TROPICAL PARADISE BRAZIL!!!

ブラジルでの体験談等を紹介。国際結婚、永住権、不動産、自動車免許、料理、

ブラジル知らない世界(永住権、不法滞在ETC)

2007年07月29日 23時44分34秒 | ブラジルビザ
さてさて、今日は、私が、ちゃんと、体験を基に明らかにした事実を書きましょう
私は、ブラジルに来る前に、たくさん分からない事があった
とてもまか不思議は、オーバーステイ、永住権、結婚(外国人通し)の仕組み。知らない人が多いはず。だって、いろいろな情報が飛び交ってるし、“だと思う。”ってのが多いんですよね。私の体験談では、
1回目は、私は、ちょうど180日で帰国しました。彼は、3ヶ月オーバーステイをし、帰国しました。(しかも、その時も情報がままならず、彼は、180日になる前に、ベネズエラに行って、新しくビザを更新してみよう!と言って行きましたが、180日前なので、ブラジルにまた、戻っては来たものの、ビザは更新されず、お金の無駄遣いをした。)
2回目、彼は、入国で、オーバーステイの罰金を払って出国していないとの事で、“今すぐ現金(Realのみ)で払いか、カードで払うか”と言われ、Realは着いたばかりで持っておらず、クレジットは、所持していなかったので、ごねていると、“じゃ、そのまま出国して頂いて!”と、言われ、慌ててたまたま迎えに来ていた友人にRealを借りて罰金を支払い入国した。私は、オーバーステイではなかったので、OK!
この年、投資ビザを取る事を目的に来た
投資ビザは、一昨年から金額が、50,000U$になり、出来やすくなったはずなのに、仕組みが分からなかった。何も情報を得れなかった。私達は、探していろいろな、弁護士や会計士と会った。どれも高い!安くて3000US$から6,7000US$なんて金額もあった!何故かというと、外国人を相手にしていて、英語、スペイン語とが通用するから。私達は、投資はするけど、無駄金は遠慮した。粘って、考えてSebraeに相談に行った。で、ちょうど、開業したばかりのFabioに会う。彼も、Sebraeで、誰か客に出来る人はいないかと探していたのだ!彼のオフィスに行った。ちょっと、半信半疑だった。だって、彼が、提示した金額は、半額だったから!。
とりあえず、私の今の旦那さんが、永住権獲得に挑んだ!!
必要物
会社を設立。
ブラジルに銀行口座を開設。
50,000US$(これは、ブラジル以外の国になければいけない)をブラジルの銀行に送金
* 本人の名義の銀行、又は、本人名義で、送金所から送金しないと成り立ちません。これが、あいまいで、5000US$を払ってビザの申請をしていた金持ちのオランダ人の叔父さんは、3回も送金を失敗していた。
CPF(ま、これは、簡単取得ですが、彼の場合、一昨年、家を購入時に取ったCPFで更新していなかったので、ちょっと時間がかかった。)
パスポート
無犯罪証明
出生証明
ETC
ブラジル在住のビジネスパートナーになってくれる人(永住権をもってる人でも可)。なかなか、難しい選択。だって、会社の設立の名前も、銀行の口座名も、パートナーが、メインになるから。50,000U$が、目の前に来たら“ドロン”する人は多いだろうから。特にブラジルでは。。。慎重に考えたのちに、イタリア人と結婚しているブラジル人の女性にお願いすることになった。(ま、困った事に、その女性は急にパートナーを辞めてしまい、急きょFabioにお願いする。未だに、不明。。)
まあ、この国は、コピーが大好きである。何かとあると、コピーコピーコピー。。トータルでパスポートは、もう50枚くらいコピーした気がする。。。
申請までのプロセスが始まった。銀行にお金を送金した時、なんと、銀行のスト!1ヶ月送金までにかかった。とても不安だった。だって、50,000US$ですよ。その間に、私達は、婚姻の手続きに取り掛かった。というのも、先に結婚した方が、手続きが簡単だという事だったから。婚姻はなかなか田舎な街では、成立せず、1日1日と私のビザは、終わりに近づいた。(婚姻は、ビザが切れると、婚姻の申請も途中の場合無効になります。永住権の場合は、ビザが切れても申請は続くので心配はいりません。)婚姻は、結局その年は出来ず、私は、オーバーステイとなる。年末、ようやく彼のビザ申請ももう一息で、いったん、海外に出て、領事館で判子をもらうまでとなった。私は、年末に出て、罰金を払って、翌年頭で、また再入国をすることにした。友達のフランス人のアドバイス
“あそこは、行くところじゃない!高いのに最悪だからさ。しいといえば、ワインとチーズ位のもんさ。進めないぞ、僕は。”
を真剣に聞かずに、二人で、2006年12月24日に家を出て、フランス領ギニアに向かった。カッコ良く飛行機と言いたいが、Natal-Belem(バス30時間)Belem(1泊)-macapa(飛行機!船より安かったのだ。40分)、Macapa-oyapoque(4輪トラック8時間)で、ここから、船でフランス領ギニアに渡る。(これも、なかなか情報がなかったため苦労した。でも、楽しかった貧乏旅行!)。Oapoqueは国境の町なので、Policia Federalも街中にあった。とりあえず出国の手続きだけ済ませた。(そうしないと、翌年に新しくビザを手に入れられないから。)
ナタールに一番近いし、1週間もすれば、帰ってこれるだろうっていう安易な考えだった。
大きな間違いだった。フランス領のギニアの首都カイエンヌは、見た目は、ブラジルの田舎町と変わらぬ粗末な街、でも、物価は、びっくり!フランスよりも高いのだ!(70%がフランスからの輸入に頼っているからだ。ま、ワインとチーズはおいしく安かった!)その頃、ブラジル政府の機関がストを起こした。もちろん、領事館に、彼のビザの受理が届くわけもなく。。私は、新しく観光ビザの申請をした。何と、“ブラジルをいつ出国します”という証明のために、飛行機のチケットが必要との事。ラッキーな事に、私は、日本からの往復のチケットが、期限を切れていなかった。早速、E-ticketの詳細をネットでコピーした、すると、領事は、“オリジナルのチケットがないと認めません”と!!!ちょっと!!!E-Tichetなんだけど!!これも同じなのに。。“じゃ、ブラジルの飛行機のチケットは、何だよあれは!黄色のスーパーのレシートじゃないか!!”って言いたかった。けど、辛抱して、何度も同じ事を繰り返して粘って、OKにしてもらった(領事は私のオーバーステイの判子が気に入らなかったらしい。)。でなければ、わたしは、フランスギニアで、高いチケットを買わされるところだった(ほっ)。1週間待つ羽目になる。まだ、彼の受理は届いていない。ま、とりあえず1週間、フランスギニア貧乏を二人で開催した。まああ、びっくり。ほったて小屋にハンモックを釣って、寝泊りするところがあって、蚊帳(しかも穴が開いてるから、必ず刺される!)をつけて寝る。なんと、一人確か、4000円位したんじゃないかな。。。しかも朝食は別。パンとジャムとコーヒーで、800円くらいした。それは、通貨がユーロだからだ。最悪で、高い宿泊だった。ま、そんなこんなして、私のビザが出来、彼の受理書も届いた。私は、一足先にこのフランス領ギニアをおさらばした。彼は、あと、3日、いなければいけない。。。2007年1月24日にジェニパブの家に帰ってきた!私は、ちゃんと、また、観光のビザを手にし、彼は、永住権獲得に成功した。会計士のFobioもやった!!!って感じでガッツポーズ。銀行と政府のストがなければ、もっと、早く手に入っただろうビザは、合計8ヶ月かかった。
ちなみに、オーバーステイを日本でやると大変な事になります。ここブラジルは、お金が欲しいだけなんです。最高でも罰金は1000R$と決まっていて、長年オーバーステイをしている人をよく見かけます。彼らが言うには、恩赦を待ってるとの事。でも、今は、ルーラだから、期待は出来ません。。1年間に居れる日数は、どの外国人も同じで180日。それ以上はオーバーステイです。もっと、ブラジルにいたい人は、年始から年末迄いて、年末に海外に出て、年始にまた、ブラジルに入るのがいいかも。(でも、日本人は、必ず、ブラジルを離れるチケットがいるので要注意!ベネズエラ行きのバスのチケットとかだと安いね!)
役にたちましたでしょうか??

私の人生あれこれ エピソード3

2007年07月24日 05時12分53秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
アメリカは、私が最初に踏み入れた外国。アメリカから1ヶ月の一人旅を終え、帰国したら、マイクが、待ってた。“SAYONARAは言えたかい??”と優しい一言。ま、もちろんそれから、“一時の間”だけ付き合うことにした。何故、“一時の間”かと言うと、マイクは、1年後に南アメリカに旅に出ると言ったので、ま、それまで、楽しい生活を送ろうと思ったから。ま、Easy goingですな。。。
まあ、彼は、基本的に、ドジな人で、びっくりするような、変てこなへまをして怒るのを通り過ぎて笑ってしまう。。。チャリでこけるなんてのは、お手の物。鍵は何度も失くす。ズボンのちょうどお尻あたりに穴がほげてる。披露宴で、汗を拭こうとハンカチを取り出したら、1万円札で、知らずに使ってて、みんなに笑われる。車の免許もないのに、ゴルフ場で“カートを運転したい!”というので、させたら、9番通過した時に、坂を下り、パニックになって、アクセルとブレーキが分からなくなって、木に衝突した。私は、とっさにカートから飛び降りたが、マイクはそのままぶつかる。屋久島の田舎のあぜ道で、ヒッチハイクしたトラックの荷台に財布を落として、いろんな人の世話になって、もう諦めて、地元の人達とわいわい焼酎をご馳走になって酔っ払った頃に、そのトラックが通り過ぎて、慌てて追いかけると、隣の人だった。溝にも落ちる。間違えて人の家にも入る。まあ、どれも、大事に至らないばっかりに、彼は、未だに、のんびりとドジを繰り返している
さて、約束の1年が来た。どうやら彼は、有言実行タイプ。1度言うと必ずする。やはり南アメリカへ行く気持ちは変わらないようだ。寂しかったけど、それも、最初に決めたことだ!と、ふっきった。空港へ送りに行った。Check inを済ませる。さあ、最後の別れにご飯を食べようとしたところ、マイクのリュックのポケットが空いていた。“あ、財布がない。”顔色が青くなってきた。彼は、いったんイギリスに帰るため、もう、お金を送金していて、持ち金は5万、しかも、2日間、台北に泊る便。。。。しかも、カードも何もかもない。空港警察に行った。財布だけ見つかった。でも、お金がいる。私も、有り金は、5千円だった。しかも、財布は持ってきてなかった。。慌てて、お姉ちゃんにお金を貸してくれるように懇願した。フライトの時間が迫ってきた。マイクをとりあえず、空港に待たせ、私は、空港と博多駅と往復した。フライト20分前に着いた。大慌てである。さっと、マイクにお姉ちゃんの5万円を渡し、軽いキスをしただけで、引き裂かれるようにマイクは、飛行機の添乗員に連れて行かれた。。。涙も何もあったもんじゃなかった。それは、最後に私に見せたドジだった。それから、私は、彼の盗難の後処理に、追われた。。。。
それから、私達は、メールのやり取りをたまにしていた。私は、悲しいマイクとの別れを吹き飛ばすごとく、いっぱい、遊びに出かけた。でも、マイクからメールが来るとやはり“キュン”となった。ある日、マイクは、“僕達は、もう付き合っていないんだ。”と念を押され、それ以後は、頻繁にメールを送るのを止めた。そのうち、フランス人と知り合い、ちょっと、恋に落ちる。でも、彼も、旅人だった為、ここを去っていった。さて、私は、2人の男に旅に行くからと振られ、“そんなに旅はすばらしいのか”と思うようになった。で、ちょっと行って見ることにした。もちろん、最初は、アメリカに行った。とりあえず、墓参りを済ませ、アトランタから、大バーゲンチケットをネットでヒットし、なんとジャマイカへと飛んだ。私の周りの友達全てが、一人で行く事に反対した。両親には、ジャマイカに入ってから“ジャマイカに来ちゃった!”と連絡した。(続く)

ブラジルの不動産事情~東北ナタール地方編!!!

2007年07月21日 23時11分23秒 | ブラジルNATAL不動産、CRECI宅建
まあ、なんで、こんななのかしら??と思うくらいに、ここの不動産業者はおかしい(多分、サンパウロや、リオ等、大都市は違うでしょうが。)。。。
4年前はもっと最悪だった
最近、顧客の要望で、不動産を訪れた。そこの不動産は、4年前にも行ったとこだ。そこは、かなりの物件を持っている。店に行くと毎回、応対はいい。コーヒーくれたりと。一通り、欲しい物件を尋ねた。でも、そのセールスレディーらしき女性は、外国人となると“金金金。。”とみえるらしく、全く違う物件を強引に押し付けてくる。ま、ここらへんの人は、どの人も変わらないけど、自己主張が強すぎる。結局、見たい物件は最後の最後に、“じゃ、メールででも、写真と詳細を送りましょうかね!”と言ったまんま、それっきり。。。。それは、安い物件を探しているから。金にならないから。(だと思う)そのなかでも、やはり、地道に働いてる人は、真面目に対応してくれる。
ある日、ビーチ沿いに広大な土地が売られていた(新聞で発見!)。不動産に電話をした。
“いつ、物件を見に行けますか??”
“おたくは、車を持ってるかね?”
“あ、いいえ。。”
“じゃ、無理。私も持っていないからね。。”
“え??じゃ、場所の写真だけでも、メールで送ってくれませんか??”
“あ、それも無理。どこにあるのか知らないからね。オーナーに聞かないと。。”
“じゃ、オーナーの電話番号を。。”
“あー、今は、分からない。見つけたらお宅に電話するよ。。”
だって!!!じゃ、新聞に載せないでよ!!って感じ。
まあ、日本人が、そんなところで、土地を買うなんて考えると、先の長―い話になる。かなりの辛抱強さを必要とするでしょう。
私たちは、必ず、“書類はちゃんとありますか??100%OKですか??”と聞くと、90%のオーナー、不動産は“問題ない!!”と、鼻を高々に言ってくる。が、実際は、家の権利書がないものや、あるけど、税金がたまりに溜まってたり、権利者の名前が死んで過去の人だったり(これは、日本では、あまり問題じゃないけど、ここは、権利者の名前を死んだ人から変える場合2年程かかる。それまでは、お金を払っても、自分の名前は載りません。)、土地の権利書はあっても、家は、登録してなかったりと、びっくりする裏話がたくさんある。未だに、新しい裏話が次から次に出てくるから不思議だ。なんで、“ちゃんと”出来ないのか不思議。。(まあ、海外から見て、日本人は、“すべてに関して100%でなきゃいけない!”とイメージがあるので、多少は、ま、いいっか。。としてるけど、それでも、ずさんなのだ。。)
そんなんだから、外国人が騙されてもおかしくないし、信用度もかなり低い。しかも、書類にサインしてお金を払った後にだいたい発覚するようだ。
私たちは、そんな風に騙されてきた外国人をたくさん見た
まあ、ここでの私たちの不動産事業は大変と言えば大変だけど、外国人からは、信用は得られる。特に、日本人とイギリス人だから。最近は、お金を吹っかけられる事もなくなってきた(ま、気づかないだけかも。。笑
ナタールは、新しく橋が建設された。南ナタールの海岸は、既に、外国人の投資で、だいぶ、土地の値段があがった。北ナタールの海岸等は、橋が完成すると30%自動的に土地が上がることになっているらしい。しかも去年からヨーロッパ直通の飛行機がたくさん飛んでくる。たくさんの投資家たちがやってきている。日本人投資家は来ないのかなあ???知らないんだろうね。おーい、日本の投資家さん達!今は、ナタールが熱いですよ!!!!!ちょっと、遠いですが。。。。

サンパウロ飛行機炎上

2007年07月19日 03時08分18秒 | ブラジル(NATAL)情報2007
昨日、ショックな映像が出た。なんと、飛行機が、滑走路を外れ、突っ込んだ。。。その前日も、確か、違う飛行機が胴体が、地面についたまんま滑走路を滑った。何ヶ月前は、アマゾン近くに、アメリカのセスナともつれて、炎上した。
乗客はもちろん、働いていた人、たまたま、そこを通過した人等、多くの方が死傷した。
でも、今朝のニュースでどうやら問題は、滑走路??が問題のような事も言ってた。ブラジルの飛行機、空港は、ちょっと妖しい点がたくさんある。
とにかく、ブラジルの飛行機はよく遅れる。空港内は憤りを感じてる人たちが多い。週に1度は空港がごったがえしてる映像が流れる。年に何回かはストライキもある。ありえない。。しかも、大都市サンパウロやリオの空港で。
私達の友人オーストラリアのルーパーは、管制塔等のコンピューター(?)のエンジニアで、いろいろな空港、軍事基地等に新しい技術を教えてきた。彼が言うには、ブラジルは、その管制塔のシステムが完璧にくるってるらしく、政府がお金を出して変えないことには、飛行機のスケジュールの乱れは治らないとのこと。でも、国はそんな事、国民に言うわけでもなく、空港のやり方がおかしいのだ。とか、公ではないがストライクになってるとか、民間の会社のせいにしている。らしい。私は、全く分からないので、ただ耳を向けて聞いてるだけなんだけど。でも、ぼちぼちその管制塔改革プロジェクトをリオで始めようとしているらしい。やっと、政府が動く気配を見せてきた。
よく分からないけど、空港をちゃんと見直す必要はある。もうそれ以上の被害が出てはいけない。
私の住んでる近くの町“Mossoro”には、空港がある。最初は、リオ、サンパウロにも直通があった。でも、滑走路を照らす照明が高いらしく、照明が切れても交換しないので、日に日に飛行機の本数が減って、今や、幽霊空港になった。。。高い事業をやったあげくに、電球交換するお金がないから。。。なんて、それもありえない。。
ブラジルの飛行機は危ない度が高まった。。。
そのうち、新幹線が出来て、飛行機よりも、早くて、安全なんて日がブラジルにやってくるかも知れないですね。そうなると、ブラジルの旅は、もっと、魅力的になるかも。。ま、遠い遠い未来の話だろうけど。“南アメリカ鉄道の旅”なんていうタイトルで。。。
しっかりやってくれ、ブラジル政府!!!

COPA AMERICA!!!

2007年07月17日 00時34分21秒 | スポーツ
昨日、日曜日、とうとう、やってきました、決勝戦!みんな、“今年のアルゼンチンは、最強!ブラジルは最悪。”と言っていたせいか、いまいち、のりが悪い。。。私たちは、地元のバーでみることにした(旦那はそれでもフットボールキチガイのためみんなとブラジルを応援したいのだ。。)。ヨーロッパでは、90%の人がアルゼンチンに賭けた!ブラジル人もCOPAはもう諦めかげんで、PANを見る人が多かった。。ちょっと!!ブラジル人!!この国は、フットボールと、音楽は何があっても応援しろおお!!(泣)
旦那曰く、アルゼンチンは5人以上が有名選手。に対してブラジルはホビーニョのみ。。。なぜかと言うと、ホナウドはリストから既に外されていて門外。ホナウジーニョとカカは何と、理由が、“休養のため。。”まじで??。。ま、そんなことが出来るブラジル。日本でそんな理由をもっていくときっと、日本人のファンからは、ヤジの嵐でしょう
ま、とにかく、世界中でアルゼンチンに賭けた人たちのお金が塵となった。なんと、3対0で、ブラジル優勝!!!ワールドカップの時と違って、うちらの地元では、花火は上がらなかった。。みんな用意してなかったんでしょうね。。ど素人の私が言うのも何ですが、いやあ、いい試合でした!!特に、最初の1点。綺麗でした!3点目も、とてもスムーズなパスでしてやったり!という感じ。まあ、ホナウジーニョのような、華麗なドリブルとかは、見れなかったけど、チームはすばらしかった。とにかく、ブラジルがんばった!おめでとう!!!あと、ブラジルのコーチ(Sr.Dunga。。3年くらい日本にもいたんですよね??)の首が繋がった!負ければ首だったのだ。きっと、彼が一番嬉しかったんじゃないでしょうか?!
私は、フットボールはあまり知らないので、旦那の言葉をかりた

ブラジリアン柔術 鈴木 尚美!

2007年07月16日 02時33分14秒 | スポーツ
さて、今日は、Natalで、領事館を通して知り合い、仲良くなった日本人の紹介
私は、ここに(Natal)来て、日本語が恋しくなっていた。だって、外に出ると、ポルトガル語、家の中では英語。たまーに両親に電話すると、日本語がちょっと、ぎこちない事に気づいた!その頃ちょうど、警察証明を取ったりと、Recifeにある領事館に通う事があった。そこで、副領事から、何人か日本人の方が旅行でいませねえ。何て聞いていたので、断られるのを覚悟で、領事に“どなたか、日本人の方を紹介して欲しい”と懇願したところ、領事は快く、“一人、年もちかい方で、柔術してる女性がいますよ!ではあなたの電話番号を渡してみましょう。”って事で、誰か分からないけど、わくわくしながら電話を待つことにした。(なんで、領事がその人を覚えていたかというと、領事は、大の格闘好きで、話が咲いたらしい。。)
1週間後、電話があった。“鈴木 尚美”さん。お互いに、電話でとてもぎこちのない日本語を喋った。週末に、PraiaDe Genipabuに来てくれる事になった!!!“鈴木尚美”の私の想像。。。体格がでかく、黒髪のロングヘアー。いかにも強く見える。豪快な笑いをするちょっと、いわゆる女性“長州力”。って感じ
土曜日、彼女がバス停に着いたと連絡があり、チャリを飛ばして迎えにいった。が、そこに立っていたのは、小柄で、かわいらしい女の人だった。髪は茶髪でどちらかというと、ちょっとちゃめっけのあるかわいい女性サーファーって感じ。本当に想像が外れてびっくりした!!だって、二人で並んでいる歩いていると、周りからみれば、私のほうが彼女のボディーガードみたいなんだもん。。。背も体格も私のほうが大きいし、わたしは、どっぷりと焼けてるし。。。それから、家のポーチでぎこちなく、でも楽しい二人の会話が1,2時間続いた。多分、お互いに緊張しただろうと思う。歓迎の意味も含めてシュハスコ(バーベキュー)をした。時間はあっという間だった。それ以降、彼女の練習の合間に二人で昼ごはんを食べに行ったり、買い物したり、たまに、家に泊りにも来てくれた。
さて、彼女“鈴木尚美”は、恐るべきファイターだった。
2003(?)にブラジルで行われた世界選手権で優勝経験を持ち、格闘マニアのような雑誌やテレビにも載ったらしい。その後、ブラジルに見せられた彼女は、翌年、単身でRio に柔術を訓練する為に来ている。その後、Natal のファイター達とRioで知り合い、“あれれー”と、Natalに引き寄せられたという訳。
彼女曰く、NatalのそのKIMURAの道場は師範がとてもすばらしく、沢山の優勝選手を出しているところで、Rioの道場よりも魅力的だったらしい。その後、毎年、半年働いては、半年Natal。という人生を繰り返している。一度、道場を見に行った。まああ、その日は30人位いたかな。汗臭いブラジル男性達(筋肉流流で、いかにも“猛獣”という言葉がふさわしい。)の中で、尚美は、悠々といた。練習が始まった。黒帯、紫帯がまず並び、それ以下は向かい側に立って礼をする。その日は黒1人、紫3人(その中に、小さな尚美がいたのに超びっくりした!)私は、“尚美は、猛獣達の中でも強いのだ!猛獣使いなのだ!”と思った。
どうしてもNatalに住みたい尚美。安易にも二人で国からの恩赦を期待してる(笑)。。。今は、彼女は、東京で、柔術をしながら、せっせと働きながらお金を貯めている。11月にこっちNatalに帰ってくる予定。がんばれ!
こんな、日本人もいるんですね。もっと、増えるといいね。スポンサーになってくれる企業はないものだろうか。。。
尚美は、とっても大切なブラジルNatalのAmiga、minha irmã!!

PAN AMERICA

2007年07月15日 00時17分57秒 | スポーツ

とうとう、スタートしました、Pan America!昨日、テレビで開幕セレモニーを見ましたが、ブラジルって、結構駄目駄目なとこが多いんだけど、Festa、音楽、に関しては、とてもタレント性を持ってる国だなあ。と感激しちゃった。まあ、多分、ブラジルが、じゃなく、プロモーターがいて、セレモニーの計画を立てたんだと思うけど、ブラジルじゃないとあんなにすごい音楽セレモニーは出来ないんじゃないかなあ、と思った。一番びっくりしたのが、選手が入場して、歩いていく両端にラインを作ってる大勢のブラジル人(300人位いたのかなあ。もっとかなあ??)。一人一人、なにかしら楽器を持っていて(タンバリンとか、マラカスだとか、パーカッション系)、サンバなんかに合わせて踊ってるのね。何か、もう1度サンバーショーか、カーナバルを見に行ったみたいだった。ミュージシャンも出たね!私は、chikoがあの中では好きだった。最後の女の人は、有名だけど、あんまり好きじゃなかった。。出来れば、サンバクイーンの方が、ブラジルらしくていいんじゃないか?と思った。あ、そういえば、Miss Brasilが、旗を持って上がってきたとき、コメンテーターが、“あ、ミスブラジルです!ミスジャパンに敗れたなんて信じられません!負けるはずがないのに!!”なんて、いいやがった!そんな風に、言うなら、私は“ブラジルだからだろーよ!”って言ってやりたい(あ、ちょっと、悪い子になってしもうた!!)!!どこだったら、負けてもいいの???アジアは、そちらよりも下なんですか???って、ちょっと、日本だったら抗議の電話殺到中ですよ!まったく、いい気持ちで見てたのに、自国愛しすぎなんだよ!!!ちょっと、不愉快になる。。。でも、初めて見た!Pan America!!!競技の主審は、どうやら日本人の女性のようだ。2世の人か、小さい時にこっちに来た人かなああ。がんばれ
今夜は、フッチボールを見に行く。Natalのチームは弱いので、試合を見るというより、その雰囲気を楽しみに行くんだけどね!わくわく

NATAL BRASIL 観光ビザ、投資ビザ、結婚ビザ。。

2007年07月14日 02時32分29秒 | 国際結婚
さて、ようやく私のPCが修理された!日本語が、打てます!!
私の観光ビザ、昨日で終わりなんです!でも、一昨日、ようやく、“呼び寄せビザ”の申請書を全てPolicia Federalに提出できたので、晴れて“Quase Brasilaira”になりました
ここまでたどり着くまでには、信じられない道のりでした!
だいたい、ブラジルに住んでいる外国人(日本人も含めて)は、ブラジル人の旦那、奥さんを持っているか、大企業に雇われているか、ここで、子供を産んでいるか。なにかしら、ブラジルに関係している。
私たちの場合、両方が外国人、しかも、片一方は日本人、片一方はイギリス人。。3年前に来たときは、情報も何もあったもんじゃなく、とりあえず、来て家を買ったらどうにかなるだろうなんて思ってきた。その年は投資経営ビザなるものは確か200,000US$だった。とうてい無理な話で、じゃ、子供作ろう!なんて、安易なことを考えた。。。ま、そんな時に限って、神様は味方してくれないんだよね。もちろん、日に日にビザの期限は迫っていった。まあ、いろいろあったあげくに家を購入した。で、6ヶ月後日本(博多)に不法滞在を恐れて、また戻ることになった。日本で、Polpa De Fruta(特にアサイ)や、Guaraná em po とかを日本に輸入しようなんて事を計画しながら(常に前向き。。)。。
まあ、日本人は、知らないものに興味のない人が多く、2軒の店以外は受け入れてもらえなかった。外人バーでは、グアラナのパウダーは好評だった。まあ、本当に頭の中が眠らないのね。。私は、心臓の小さいほうなので、グアラナを、飲むたんびに動悸がした。アマゾンの植物は、すごい!)たいした金額ではなかったけど、長続きせず、失敗に終わった。(ちなみに今は、Polpa De FrutaはブラジルBelemからや、チリ等から輸入されてますね。。。やはり大企業が強いのだ。。)
翌年、吉報!なんと投資額がグーンとお買い得になる。200,000$が50,000$となる
よっしゃ!ってことで、がむしゃらに働き、翌々年の2006年の5月にまた、凝りもなく安易にきてしまう。。いきゃ、何とかなるやろう!と。。。
ブラジル事情(特にNORDESTE)は、とても秘密が多い。情報が錯誤している。はっきりとした答えはどこにでもないのだ。特に外国人に対しては。。全て、高いエージェント(50,000$もブラジルで使うのに、しかもエージェントは報酬に5000$から7000$も要求する。英語も通じるので、そこが、ポルトガル語を話せない人達には必須。。)にお願いしてやってもらうケースだけなので、個人で、“取ったぞー!!”何てケースはない(ま、やってる人がいたとしても、諦める確立は非常に高い!私達も何度も挫けそうになった。日本では想像100%出来ない!!)。
ま、だいたいみんな投資しに来るから、私達みたいに貧乏な人達もいないので、5000$もOKなのでしょうね。。
私たちは、SEBRAEに行き、地道に情報を集めて、会計事務所のFabio氏に出会う。彼に永住権獲得をお願いした。その間に、銀行のストライキ、役所のストライキ、マイクの銀行のミス。。とあらゆるビックリ事項が次々に私たちを襲った。そして晴れて、マイクは2007年の1月に“Brasileiro Gringo”になる。
そのあと、また、Cartorioの所長の意地悪や、情報のミス、ストライキやあらゆる困難にぶつかりながら、6月に婚姻をブラジルでした(やり始めてから8ヵ月後に受理された。(これもびっくり。。)
で、いま、ようやっと、私の永住権申請が始まった。申請が始まった時点で、もう、後は待つのみ。働けるし、海外に出ても、いつでも入ってこれるのだ!ビザ代がいくらで、何日いれて。。なんて考えなくていいのだ!!ブラジル人と同じ扱い
ま、そういういきさつもあり、私たちは、西洋人(英語圏)の人達の格安永住権獲得エージェントも不動産を購入と一緒にやっている。私たちのような人達は、結構いるのだ
ま、ブラジル人と結婚するのが一番手っ取り早いんですがね。。。。。。。。私たちのようなケースを歩んできた人はいるんでしょうかね?歩みたい人は大歓迎
土曜日は、NatalでFootBallのゲームがあるらしい。マイクは見に行くのかな???
イカ(Lula)大統領は、昨日、Nordesteの下水道を何とかする!って言ってましたな。教育にも加勢するって。。ま、Natalまで来るのは、いつの日やら。。。家の前も下水道を作ると言って、道をでんぐり返したのはいいけど、真ん中にパイプを通して終わった。道はでこぼこ、マンホールはあるものの、それぞれの家にはまだ繋がっていない。それは、また別の月だとか年だとからしい。ちょっと、道をどうにかしてくれよ!!!って言いたい。。綺麗になるどころか、でこぼこの石畳になってしまった。。。最悪な政府機関。。。文句をいえない一般市民。。。

私の人生あれこれ エピソード2

2007年07月13日 01時56分24秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
ま、それから私も、バンドのメンバーで彼氏がいた。付き合っていくうちに、他のメンバーの彼女たちと知り合い、いろいろと浮気事情などを探る“団地妻の会”なんてのが密かに出来上がった。でも、その中には、やはり、自分が本命の彼女だと信じてしまっている子もいたし、割り切ってる子もいた。私の彼はだいぶ年上だった。まだ、“年下の彼”が流行る前だったので、“いいねえ!年上とか。優しかろぉ。うらやましかあ!”てな感じだった。
ま、そうこうしてるうちに、彼は横浜、東京に行くことになった。遠距離だ。毎日電話した。まあ、月に携帯の請求額がナント4、5万の時もあった。(その頃、私は、身体を壊し、たち仕事を禁止され、博多に戻って、初めてOLをしてみていた。)長い休暇が取れると、彼に会いに飛んで行ってた。ある日、彼が一旦、アメリカに帰ることになった。帰ってからも、毎日電話をしあった。彼がアメリカにいる頃、私は、今の旦那(マイク)に出会う
家の近所のジャマイカ人バーに私は、たまたま、ダチのガーナ人と日本人と来ていた、マイクは、一人ぽつんと端っこで飲んでいた。私は、白人がその頃あまり好きではなかった。(差別問題等で、とても冷たいイメージがあったから。。。)もちろん、そっちの白人音楽も興味がなかった。。店を出るときに彼は既に泥酔する直前で、“ちょっとおおお、どこに行くのらああ?ぼぉくも行く。”と、てくてくと、私たちの後ろからついて来た。“まあいいじゃないか、帰るついでに、家まで連れてってあげよう”というガーナ人の優しい計らいに、マイクは救われたのだ。帰りに海岸により、海の匂いを嗅いで帰った。私には、“まあ、だらしのない白人!もっちょと、酒強くなって出直して来いっつーの!”ていう、ま、あまり初対面の印象にはヨロシクなかった。ま、ゼロだった
何日か後、マイクにばったり本屋で、でくわす。(ま、今思うとこれが運命だったのかな。。)。“あっ!”っと目が合い、ちょっと立ち話をする。イギリス人だったり、先生だったり、ETC。とても、楽しい立ち話だった。それに本屋に来て、新聞買ったり本を探してるくらいなので、“ま、まともなんだ”とちょっと0から上昇。それから、家が目と鼻の先だった事より、友達としてご近所さん付き合いを始めた
そうこうしてる時、アメリカの彼から来週帰ってくるからね!と吉報!“あー、やっと会えるんだ!!”っとウキウキ日付を追う。1週間が経った。連絡なし。8,9,10日無し。ちょっと、不安になる。妙な不安。心臓がドキドキした。これが、“女の第6感”だった。彼は、アメリカの実家で心臓発作を起こし、亡くなっていたのだ。ドキドキした1週間後に彼の仲間のライブに呼ばれ、“実は。。”と聞かされた。“やっぱり。”って思った。
彼は、糖尿病を持っていて、よくカロリー計算(私は料理人だったので、お安い御用だったの。)をしたり、たまには、インシュリンの注射の手伝いもした。だから、いつ合併症が起きても不思議ではなかったから。。。
そのライブにはマイクも一緒に来ていて、その日は、マイクの胸を借りていっぱい泣いた。。。
それから、1ヵ月後、考えて考えて、アメリカに行くことを決心した。“さよなら”を言わなきゃ。と思った。でも、なんと、私にとっては、アメリカなんか初の海外旅行で、しかも一人旅。。もちろん親も“何で?アメリカ?何で一人?何で???”と、質問、反対の嵐。でも、何とか、お姉ちゃんが味方に付いてくれて、1ヶ月間、叔母さんの家(アメリカ人と結婚してサンフランシスコに住んでいたので。)に行く!っていう事でごりごりOKをもらった。(親には彼氏は外国人、それも年上の黒人でミュージシャンで、亡くなったの。なんか、とても言えなかった。お姉ちゃんだけには、言っていた。)
1999年12月末、初めての海外+一人旅行にサンフランシスコへと飛んだ。その頃、マイクはイギリスに冬休みで帰っていて、ちゃんと着いたか心配して、叔母さんの家に電話をくれた。初の海外+一人旅で、“Millennium2000”をアメリカで過ごす。(これは忘れられない)。年明け、アトランタの彼の友達のもとへ行き、彼のお墓があるアラバマまで、車で行った。彼の兄弟等、家族に会い、お墓に行き、ちゃんと、お別れを言った
彼は、黒人にはめずらしく、いい育ちだったようで、ベンツとか、キャデラックのアンティークが並んでいた
彼の若い頃、ピアノの腕がよかった為、ワシントンにある有名な音楽大学に黒人でしかも特待で入学したらしい。その頃は、まだ、差別問題は、あまり緩和されていなかったはずだから、とても稀なケースだったらしい。その学歴もあって、誰だっけ、ディズニーの映画の曲で有名になった黒人のSOULシンガー(Ho....忘れた。。)が、同朋で、(ブルーノートに来日で来た時は、彼のアパートに遊びに来たりもした。)あと、JBやいろいろな、大物R&B等のバックとしてツアーにも同行した経験を持つ。とても頭のいいひとだった。でも、糖尿を患うようになって、ピアノが思う様に弾けなくなったらしい。私が知り合った時は、もう、シンセサイザーばかりだった(鍵盤が軽いので)。いろんな国に行き、いろんな人に出会い(女性も含めて!)、とても素敵な人生を送ったんだろうなぁって、感じた。私も、彼のおかげで、アメリカに来ることが出来て、いい経験をさせてもらった。それから、私の、海外に対しての目が、広がっていった。ありがとう、LESTER JORDAN!!!

私の人生あれこれ エピソード1

2007年07月07日 00時52分42秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
さて、私は、19歳から、フランス料理店に勤め、キッチン、ギャルソン、ソムリエとして朝から晩までやっていた。その傍ら週に1,2度有名カクテルバーで、カクテル修行もしていた。ちゃんと、遊びもしていた。(今考えると、どうやって、そんな時間があったのか不思議。やはり、“若さ”かしら??)僅か、3年で店のマネージャーになった(ま、小さい店だったのでね。。)で、オファーを受け別のフランス料理店に移った。ここは、大きなゴルフ場が管理しているホテルの中のレストランで、超高級だった!でも、ゴルフ場付のため、山の天辺にあった
2年が過ぎるころ、だんだん、地元の博多が恋しくなった。(というより、田舎に飽き飽きしていたの。。)。休みになると、すぐに、博多に帰るようになった。朝まで、飲んだくれたり、踊りに行ったり。せっかく博多に帰ってるのに、友達の家に泊まって、実家に顔を見せずにまた、仕事に帰って行った事も、たびたびあった。今思えば、親不孝だ。中洲で、“PARADIUM”というSOULバーを見つけ、常連になる。(23,4歳かなあ。。)つねに、アメリカ黒人のバンドが、60‘s、70‘sのSoul,R&B,Boogieをやっていた。そこで、私は、音楽を通じて、外国人達と交流を持ち出した。それが、私の最初の外国人たちとの出会い。もちろん、英語は、超カタコト。でも、酔っ払ってるせいで、緊張が和らぐせいか、超喋ってる気になるの。何でもありなのだ
ま、私たちブラックかぶれがどの程度の英語だったかというと。。
ある日、私の親友は、バンドの中から好きな人が出来た。
今日は、バレンタインデー。でも、何か、今日は不機嫌そう。。。で、彼女は彼に“Are U angry(怒ってるの)?I got chocolate 4 u(チョコレートを。。)…”と聞いたところ、
彼は不機嫌そうに“No,I’m not HUNGRY,little bit stomachache.so,no thank u.(いいや、お腹は空いてないよ。ちょっと、調子が悪いんだ。。だから、今は要らないや。”と拒否。彼女はあっけなく断られ失恋とみなす。。。
もちろん、その夜は、彼女の失恋を励ますごとく、飲みまくり、チョコレートも食いまくった。しかし翌日、他の国ではバレンタインにチョコレートをあげない事や、“ANGRY(アングリー)”と“HUNGRY(ハングリー)”と言う、超小学生問題で引っ掛かった事に気づく。。誤解が解けもう1度チョコレートを買って、渡し、説明すると、OKだった。彼は彼で、ちゃんとその日、花をプレゼントしようと買っていたらしく、しかも、日本では、女の子が好きな人にチョコレートを渡すなんて事も知らず、彼女のチョコを受け取らなかった為に、彼女が泥酔し、泣きじゃくっていた事を“何じゃ?????”と意味が理解できなかったらしい。。ま、私の方(好きな人は)は問題なくOKだったけどねん
ま、そんなはちゃめちゃなエピソードは山ほどあった。今、思えば恥ずかしい限り。。
きっと、今、旦那さん奥さんや彼氏彼女が外国人の人は、同じような馬鹿げた体験をして成長していったに違いない!と思いたい。まあ、私は、英会話学校に通うくらいなら、酒に金を使ってフリーレッスンだ!なんてちょっと、邪道な道を選んだんだけど。(けっこう、高くついたかしら。)。ま、私にはそれが良かったみたい。みなさんはどういう風に会話を習得していったんでしょうか?いまは、ポルトガル語に一苦労中。英語ができりゃ何とかなるくさ!って太平楽に勉強も日本でしないまんま、ブラジルに突入したおかげで、大変苦労中。。大体、女性名詞、男性名詞って。。。。。。両性でいいじゃない!!!と叫びたい!!が、人生、何でも、太平楽になったらいかん!“なーなーになったらいかん!”ってお母さんがよく、小さい頃にいいよった。(あ、博多弁になった。。)

NATAL

2007年07月05日 23時18分13秒 | ブラジル(NATAL)情報2007
こちら、ブラジルは冬です。が、ここNATALは、赤道に近いので、常夏です!でも、夜は多少、気温の変化があります。ちょっと、長袖Tシャツでも感じ。ま、ここらへんは、“冬”っていうより、“雨季”という感じ。今日は晴れてるけど、雨が降るとこの世の終わりのように真っ暗。しかも、家はビーチにあるので、風が強くなり、風塵雷神が訪れてきそう。。。MINHA AMIGA PARA GUNMA KEN!TODO BEM,KAORI CHAN???!!!

Sao joan Sao pedro…ブラジルお祭り

2007年07月04日 00時10分16秒 | ブラジル(NATAL)情報2007
さて、ブラジルは先月6月はsao 何とかと3回も聖人を祝う日がありました。もちろん、パーティーだらけです。FORROというダンスをする。(ま、1種のカントリーミュージック。カップルでしっかりくっついて軽快にお尻をくねらせて踊る。エクセサイズにもってこいなのだ!ランバダに通じるものが少しある。。)
いつみんな働いているのかしら??って感じ。。。
ここノルデスチ(東北地方)は、ブラジルの中でも、お荷物となっていた区域らしく、政府はあまり構わず、、教育も、何もかもが、なんだかずさんな州だったので、まああ、時間や行動のルーズさは天下一品!“え”と驚かされる事ばかり。
例えば、4年前に、ナタールでは、大きな“TUR”という不動産屋に、家捜しに行ったところ、
1件目、“今から昼食時間なので、1時に来てください。”
1時に行くと、“あら、車がまだ帰ってきてないので、30分後に!”
30分後“ガソリンがからっぽなので。”。。。
私達も、さすがに、“え??”という感じで、怒る気もなくなり、2件目へ。
そこでは、あいにく、人が出払っているので、明日にでも、迎えに来るということ。で、宿泊先の住所、電話番号を告げ、明日、10時に!と解散。
次の日、9時50分。まだ来ない(もちろん、まだ10時じゃないからね!!)。10時来ない(ま、5分10分は遅れるかもしれないよね!)。10時半、来ない(次第に苛立ってきた。)。11時、電話で詫びの電話一つない。で、痺れを切らし、電話すると、“あー、あいにく担当のものは席をはずしています。お伝えしておきます。”と、気持ちの良い返事!でも、それ以来、連絡なし。。。1日をその不動産やがこなかった為に、棒に振る。
べつの不動産屋は物件を見せてくれたが、外国人ということで信じられない価格を提供してきた。。。まあ、そんなことの繰り返しで、旦那は、“よし!地元新聞の物件で見つけよう!”となり、ようやっと、時間も、不動産の条件も約束を守った不動産がいた。今の家は、その不動産から購入した(こういう経験をもとに、今の会社を設立。www.brazbeachhouse.com)。現金買いだったので、5,000レアル値切り、65,000レアル(約200万位)で購入。15mx50mと大きな土地に、本家と離れがある。その後ろにバレーボールが出来るほどの裏庭があるのだよ。まあ、ブラジルの家を知らない人は、とんだ豪邸を想像するかも知れないけど、でかいだけで、ぼろっちい家なのだ。でも、自然が豊富で、毎日小さな猿の軍団が、バナナをもらいにやってくる。いろんなきれいな鳥達が朝から目覚ましの代わりに起こしてくれる。ココナッツ、フルーツの天国。ついでに蚊とも友達にならなければいけない。。。
ご近所はというと、こんなに田舎なビーチなのに、スイス人、イタリア人、アメリカ人、カナダ人、スペイン人、オランダ人ポルトガル人など等、ヨーロッパ諸国からそれぞれこちらに民宿やレストラン等を経営している。その中に、日本人の私と旦那のイギリス人が加わった!ジェニパブビーチという。
ここは、西洋人は全て“GRINGO(A)グリンゴ(ア)(外人)”と呼ばれる。私は、ラッキーな事に、日本人の移民が多いことと(ま、サンパウロ等で、ここは、僅かだけど。。。)、日本人がブラジルに大変経済的にも、発展を遂げていることなどから、殆んどのアジア人には“ジャポネーズ(ザ)”と最初に呼ばれる。(ジャマイカに一人旅に行って、2ヶ月滞在したときなんかは、私の事を、みんな“Miss Chinミスチン!(中国人女性)”と呼び、それを言われるのに抵抗があった私は、一人づつ止め“日本人だ!”と説教して回ったことがある。)
でもここは、西洋人に対して、日本人は大切に扱ってもらえる国なのだ。(それでも、たまには、ぼったくられる。。)

NATAL(ナタウ)ブラジルで生活始めました。

2007年07月01日 23時54分24秒 | emihaについて

さて、ブラジルより、ブログ始めます。
私は、ブラジルはブラジルでも、サンパウロのように、日本人町があるわけでもなく、リオのように、サンバやボサノバがかかっているわけでもなく、そこから、遠く飛行機で4時間あまりのところの、NATAL(ナタウ)というとこに住んでいます。東北地方のど田舎なのです。南のブラジルに行くと、いまは、冬の到来で(日本とま逆)、夜は冷え冷えするらしいが、こちらは、ブラジルの中でも、北に位置するので、赤道にも、アフリカ(?)にも近く、年中が常夏なのです!もちろん、ビーチは大西洋!!日本では味わえない広大な海なのだ!

ま、ここに来たきっかけは、単に私のボーイフレンド(今は旦那。)が、ブラジルに惚れてしまった。。というとこ。そんな単純なきっかけにより、私達は、移住を始めたのです。
1度目は、2004年、とりあえず、家を購入しよう!ということで、日本で必死で貯めたお金で(その頃は、まだ、ドルがこちらの通貨ヘアルよりも強く、約3ヘアル=100円ともってこいだったの)、家を購入し(いきさつは、こんな簡単なものじゃ、なかった!まあ、のちのち、不動産購入までの、信じられない体験をお話しましょう。)、2005年1度日本に帰国。で、2006年に永住権を取得するために、やってきたのです(またこれも、ビーックリするくらいに、大変だった。また、これも、のちのち、ブログの中で、お話しましょう。)。で、6ヶ月かかり永住権(投資ビザ)を彼(現旦那)が取得し、8ヶ月を経て、ようやく婚姻届が受理されたのです()。
あ、ちなみに、私の旦那は、イギリス人。私の地元“博多”で、ご近所だった。というのがなれそめ。。。
今は、二人で、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアと英語圏向けのみに、ブラジル南国ビーチハウスの不動産をしているのだ。ま、かっこ良く聞こえるけど、そうでもなく、客を何とか、ここに呼ばなきゃ話にならないし、ネットでやってるから、まあ、変なメールがあったりと、苦労黒々。。
私は、なかなか、日本語を喋る機会がなかなかなく、1ヶ月に1度喋れれば、良いほうかなあ、という感じ。。
たまーに、ホントに、たまーに、日本人の観光客(日系ではなく、純日本人!)が、ふっと、来て驚かしてくれる。とても嬉しい。さあ、今回の写真は、バギー、ジープ、アウトサイド車好きに是非コメント頂きたい写真。
ここブラジルでも北のビーチでしか見られないサンドバギー私の住んでいるジェニパブビーチがもっとも盛んなところ。
今回の写真はSELVAGEM(セルバージェン)という名前のもっとも、ここで、かっこいいバギー。クラスでいうとA。あとは、COBRA とか、BABYとか、いろいろある。いま、ようやスペインの若者に脚光を浴びだしてきている。日本では全くといっていいほど、知られていない(というのも、NATALに純日本人が殆んどいないというの、東北ブラジルに日本の観光客が来ないから。。。)。日本のバギーは2人乗りで、4輪のバイクという感じ。興味のある人、輸入してみます???
バギー、ブラジルナタール、ビーチ、食べ物、英会話、ポルトガル語、不動産、永住権、投資ビザ、結婚、イギリス人、博多、バーレストラン、音楽、動物、これ、私の多少得意とする分野です。。
Eminha