「おそれ多い」というよりは、まさに王と奴隷の関係になる。頭をさげたまま、視線すら合わせようとしない。その極端さが、ときには、こっけいに見えるときもある(失礼!)。


 で、こうした王子や皇太子には、二つのタイプがある。いつかオーストラリア人のR君がそう言っていた。ひとつは、そういう立場を嫌い、フレンドリーになるタイプ。もうひとつは、オーストラリア人にも頭をさげるように迫るタイプ。アジア系は概して前者。アラブ系は概して後者、と。


 しかしこれは民族の違いというよりは、それまでにどんな教育を受けたかの違いによるものではないか。いわゆる帝王学というのである。たとえば同じ王子でも、M国のD君は、ハウスの外ではまったく目立たない、ふつうのズボンをはいて歩いていた。かたやS国のM君は、必ずスリーピースのスーツを身につけ、いつも取り巻きを数人連れて歩いていた。(あとでその国の護衛官だったと知ったが、当時は、友人だと思っていた。)


●王族たちの苦しみ


 私は複雑な心境にあった。「皇室は絶対」という意識。「身分差別はくだらない」という意識。この二つがそのつど同時に現れては消え、私を迷わせた。


 私も子どものとき、「天皇」と言っただけで、父親に殴られたことがある。「陛下と言え!」と。だから今でも、つまり五六歳になった今でも、こうして皇室について書くときは、ツンとした緊張感が走る。が、それと同時に、なぜ王子や皇太子が存在するのかという疑問もないわけではない。ただこういうことは言える。


 どんな帝王学を身につけたかの違いにもよるが、「王子や皇太子がそれを望んでいるか」という問題である。私たち庶民は、ワーワーとたたえれば、王子や皇太子は喜ぶハズという「ハズ論」でものを考える。しかしそのハズ論が、かえって王子や皇太子を苦しめることもある。


 それは想像を絶する苦痛と言ってもよい。言いたいことも言えない。したいこともできない。一瞬一秒ですら、人の目から逃れることができない……。本人だけではない。まわりの人も、決して本心を見せない。そこはまさに仮面と虚偽の世界。私はいつしかこう思うようになった。


 「王子や皇太子にならなくて、よかった」と。これは負け惜しみでも何でもない。一人の人間がもつ「自由」には、あらゆる身分や立場を超え、それでもあまりあるほどの価値がある。「王子か、自由か」と問われれば、私は迷わず自由をとる。

 私はガランとしたハウスの食堂で、ひとりで食事をしながら、そんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●マガジン(12-14)老後論

2009-12-16 06:45:04 | 日記
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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   16日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●希望

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希望があれば、まだ何とか生きられる。
その希望にしがみついていけば、まだ何とか生きられる。
希望が、私たちを前向きに、ひっぱってくれる。

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●講演活動

 「あなたにとって希望とは何か」と聞かれたら、今の私は、「講演活動をすること」と
答える。
今は、その講演活動が楽しい。
見知らぬ土地へ行って、見知らぬ人に会う。
そして最近は、できるだけその土地のどこかの、旅館やホテルに泊まるように
している。
それが楽しい。

 今日も、沼津市の女性から、講演依頼が入った。
喜んで引き受けた。
このところ私の心が伝わるのか、遠方からの依頼が多くなった。
こういうのを心境の変化というのか。
ほんの少し前までは、県外からの講演については、ほとんど断っていた。
昨年(08年)は、北海道からの講演依頼も、2件あった。
(もちろん断ったが……。)

 講演が1本入ると、その日に備えて体力と知力を整える。
今までの講演の中で、もっとも長かったのは、4時間。
が、今は、4時間は、とても無理。
自分でもそれがよくわかっている。

 知力も整える。
講演というのは、ボケた頭では、できない。
そんな頭で講演したら、わざわざ聞きに来てくれた人に、申し訳ない。
つまりそうした(緊張感)が、私を未来へと引っ張ってくれる。

 で、明日はK市まで行って、講演をしてくる。
夜7時半~からの講演会である。
ときどき、そういう講演がある。
「そういう講演」というのは、夜の講演会をいう。
そういう時間帯にするのは、仕事をもっている人のため。

●孤独vs希望

 そこで希望とは、何か?
あえて今の心境をもとにして考えると、(孤独)の反対側にあるのが、(希望)と
いうことになる。

 講演の依頼があるというのは、まだ人の役に立てるということ。
私の話を聞いてくれる人が、まだいるということ。
そういう(人)がいると想像するだけで、孤独が癒される。
つまりそれが(希望)ということになる。

 今は、その希望にしがみついて生きていく。
細い糸かも知れないが、その糸が切れたら、おしまい。
私はそのまま(孤独)の世界へと、落ちていく。

 が、講演には、もうひとつの意味がある。

●真理の探究

 歌手が歌を歌っているのを見たりすると、ときどき、こう思う。
「いいなあ、あの人たちは……」と。
ステージにあがって、いつも同じ歌を歌えばよい。
それで観客は喜んでくれる。
もちろんそれなりの準備とか苦労は必要かもしれない。

 しかし講演のばあいは、同じ話は、できない。
私もしたくない。
毎回、ちがった話をしたいし、ちがった話をする以上、さらによい話をしたい。
そのためには日々の鍛錬あるのみ。
その鍛錬を通して、より「真理」に近づく。

 もちろんそのためには、本を読んだり、考えたりする。
文を書いたりする。
その過程が楽しい。
とくにその向こうに、キラリと光るものを発見したときは、宝石を見つけたときの
ように、うれしい。
その光るものの向こうに、私の知らなかった世界が広がっている。

 講演というのは、あくまでもその(結果)でしかない。

●緊張感

 その講演だが、ときどき1年先とか、1年半先の依頼があるときがある。
今から思うと、そのときどうしてそんなことで迷ったと思うのが、こんな
ことがあった。

 ちょうど50歳になったころ、1年先の講演依頼があった。
そのときのこと、私はこう思った。
「1年先だって?」「そのときまで、私は生きているだろうか?」と。

 それからもたびたび、そういう講演依頼があった。
が、やがてそういう思いは弱くなり、今では1年先の講演でも平気で受けるように
なった。
反対に、「どんなことがあっても、そのときまで元気でいよう」と心に誓う。
そのために体力づくりと、知力の維持に努める。
大きな講演会のばあいは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
体調を整える。
先にも書いたが、こうした一連の緊張感が、私を前へ、前へと、引っ張っていく。

 言うなれば、馬の前につりさげられたニンジンのようなもの。
「いつかは食べられるかもしれない」という思いをもって、前に進む。
 
だから今の私には、うしろを振り向いている暇はない。
向きたくもない。
そうでない人たちは、そういう私を見て、「親戚づきあいが悪い」とか、
「先祖を大切にしない」とか、言う。
しかし今の私には、そういう考え方は、みじんもない。

●宗教観

 こんなことを言うと、親戚の人たちは、顔を真っ赤にして怒るだろう。
しかし私はこの1年の間に、仏壇を開いて、手を合わせたのは一度しかない。
信仰心といっても、そういう信仰心は、私にはない。
仏教徒かキリスト教徒かと聞かれれば、心は、キリスト教徒のほうに、近い。

クリスマスは、毎年祝うが、釈迦の誕生日など、祝ったこともない。
それに「寺」というと、どこもジジ臭くていけない。
(自分がジジイのくせに、そういうことを言ってはいけないのだが……。)
私の年齢になると、四国八八か所巡りというのを始める人もいる。
が、今の私には、とても考えられない。
(そのうち、世話になるかもしれないが……。)

●直送+散骨

 とは言っても、死に方を考えていないわけではない。
しかし私は、直送(病院から直接、火葬場で火葬)を望む。
葬式はまったく、不要。
みなが集まって、おいしいものでも食べてくれれば、それでよい。
で、そのあと、遺骨は、散骨でも何でもよい。
庭の肥料にしてくれても、一向に構わない。

 大切なのは、今を懸命に生きること。
悔いが残らないように生きること。
生きて、生きて、生きまくること。
そこに(死)があるとしても、そのときまで、前に向かって生きること。
言うなればそのとき残る私の死体は、ただの燃えカス。
そんなものを大切にしてくれても、意味はない。
うれしくもない。

 自信はないが、(希望)があれば、それは可能。
いつまでも前向きに生きる。
それが可能。
大切なことは、希望を絶やさないこと。

●希望論

 その希望は、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
努力によって、作り出すもの。
よく「私には生きがいがない」とこぼす人がいる。
しかしそれはその人の責任。
……というのは、少し言い過ぎということはわかっている。
しかし生きることの、本当のきびしさは、このあたりにある。

 だからエリクソンは、「統合性」という言葉を使って、こう説明した。
「人生の正午と言われている満40歳(ユング)から、その準備をせよ」と。
つまり40歳ごろから、老後の生きがいとなるものを、準備せよ、と。
(すべきこと)を発見し、その(すべきこと)の基礎を作っていく。
そして老後になったら、その(すべきこと)を、現実に(する)。
それを統合性の確立という。

 何度も書くが、「退職しました。明日からゴビの砂漠で、柳の木を植えてきます」
というわけにはいかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、長つづきしない。

 で、統合性の確立には、ひとつ大切な条件がある。
無私、無欲でなければならないということ。
功利、打算が入ったとたん、統合性の確立は、霧散する。

●無への帰着

 釈迦も「無」を説いた。
あのサルトルも、「無の概念」という言葉を、最後に使った。
私から「私」を徹底的に取り去る。
その向こうにあるのが、「無」。

 もし「死の恐怖」「死という不条理」と闘う方法があるとすれば、それは
徹底的に、私から「私」を取り除くこと。
「私」がある間は、死は恐怖であり、死はあらゆる自由をあなたから、奪う。
が、「私」がなければ、あなたはもう、何も恐れる必要はない。
失うものは、もとから、何もない。

 ……が、これはたいへんなこと。
私のような凡人は、考えただけで、気が遠くなる。
はたして、それは可能なのか。
ひとつのヒントだが、昨年亡くなった母は、私に、こんなことを教えてくれた。

 元気なときは、あれほど、お金やモノにこだわった母だが、あるとき私に
こう言った。
「お金で、命は買えん(買えない)」と。

 それまでの母はともかくも、私の家に来てからの母は、まるで別人のように、
穏やかで静かだった。
やさしく、従順だった。
その母が、そう言った。
そして死ぬときは、身のまわりにあるものと言えば、わずかばかりの洗面具と、
食器類、それに何枚かの浴衣だけだった。

 母は母なりに、「無」の世界を作りあげ、その中で静かに息を引き取った。

●希望論

 では、最後にもう一度、希望とは何か、それを考えてみる。
私は先ほど、「希望とは、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
努力によって、作り出すもの」と。

しかしここでいう希望というのは、ある意味で、世俗的な希望をいう。
「宝くじが当たるかもしれない」という希望と、それほどちがわない。
となると、真の希望とは、何かということになる。
それはあるのか。
またそれを自分のものにするのは、可能なのか。

 が、ここであきらめてはいけない。

 旧約聖書にこんな説話が残っている。
こんな話だ。

 ある日、ノアが神にこう聞く。
「神よ、どうして人間を滅ぼすのか。
滅ぼすくらいなら、最初から完ぺきな人間を創ればよかった」と。
それに答えて神は、こう言う。

「人間は努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 つまり人間は努力しだいで、神のような人間にもなれるが、そうでなければ、
そうでない、と。
それが「希望」と。

 神とは言わない。
しかし神のような人間になれた人は、自らの崇高さに、真の喜びを見出すかも
しれない。
この世のありとあらゆるものを、許し、受け入れる。
もちろんそこにあるのは、永遠の命。
死の恐怖を感ずることもない。
おおらかで満ち足りた世界。
私たちは努力によって、その神に近づくことができる。
希望といえば、それにまさる希望は、ない。

 言いかえると、どんな人にも希望はある。
希望のない人は、いない。
しかもその希望というのは、あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけて
もらうのを、静かに待っている。
そしてひとたびそれを知れば、あなたは明日からでもその希望をふところにいだきながら、
前向きに生きていくことができる。

 ……ということになる。
もちろん私はまだそんな世界を知らない。
「そこにそういう世界があるかもしれない」というところまではわかるが、そこまで。
あくまでも私の努力目標ということになる。

 ともあれ、生きるには、希望が必要。
希望さえあれば、何とか生きていかれる。
が、希望がなくなれば、いかに世俗的な欲望が満たされても、そこに待っているのは、
むなしさだけ。
それがふくらめば、絶望。
それだけは確かなようだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 希望論 希望とは 私の希望 講演 真の希望 私にとっての希
望)

(1)

2009-12-16 06:44:44 | 日記


+++++++++++++++++

●価値観の転換(ライフサイクル論)

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(したいこと)から(すべきこと)へ。
中年期から老年期の転換期における、
最大のテーマが、これ。
ユングは、満40歳前後を、『人生の
正午』と呼んだ。
この年齢を過ぎると、その人の人生は、
円熟期から、統合期へと向かう。
ユングは、『自己実現の過程』と位置
づけている。


それまでの自分を反省し、では自分は
どうあるべきかを模索する。
事実、満40歳を過ぎるころになると、
(したいこと)をしても、そこにある種の
虚しさを覚えるようになる。
「これではいけない」という思いが、より強く
心をふさぐようになる。
同時に老後への不安が増大し、死の影を
直接、肌で感ずるようになる。


青春時代に、「私とは何か」を模索するように、
中年期から老年期への過渡期においては、
「私の使命とは何か」を模索するようになる。
自分の命の位置づけといってもよい。
そして(自分のすべきこと)を発見し、
それに(自分)を一致させていく。
これを「統合性の確立」という。


この統合性の確立に失敗すると、老年期は
あわれで、みじめなものとなる。
死の待合室にいながら、そこを待合室とも
気づかず、悶々と、いつ晴れるともない
心の霧の中で、日々を過ごす。


ただ、中年期、老年期、その間の過渡期に
しても、年齢には個人差がある。
レヴィンソンは、『ライフサイクル論』の
中で、つぎのように区分している
(「ライフサイクルの心理学」講談社)。


45歳~60歳(中年期)
60歳~65歳(過渡期)
65歳~   (老年期)


日本人のばあい、「自分は老人である」と自覚
する年齢は、満75歳前後と言われている。
また満60歳という年齢は、日本では、
定年退職の年齢と重なる。
「退職」と同時に発生する喪失感には、
相当なものがある。
そうした喪失感とも闘わねばならない。


そういう点では、こうした数字には、
あまり意味はない。
あくまでも(あなた)という個人に
あてはめて、ライフサイクルを考える。
が、あえて自分を老人と自覚する必要はないに
しても、統合性への準備は、できるだけ
早い方がよい。
満40歳(人生の正午)から始めるのが
よいとはいうものの、何も40歳にかぎる
ことはない。


恩師のTK先生は、私がやっと30歳を過ぎた
ころ、こう言った。
「林君、もうそろそろライフワークを
始めなさい」と。


「ライフワーク」というのは、自分の死後、
これが(私)と言えるような業績をいう。
「一生の仕事」という意味ではない。


で、私が「先生、まだぼくは30歳になった
ばかりですよ」と反論すると、TK先生は、
「それでも遅いくらいです」と。


で、私はもうすぐ満62歳になる。
「60歳からの人生は、もうけもの」と
考えていたので、2年、もうけたことになる。
が、この2年間にしても、(何かをやりとげた)
という実感が、ほとんど、ない。
知恵や知識にしても、ザルで水をすくうように、
脳みその中から、外へこぼれ落ちていく。
無数の本を読んだはずなのに、それが脳の
中に残っていない。
残っていないばかりか、少し油断すると、
くだらない痴話話に巻き込まれて、
心を無意味に煩(わずら)わす。
統合性の確立など、いまだにその片鱗にさえ
たどりつけない。


今にして、統合性の確立が、いかにむずかしい
ものかを、思い知らされている。


そこで改めて、自分に問う。
「私がすべきことは、何なのか」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ユング 人生の正午 ライフサイクル論 統合性の確立 はやし浩司
老年期の心理)

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もう1作、掲載します。

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●退職後の「?」(When we retire the jobs)


+++++++++++++++++


今朝、古いラジオを戸棚から、取りだした。
久しぶりにラジオを聴いた。
俳句についての講座の番組だった。
その中の特選作……。


ひとつは、「給料運搬人……」なんとかというもの。
もうひとつは、「光陰矢の如し……」なんとかというもの。
ほかにもいろいろあった。


共通していたのは、どれも長い間のサラリーマン勤めを終えた
男たちや、それを迎える妻たちの、どこか悲哀感の漂う
俳句だったということ。


ぼんやりと聴きながら、「そういうものかなあ?」
「そういうものでもないような気がする」と、
頭の中で、いろいろな思いが交錯するのを感じた。


+++++++++++++++++


私は俳句については、まったくの素人。
自分で作ったことは、あまりない。
が、どれもすばらしい俳句だった。
それはよくわかった。


で、私が気になったのは、俳句のほうではない。
その批評のほう。
何と呼んだらよいのか。
「俳句の先生」、それとも「指導者」?
「コメンテイター」?
要するに、視聴者からの俳句を選定し、批評を
加える人(女性)。
その人(女性)が、そのつど、こう言っていた。


「これからは、ゆっくりとお休みください」
「長い間、お勤め、ごくろうさまでした」
「退職後は、思う存分、お遊びください」などなど。


その人(女性)は、「私もこの年齢になり、(退職する人たちの気持ちが)、
理解できるようになりました」というようなことも
言っていた(以上、記憶によるものなので、内容は、不正確)。


しかし退職者というと、若い人たちは、どうしてそんなふうに、
とらえるのか。
「退職者は、こう思っているはず」という『ハズ論』だけが
先行している?
私はそう感じた。

(2)

2009-12-16 06:44:23 | 日記


とくに気になったのは、「退職後は、思う存分、お遊びください」という言葉。
私はその言葉を聞いたとき、若い人たちが、私たちの
世代を、そのように見ているのかと、がっかりした。


言うまでもなく、私もその世代の人間の1人。
しかし「遊びたい」という気持ちなど、みじんもない。
「遊べ」と言われても、遊ぶ気持ちにはなれない。
……だからといって、その人(女性)を責めているのではない。
それが世間一般の常識的な意見ということは、私にもわかっている。
それに若いときには、私もそう考えていた。
「退職したら、あとは悠々自適の隠居生活」と。


が、今はちがう。
「遊ぶ」ということに、強いむなしさを覚える。
またそんなことで、残り少ない自分の人生を、無駄にしたくない。


もちろん人、それぞれ。
退職の仕方も、人、それぞれ。
退職後の考え方も、人、それぞれ。
もちろん過ごし方も、人、それぞれ。
100人いれば、100通りの考え方がある。
退職の仕方がある。
私の考え方が正しいというわけではない。
中には、「遊びたい」と考えている人がいるかもしれない。
いても、おかしくない。


それはわかる。
しかし……。
私たちが求めるのは、そしてほしいのは、(怠惰な時間)ではない。
遊ぶための時間ではない。
(退職後の生きがい)、それがほしい。
(仕事)でもよい。
が、遊ぶための時間ではない。
だいたい遊ぶといっても、お金がかかる。
それに(遊ぶ)ということには、答がない。
「だからどうなの?」という疑問に対する、答がない。


繰り返す。
「遊んだからといって、それがどうなの?」と。
遊べば遊ぶほど、空しさがつのるだけ。
休むといっても、病院のベッドの上で休むのは、ごめん。
さらに言えば、休んだあと、どうすればよいのか。


退職者の最大の問題。
それは何度も書いてきたように、「自我の統合性」。
その統合性を、いかに確立するか、だ。


(自分がすべきこと)を発見し、そのすべきことに、
(現実の自分)を一致させていく。
(自分がすべきこと)を、「自己概念」という。
(現実の自分)を、「現実自己」という。
この両者を一致させることを、「自我の統合性」、
もしくは「自己の統合性」という。


自我の統合性の確立した老人は、すばらしい。
晩年を生き生きと、前向きに過ごすことができる。
そうでなければ、そうでない。
仏壇の仏具を磨いたり、墓参りだけをして、日々を過ごすようになる。
私の知人の中には、満55歳で役所を定年退職したあと、
ほぼ30年近く、庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
年金は、月額にして、27~8万円もあるという。
しかしそんな老後が、はたして理想的な老後と言えるのだろうか。


その知人は、1年を1日にして、生きているだけ(失礼!)。
10年を、1年にして、生きているだけ(失礼!)。


だから私はその人(女性)にこう反論したい。


「これからは、ゆっくりとお休みください」だと!
バカも休み休み、言え、バカヤロー!、と。
私たちの年齢をバカにするな!
(少し過激かな?)


そのあと、ワイフとこんな会話をした。


私「給料運搬人というのも、かわいそうだね。自分の仕事をそんなふうに
考えていたのだろうか」
ワ「そうよね。さみしいわね。仕事を通して生きがいというのは、なかったの
かしら」
私「ぼくも仕事をしてきたけど、自分が給料運搬人などというふうには、
考えたことはないよ」
ワ「そうねエ……」と。


給料運搬人とその人が、そう感ずるならなおさら、退職後は、そうでない仕事を
したらよい。
生きがいを求めたらよい。
「世のため、人のため」とまではいかないにしても、何かできるはず。
もしここで、その人(女性)が言うように、ゆっくりと休んでしまったら、それこそ
自分の人生は何だったのかということになってしまう。


残り少ない人生であるならなおさら、最後のところで、自分を燃焼させる。
できれば思い残すことがないよう、完全燃焼させる。
それが今まで、無事生きてきた私たちの務めではないのか。
若い人たちに、自分たちがしてきた経験や知恵を伝えていく。
若い人たちが、よりよい人生を歩むことができるよう、その手助けをしてやる。


まだ人生は終わったわけではない。
平均寿命を逆算しても、まだ25年もある。
「遊べ」だの、「休め」と言われても、私は断る。
私には、できない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a
miserable age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリク
ソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないか

り、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性
 統
合性の確立)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40

前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自

してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってく

ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

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退職後の人生について書いたのが、
つぎの原稿です。
ちょうど1年前に書いたものです。

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(3)

2009-12-16 06:44:00 | 日記


●退職後の人たち

退職後の人たちの情報が、つぎつぎと入ってくる。
そういう人たちを、おおまかに分けると、おおむね、つぎのようになる。

(1) 道楽型(旅行三昧、趣味三昧の生活をする)
(2) ゴロゴロ型(何もしないで、家でゴロゴロする)
(3) 挑戦型(若いころできなかったことに、再挑戦する)
(4) 隠居型(息子夫婦などと同居。孫の世話などをする。)
(5) 奉仕型(何かのボランティア活動に精を出す。)
(6) 仕事型(そのまま関連の仕事をつづける。)
(7) 運動型(健康のためと称して、あらゆるスポーツをする。)

もちろんこれらの混合型というのも、ある。
しかし主にどれか、ということになると、たいてい1つに絞られる。
またどれがよいとか、悪いとかいうことではない。
人、それぞれ。
それぞれの人が、それでハッピーなら、それでよい。

ただ言えることは、どこかで「統合性の確立」をめざさないと、
老後もつまらないものになるということ。
統合性の確立というのは、(すべきこと)を見つけ、それに自分を
一致させていくことをいう。
(したこと)ではない。
(すべきこと)である。

私たちはみな、何かの義務をもって、この世に生まれている。
義務の内容は、人によって、みなちがう。
退職後は、その義務を果たす。
単純に考えれば、ボランティア活動ということになる。
が、これは一朝一夕には、できない。
「退職しました。明日からゴビ砂漠へ行って、柳の木の苗を
植えてきます」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、長つづきしない。
使命感も生まれない。

で、老後というのは、みな、平等にやってくる。
例外はない。
その老後の準備をするのは、50代では遅すぎる。
エリクソンは、「40歳から……」と説く。
「40歳は人生の正午」と。
しかし実際には、40歳でも、遅すぎるのでは?

若いころからの積み重ねがあってはじめて、老後に統合性の確立が
できる。
しかも統合性の確立は、無視、無欲でなければならない。
何らかの利益につなげようと思ったとたん、統合性は霧散する。

で、私自身は、どうなのか?
私はだいじょうぶなのか?
またどの「型」に当てはまるのか?

が、私はまだ退職状態ではない。
あと9年は、現役でがんばる。
そのときまだ頭と体がだいじょうぶなら、さらにもう少し、がんばる。
統合性の確立がうまくできるかどうかについては、本当のところ、自信はない。
ないが、あえて言うなら、今、こうして文章を書くようなことが、
老後の生きがいになりそう。
少しでも多く、ものを書いて、若い人たちの役に立ちたい。 

++++++++++++++++++

さらに2年前に書いた原稿を
添付します。
内容が重複しますが、お許しください。

++++++++++++++++++

●自己の統合性

++++++++++++++

私は何をすべきか。
まず、それを考える。

つぎにその考えに応じて、
では、何をすべきか、
それを考える。

考えるだけでは足りない。
現実の自分を、それに
合わせて、つくりあげていく。

これを「統合性」という。

つまり(自分がすべきこと)と、
(現実に自分がしていること)を、
一致させる。

老後を心豊かに生きるための、
これが、必須条件ということに
なる。

+++++++++++++

●自分は何をすべきか

 定年退職をしたとたん、ほとんどの人は、それまでの(自分)を、幹ごと、ボキッ折ら
れてしまう。

 ある日突然、ボキッ、とだ。

 とたん、それまでの自分は何だったのか、と思い知らされる。金儲けだけを懸命にして
きた人も、そうだ。年をとれば、体力が衰える。気力も衰える。思うように金儲けができ
なくなったとたん、心は、宙ぶらりんの状態になってしまう。

 そこで「自己の統合性」ということになる。

 (自分がすべきこと)を、(現実にしている人)は、自己の統合性があるということに
なる。そうでない人は、そうでない。

 似たような言葉に、「自己の同一性」というのがある。こちらのほうは、(自分のした
いこと)と、(現実にしていること)が一致した状態をいう。青年期には、ほとんどの人
が、この同一性の問題で悩む。苦しむ。

 「自分さがし」とか、「私さがし」とかいう言葉を使う人も多い。自分のしたいことは、
そこにあるのに、どうしても手が届かない。そういう状態になると、心はバラバラになっ
てしまう。何をしても、むなしい。自分が自分でないように感ずる。

 しかし統合性の問題は、同一性よりも、もっと深刻。いくら悩んだとしても、青年期に
は、(未来)がある。しかし老年期に入ると、それがない。たとえて言うなら、断崖絶壁
に立たされたような状態になる。先がない。

 そこで多くの人は、その段階で、「自分は何をすべきか」を考える。「何をしたいか」
ではない。この年齢になると、(したいことをする)ということのもつ無意味さが、よく
わかるようになる。

 高級車を買った……だから、それがどうなの?
 家を新築した……だから、それがどうなの?
 株で、お金を儲けた……だから、それがどうなの、と。

 モノやお金、名誉や地位では、心のすき間を埋めることはできない。成功(?)に酔い
しれて、自分を忘れることはできる。が、そこには限界がある。(酔い)は、(酔い)。
一時的に自分をごまかすことはできても、そこまで。その限界を感じたとき、人は、こう
考える。

 「これからの余生を、どう生きるべきか」と。その(どう生きるべきか)という部分か
ら、「自分はどうあるべきか」という命題が生まれる。

 しかし大半の人は、そんなことを考えることもなく、老後を迎える。ある日、気がつい
てみたら、退職、と。冒頭に書いたように、ある日突然、ボキッと、幹ごと折られたよう
な状態になる。

 では、どうするか?

 多くの心理学者は、こうした作業は、40歳前後から始めなくてはいけないと説く。4
0歳という年齢を、「人生の正午」という言葉を使って説明する学者もいる。

50代に入ってからでは遅い。いわんや、定年退職をしたときには、遅い。働き盛りとい
われる40歳前後である。

 つまりそのころから、老後に向けて、自分の心を整えておく。準備をしておく。具体的
には、(自分を何をすべきか)という問題について、ある程度の道筋をつけておく。つま
りそれをしないまま、いきなり老後を迎えると、ここでいうような、(ボキッと折られた
状態)になってしまう。

 繰りかえすが、(したいこと)を考えるのではない。(自分がすべきこと)を考える。
この両者の間には、大きな隔(へだ)たりがある。というのも、(自分がすべきこと)の
多くは、(したいこと)でないことが多い。(すべきこと)には、いつも苦労がともなう。

 たとえば以前、80歳をすぎて、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいた女性がい
た。議会活動もしていた。賛同者を得るために、いくつかのボランティア活動もこなして
いた。その女性にしてみれば、乳幼児の医療費が無料になったところで、得になることは
何もない。が、その女性は、無料化運動に懸命に取り組んでいた。そこで私は、その女性
に、こう聞いた。

 「何が、あなたを、そうまで動かすのですか?」と。

 するとその女性は、こう言った。「私は生涯、保育士をしてきました。どうしてもこの
問題だけは、解決しておきたいのです」と。

 つまりその女性は、(自分がすべきこと)と、(現実に自分がしていること)を、一致
させていた。それがここでいう「自己の統合性」ということになる。

●退職後の混乱 

 しかし現実には、定年退職してはじめて、自分さがしを始める人のほうが、多い。大半
の人がそうではないのか。

 中には、退職前の名誉や地位にぶらさがって生きていく人もいる。あるいは「死ぬまで
金儲け」と、割り切って生きていく人もいる。さらに、孫の世話と庭いじりに生きがいを
見出す人も多い。存分な退職金を手にして、旅行三昧(ざんまい)の日々を送る人もいる。

 しかしこのタイプの人は、あえて(統合性の問題)から、目をそらしているだけ。先ほ
ど、(酔い)という言葉を使ったが、そうした自分に酔いしれているだけ。

 ……と書くと、「生意気なことを書くな」と激怒する人もいるかもしれない。事実、そ
のとおりで、私のような第三者が、他人の人生について、とやかく言うのは許されない。
その人がその人なりにハッピーであれば、それでよい。

 が、深刻なケースとなると、定年退職をしたとたん、精神状態そのものが宙ぶらりんに
なってしまうという人もいる。そのまま精神を病む人も少なくない。会社員であるにせよ、
公務員であるにせよ、仕事一筋に生きてきた人ほど、そうなりやすい。

 私の知人の中には、定年退職をしたとたん、うつ病になってしまった人がいる。私は個
人的には知らないが、ときどきそのまま自殺してしまう人もいるという。つまりこの問題
は、それほどまでに深刻な問題と考えてよい。

●では、どうするか?

 満40歳になったら、ここでいう自己の統合性を、人生のテーマとして考える。何度も
繰りかえすが、「私は何をしたいか」ではなく、「私は何をすべきか」という観点で考え
る。

 そのとき重要なことは、損得の計算を、勘定に入れないこと。無私、無欲でできること
を考える。仮にそれが何らかの利益につながるとしても、それはあくまでも、(結果)。
名誉や地位にしてもそうだ。

 ほとんどのばあい、(すべきこと)には、利益はない。あくまでも(心の問題)。とい
うのも、(すべきこと)を追求していくと、そこには絶えず、(自分との闘い)が、ある。
その(闘い)なくして、(すべきこと)の追求はできない。もっとわかりやすく言えば、この問題は、(自分の命)の問題とからんでくる。追求すればするほど、さらに先に、目
標が遠のいてしまう。時に、そのため絶望感すら覚えることもある。

 損得を考えていたら、(自分との闘い)など、とうていできない。

たとえば恩師の田丸先生は、先日会ったとき、こう言っていた。「私がすべきことは、人
を残すことです」と。

 そこで私が、「先生は、名誉も、地位も、そして権力も、すべて手にいれた方です。そ
ういう方でも、そう思うのですか」と聞くと、「そうです」と。高邁(こうまい)な人物
というのは、田丸先生のような人をいう。

 そこで……というより、「では私はどうなのか」という問題になる。私は、自分の老後
はどうあるべきと考えているのか。さらには、私は、何をなすべきなのか。

 実のところ、私自身、自分でも何をすべきなのか、よくわかっていない。あえて言うな
ら、真理の探究ということになる。私は、とにかく、この先に何があるか知りたい。が、
この世界は、本当に不思議な世界で、知れば知るほど、そのまた先に、別の世界が現れて
くる。ときどき、自分が無限の宇宙を前にしているかのように錯覚するときもある。

 すべきことはわかっているはずなのに、それがつかめない。つかみどころがない。だか
らよく迷う。「こんなことをしていて、何になるのだろう」「時間を無駄にしているだけ
ではないのか」と。

 つまり、自己の統合性が、自分でもわかっていない。できていない。つまり私の理論に
よれば、私は、この先、みじめで暗い老後を送ることになる。

 だから……というわけでもないが、繰りかえす。

 40歳になったら、ここでいう「統合性」の問題を、真剣に考え始めたらよい。「まだ
先」とか、「まだ早い」と、もしあなたが考えているとしたら、それはとんでもないまち
がいである。子育てが終わったと思ったとたん、そこで待っているのは、老後。50代は、
早足でやってくる。60代は、さらに早足でやってくる。

 さあ、あなたは、自分の人生で、何をなすべきか? それを一度、ここで考えてみてほ
しい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
統合性 統合性の一致 統合性一致 自己統合性 自己の統合性 すべきこと 人生の目
標)

【付記】

 もうひとつの生き方は、何も考えないで生きるという方法。あるいはどこかのカルト教
団に身を寄せて、そこで生きがいを見出すという方法もある。

 しかし人間は、考えるから、人間なのである。もし、何も考えない人がいたとしたら、
その人は、そこらに住む動物と同じ。明日も今日と同じという日々を送りながら、やがて
そのまま静かに自分の人生を終える。

 そのことは、頭のボケた母を見ていると、わかる。母は、今、自分がどこに住んでいる
かさえ、ときどきわからなくなる。ワイフの顔を見て、別の人の名前で呼んだりする。し
かし食欲だけは、人一倍旺盛。食事の時間になると、血相を変えて、その場所にやってく
る。

 そういう私の母には、もう目標はない。何のために生きているのかという目的すら、な
い。何かにつけて、自己中心的で、もちろん、自分がすべきことなど、何も考えていない。
毎日、ものを食べるために生きているだけ。しかしそんな人生に、どれほどの意味がある
というのか。価値があるというのか。

 もちろん母は母で懸命には生きている。それはわかる。が、それでも、ただ、生きてい
るだけ。つまり考えないで生きるということは、今の母のような状態になることを意味す
る。母は、高齢だからしかたないとしても、私やあなたが、そうであってよいはずはない。

 私たちはこの世に生まれた以上、何かをなすべきである。その(なすべきこと)は、人、
それぞれ。みな、ちがう。しかしそれでも、何かをなすべきである。またそういう使命を
みな、負っている。

 要するに、ここで私が言いたいことは、老後になってから、その(なすべきこと)をさ
がそうとしても、遅いということ。老後といっても、長い。人によっては、30年近くも
ある。20歳から50歳までの年数に等しい。

統合性の問題は、いかにその期間を、有意義に過ごすかという問題ということになる。決
して、安易に老後を迎えてはいけない。それだけは、確かである。