TROPICAL PARADISE BRAZIL!!!

ブラジルでの体験談等を紹介。国際結婚、永住権、不動産、自動車免許、料理、

私の人生あれこれ (モソロへと行く!) エピソード23

2008年03月17日 04時55分02秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
初めてのモソロ。しかも、日本人がいる???わくわくした。
所要時間約5時間後、大きなそれはそれは綺麗なホテルへと到着した。ま、そこに私たちが泊まるわけではなく、そこが、終着地点だったってだけだ。なんと、そこは、温泉がでるのだ!!!
ええええ???温泉???と、マイクと目をクルクルさせた。ま、日本のように真っ裸で入る入るわけではなく、温泉プールになっているんだと。ま、値段を聞くと、泊りではないので、高い金額だった(覚えていない。。が、高い!!って思って、行ってない。)
私達は、そこから、フェアをやっているところへ、自分たちで行くことにした。タクシーに乗って説明をすると、“まだ、早いからやっていないと思うけど、その辺りまでいきましょうか?”と親切に言ってくれた。
てことで、じゃ、モソロの屋台にでも行って、モソロの名物でも食べよう!!ということになり、連れて行ってもらった。降りるときに、タクシーの人からまけてもらった!!!初めてだった!!普通、“外国人”ってなると、1円でも、2円でも、貰ってやるぞ!ってのが、普通なのに、その人は、“あ、もう、これでいいですよ!”と、切り捨ててくれたのだ。嬉しかったけど、びっくりした
そこの屋台では、どうやら豚の軟骨や、内臓をカリッカリに揚げてあるのが名物のようだった。丸腸ののから揚げを食べた!!美味しかった!!!日本では焼肉がメインだけど、カリッ揚げてあるのもありだ!って思った。ま、食べすぎは禁物
そこから、MOTO TAXIと呼ばれるバイクにまたがり(ま、これも初体験!)、フェアへと行った。そこには、“EXPO FRUTA”と書いてあり、いろいろなフルーツを飾っていた。約40件ほどの出店が並び、業者らしき人達等がいろいろたしなめていた。私達も、いろいろと、輸入の話を、いろいろとし、フッとみると寿司があった。どうやら、寿司を握る機械を展示しているようだった。そして、メロンの展示へ行くと、夕張メロンのような網のめのメロンが綺麗に並べてあった。
そこには、何故か、アジア系の顔が並んでいた。私は、勇気を出して、一つの商店の人に”日本人ですか?“って聞くと、どうやらその人は、3世らしく、私は日本語は分かりませんが、あそこに行ってごらん。あの奥さんは日本人だから。”と言われ、行くと日本人のご夫婦に、“あの、私日本人なんですが。。”と、自己紹介をした。すると、そのご夫婦は、とても、快く、じゃ、いろいろと、紹介しましょう!!と、家族、そして、日本人の人達を次々と紹介してくれ、"明日もあさってもあるから、来るといいよ。私たちのメロンの農場も覗きに来てごらん!!"と、言ってくれ、安いホテルまでも息子さんが探してくれた。そして、寿司は食べ放題だし、ビールも飲み放題。ただだった。私たちと同じ年くらいの日系の男の子たちとも会いとても、楽しい時を過ごした。みんな、ポルトガル語+英語+日本語をごちゃ混ぜにして喋った
次の日、そのメロンの農場を営むご夫婦の農場へと案内してもらった。
まあああああああ、びっくり!!馬鹿でかい農場なのだ。東京ドーム何個分!っていう広さ。
ちょうど農場に行く頃、昼時だったんだけど、行く途中たくさんの労働者ぽい人たちが、このご夫婦の車に頭を下げていた。
“何ですか、あの人たちは??”と聞くと、奥さんは、“あの人たちはね、みんな家で働いてくれている人たちなの。“と言った。ええええ???200人以上の人を雇っているんだと!!ヒエーである
それから、メロンをもぎ取って、出荷するまでの手順を見せてもらい、お昼ご飯を一緒に頂いて、私たちのブラジルへ来たいきさつ、願望、質問等を聞いてもらい、最後に本当に沢山のメロンを箱一杯にくれ、農場をあとにした(何か、小学校時代の工場見学のようだった。)
それから、私は、強くその後夫婦を尊敬した。もちろん、ジェニパブに戻って、日本に帰ってからも、連絡をすることはなかったが、たまに、私から、一方通行に絵葉書などを3ヶ月に一度ほど送る程度だった
このブラジルのモソロで出来るメロン ジャポネーズに興味のある方、行ってみては???いろいろ研究家の人たちはやってきます。
"OTANI AGROPECUARIA LTDA."大谷さんです。

私の人生あれこれ 悪あがき。エピソード22

2008年03月17日 04時42分45秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
おっと、まだ、日本には帰ってられないのだ!!!日本に帰る前に、悪あがきをしよう!!!だって、そこそこ半年で日本に戻るとは、ちょっと、恥ずかしいではないか!!
私たちは、いろいろと、どうやって、ここに居残ることが出来るかと、常に毎日考えた。家は購入したものの、まだ、二人とも観光ビザ。期限は刻々と迫っている。しかも、お金も大分そこをついてきた。ラッキーなことに、私は、日本へのリターンチケットが、その頃は、ヴァリグ航空を使っていたので、FIXのチケットだったけど、日付を一回だけ変更できるというものだった。ので、ビザギリギリの日付に変更していた。(ただ、東京まで。。。博多までは別料金だった。。)
いろいろ考えたところ、
“そうだ!!日本に何かここから、輸入しよう!!”って事なのだ。
まああ、そんな風に考えると、いろいろと、舞い込んでくるものなのだ。で、SEBRAEセブラエは、国の管轄のもので、中小企業にいろいろな行事を教えたり、あと、セミナーをやったりとするところ。で、ちょっと、行ってみた。すると、MOSSOROモソロ(ナタウから北に約00KMほどのところにある大きな街だ。)で、フルーツ輸入輸出フェアを来週やるという
で、担当の人がいい人で、
本当は関係者だけだけど、とても、いい考えだから、コネを作るためにも、一緒のバスに乗って行っていいですよ!しかも、そこには、何件か日本人の農場の人達もいるし、寿司屋なんかも去年はやってたし、紹介しますよ!”ということだった。
早速、私たちは、次の週に一緒にバスに乗せてもらい、モソロへ行った!!

*SEBRAE(セブラエ)ブラジルで中小企業を営んでるかた。また、今から考えの方、覗いてみてください。何か役立つかもしれませんよ。ま日本で言う商工会議所みたいなものかな???

私の人生あれこれ エピソード21(一回目最後のブラジル)

2008年02月22日 00時18分38秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
さて、私達は、ビザの期限のギリギリまで、ここ、ジェ二パブに住むことになった。当時はまだ、ウ゛ァリグというブラジルの国際線を主に扱っている飛行機会社があって(今は、倒産状態。。。)、FIXのチケットだけど、一回だけ期日を変えれる。というチケットだったので、ブラジルに入ってから180日後の日付にした。さて、私達は何をしていたのか?というと、実は、何もしていない。お金も十分ではなく、もちろん、二人とも観光ビザなので、不法労働をしようなんて、頭もなかった。
毎日、うだうだと暮らした。ま、殆どがバギーに対してのストレスだ。だって、毎日止まるんだもんね。。。いろんな人によく押してもらった。おかげで、アクセルとクラッチを"カツン"と変えて、エンジンをかけるのは、上手になった。。。。"これか、教習所で習った事のあるキックスタートちゅうのは。。。"
ま、私は、11月にマイク(当時はまだ、ボーイフレンド)より先に日本に戻る事となる。

私の人生あれこれ エピソード20

2007年12月07日 04時51分54秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
さて、家も買い、車も買い、何だか、普通にブラジルに住んでいる気になってきたぞ
次の日、早速、バギーの試し運転に、ビーチへとくりだした!!
バギーは4駆だと思っていたら、何と、FFなのだ。そんなんで、まー、よく深い砂丘を駆けめくっているなあ。と関心。
さ、今日の海は、しけりつつある。ジェニパブビーチから、渡し舟に乗り、隣のビーチ、BARRA DO RIO ビーチへと、向かった、そこから、ビーチ沿いを走って行くのだが、もう一度言うが海がしけりつつあるのだ。。そんなことを私は心配していた。だんだん、ビーチの幅も狭くなり、たまに当たりそうになる。。。で、私は、マイクに、
“ねええ、もう、今日は止そうよ。だって、しけってきようやん。向こうの方とか、ほら、もう、ビーチ無くなっとうやん。”と言うと、さすが、楽観的なマイクである。
“またー、さっき、来たばっかりだろ。このバギーともうちょっと、楽しもうよ!大丈夫って、エミなら、越えれるから!ね!行こう!行こう!”と、言った。そうマイクが言うと、だいたい後には戻れない。私は、全力でビーチを駆け抜けて行った
が、私の嫌-な、想像が当たった。波がバギーに当たってきたのだ。それを避けようと、ちょっと高めの方へ切るが、そこは、罠だった。超柔らかな砂なのだ。バギーが止まった。前にも後ろにも進めない。。波はじりじりと、押し寄せてきた。波が砂をさらって行くたんびにタイヤも埋まっていきだした。。。私はマイクに、
“前輪の下に、板を置け!!そして、タイヤの空気を少し抜け!”と言った、マイクは、板っきれを、縦に置くべきか、横に置くべきか迷っている。そして、彼は、空気の抜き方を知らないのだ。。。。彼は、運転もしたことが無く、もちろん、免許なんか持っていないのだ。車に一切興味の無い男なのだ。で、私は、車から降り、棒切れを探し、空気を抜き出した。その間、彼は、見ているだけなのだ。。私は、いらっとし、
“何しようとね!!!はよ、誰か呼んでこんね!!!!”と、癇癪玉を落とすと、さーっと、通りのあるほうへと、走って行った。私は、その間、しきりに、どうにかならないかと、あれこれやっていた。とうとう、背後にあるむき出しのエンジンにも、波が被って来た。そして、助手席側からも波が被ってきだした!!!やばい。。タイヤも半分近く砂に埋まってきたのだ。
あ、誰かマイクが連れて来た!!その小父さんは状況を見て、
“ちょっと、待ってろ!力のある奴何人か呼んできてやるから!!”と、走って行った。そして、すぐに、4,5人のどう見ても、ドカタか?って、感じの体つきの小父さんたちがやってきた。そう、その頃には、私のバギーは水浸しである。。エンジンはかからない。。で、必死に、砂から押し出し、30分後、かわいそうなバギーを助け出した。私は、意気消沈していた
“せっかく、買ったのに。。修理してなおるのかね、これは。。
てなくらいに、海水が、どこそこに、入り込んでいるのだ。でも、何とか、バギーの修理屋がここから、2km位にあることが分かり、助けてくれた、小父さん達に、お礼に、10ヘアウづつ渡そうとしたが、小父さん達は一人を除いて全員が、
“いや、おれ達は、ただ、助けただけだ。働いた訳じゃないんだ。気持ちだけでいいんだよ。”と、言った。でも、
“これも、気持ちの一つですから、受け取ってください。”と言うと、その中の合意しなかった一人の小父さんが、“じゃ、俺がもらっておくよ。な?”と、受け取ったら、別の小父さんは、
“そんなことは、しちゃいかん!罰が当たるぞ!もう、俺は知らん。親切を金でうっちゃいかん!”と、怒って帰ってしまった。他の小父さんも、
“ま、若いの、バギー直るといいな。”と言って、去っていった。
程なく、修理工がやってきてくれた。すんとも言わないバギーを結局、牽引する事になった。
さ、残ったのは、金に汚い、親切を金で売った男だ。
“まあまあ、修理工に一緒に行こうじゃないか。”と、言った。私達は、もう、この小父さんが嫌で、しきりに、“もう、いいですから。あとは、修理工の方にお任せするので。”と、言ったが、家がその近くだから。と言う。仕方なく、一緒に行った。その彼は、着いても帰ろうとしない。。。バギーの修理には、20分ほどかかりそうだ。(ま、応急処置をしてもらったようなもの。)
そして、その小父さんは終いに、“100ヘアルくれよ。俺が、みんなを呼んで、ここまで連れてきてやったんじゃないか。それくらい、朝飯前だろうよ。"と、言った。私達は、この小父さんをとても憎んだ。マイクは、
さっき、もう、渡したじゃ、ないですか。それ以上の持ち合わせはない。”と。きっぱり断った。すると、その小父さんは、“金持ってないのかよ。”と、言って去っていった。。。嫌な体験をしたものである。ま、これも、一つブラジル人の顔なのである。モラルの違いだろう。ま、応急処置をした、バギーに乗って、ジェニパブへと帰っていった。とんだ、日帰り旅行であった。
これが,バギーですわ。

私の人生あれこれ エピソード19

2007年10月26日 23時15分22秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
わー、とうとう、私達は、家を購入した!もちろん、口座をこっちで持っていない私達は、一括現金だ!!といっても、当時、まだ、NATALは、安く、しかも、ブラジルの貨幣REAL(ヘアル)も100円―3R$くらいだったのだ。
(今、現在2007年は、NATALの物価も次第に上がってき、!US$-2R$から1,8R$くらいと、高い。。。イギリスポンド、ユーロをお使いの人には、まだまだ、安い!!1ポンドー5R$,ユーロは、3,5から4R$くらいじゃないかな??)。
*****さて、私達の住む“PRAIA DE GENIPABUジェニパブビーチ”だが、NATAL市内より車で約20,30分のところにある。ここジェニパブビーチは、とても広大な砂丘が広がり、イルカが時たま遊びにもやってくる。小さな町だが、何故か外国人が多い。スイス人、オーストリア人、フランス人、イタリア人、アメリカ人、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人、チェコスロバキア人etc。。BUGGY TRIP そして、ジェニパブ砂丘の目玉でもある“ラクダ???”。これも、フランス人が遠くエジプトより運んでき、いまでは、“ジェニパブ=ラクダ”と言えるほどの有名な観光名所になった。ビーチの右端には、“BAR21バービンチウン”と呼ばれる観光スポットでもあるレストランはイタリア人(オーナーは、亡くなり、今は、その奥さんがやっている。)である。そして、第二の観光スポットになってしまった、レストラン“RAPA NUIハパヌイ”も、また、ドイツ人が設計をし、オランダ人の経営する店である。この店を今、切り盛りしているのが、何を隠そう、そう私日本人なのだ!!!!
さああ、お金の問題も解決し、いよいよ、住んでみることになった。まず、車を買った!まあ、ここは、何故か中古車がべらぼうに高い!!!日本だと、10年落ちの車で、8バックの車だと、探せば、10万位で買える。ここは、10年以上落ちていて、メーターはもう10万超えていて、エアコンは付いてないは、パワーウインドウでもない。。。しかも、オートマはない。。。ポンコツ車で、それくらい。(でも、当時3000R$が10万円として、ブラジルではやはり、日本円で30万円くらいの価値になる。)
私は、FORDの車に指を指し
“オートマはないのか?”と、聞いたところ、そのオヤジは、
“オートマだって??そりゃ、アメリカの車にしかついてねえよ。”とFORDの車を指して言った。
FORDはどこ車?????アメ車じゃない!!!!ま、捜し歩いて捜し歩いて、“これは!”と思える車はなかった。で、はっ!!バギーはどうだろう??と思った。調べてみると、まあ、バギーならそこそこのものが買えそうだ。で、早速、現金を持って、値切って買った。運転はもちろん私だ。マイクは、免許を持ってないのだから。。。
中古車屋からガスステーションまで、200m。
“ブオオオーン”とエンジンがかかった!ひゃほーい!ブラジルで最初の車だい!!!勢いよく路上に出た!!
50m、100m、あれれれれ。。。
だんだんスピードが落ちくるじゃないの!!!ふかしても“プスン、プスン。。。”といって止まってしまった。。背後の車にクラクションを鳴らされ、焦った!!ショックのあまり、シートベルトを外しにかかろうとしたら、“プツン!”と切れた!!え???シートベルトが切れた!!!
マイクは“え?どうしたの????”と、何も分かっていない様子。私は、マイクに“後ろから押せ!!”と言った。何も分からないマイクは、炎天下の中、バギーを押した。ガスステーションが出てきたぞ!!きっと、ガス欠だろうと、思い、付ける。満タンにした。が、うんともスンともいわない。。。腹かいたマイクは、中古車屋のオーナーに怒鳴り込みに行った。(だって、そこから300m先なんだもん。しかも、Uターンしてからなので、ほぼ、向かいなのだ。。)で、オーナーは、
“じゃ、バッテリー、俺のと換えてやるよ。”だって。まああ、礼儀のない奴だ!!シートベルトの文句を言うと、“そりゃ、バギーだもん。こうしてこうすりゃ、乗れるよ。”と、切れたところを、型結びして、終わった。これが、ブラジルか。。。
ま、バッテリーも交換し、何とか、左ハンドルの車にも慣れてき、家路へと向かった
暗くなってきた。ヘッドライトを付けた。。。“点かない。。。。。。”。確かに、これなのだ。。。スモールライトは点くが、肝心のヘッドが。。。しかも、家路の途中、真っ暗で、丘を幾つか越えていくのだ。その丘には、家も殆んどなく、しかも、ここら辺は、盗難に襲われやすい為、なるべく、スピードを上げていくのだ。。。そんなところでライトがつかんなんて。。。。。。。なんとも、まあ、不幸なバギーを買ったのだ。名前は、“DUNEジューン(砂丘)”と名づけた。R$3300-.このDUNEと、ハプニングが始まる。。。

私の人生あれこれ エピソード18

2007年10月26日 22時54分12秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
さて、問題はAOOOXだ(トラベラーチェックの、某会社)。何度も“NO”と爆弾を落とされ、私達も戦った!全ての書類をあらゆるところから、FAXで攻め、1週間のちに電話したところ、“OK”となった!!(ヒャッホー!!)でも、基本的に、T/Cと言うものは、1日2日で、再発行出来るものらしい。が、1ヶ月かかると言われた。
私は、おいおい、ちょっと待て??もしかして、わざと長引かせてない??と思った。でも、そこは、粘りのマイク登場!!マイクはつかさず“1ヶ月ですね。では、もう紛失届けをそちらに出してから、かれこれ、20日程経ちましたね。てことは、来週の頭には出来るという事ですね??”と尋ねると、“いや。。。”と小さな返事。マイクは、もう再発行するという声を聞いたので、あとは、押しにかかった。“でも、そちらの再発行の条件は、1週間とありますよ。で、今、1ヶ月と??で、なおかつ、今から1ヶ月かかるとおっしゃいましたか??これは、おかしいですね。。。今すぐ手続きを開始して、来週頭には、終了してください!!こちらは、そちらの余計なミスの判断によって、心から疲れているんです!!それ以上延ばすと、私達は、法的な手段に出ます!”と、的確に、落ち着いて言った。これによって、AOOOXは、迅速に執り行ない、その後1週間で、全ての再発行が出来上がった。盗人にやられてから、1ヵ月後である
まあ、しかし、悪人は、お金の匂いをすぐに嗅ぎ付ける。スーパーに行ったとき、たまたま、駐車場で働いていた、若い子が近寄ってきて、
“おれさ、知ってるよ、お前さんたちの犯人は絶対に、ホテルの奴だぜ。ETC.ETC...”と勝手に話しかけてきて、最後に
“ちょっと、お腹減ってんだよ。少し恵んでくれねえか?また、情報持ってきてやるからよ。”
だって。。。“犯人はお前かよ!!!?”って、いいたくなっちゃった!!その後、そのあほブラジル人とは再会していないが。。。犯人はもちろん未だ捕まっていない。(今でも、そこのビーチ“Praia do meio”に行くと、あまりいい気分がしない。。)

私の人生あれこれエピソード (Brasil)17

2007年10月19日 03時23分41秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
泊まっていた安ホテルのすぐ近くに観光専門の交番があった。ま、てことは、スリとか、麻薬とかが多いと言うこと
友達(?)で、ポルトガル語を教えてくれた小父さんに通訳を頼み、訳を話した。マイクも、私も、動転していて、訳が分かんなくなっていた。一緒に、警察本部へと向かい、調書を作ることになった。ま、警察もびっくりだ。あんな、安ホテルに、T/Cとはいえ、大金を置いていたのだから。。それから、私は、日本領事館レシフェへと連絡を取る。幸い、私は、パスポートのコピーを所持していたので、再発行はスムーズに進めることが出来た
しかし、問題は、T/Cだ。本当にびっくりするほどに、私は、これほどに、Axxxx会社を疑ったことはない。こんな大きな会社にて、非常に権力を利用し、消費者を屁とも思っていないのだ
ま、とにかく事の成り行きを説明しよう。私達は、T/Cを全て日本で購入した。何事もきちんとしないときが済まない私は、毎回、T/Cを両替するたびに、全てのレシートを保存していた。
さて、泥棒に持っていかれて、すぐにAxxxに電話をかけた。まあ、この緊急電話も、あちゃこちゃと、複雑で、イギリスにかけるとアメリカの本部に掛け合ってくださいとか、まず、IDとして、パスワードを取得してくださいとか、言うのだ。しかも、超機械的。ま、それから、やっと、Axxxの本部に問い合わせることが出来た。まず、マイクが、事の流れを担当の女性に話した。彼女は、“あ、そうですか。では、全ての使用されたT/Cのナンバー、日付、また、盗まれたT/Cのナンバーを詳しく書いて、FAXしてください。”と言われたので、言われるとおりにした。次の日、また電話をした。すると、違う女の人が出てきて、“会議の結果、そちらは、ブラジルですよね?いまだにT/Cが使用されていないというのは、不思議なんですよねえ。よって、今回のT/Cは再発行出来かねます。”と淡々と言うのだ。びっくりの答えに爆発したマイクは“意味が分からない!誰も盗まれたT/C使っていないから??そちらは、こちらが嘘をついているとでも??警察証明も送りましたよね??再発行できないとは??”と言うと、“あー、ちょっと、声が大きくなっていますね。それじゃ、話にもなりませんので、話は以上と言うことになります。”と、上げ足を取った、まあ、何と言うか、しゃくな返答だった。ま、そこは、マイクも声を押し殺し、“では、どうしたら再発行していただけるのでしょうか?”と聞くと、“そうですね、ま、誰かそのあなた方の言う泥棒が1枚でもT/Cを使ったら可能でしょう。”とそのAxxxの女の人は答えた。なんか、人間味のない奴だ。とりあえず、頼み込んで、1週間後にまた、電話することになった。
その間、私は、恐怖と、親切のかけらもないAxxxに憤りを感じ、高熱を出してしまった。それを感じたマイクは、不動産屋にかけあい、事情を話し、支払いや、全ての書類を完成させる前に、ジェニパブの家に移らせてもらえるように頼んだ。そこの不動産は、快く、“構わないよ。すぐにでも鍵をお渡ししましょう。‘とOKしてくれた。私は、熱でふらふらになりながらも車をレンタルし(あ、マイクは車の免許は持っていないのだ!!)荷物をまとめて出ることにした。
もちろん、その安ホテルには支払いはしなかった。それは、セキュリティーを置いていながらも、犯人を見ていないということ。あと、この安ホテルには、以前にも外国人が窃盗され、しかも、その犯人は捕まったが、そこの従業員で、無所に入ったが、出てきて、そこでまた、働いていたのだ。まるで、そのホテル全部が窃盗犯なのだ。それが警察から聞かされ、支払いをやめた。そして、さっそうと、ジェニパブの家に行った。
その夜、私たちは、“あー、やっと、ゆっくり眠れるね!”と言いながら深い眠りに入るはずだったのだが。。。
なんと、ここジェニパブは、広大な砂丘と湖があり、蚊が多いのだ!!知らなかった私たちは、窓を開け寝ろうとしたのだ。“
ブーン”“ブーン”と耳元で聞こえ次第にその数は増え、窓を閉めたが、数は減らず、足の先まで、シーツを被り、シーツの上からでも刺してくる蚊に奮え、汗びっしょりとなったまま、朝を迎えた。もちろん、眠れるわけがない。。。
“私たちは、ブラジルに居たいのか??こんな経験をしてまで??”と、何度も、心の中で繰り返した
次の日、私は、Axxxで、日本語カタコトの通訳者つきで話した。私は、この女の人にかなりの嫌悪を感じており、“日本語の通訳ではなく、日本人のAxxxの人と話をさせてください。”と懇願した。すると、飄飄とその女の人は“不可能です。私が担当なのですから、替えることは出来ません。日本の電話番号もお教えできません”と言うのだ。もちろん、私のT/Cも帰ってこないというわけ。毎日、電話をして担当を替えるように言った。が、答えは同じ。1週間後、私たちは、傷心し、もうこうなったら、力のある人を探すしかないと、なった。心配をかけさせたくなくて黙っていたが、私は、日本の姉に電話をし、訳を話し、姉は、日本のAxxxの番号を探してくれ、“OOさんに言ったら、それは、おかしい話だ!!妹さんに、電話をこちらへかけてください。って言ってくれたよ。”と強い返事が来た!早速電話をし、すると、その人は、“きっと、お金もお困りでしょう。私が、電話しなおしてあげますよ。何番ですか??”と全てを無くしかかってる事を心配までしてくれた。そして、彼が、Axxxのアメリカの本部に伝えてくれることとなった。で、まあ、私のT/Cは辛うじてOkになったのだが、マイクのはまだ駄目だと言う。
こうなったら、やけくそ、ブラジルには、“PROCOON”と呼ばれる消費者の苦情を受け付けてくれる場所がある。そこに行ってみることにした。そこには、敏腕の弁護士などが控えている。で、英語の堪能な弁護士がいて、事情を話すと、“ブラジルだから信用にならないと言うことなんですね。じゃ、まず手始めに、もう1度、警察のところに言って、T/Cの会社がそう言ってるといってみてください。”と言った。
私たちは、もう1度行き、その旨を話すと
“なんだと!!警察証明も私の判子入りで送ったのに、信用ならないだと!!よし、そこの若いの(私達のことである。。)。わしが、もう1枚、書いてやる。これでも、信用ならんのなら、相手になってやる!とアメ公に伝えるんだ!!こりゃ、全面戦争だ!!”と、所長は、大怒り。で、書類を作ってもらい、また、弁護士のもとへ行き、その書類と、弁護士に書いてもらった、書類をFaxで、何枚にも渡って送った。私たちはそれでも、駄目だと言われたら、訴えるつもりだった。それくらいにAxxxはひどかったのだ。Faxを送り、まだ、意気消沈してる中、車に戻った。“あれ??車が。。。ここに止めたはずの車がない。。。”ちょっと、目先が真っ暗になった。もう1度、警察本部へと行く。マイクは、血相を変えて、“今度は、車がなくなった!!!! ”と、所長に叫んだ。それと同時に、必死で耐えてこらえていた私の神経は、“ガラガラ”っと崩れ落ち、腰の力が抜け、泣き崩れてしまった。マイクは、所長と共に、駐車していた場所へと向かった。私は、警察の人に、お水をもらい、背中をさすられたまま、
“もう、帰ろう!日本に帰ろう!もう、こんな場所には居たくない!!なんで、私たちだけが、こんな目にあうの!!ブラジルなんて。。ブラジルなんて。。”と、一人、日本語で、ぶつぶつ言っていた。
10分後、マイクが帰ってきた。
エミ!!安心しろ!車は見つかったぞ!!”
“へ??見つかった??”と私。マイクの横の所長さんも、ニコニコ顔だ。“どうやって?どこに???なんで??”って聞くと、“話は、あとだ。”と言って、署を出た。
話を聞くと、こうだ。
マイクと所長は、車があった場所に行った。そこには、幾人か車を見張っている若い子達がいる。その一人に、所長が聞いた。
“おい、お前。ここに止めてあった白い8バックの車どこに行った?”
“いや、知らないです。。”
“だから、お前は、ここの番だろ!知らないとはなんだ!”
“本当に知らないんです。”
所長は、その若いこの胸倉を掴み
“本当のことを言わんとお前も豚箱行きにするぞ!!!!”と、殆んど、殴りかかる寸前だった。
その時、マイクは“ハ!!”っとした。“まさか。。。。。。”と思い、所長に“ちょっと。。。”と、声をかける。所長は、ヒート寸前の手を下ろし、“なんだね??”と、マイクのほうへ行った。二人は、なにやら話しながら、路地へと曲がった。
で、マイクは、“やっぱり。。。所長、、、言いにくいことなんですがね。。どうやら、私たち、1本道を間違えていたみたいで。。。ほら、ありました車。ここに。。。。”と、指を刺した。
そうなんです。。私たちは、二人して、道を一本間違えていたんです!!!!そりゃ、その間違えたところに車はあるはずないし、その若者も知るはずはないのだ。。。。
でも、その所長さんも若い人も、腹かいて“相手にならん!!”と言われるかと思いきや、
“あー、良かったね!!!!車が見つかって!!本当に良かった!!”と、すぐに、笑顔で喜んでくれたのだ。穴があったら入りたいとはこのことで。。。。。
私たちは、迷惑をかけた若い子に5R$渡し、所長さんには、頭を下げそこを出ることになった。。。。

私の人生あれこれ (Brasil)エピソード16

2007年10月18日 02時35分55秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
さて、いろいろと、家を見に行った。まああ、びっくりすることに、屋根はあっても、天井のない家ばかり。。。そして、窓も大体、木で作られている。ガラスじゃないのだ。そして、日本だと、大体、物を売りたいときには、何かしら綺麗にしておくものであるが、ここでは、違う。。埃はしっかりかぶり、庭も荒れ放題なのだ。浮浪者でも居そうな感じ。。。ちょっと、見栄えを良くしておこうとは考えないのだね。。で、探すうちに一件何とか住めそうな家に出くわす(ま、それが今の家。)。で、購入を決める。(私たちは、決断が結構早かった。決断を延ばし伸ばしにすると、結局は、何も買えなくなるものなのだ。)私たちは、クレジットカードを二人とも持っていなく、全て、トラベラーチェックで、持参していたので、毎日Banco do brasilに行き、両替した
*ブラジルでは、1回のT/Cの両替は3000R$までと決められている。(その代わり、手数料は、一定なので、両替屋よりはレートも良くなる。)行って見られるとわかるが、1回並ぶと2度目は遠慮したくなるくらいに、人がいるし、待ち時間は相当なものなのだ。。銀行のカードでも、3000R$以上のお金を引き出す際には、前もって、銀行側に、“明日、いくら引き落としたいのですが。。”了承を得なければいけない
ま、そうこうお金をせっせと両替してるときに、変な日本語が背後から聞こえてきた“あなた、日本円交換するの??日本人??こんにちは。。”振り返ると、ちょっとふとっちょのせっかちな男の人が私に話しかけていた。“ギョ”と思った。だって、その人は、“いやああ、僕は、リオから、家族と旅行に来ているんだ。何??両替するの??僕について来て、こんな、列に並ぶことはないよ。だって君たちは大きなお金持ってるんだ。”と言い、せっかち親父は私たちを列から外し、さっさと、カウンターの前列に行き、“あー、ちょっと、この外国人サンたちは、日本円を変えたいそうだ。なんとかしてやってくれ。”って。“じゃ、僕は失礼するよ。あ、ところで、どこに泊まるってるの?僕の奥さんは日本人なんだ。遊びに来るよ”と言うので、私達の泊まっている安ホテルを紹介した。そのせっかち親父が去ったあと、もちろん、私たちは列に戻り、順番を待つことになる。。有りがた迷惑。。。
その日の夕方、そのせっかち親父が、日本人妻と、子供を連れてやってきた。どうやら、ここに泊まるようだ。日本人の奥さんと話した。久々の日本語で、感動するところだったが、話があまり。。。。と言う感じ。嫌いではないが、苦手なタイプで。。。。。。なんというか、さっぱりしてないというか、話で笑えないというか。かみ合わない。。。。その旦那は旦那で、冗談を言っては、自分で笑って、せっかちの早口。。おもしろくない。。
夜、食事に一緒に行こうか?と誘ったが、どうやら、その家族かなりお金を詰めて旅行しているらしく、“そこのレストランは高いですか??”“普通かなあ。”って言うと、“いやああ、もっと、安いところを探すので、遠慮します。。”って言われた。。。。(ま、私だったら、久々の日本人再会で、今夜くらいは!って、一緒に行くけどなあ。)で、食事してホテルに戻ると、その家族はもう戻っていて、ちょっと、会話をした。で、“金曜日だし、せっかくだから、外で、ちょっと飲みましょうか?”と提案したけど、“あー、やめときます。。。”って言うので、”じゃ!“と言って、私たちは、ビーチに飲みに行った
ホテルにちょうど12時1時戻る。ここは、多少の蚊がいるので、神経質だった私は、手にグローブをつけ、靴下を履き、その中に長ズボンのすそを入れ、長袖シャツ、で寝ていた
朝が来た。トイレに行きたくなった私は、寝ぼけ眼で、用を足し、また眠りに着こうとしたが、その時、ふっと、周りを見た。足元に置いてあった小さなリュックサックがない。フッと見ると、かけてあったバックがない。良―くちょっと二日酔いの頭を整理してみた。ベッドの下を覗いてみた。ない。クローゼットの中にある大きな、バックパックはある。妙だ。。妙だ。。と、手袋をしたまま、1,2分。ベッドに座ったまま考えた。で、これは、おかしい。。。か??と思い、マイクを起こす。もちろん彼も二日酔い。。説明すると“はああ??”って感じのかれは、ゆっくり辺りを見回した
何日も通って両替したお金は、辛うじて取られていなかったが、私のナイキのかわいいショルダー(その中には、パスポート、500R$、T/C10万円分、ETC)で、来週洗わないかんねええ。。なんて、思っていた汚れ物を入れたバック(このポケットには、T/Cが100万円分)、テレビの上に置いていた、薬箱(正露丸とか、大正胃腸薬とかね。)と、小銭。そして、マイクの汚いバック(この中にもT/Cが100万円分)が無くなっていた。きっと他にもあるだろうが、分からない。。クローゼットに入れていた、バック、お金、カメラ、ビデオ、マイクのパスポートなどは、無事だった。どうやら、開けなかったらしい。でも、これって、強盗?????ひいいい
それから、フロントに降り、警察に行くまでは、誰もが、犯人に見えた。日本人とブラジル人の家族が、“おーい!おはよう!!”と、近寄ってまた、あさから、ぺちゃくちゃと話し出した。が、その時は正直“うざい”と思った。。
ドアには鍵がかかっている。でも、窓の鍵は、サッシが悪く、かからなかった。どうやらここから来たようだ。しかも小銭がなくなっているところから、寝てる合間だ。名探偵EMINHAの鑑定が始まる


私の人生あれこれ(Brasil) エピソード15

2007年10月17日 04時10分30秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
さて、ずっーと、POUSADA(いわゆるペンション)に泊っているわけにもいかないのだ。だって、安いとは言え、1日70R$(当時2500円位)はいい金額だ。家を買いに来てるわけだから、そんなところで、無駄金は、使ってられないのだ
で捜し歩いてる時に、たまたま、Praia do Maioというビーチ沿いに見るからに安そうなホテルを何件か見つけた。で、マイクが金額を聞きまわってる頃、私は、荷物と共にレストランで待つことになった。待つ間、本を読んでいると(もちろん、日本語の本。)、“もしや、お嬢さん??(ポルトガル語で)”という声が聞こえたが、無視した。すると今度は、英語で聞こえてきたので、振り返ると、まるで、70年代のヒッピーから出てきた様な、仙人のようなあごひげが長くカーリーヘアーで、丸い眼鏡をかけた小父さんだった。ひげを触りながら、
“一人のようだが、困った事でもあったかい?
と聞かれた。(おっと!!ここに、なんと、どうやら英語を喋る人がいるぞ!しかも、どうやら、ネイティブぽい!)ま、踊る気持ちを抑え、
“いいえ、ありがとう。でも、今、私の彼が、ホテルを尋ねていてもうすぐ帰ってくる予定です。あなたは、どちらの方ですか?”
と聞くと、何とスコットランド人。名前はGeorge(ジョージ)。マイクと同じ国の人だ!どうやら、彼は、Fernando de Noronha(フェルナンド デ ノローニャという離れ島に住んでるらしい。で、年に何度か、病院通いの為に、Natal(ナタウ)にくるらしい。
*Noronha島というと、とても美しい海に囲まれ、イルカが住み着いていて、人々が精神面の医療を求めてやってくるという有名で美しい島だ。かなり癒されるらしい。Natalからは、飛行機で1時間程。
マイクが、帰ってきた。最初、訝しげに私とジョージが話しているのを見、紹介するとびっくりした。だって、英語圏の人間でしかも同国。マイクは、訳を話すと、ジョージは、“そんなことなら、俺と同じところに泊まれよ。超安いし。ま、錆びれてるが、ビーチ沿いの部屋なら、なかなかだぜ!”ということで、決定。1日1部屋20R$(ヒー、約500円。経験上、最高に安い!ジャマイカでは600円だった。インドネシアとか、マレーシア、あと、韓国では、1000円くらいだったもんなああ。まあ、それでも安いか???)!。1ヶ月だと、500R$に安くしてくれるらしい。しかも朝食付。(だいたいどこでも、ブラジルでは、朝食つき。そして、一人いくらではなく、一部屋で、換算される。リオの場合は朝食が設けられていないところもあるらしい。)ビーチ沿いの2階に部屋を取り、一時、家を買うまでの間、泊まることになった。ここは、Natalの町にも近く、交通の便が好いのだ。しかも、2Fで、ベランダからはビーチが望める。最高じゃないか??横には、por Kilo(ポルキロと呼ばれる1kgのはかり売りのビュッフェスタイル)のレストランもある。
ちなみに、Self service(同じように、ビュッフェスタイルだが、これは、ポルキロとは違い、皿いっぱいに盛って一定の値段。私の柔術友達らは、それをポルキロに対して、盛りキロと名づけている。。。)ちょっとした観光地でもあるので、夜も、屋台が道沿いに並び賑やかな場所。ただ、ポンタネグラに比べると、こちらは、ブラジル人の観光客が多い。ので、ちょっと、気ぜわしいところがある。。。さっそく、家のリサーチを始めた。もう、観光の気分ではないのだ。。バスで、南に行ったり北に行ったりと、毎日結構、歩きずくめできつかった。しかも、安ホテル暮らしなので、昼夜は外食。。。あっさりしたものや、沢山のサラダとか欲しかった。どこも、塩が濃く、そして、こってり煮が多いのだ。暑いからだろうか?不動産屋にも何度も足を運んだ。ここは、見栄張りが多い。。外見はとても、綺麗に作ってあったりするが、中に入ると、ガラーンとしていて、あちこち、壁が剥がれていたりする。。しかも、内装と同じで、業者も、ちゃんと、シャツとズボンや、綺麗なスカートを穿いているわりに、何にも物件に関しての知識もなく、格好だけ、プロ意識を持っているのだ。ま、そんなで、10件くらい回って、ようやくまともな不動産に出会う

私の人生あれこれ(Brasil) エピソード14

2007年10月09日 05時17分10秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
2003(?)年5月29日はマイクの誕生日だ。まだ、私たちは、ここポンタネグラビーチにいた
“Passeio do Buggy”というのが、ここナタウでは有名なのだ。砂丘とビーチを走っていくバギーツアーだ。さっそく、それをやることにした。別のブラジル人のカップルと一緒に乗り合いすることになった。朝8時に出発。バギーの後部座席に乗り太陽の下を走っていく。ポンタネグラビーチから北のビーチを目指す。途中、ストローハットの屋台や、テントなどに止まり、エスペティーニョという焼き鳥を食べたり出来る。なんといってもラゴスタ(ロブスター)が、安くておいしいのだ!それに、きんきんに冷えたビール!最高!
このバギーツアーの見所は何といっても隆起している砂丘を豪快に“バギエロ”と呼ばれるバギーの運転手が“これでもか、これでもか!”と運転のすごさを見せびらかすことだ。まあ、ジェットコースター並みに怖い!!しかも、後ろに座っているメンバーは振り落とされないようにしっかりとポールを捕まえておくことだけ。悲鳴を上げれば上げるだけバギエロ達はフロントミラーからちょろりと後ろを伺い、運転のレベルを上げていく。私は、基本ジェットコースターとか普通の絶叫マシーンが好きなので、叫びながらも楽しんでいたが、今日のバースデーボーイのマイクは、バギエロの助手席に座り身を小さくしていた。声も出ないようだ。。。そういえば博多でも二人で北九州のスペースワールドに行って、マイクはビーナスに無理やり私に乗せられ、降りたときに涙目で“喘息がでてきたあああ。。”と言っていた。まそれよりは、怖くないね。悪魔の私。。ヒヒヒ。。
そして、ようやく、中継地点の50km離れたムリュウビーチに沿いにあるレストランへ着く。そこで、昼食をとり、砂丘の中にあるアトラクションへと向かう。“え?これでいいの??手作り?大丈夫?”と勘ぐるようなものばかりだ。ロープが砂丘の天辺から吊るしてあって、棒切れを捕まえたまま、スライドして湖に落ちていく。下にはいかだにのったおじさんが待ち構えていて、陸まで連れて行ってくれるのだ。あと、これまた、天辺から池のようなところにスライドして滑っていくんだけど、サンドボードを似せて作った板切れ。それに、ロウを刷り込み、両手を軽く砂地に置いて滑る。両手で、バランスを取り、しかもブレーキにもなるというもの。まあ、へたな小細工がないだけに、スピードも速くまた恐怖感も倍増する。そうして、また、乾いた喉を潤すべくビールに手が行くのだ。そして、約3時半から4時頃に宿泊地へと戻る。
一人約50R$(今だと2500円くらいか。当時は円が好調だったので1800円くらいだった。)、1台貸しきると大体相場は200R$から250R$。でも、違う人と乗り合いも情報交換が出来て、結構楽しい。しかし、ずーっと、日中にいて、潮風を受けるので、かなり焼ける。しっかりと日焼け止めクリーム必要。私は、次の日から2,3日ベッドに横たわるのも大変だった。。。。
夜は、また、ポンタネグラのビーチをさまよい、マイクの誕生日を祝うべくとことん飲み歩いた。もちろん、次の日は、二日酔いだ。

私の人生あれこれ(Brasil) エピソード13

2007年10月05日 02時05分42秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
さ、いよいよ出発だ!福岡空港まではお姉ちゃんとお父さんが一緒に来た。
お母さんは
なんね、そげん大袈裟な!どうせすぐ帰ってくるちゃろうもん。気をつけて行ってきんしゃいよ。お母さん、今からプールに行かないかんけん。”
と言ってあっさりと来なかった。母は強し??
空港では、一緒にプリクラをとったりした。搭乗手続きの時間だ。お姉ちゃんと私は、
ちょっと外国人ぽくHUGしちゃろうか!”
とかケラケラ笑いながらHUGをした。
お父さんは、
はいはい。。”
と言ってるだけ。この先、娘の将来が心配なんだろう。でも、ま、これも私の決めた道だ。もう先に進むしかない。飛行機の中から、お姉ちゃんとお父さんを探した。内心、自分では不安で堪らんのだ。でも、マイクに合える喜びも当然ながらこみ上げてくる。
福岡から成田(1時間半)。成田では6時間の空き時間だ。ネットをしたり、お金を両替したりした。もう、なんだか日本じゃないみたいだった。外国人がたくさんいるのだ(国際線だもん当たり前だ。)。何も面白いことは起きなかった。。
成田からダラス(11時間)。待ち時間5時間。ダラスではテロリスト対策からなのか、乗り継ぎでも、イミグレのチェックが厳しくなっていた。まあ、指紋取ったり、質問があったり。英語の分からない人達はちょっと、大変だったようだ。私は、適当にイミグレの小父さん達と話しながらの余裕の通過ぶりを見せた。乗り継ぎの待合で待つ間、気づいた!なんと、圧倒的にツアーが多いのだ!あとはビジネスか、最低でも2人の旅。みんな楽しくおしゃべりしているのだ。。私は1人。しかも、洋服もダラーンとした格好でいかにも貧乏さが染み出ていた。。。
乗り継ぎでは、サンパウロに向かう便と、あと、違う国に向かう便等それぞれあり、何人かのおばさん達は、私の後ろを同然のように付いてきて、
え?あなたリオに行くの?じゃ、私たちはどこに行けばいいの?”と聞いてきた。
“え?ちょっと。。私は添乗員じゃないしい。。。自分で探してくれよお”って感じだった。もちろん、そこら辺の人を捉まえて
この人達を案内してください。”といい人になっていましたが。。。。
私は、一人だからか、いろんな人からよく声をかけられる。空港でも機内でも。だからあまり待ち時間は退屈しない。みんなかわいそうにと思って話しかけてくれるのだろうか????
ダラスからリオ(12時間?)。待ち時間3時間
リオからサンパウロ(1時間)に着いた。待ち時間4時間。まああ、リオもサンパウロもなんとまあ、コンクリートだらけの薄暗い、ちょっと興味のない空港だった。ただただ広い。リオの空港では英語が通じる。サンパウロでは、英語とあと、日本語がぼちぼち通じる(これにはびっくりした。さすが、日本人の移民が多いことが分かる。)。待ち時間、ちょっぴりブラジルの味を確かめるべく、Bramaというビールを口にした。なんだか、日本のほろ苦いビールとは違って、気の抜けたビールだ。。。
サンパウロからレシフェ(4時間)
ぼちぼち、日本語も英語も通じない圏へと突入してきた。アテンダントさえも、駄目になってきた。レシフェに着く。何と、降りる人だけが降りて、あとの人は、機内で待つのだ。初めての経験!(普通、みんな降りん??)もちろん、何人かの人は、間違えて、降りている人もいた。そりゃ、ちょっと、ちゃんとそこら辺言っておいてくださらないと。。という状況だ。ここはあんまり乗客に対して親切なアナウンスがない。。。ブラジル人でも間違えるなら、私も間違えるさ!(ま、乗る前に、乗り換えなしだけど、レシフェの次です。と言われていたので、???と思いながらも、そこまで動揺はしなかったが。)
そして、レシフェからナタウ(1時間)
ナタウの空港に下り立つ。お、イミグレではどうやら英語が通じる。ほっと一息トイレに入った。すると陽気なブラジル人のおばさんが、何か言ってる。
私は、
あついですねええ!”と英語で言うと
へ??意味が分からーない。”とポルトガル語で言ってるようだった。3回くらい言ってみた。
するとその小母さんは
あら、おかしな子がいるわ。”っていう顔をして、去っていった。ちょっと、がーんとした。
“もしかして、ここ、英語駄目??”
ゲートを出て、マイクを探す。いない。。。もう1度よく見渡す。いない。。次々と乗客が家族や友達と再会のHUGをしている中、私は、大きなバックパックを背中に抱えたまま、呆然とした。しかも聞こえてくるのは意味の分からんポルトガル語らしい。頭の中には“え、マイク、明日と勘違いしてない??”“何か事故にでもあった??”“ここの空港じゃない?”“他にもゲートがある??”と、100以上のハテナが頭に広がり、だんだん、顔色も薄くなっていった
でも、“落ち着け。きっと、ちょっと遅れているだけさ。”と自分に言い聞かせ焦る鼓動を落ち着かせながら椅子に座った。何人かのタクシーらしき人が、“乗らないのか?”と言う感じで聞いてくる。私はひたすら“ノー。”と答えた。みんな私の方を見て通り過ぎていく。
“ま、もし、マイクが明日と間違えてるとして、ここなら、ま、寝ても安全かなあ。”とか、考える。どうやら、殆んどの人が去っていったようだ。待っている人が話しかけてくるが、もうポルトガル語のちんぷんかんぷんの私は、“止めてくれー!話しかけないでくれー!”の心境だった。
遠くから、こんがり小麦色に焼けたのっぽの人がこっちに笑いかけながら汗を拭き拭きやってきた。マイクだ!!!“あー!助かったああ!!”と心底思った。聞くと、渋滞したのと、やはり時間を間違えていたらしい。。。。。全く。。。
ま、ひとまず、私のどでかい荷物をタクシーに積み、ナタウの1番の観光スポットであるPraia do Ponta Negra(ポンタネグラビーチ)に向かった。とても南国を漂わせるPousadaプサーダ(いわゆるペンション)に着いた。さっそく荷物を降ろし、ビーチで、祝杯をあげた。Scolという名前のビールを飲んだ。大瓶は600ccだ。旅の疲れと、太陽がさんさんとしている事からだろうか、 睡魔に襲われ、部屋で休みを取った
夜になって、元気に時差ぼけもふっとび、夜ご飯を食べに行った。なんといってもChurrasucoシュハスコ(いわゆるBBQ)だろうか!!ビールを飲みながらシュハスコを頂いた。ここのビーチは夜も賑わうのだ。
“わー!ブラジルに来たのだ!!”と、実感する。マイクはなんとか、ポルトガル語を話しているようだった。英語圏の人間でもポルトガル語が必要なのか!?じゃ、私はもっと、必要なんだ。。。困ったぞお。だって、This is a pen.のレベルもないのだから。。。
と不安を隠しつつ、マイクとずーっと、飽きもせず話し続けた
“明日は、両親に電話を1本いれよう。。

私の人生あれこれ エピソード12

2007年10月05日 01時47分45秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
さて、マイクと2度目の付き合いを始めることになった。今回は、美野島(博多区)に部屋を借りた。2年間住み,計画通りにブラジルへ行くこととなる。でも、結婚の文字は出てこないらしい。両親にはどう言うべきだろうか。。マイクは、両親に会って、何を言うのだろうか?結局、両親には、かわいそうだが、
“もしかしたら、ブラジルに住むかもしれんけん。でも、結婚は2の次だから。。。”と伝えた。
まあ、どこの親でもこんな心配なことはない。どこの馬の骨とも分からん男(しかも、外国人で、日本語での会話も出来ない。)。つまり、お父さんの気持ちからいうと、腹を割って話せないのだ。で、しかも、結婚はまだ。でも、ブラジルには一緒に行くと言う。どうなるかは分からない。はちゃめちゃだ
マイクがイギリスに帰る前に本当は両親にも会う予定だった(この時点では、まだ、1度も会っていない。)が、会わずにイギリスへ帰る。。。。で、マイクがブラジルに入り、NATALに落ち着き、私は、両親の心配を他所にブラジルNATAL行きのチケットを購入する。
もうそこまでくると、両親も姉も、ただ、娘の幸せを祈るしかないのだ。この歳になるまで、まあ、まだ親不孝をしている私。。ちょっとなああ。。。ま、この2年はひたすら働き、別にたいした話もなく過ぎていった。さ、これから、ブラジルへ行く。何が起こるか楽しみだ

私の人生エピソード 9

2007年09月07日 23時09分56秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
さあ、心機一転して、恋愛と金稼ぎに励むことにしよう。セドリックはどうやら公団に一時滞在するらしい。ま、家から目と鼻の先。
私の秋冬の季節スケジュールは、決まっていた
平日月曜日から木曜日、朝10時から昼の2時までは韓国料理屋の厨房だ。(ヤンキー上がりで筋の入った、周りから恐れられている料理長も長年のお付き合いなので、私にとっては、良い飲み仲間。“ちょっと、チーフやろうが!”と言って、もちろんがっちりとおごって頂く。ひひひ。)
それから、3時に家に着く。お風呂に入って、汗を流す。そして、着物に着替える。その時は、実家だったので、幸いにも、有難い事で、お母さんか、お父さんが、お昼ご飯を揃えてくれていた。4時、着物の着付けが終了すると、古い再放送のドラマを見ながら、ご飯をちゃっちゃと済ませ、5時前10分のバスに乗り込んで、九一郎へと出勤する。6時前に入店して、10時に終わる。(九一郎は、冬場は店休日が正月の3日間だけ。あとは、ぶッ通しなのだ。)
で、家に帰って、ひっそりと夕食とお風呂を済ませ、床に着く。就寝12時
金曜日。金曜日は、ちょっと、忙しい。いつもの仕事に加え、その後、着替えを持って、ジャマイカ人のバー“KINGS HEAD”に行く。バーでさっさと薄汚い格好に着替え、だいたい朝の4,5時まで働く。そこでは、バーテン兼客の話し相手。まあ、外国人がたわわにやってくるので、楽しくやった。仕事というよりも、遊んでたって感じ
まあ、もちろん、こんなバーだから、軟派はありあり。手当たり次第に“I LOV U”と言ってるちょっと、田舎臭い外国人、訳の分からん女も多かった。見るからに、外国人を漁りに毎回訪れている子。いろんな人と付き合いすぎて、兄弟が、たくさんいる子。何気に、都合のいい子になってしまってる子。何故か、私に会いに来る子(ヒィー!)。それらを、指をくわえて見ている日本男子達。まあ、バーカウンターから、いろんな人間模様が伺える。セドリック(彼氏)も、会いに来てくれた。仕舞いには何故か働くことになった。飲んで、踊って、騒いだ。しかし、金曜日はSUPERハードなのだ
土曜日、日曜日は、ラッキーなことにお昼は働いてなかった。九一郎に行って、キングスヘッドで、働くだけ。土曜日は相変わらずのパーティーでドンちゃん騒ぎ
日曜日は、九一郎もあまり忙しいこともなく、キングスヘッドは、普通のバーになるので、帰りは1時で、辛くもなかった。まあ、季節労働をしている間は、こんな調子で、6ヶ月休みなしで働いた。まあ、もちろん、たまーに、バーと、韓国料理屋は、ずる休みした。。。。。
本当は、なぜホテルのフランス料理店を辞めたかと言うと、腎臓結石があるので、お医者さんから“立ち仕事はいかん。”と言われたからなのだ。。でも、1年OLやって、やはり私には机仕事はむかん!と思い、“ちょっとづつなら働いてもいいやろお。”何てやっていたら、こうなっていた。忘れていたのだ。。。。
どちらが、キツイ?って言うと、やっぱりホテルだったかなああ。まあ、給料はちゃんと頂けるし、ボーナスもある。でも、あれこれと、全ての面倒が嫌だった。長い旅行も行けないし、大きな組織に縛られて、仕事のことばかり考えるようになったから。
その点、3つの仕事はそれぞれ大変だったけど、それなりに自分の時間もあったし(今思うと、どうやって?ッて感じ。)、縛られないし、お給料も全体で換算するとそれなりに良かった。ま、責任を負う事がそこまでなかったからかなああ。フリーターになって、成功した感じだった

セドリックにも完全に熱を上げてしまった私は、彼のビザを獲得するために、結婚しようと考える。。(ま、あほですな。)セドリックは、博多では、バーで働いていた。ので、繁華街でよく遊んでもいたらしい。だんだん、友達が増え、ちょっと、お互いの歯車が合わなくなってきたのだ。。それでも、しがみ付いていた私は、ちょっと、頭がおかしかった!で、セドリックは、“僕、ちょっと、自由になりたい。”と言い出し、私は何が何か分からず、落ち込んだ。同じバーで働く仲間と、親友に“ちょっと!あんた、おかしいよ!そんなんしとるけん、フラレルったい!男は一人やなかろうが(一人ではないでしょう)!”と、激励を飛ばされ、かれこれ1週間で、なんとか吹っ切ったような気がする。その後、別れたセドリックはそういえば、優しくなったなあ。。
その頃、メールでちょくちょく連絡を取っていたマイクが、彼女らしき人の事で相談があるという。私は、基本、他に女がいる人には、興味がなかったので、後ろ髪を引かれたままマイクとも兄弟のようにしていた
マイクから、
“その子とは別れようかと思っている。どうだろう?”
と言われ、
“もちろん!私も、今は、フリーだし。”
て思ったけど、
“まじ?でも、どうせまた、お金稼いだら、どっか、行くっちゃろうもん?それなら、その子とも軽く付き合っていけばいいやない。”
って素っ気なく言ってしまった。。。
何日か後、マイクから、また、呼ばれる。
“何だ、次は!”
って聞くと、
“もう別れてもらった。ていうか、カラオケとか行っただけで、彼女だったのかどうか。。ま、とにかく、出来れば一緒になりたい。あの、フランス人と別れるのを待っていた。”
と言われ、心の中で“ヒィー”って感じだったけど、そこは、私もちょっと、クールに見せかけて、
“でも、また、金が溜まったら、さよならでしょ。それなら、他をあたって下さい。私も、適当に遊べるほど、そんなに若くもないしね。”
っていうと、
“いや、2年後、またブラジルに行きたいと思ってる。でも今度は一緒に来て欲しい思っている。”
と突然言った。
また“ヒィー”だった。一緒にって、結婚てことおおお?それともただ一緒に行きたいだけ?ブラジル??永住??でも、ちょっと待て。2年後ってちょっと先じゃなーい?と脳みそががフル回転に活動した。
が、ここは、冷静に
“一度、別れとうしね。ちょっと、考えさせてくれん?”と、本当はすぐにでも、“うん!!”と言うところを抑えた。まあ、かれこれ、1週間が経ち、また、もちろん付き合いが始まる。。。。

私の人生あれこれエピソード8

2007年09月04日 00時04分23秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
さて、私が、博多に帰ってきた頃、二人の昔の男たちも何故かまた、博多に舞い戻ってきていた。
一人は、フランス人の“セドリック”。彼もバックパッカーの一人で、前回いた頃に、彼がどこかへ行くまでって事でいわゆる“part time lover”だった。で、彼は、確かオーストラリアからあの“天国にいける島”(ニューギニアだっけ??忘れた。。。)に行って、どこそこ回ってまた、博多に帰ってきちゃったらしい。
で、もう一人は今の旦那のイギリス人“マイク”。
両方とも、メールのやり取りはしていて、私は、帰ってきて、彼らに会うのを楽しみにしていた。特にマイクに会いたかった。さて、天神(博多の若者がたまる繁華街)のバー等に“帰ってきた”を言いに飲み歩いた。で、どこかで、きっと、彼らに会うだろうと思っていた。出来れば、マイクに最初に会いたかった。
1つのバー“international bar(アショックっていうネパール人の店)”についた。階段を上がろうとした時、“Oi!!Laster lady(ドレットのままだったので、すぐ自分だと分かった。)!!”と呼ばれ、ふっと見ると口と手とをいっぱいに広げて嬉しそうに犬が駆け寄ってくるようにこっちに走ってくる男がいた、セドリックだった。彼は、両手いっぱいに私を抱きッとして、“オカエリーオカエリー!”懐かしそうに言っていた。もちろん、私も久々の再会で本当に嬉しかった!(でも、内心、あーあ、マイクじゃない。。て少―しだけ思った。)それから、セドリックは、もう1度私と付き合うことに決めていたらしく(他におらんのか!?)、“最初に会った男にしよう!”って何故か考えていた私は、彼にOKをした。
それから、1週間して、Hecterのバー"uprising"(こちらはガーナ人)に、行った。マイクが一人でカウンターにいた。何気に横に座って“お一人?”って聞くと、“あー、うん。。”って言いながら、私を見て“は!”って言った後、またこちらも“おかえりー!”といってHugした。彼は、どうも今、彼女らしき子がいてどうしようかななあ。なんて言っていたので、“わー、いいじゃん。私も、彼氏いるし。フランス人。”と言った。“ちょっと。帰ってきたばかりで???はや!”と言われ、“そりゃ、あなた、自由でしょう!!がはは!!”と笑いながら、明け方まで、尽きることなくずーっと、話していた。楽しい1日で、寂しい1日でもあった。。ここのバーの店主Hecterは、私が最初にマイクと会ったときに一緒に飲んでいた私の仲間だったので、Hecterは、私とマイクはまた付き合うって思っていたらしく、付き合わないと分かるとがっかりしていた。私の人生は変わろうとしていた

私の人生あれこれエピソード7

2007年09月03日 22時34分15秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
さてさて、博多に無事に帰ってきた!!
すっからかんになってしまった財布を見て、“ううう。早く仕事をせねば!”と、とりあえず、お昼に使ってもらっていた韓国料理と、去年派遣で夜、働かせてもらった割烹“九一郎”とに“帰ってきました!”と挨拶。韓国料理屋は、“即明日から来い!”と言われ、ちょっぴり”来週の月曜日からね!“なんて言われるのを期待していたんだけど、明日からか。。。。
”九一郎“は、兄さん達に挨拶をして、夜に一度顔を出しに行くことにした。
“九一郎”は、創業20年くらいになるかなああ、もう。博多でもVIPで知る人ぞ知る有名河豚屋(博多弁では、グの濁点が取れフクという。)。去年と、一昨日と、2年働いた。10月から4月まで季節間だけ働く派遣業。さあ、今年は雇ってくれるだろうか。
実は、去年に、フルで入れと姉さんたち、マスターに勧められたのを、お断りしていたのだ。だって、いつ、また海外に行くか分かんないし、骨をうずめる覚悟がなかったから
九一郎のマスターは島原の出身だけど、博多に来て長く、根っからの義理人情の人。1度約束をすると、最後までとことん世話をしてくれるのをしっていたので、そんな人を裏切れないと思ったから。
まあ、とりあえず、頭はラスタレディー(ドレッドヘア)のまま、顔を出しに行った。マスターはそんな私でも、人目を構わず“よー帰ってきた!エミちゃん、ほらこっちにこんね(おいで)。すわんしゃい、すわんしゃい(座りなさい)!どげんしとったね(どうしていたんだい?)??!”と暖かい歓迎だったそして、また今年の冬もここで働かせてもらうことになった。
ここの店は、全て姉さん(仲居さん)は、派遣だった。昔、“博多けんばん”っていう芸姑さんたちの会社だったのを、時を経て時代に合わせ、配膳業になったところ。だから、お座敷業務もある。九一郎に抜擢される前は、いろいろな日本料理屋などに仲居としていったり、“なんちゃって芸姑”で、お座敷にお姉さん達に紛れて呼ばれていた。酒好きの私は“うーん。お金も貰えてお酒も飲めて、最高!”だった。
さて、ここ九一郎の大奥のお姉さんは“浜姉さん”。仲居業30年九一郎歴15年のベテラン。まあああ、最初は、手厳しいお母さん(65歳過ぎ。)で、毎晩のようにしこたましごかれ、着物は帰る頃にははだけまくり、よく悔しくて泣いていた。もちろん、言い返すことは許されない世界なのだ。基本“こんちきしょう!”っていう勝ち気な性格の私は、完璧にしてやる!絶対に負けない!!何も言われないようにやってやる!と思ってやっていた。(でも、1年経って、2年経って、最終足掛け6年位お世話になったのかな。。2Fいたんだけど、夜ご飯を作って持ってきてくれたり、こっそりとビールを毎晩のように開けてくれ、ちょくちょく、合間に餅を焼いたり、兄さんにねだって何か作ってもらったり、私を子供のように愛してくれる浜さんだった。)
まあ、浜姉さんも勝ち気で、“よーし、お前がそのつもりならとことんしごいてやるぞお。着いて来い!”っていう感じだった。もうすごいバトルなのだ。(あの昼ドラマの“ハルちゃん”なんか優しいうちなのだ。)
浜姉さんは、今までに、派遣であった、へなちょこなんちゃって仲居さんと違って、昔から仲居業をしていてプロだと思った。それは、私も、フランス料理店で、本格的に配膳業を学んだ一人だったから。レストランの接客は、たった2つ。いかに裁けるかと、客の言おうとしてることを言われる前に察すること。全ての流れをちゃんと観察していないと、客からは対応イマイチと思われるし、兄さんたちからは、料理はどうだ?とどやされる事になるから。まあ、だいたいどこのレストランも今はトップが怒らないし、怒ったらみんな辞めていくっていう、貧弱者が多いので、なかなか、客としては満足できるレストランが少ない。みんな、格好だけは、付けようとしてるのが見え見え。。しかも、派遣で来るおばさん達は、日給がいいので、ただ“着物が着れます”ってだけでくるので、結局、配膳の厳しさを知って辞めていくか、日給さえもらえればよろしいわ。なんて、もうどうしようもない人達は店からのオファーが少ないので結局稼げないのでぶつぶつ言う人が多い。そんな中、浜姉さんは、あの歳にしてすごい人だった。脱帽した。でも、浜姉さんも、やはり歳には勝てない。浜姉さんは年々歳を取っている。心配。。最近、そんな浜姉さんから、写メールが届いた。年取ったねええ。。。。