最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●カールじいさんの空飛ぶ家

2009-12-06 18:46:53 | 日記
●12-6

●前向きに生きる

 数日前も、義兄と語り明かす。
話が尽きない。
生き様が前向きなのが、よい。
話を聞いていても、あきない。
楽しい。

 義兄がほかの老人たちと異なる点は、過去の話、つまり回顧的な話をしないこと。
「昔はよかった」式の話は、しない。
そのかわり、「先週は長野までドライブした」とか、「バイクで、磐田市まで行ってきた」
とか、そういう話をする。
言い忘れたが、義兄は、今年、75歳。
後期高齢者ということになる。
また75歳くらいから、人は、自分が老人であることを自覚するようになるという。

 が、義姉のほうは、義兄の心配ばかり。
義兄は、脳梗塞の経験もある。
自分では、「前科者」と言っている。
その長野へドライブへ行った際にも、突然、左目が見えなくなってしまったという。
で、その日は予約していた旅館には泊まらず、そのまま浜松まで帰ってきてしまった。
時間にすれば、3~4時間の距離である。
「虚血性の何とかだったよ」と、義兄はその話をしながら、カラカラと笑った。
義姉は、「無茶ばかりする……」と。

●後ろ向きな女性

 一方、歳は同じくらいなのだが、こんな女性もいる。
部屋中にお札様を張り、サイフの中には、ヘビの皮を入れているという。
そうすれば、お金が入ってくるという。

 話すことと言えば、先祖の自慢話か、あの世の話。
「私も、もうすぐお迎えが来ますから……」と。
今にも死にそうな、か細い声で、そう言う。
そう言いながら、他人の同情を買う。
が、私は同じ言葉を、もう20年前から聞いている。

 そういう老人の話は、おもしろくない。
聞いていても、つまらない。
要するに、その女性の言っているのは、グチ(愚痴)。
グチは、その人を小さく、見苦しくする。

●良循環vs悪循環

 2人の老人を頭に浮かべながら、どこがどう違うかを、考える。
簡単に言えば、「前向き」と「後ろ向き」。
子どもでも、新しいことに、つぎつぎと挑戦する子どもがいる一方で、何かにつけ、
逃げ腰の子どももいる。
どちらの子どもが伸びるかということになれば、今さら言うまでもない。

 同じように、老人でも、外向きな人もいれば、内向きな人もいる。
義兄は、その外向きな人ということになる。
例にあげた女性は、内向きな人ということになる。

 どちらであるにせよ、他人の目など気にすることはない。
しかし前向きに生きている人のところには、みなが集まっていく。
後ろ向きに生きている人からは、みなが遠ざかっていく。
それがともに、良循環、悪循環となって、その人の周りの世界を作っていく。
どちらが好ましいかということになれば、これも、今さら言うまでもない。

●回顧性

 「今を生きる」という言葉には、いろいろな意味が含まれる。
「今を懸命に生きる」という意味のほか、「今を大切にする」「今がすべて」などなど。
もうひとつ、「過去に縛られない」という意味も含まれる。

 心理学でいう「回顧性」というのは、「過去にしばられること」をいう。
が、誤解しないでほしい。
過去を懐かしんだり、思い出したりするのは、何も悪いことではない。
それはそれ。
しかしその過去にしばられてはいけない。
が、それには2つの意味がある。

 ひとつは、過去のいやな思い出を引きずること。
もうひとつは、過去の栄華や名誉を引きずること。
先日も、こう言った女性がいた。

 「私の父は、(父の)実家を出るとき、実家から財産分けをしてもらっていない」と。
70歳近い女性が、いまだにそういう話をする。
しかも70年とか、80年も前の話である。

あるいはこのタイプの人は男性に多いが、退職前の肩書きを引きずっている人もいる。
先日も、小さなレストランで、若い店員に向かって、怒鳴り散らしていた男性がいた。
「ライスは、大盛りと言っただろがア!」と。

 その威張り方が、時代劇に出てくる侍のようで、あきれるというよりは、おもしろ
かった。
ワイフはその男性を見ながら、こう言った。
「きっとあの人は、退職前は、役人か何かで、威張っていたのよ」と。 

 どうであるにせよ、過去にしばられるのは、よくない。

●映画『カールじいさん、空を飛ぶ』

 ……ということで、昨夜は、映画『カールじいさん、空を飛ぶ』という映画を
見てきた。
カールじいさん、イコール、前向きな老人(?)。
星は5つの、★★★★★。
つまり前向きに生きるエネルギーを分けてもらうために、その映画を見てきた。
昨夜(12月5日)封切りの、ピカピカの新品映画。

 おまけに1か月有効のフリーパスが手に入ったから、映画は見放題。
ハハハ。
映画を見ながら、「人生、こうでなくちゃア」と、カールじいさんに、乾杯!
時間さえ許せば、毎日でも劇場に足を運んでやる!
カールじいさんに負けないぞ!

 とういうことで、迷っていたが、それに今夜、いよいよ最先端の「i7/64ビット」
パソコンを注文をする。
納期は、2週間先の、12月22日とか。

●パソコン

 で、そのパソコンの話。

 釣り師が、よい釣り竿を求めるように、
ゴルファーが、よいクラブを求めるように、
私は、よいパソコンを求める。

 が、ひとつ、ほかの趣味とは大きく異なる点が、ある。
釣り竿は、魚を釣るため。
クラブは、飛距離を伸ばすため。
正確さも、重要なポイントとなる。

 が、パソコンには、そういった目的がない。
たとえば私は、パソコンを、もっぱら文章を書くために使う。
しかしパソコンがあるから、文章が書けるわけではない。
いくらよいパソコンがあっても、よい文章が書けるとはかぎらない。
パソコンを打つ練習をしたからといって、よい文章が書けるようになるわけではない。

おかしなもので、パソコンに向かった瞬間というのは、頭の中は真っ白。
パソコンに向かったからといって、書きたいことが浮かんでくるわけではない。

 そういう意味では、パソコンは、昔の作家たちが使ったペン、もしくは
筆のようなもの(?)。
わかりやすく言えば、「道具」。
が、それでも、私はよいパソコンを求める。
いくつか、ポイントがある。

(1) 性能がよいこと
(2) キーの感触がよいこと、などなど。

 何よりも大切なのは、相性。
「これはいい」と思ったパソコンが、よい。
その相性が合わなければ、それまで。
手で触れるのも、おっくう。
文章そのものが、頭の中に浮かんでこない。

 が、ここでいつも問題が起こる。
以下は、ノートパソコンの話。

「いいパソコン」と思って使い始めても、使いにくくて、あきてしまうことがある。
たとえば私のばあい、ENTER・キーが小さいと打ちづらい。
ENTER・キーの右横にキーがあると、使いづらい。
最近では、タッチパッドの感度がよすぎて、指を近づけただけで、勝手に
反応してしまうものがあった(M社のミニノート)。
ほかのは、感度を調整したりできるのだが、それはできなかった。
だからそのまま、生徒の1人にあげた。

 最近では、キーの感触のみならず、表面加工の仕様にも気を使っている。
ツルツル・テカテカしているのは、指先がすべり、何かにつけて使いにくい。
これには、人それぞれに好みがあるようだが……。

 ……とまあ、こんなふうにして文章を叩いていると、やがて頭の中の、作文モードに、
スイッチが入る。
とたん、書きたいことが、ドドーッと出てくる。
あとは、それを文章に仕上げていく。

 私にとって、パソコンというのは、そういう道具をいう。

●親が原因

 話がぐんと、生臭くなるが、子育ての話。

 親自身が、子どもの成長を台無しにするという例は、多い。
その子どもには、能力もある。
力もある。
せっかくそういう能力に恵まれながら、親自身が、子どもの方向性をつぶしてしまう。
そういう例は、多い。

 印象に残っている子どもに、R君(小学生)という子どもがいた。

 頭もよかった。
性格もよかった。
好奇心も旺盛で、放っておいても、学校でもトップクラスを走るような子どもだった。
しかし母親が悪かった。
完ぺき主義で、神経質だった。
学校でするテストにしても、満点(すべて正解)でないと、許さなかった。
毎日子どもにノルマを課し、そのノルマを果たしていないと、夜中でも、子どもを
ベッドから引きずり出して、それをさせていた。

 小学3、4年生ごろまでは、それでも何とか(いい子?)で過ごした。
が、そのころを過ぎると、母親を避け始めた。
会話も途絶えがちになった。
しかし母親は、それを許さなかった。
学校へ行き、担任の前で、さめざめと泣いて見せた。
「息子が、学校であったことを話してくれなくなったア」と。

 こうしてR君は、混乱し始めた。
もし母親に、「自我の同一性」についての片鱗でも、知識の中にあったら、子どもの
接し方も大きく違っただろう。
が、母親は無知、それに無学だった。

 小学6年生のときには、地域のサッカークラブに属していたが、母親の命令で、
それをやめさせられてしまった。
毎週日曜日は、叔父と海釣りに行っていたが、それもやめさせられてしまった。
「受験勉強に専念するため」と。

 が、異変はすぐ起きた。
R君は、母親の前では、相変わらず従順な息子を装っていた。
しかし勉強といっても、フリ勉。
時間がかかるだけで、勉強は、ほとんどはかどらなかった。
それでも持ち前の知的能力とまじめさで、そこそこの成績をあげていた。
が、このあたりでもいちばんという、進学校には力が足りなかった。
そのため母親は、R君を毎日のように、叱りつづけた。

R君のケースは、しかし、けっして特異な例ではない。
親が、子どもの伸びる芽を自ら摘んでしまうというケースは、多い。
その上、タチの悪いことに、親にその自覚がない。
ないから、反省するということもない。
無理に無理を重ねながら、悪循環を繰り返す。

 やっと頭が動き始めた。
今日も、こうして始まった。
2009年12月6日、日曜日。
今日の予定はとくにない。

●「子どもをもつ必要はない」?

2009-12-06 07:47:35 | 日記
●「子どもをもつ必要はない」!?

+++++++++++++++++

「子どもをもつ必要はない」と考えて
いる人が、半数以上もいる。

このほど内閣府が発表した調査結果に
よれば、20代、30代の若い人を
中心に、「子どもをもつ必要はない」と
考えている人が、それぞれ63%(20代)、
59%(30代)もいることがわかった。

ならばそう考えている人に聞く。
あなたがたの老後のめんどうは、
いったい、だれがみるのか?
次世代のこの日本は、だれが担(にな)うのか?

……というヤボな質問はさておき、
子育ては、人間が本来的にもつ、権利である。
種族保存ということを考えるなら、
私たち1人ひとりが真剣に考えなければ
ならない、義務である。

が、それだけではない。
子育てをすることによって、人は、生きる目的、
意義、さらには喜びを、知る。

世の中には、子どもがほしくても、それが
できなくて、悲しい思いをしている人も多い。
そういう人たちの心も、少しは考えるなら、
安易に、「子どもをもつ必要はない」などとは、
考えないでほしい。

仮にそう考えたとしても、そういう(考え)とは、
自分の中で戦ってほしい。
いろいろと事情のある人もいるだろう。
それぞれの人には、それぞれの思いもあるだろう。
が、それはそれ。
まず、それと戦う。
戦った上で、「子どもはもつ必要はない」と
答えてほしい。

内閣府は、「生き方の多様化が進んでいる」と
コメントを寄せている。
とんでもない!
これは「多様化」の問題ではない。
「子どもをもたない」ことは、生き方の選択肢の
ひとつではない。
また選択肢のひとつと考えてはいけない。

そんなことはないと思うが、もし、あなたが、
「子育てをするのは、わずらわしい」とか、
「子育てをすれば、自分たちが楽しめる時間が減る」とか、
そんなふうに考えているとしたら、それは、まちがっている!

子育ては、たいへん!
つらい!
それはその通り!
しかしそれを乗り越えるところから、生きる喜びが
生まれる。
人生の深みも、そこから生まれる。

私たちは何のために生きているか。
何のために、ここにいるのか。
ものごとは、そこから考え直してみてほしい。

++++++++++++++++++

 2009年12月5日の時事通信は、つぎのような記事を配信している。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++++

内閣府は5日、男女共同参画に関する世論調査の結果を発表した。それによると、結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はないと考える人は、2年前の前回調査に比べ6.0ポイント増の42.8%となり、1992年の調査開始以来最高となった。持つ必要があるとする人は同6.5ポイント減の52.9%だった。少子化の背景に、国民の家庭に対する意識変化があることを示した結果と言え、内閣府の担当者は「生き方の多様化が進んでいる」としている。

 調査は、10月1日から18日にかけて、全国の成人男女5000人を対象に個別面接方式で実施。有効回収率は64.8%だった。

 子どもを持つ必要はないとした人は、男性が38.7%、女性が46.4%だった。年齢別では、20歳代が63.0%、30歳代が59.0%と高く、若い世代ほど、子どもを持つことにこだわらない傾向が浮き彫りになった

++++++++++以上、時事通信より++++++++++++

●子どもに育てられる

 親が子どもを育てるのではない。
子どもが親を育てる。

 ……というような話は、講演会の場で、私が毎回話していることである。

私の本からの一作を、転載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもへの愛を深める法(子どもは下から見ろ!)

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。

親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確かに若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水泳選手だったという。

私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んでいるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。

私は舟にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなかった。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したときも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいると、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。

英語では「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思う。が、ある日。その意味がわかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。許して忘れてしまえ」と。つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。

そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛の深さが決まる。もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子どもの言いなりになるということでもない。

許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題を自分のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」という原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほしい。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作、中日新聞の載せてもらった
原稿を掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育てには四つの方向性

 その(1)。子どもに子ども(あなたからみれば孫)の育て方を教えるのが、子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに子どもを育てるのですよ」「こういうふうに子どもを叱(しか)るのですよ」と。

もっと言えば、子育ての見本を見せるのが子育て。「親子というのはこういうものですよ」「幸せな家庭というのはこういうものですよ」と。あなたの子どもは親になったとき、あなたがした子育てを繰り返す。それを想像しながら、子育てをする。

 その(2)。あなたは今、自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。そこであなたの過去をさぐってみる。あなたは心豊かで、愛情深い家庭環境で育っただろうか。もしそうならそれでよし。が、そうでなければ、あなたの子育ては、どこかがゆがんでいるとみる。その「ゆがみ」に気づくこと。あなたはひょっとしたら、そのゆがみに気づかないまま、今の子育てをしているかもしれない。そしてさらに、そのゆがみを、あなたから、今度はあなたの子どもへ伝えているかもしれない。…と、言ってもむずかしいことではない。この問題だけは、気づくだけでよい。それでなおる。

 その(3)。子育ては「上」から見る。自分の子育てを、他人のと比較する。兄弟や友人、さらには近所の人たちのと比較する。もしできれば、世界の子育てと比較してみるのもよい。子育てでこわいのは、独善と独断。「子どものことは私が一番よく知っている」「私が正しい」と豪語する親ほど、子育てで失敗しやすい。要は風通しをよくするということ。そのために視野を高くもつ。

 最後に(4)。子育てはただの子育てではない。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てることだ」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育ては、そんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越え、いやおうなしに育てられる。

はじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、たしかに若くてきれいだが、底が浅い。しかしそんな親でも、子育てで苦労するうちに、やがて姿勢が低くなり、人間的な深みができてくる。親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。子どもが親に、人間がどういうものかを教える。

 以上、子育てに、未来、過去、外、内の四つの方向性があることを、私は「子育て四次元論」と呼んでいる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 この2作だけではわかってもらえないかもしれないが、子育てには、(子どもを育てること)以上に、大きな意味がある。
その意味を知るか知らないかは、あなたの自由かもしれない。
しかしその意味を教えてくれる子育てを、自ら放棄してしまうというのは、どうか?
はたして正しい選択と言えるのか?
選択の問題と、片づけてよいのか?

 今、あなたはそこにいる。
そこに存在する。
それはたいへん重い意味をもっている。
が、その存在と同じくらい重い意味が、子育ての中にある。
(生きる)ということは、(あなた)が生きることを意味する。
あなたが生きる。
が、あなただけが生きるのではない。
あなたの中のあなたが生きる。
子育てというのは、その一部。

 それがわからなければ、一度、自分の手をしっかりと見つめてみることだ。
そこに見える、手や指、爪は、あなたのものであって、けっしてあなたのものではない。
数十万年という長い年月を経て、進化の過程で、そういう手や指、爪になった。
そこに尊さや気高さを少しでも感じたら、あなたがつぎに考えることは、それをつぎの世代に伝えること。

子育てをしないというのであれば、あなたは(生きる)ことそのものを、放棄したと考えてよい。
でないというのなら、あなたはいったい、何のために、生きているのか。
あなたの中に生きているあなたを、あなただけのものとして、終わらせてよいのか。
が、そんな権利は、あなたにも、ないはず。

仮に百歩譲って、もしそうであるとするなら、「何のために必要でないのか」、その質問には、きちんと答えてほしい。
子育てをすること以上に、ほかに崇高な目的があるなら、それもよいだろう。
しかし残念ながら、子育てをすること以上に、崇高な目的など、存在しない。
そんなことは、ほかの生物を見れば、すぐわかること。
ありとあらゆる生物は、自分の命を、つぎの世代に伝えるために、生きている!

 また先にも書いたように、何らかの事情があって、子育てをしたくても、できない人もいる。
たいへんつらい思いをしている人もいる。
そういう人たちの気持ちが、千分の1でもわかるなら、「子どもをもつ必要はない」とは、安易に考えてほしくない。

 「政府など必要ない」と考えたら、それは、無政府主義。
同じように、「子どもをもつ必要はない」と考えたら、それは、間主義。
非生物主義でもよい。

 もちろんそう考えるようになるには、それなりの理由があることと思う。
子育てには、金がかかる。
子育てには、時間も取られる。
この日本では、子どもをもつことにより、幸福感を味わうよりも、そうでないときのほうが多いかもしれない。

 この日本では、子どもというより、子育てを、あまりにもないがしろにし過ぎた。
「子供というのは、放っておいても生まれるもの」という政策が基本になっている。
国の予算にしても、国家税収の78%が土木建設費にかけられる一方、教育費は、対GDP費でみても、たったの4~5%(注:国家税収を40兆円、03年度の土木建設費を、31兆円で計算)。
こんなバカげた国は、そうはない。

しかしだからといって、短絡的に、そのことを結論と結びつけてはいけない。
世の中には、私のように微力ながら、そうした社会と戦っている人間もいる。
大切なことは、「だからダメだ」式に逃げるのではなく、「みんなでよくしよう」と戦うこと。

 どうであるにせよ、今回の内閣府のした調査結果には、ほんとうに驚いた。
絶望感すら、覚えた。
はっきり言えば、今の若い人たちに、失望した。
「日本も、とうとうこなってしまったのか!」と。

 最後にもう一度、繰り返す。

 自分のことしか考えない人間を、ジコチューという。
同じように、自分の世代のことしか考えない人間も、ジコチューという。
日本の若い人たちが、ジコチューな人間になりつつあるとは、以前から感じていた。
が、ここまでジコチューになっているとは、知らなかった!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 子どもをもつ喜び 育児の喜び 内閣府 調査 子どもをもつ必要はない 子供をもつ必要はない)

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(参考)(「税金知郎の日本解体新書」HPより)

●日本の公共事業費は巨額

1.日本の公共事業費は巨額! GDPの3.92%が行政の土木建設費
2.国と地方の公共事業費の純計は、31兆5,941億円(2003年度)!

●就学前教育の公的負担割合も低い!

1.生徒一人当りの就学前教育費の家計負担額は、OECD加盟国中3番目に高い!
2.生徒一人当りの就学前教育の家計負担割合は、OECD加盟国中2番目に高い!
3.大卒までの生徒一人当りの教育費の家計負担額は、OECD加盟国中2番目に高い!


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司