今度生まれ変わったら 貴方の楽士Aになりたい

三国志、呉の大都督・周瑜様をコテコテに持ち上げまくるぶろぐ。
「蒼天」周瑜様の死亡フラグが怖い今日この頃・・・

いきなりですが

2011-11-05 | レッドクリフ
お久しぶりです。ブログ更新もほったらかしですみませぬ。(別に誰も困ってないか・・・笑)

久々ついでに 久々レッドクリフねたです。(いきなりだな)



   

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吐きそうだった。



降伏派も、開戦派も、勝手なことばかり言う。
しかしどちらの言い分にも一理ある。そのくせどちらを選んでも正解ではないように思えるのだ。

最終的に決定するのは自分だ。主戦論者も降伏論者も言いたいことを言うだけだ、所詮は。
どちらかを選んで、その選択が失敗だった時には「そら見たことか」と言うだけで済む。責任はすべて
決定を下した自分・・・・・
無論それは、当り前のことだ。その裁定を下す孫呉の領袖、として立つ道を選んだのも他ならぬこの自分なのだ。
いまさら、責任の重さに耐えられない、などと言えるわけがない。
そんな恥知らずな真似が出来るほど愚かではないはずだ、自分は、そこまで臆病ではないはずだ。
(…本当か?本当にそうだろうか。逃げないのは、私にも気概があるからではなくて、単に)
逃げだす勇気もないだけなのではないのか。

(ああ、吐きそうだ)

曹操に降伏するのか、戦うのか。

(決められるわけがないじゃないか)

こういうとき、頼りにしていた周瑜はいまここにはいない。
兄が亡くなってから、ずっと支えてくれてきた。判断に迷うとき、いつも周瑜は的確な助言をくれた。
それが今回に限っていまだ全く姿を見せてはくれない。何か言ってよこすことさえ無いのだ。
(私が迷っているということぐらい分かっているはずだ。なのになぜ、一言も言葉をくれないのだ)

甘え、なのかもしれない。
自分で決断できない、出来うるなら周瑜に決めてほしいとさえ思っている自分。
それを見透かしているがゆえに周瑜は沈黙を通しているのかもしれない。
(自分で決断しろと?)
頭を振ったがむろん結論は出ない。自分の決定が国と民の命運を決めることになる、と思えば背筋が凍る。
(教えてくれ、周瑜。私はどうしたらいいのだ)
泣きたいほどの孫権は回廊の欄干に手をついて項垂れた。
吐きそうだった。




その日も会堂は紛糾するばかりだった。
無益な戦を避け、曹操に降伏することが国と民を守ることだという者、
逆賊に膝を屈するなどという恥を晒すくらいなら、死で以て抵抗すべきだという者。
前者には誇りが無く、後者は無責任だ。
会堂の扉の向こうからそれを聞いていた孫権は、またしても激しい吐き気に襲われた。
意見は真っ二つに分かれたまま、なんの進展も見せてはいない。論を戦わせる、などという立派なものではない。あれは口喧嘩だ。そんな場に出て行ったとてどうなる。
またあのうんざりするような同じ意見を繰り返し繰り返し聞かされるだけなのだ。
(頼むから誰か、私を納得させてくれないか)
あれほどの頭数がいながら、誰ひとりわたしを説得できるものがいないとはどういうわけだ。
私を納得させ、それで間違いないと自信を持たせてくれる意見を持つ者はいないのか。
(は・・・それもまたずいぶんと虫のいい話じゃないか。自分で決断できないのを、誰かのせいにして)
周瑜を呼びたい。
呼んで、彼の意見を聞きたい。・・・いや、そばにいてくれるだけでもいい。彼が傍で見ていてくれると思うだけで、どれだけ安心できるだろう。
(言えぬ)
来てほしい、周瑜を呼べ、と、喉まで出かかっている言葉を何度呑み込んだかわからない。
(そのようなこと、言えば)
周瑜は失望するだろう。自分に。
この状況を周瑜が知らぬわけがないのだ。
このまま何の進展もなければおそらく降伏へと論は傾いていくであろう。降伏派の筆頭はだれあろうあの張昭なのだから。
孫呉の内政を掌握する張昭の意見に、いずれは開戦論を主張する者たちの意見も呑み込まれていくだろう。
開戦を主張するのは魯粛と、武官達である。武官が文官に口で勝てるわけがなく、魯粛は張昭に全く信用されていない。
(いいのか、このままで。お前も降伏が正しいと思っているのか、周瑜)

(ありえぬ)

周瑜はいまも赤壁の駐屯地で調練し続けているのだ。それこそが答えだろう。
あの張昭の意見を抑えられる人物があるとすればそれは自分などではなく、周瑜だ。
(周瑜が、開戦だ、と言えば、反論する者はいまい・・・)
それほどの発言権と、みなを納得させる実力と人望を持っている。
それは、自分の比ではない。
その周瑜が、今は何も言ってこない。言ってこないことにみなが疑問を抱いている。
「周瑜どのはどうなのか」
そのくせその一言すら誰も口に出そうとしない。周瑜が発言すれば、それで決まってしまう。それを恐れている。



・・・孫呉は孫権のものではなく、実のところ周瑜のものだなどという陰口は、数え切れぬほど聞いた。

そのような噂に、自分が傷つかなかったかと言われれば嘘になるが、そのような噂に誰よりも心を痛めたのは周瑜のほうだった。
自分は、それを聞いたとき「その通りだ」としか思えなかったからだ。
周瑜の将としての才、知識、家柄、人徳・・・何一つ、自分が太刀打ちできるものなどなかった。
その周瑜が、自分に臣下の礼を執ってくれた。「周公瑾が孫家に臣従した」それですべてが決まって、それでいまここにこうしている。
「周瑜込みの孫権」ならばと、認められたようなもので、噂というより事実だろうとすら思ったものだ。

しかし周瑜は違った。

しばらくして、呉郡でも名のある豪族がふたり、長江の岸に遺体で上がった。
調べさせると、彼らが「孫呉は実質周公瑾のものだ」と吹聴して回っていた者どもの代表格だった。ただ、殺害の首謀者はわからなかった。


「あらぬ噂で人心を乱した豪族をふたり、斬って捨てました」

周瑜の口からそれを聞いたとき、耳を疑った。





つづきます。


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