TROPICAL PARADISE BRAZIL!!!

ブラジルでの体験談等を紹介。国際結婚、永住権、不動産、自動車免許、料理、

日本語で愚痴。。。

2007年08月29日 02時32分15秒 | LIFE
まあ、自営業は大変です。これはどこの国でやっても大変なんですねエエ。私達は、企業として登録が出来たのは7ヶ月前、そしてHPを制作したのが4ヶ月前。今は100人位の顧客をかかえている。でも、しょせんネットビジネスは、何とでも言える。私達の仕事は海外の人への様々な不動産会社からの提供、書類の検索から制作の代理まで。いわゆる売人側は不動産会社、私達は買人側に立ってアドバイスをしている。それは、同じGringo(外人)として騙された経験を他の人たちに味合わせたくないからっていうのが始まりだった。今は、ようやく地元の不動産達とも連絡が多くなり、理解して動いてくれるところも増えた。いま、問題は不動産たちではなく顧客。。。まああ、西洋人は以前から感じてたんですが、食いつきはとてもいいし、社交的。でも、けち、自己主張が強く、情が薄い。日本にいるときからそれはずーっと感じていた。私の旦那にもそれは通じる。どんなところかっていうと。
1、 よく値切る。例えば、バーとかで、“今日はパーティーなので、入場1000円です。”なんてのがあると、“なんでだ!ただ入って飲みたいだけなのに!”とか、“あ、ちょっと人探すだけだから。”と言って、強引に“じゃ。。。どうぞ。”って言わせたりして払わない。しないと怒る
2、 飲みかけのカクテルとかがあったり客が席を立った隙になにげに飲む
3、 そのわりにそこの常連にはならない
4、 要求はよくするわりには、手伝わない。利用して終わり。
5、 あまり人に対して気を使わない
6、 独立心が強いわりには、幼稚
7、 感謝、情が薄い
私達の顧客100%が西洋人なので、大変。。みんな英語でのインフォが少ないので、集中してメールしてくる。“学校は整っているか”“安全か”“ナタールってどこ?”“英語は通じる?”“白人は多い?”“犬は連れてこれるか?”“飛行機はどこが安いか?”とか、不動産には全く関係のない質問もまあ、多い。そんなことは、チャットとかで探してくれ!って感じ。。ボランティアとかコミュニティーと勘違いしてるみたい。。しかも会社のHPにそんなメールって。。で、1,2ヶ月のやりとりがあって、結局、“自分で探しました。”とか、“報酬を払う気はない”とか“高い”とか言って利用だけで終わるんですね。
マイクは半分人間不信になりかけて“そんな。。ここまでしといて最後はそれ?”って、よく嘆きます。(私的には、だって西洋人だもん。って言いたいけど。。)
中には正当な人もいるけど、こっちに来てくれない事には始まらないんですよね。。。みんなどうにかしてコンサルタントフィーを払わずして、しかも、地元価格を乗せてるので、その価格でどうにかして家を買おうとしているのだ。(ま、マイクも何とかして安く出来ないものか?と考える人なので、利用してポイッてのも考えられるかしらねって思う。ちなみに、私達は、そのころはそんな英語でも日本語でもインフォがなかったので、自分たちの足で安い物件を探したんですけど。。)
私は、多分特にだと思うけど、お願いしてそれに答えてくれた人達への裏切りは絶対しない。(私達がだましているんなら別問題ですけどね。)
旦那もよく言うけど、“日本人は情に厚い”って。みんな騙さないし(たまに変なのもありますが。。基本的にネ。)。
本当に厚いと思います。義理とか人情とか(あれ、仁義??)があるからでしょうね。相手が西洋人だけに日本人のよさはヒシヒシ感じます。
まあ、そういう道徳を旦那が身に付けてくれだしたのは嬉しいですね。(ちなみに、彼のお父さんは、とても情に厚いスコットランド人。同じ道徳を持つ。)
しかし、西洋人恐るべし人種。あ、もちろんブラジル人も似かりよったり。。ってとこ。。そんな利己主義な人たちを私は“Me Me(私!私!)星人”と呼んでいる。もちろん全てではないけど、必ず感じる事が出来る。みんな日本人の道徳見に付けてくれるといいのになあ。。。新渡戸稲造の本を読んで欲しいくらい。“武士道”知ってます???
はあ、愚痴を聞いてくれてありがとう

Macapa No Amapa

2007年08月27日 00時15分43秒 | ブラジル(NATAL)情報2007
今週の火曜日思わぬ来客!マカパからだった。マカパはアマゾンの下流にある小さな街。
私が、去年2006年年末に、旦那の永住権獲得の為に海外(フランス領ギアナ)に渡って、2007年に、一人(旦那はもう少し手続きが要ったので一人で帰ることになった。。)出国境の町Oiapoque(オイヤポケ)から、バスでマカパに行く事になった。私がポツンと一人で帰る不安と寂しさに浸りながら座っていると
“ちょっと!私がそこに座るから、あなた、そこぬきなさい。”と言われた(しかも、フランス語。。)。私は
“へ?”って顔をすると、
“ここの席は私の席なの。分かる??ほら。”ってチケットをみせられた。私がなおも困った顔をしていると
“あなたのチケットを見せて御覧なさい。”というので、渡すと
“あら、あなた、私の横よ!”と言われ
“あ!席に番号があったのだ!”と分かった。でも、悪いことにこのチャキチャキなおばあちゃんの横。。。おばあちゃんは、フランス語でぺらぺらと喋りだした。私が、
"あの。。。ポルトガル語もよく分からないんだけどフランス語はもっと分からないの。。”ってポルトガル語で言うと、
“へ??じゃ、何語を話すの?”と言われ、
“得意なのは日本語。。で英語。。”と言ったら
“ウララ。でも私の言ってることは理解してるじゃないの。英語ねええ。数字も分かんないわ。日本語はSAYONARAくらいよ!”と。それから、オイヤポケからマカパへの長距離バスの旅が始まった。時間にして通常12時間(夏場はまだ乾季なので、多少は大丈夫だけど、雨季に入ると整備されていない赤茶けた道路に水が氾濫して通れなくなることもあるらしい)。
このおばあちゃんの名前は“Mariaマリア”。もう70になるというのに現役で大学の講師を務めていた。以前フランス人の旦那を持ち、もう亡くなったらしい。でも、フランス領ギアナとマカパに息子と孫が住んでいて、そこと、オイヤポケの小さなまちと、マカパの学校を廻って教えているらしい。
6時間が経過した。夜中だった。バスが止まった。どうやら故障らしい。ちょっとおお、完璧に見渡す限り何もないところだ。エンジンも止まってるのでエアコンが効いてないので暑い!窓を開けるとヤブ蚊が入ってくるので開けれない。シーツをまとって外に出た。自然のど真ん中で、コヨーテとかカピバラとかへたすりゃ猛獣が出そうな雰囲気。。大きなホタルも飛んでた。大きな蛾も。。ま、とりあえず、エンジニアが来るまでどうやら3時間以上かかるらしい。幸いアスファルトだったので、地面に座ってタバコを吸う事にした。午前1時。みんな、それぞれ何が起こってるのかも分からず寝たり外に出たりした。
* ブラジルは(ノルデスチだけ??)、ちゃんと何故遅れてるのか、何が故障してるのか、今何がおきてるのかとか、乗客に対してのアナウンスがない。知りたい人だけが、運転手に直接聞きにいくのだ。今回も、勝手にバスは止まり勝手にエンジンを切った。非常に不親切なのだ。
3時間が経過した。お!救助のバスが来た!!みんなそっちのバスに移るもんだと思った。が、そのバスは、ただアラジエーターの水を運んできて、バスのエンジンを修理し始めた。私的には“おいおい。乗客を助けるのが先だろ!修理は、そちらであとでやってくれよ!”って思った。それから、30分がたち、ようやくエンジンがかかった。みんな、またすやすやとマドロミの中へと入っていった
翌朝9時だったかな、やっとマカパのバスターミナルに着いた。さて、私はこれから自分でマカパの町を散策して船か飛行機でベレンに行かなきゃいけない。マリアが言った、
“あんた、今日は日曜日だよ。日曜日はどこもお休みさ。飛行機か船だろ?船は、娼婦がいっぱいいるから、あんたには危ない。しかもいつ出るかも知らないんだろ?明日、私が町に連れて行ってあげるから、今日は、一緒に家の娘の家に来な。ちょっと、娘に電話するから。はい着いておいで。”
ということで、急きょ、マリアとバイクタクシーに乗って娘の家(正確にはマリアの家だが娘が住んでいる)に向かった。あー、疲れた。ちょっと、プサダに泊った方が気楽でいいかも。。と思ったが、これも何かの縁だし、お金もそこそこしかなかったので、ま、一日だけだな。と思って泊る事にした。
娘の名前はAlexsalaアレクサラ、私と同じ歳。彼女も、お母さんマリア同様大学の教授だった。マカパの国営大学で、教えていた。息子が一人Alexsandroアレクサンドロ、5歳。シングルマザーだった。サラは、人種差別、ネグロ アフリカンについてを特別の専門にしていた。もちろん彼女もネグロ アフリカンの一人。いろいろ資料や写真を見せてくれた。とても興味があった。
ある日、サラと、大学が終わって一緒にアマゾン沿いにあるエビレストランに行って、他の講師も交えて揚げたての川エビに冷えたビールを飲みに行った!こりゃおいしかった!しかも広大なアマゾン川を眺めながらだもん、おいしくないわけがない!マカパはベレンとかマナウスみたいに有名じゃないけど、アマゾン川流域は、とても綺麗なとこでした
で、そんなこんなで、やっと格安の飛行機のチケットが3日後に取る事が出来た。
という偶然に出会って、前置きが長くなったけど、親切にもみすぼらしい日本人に優しくしてくれたマリアが今回孫の二人(Saint-Georgesサンジョージ-フランス領ギアナ側の国境の町-に住んでいる)とやってきたのさ!マリアは小さい時に両親が見放し孤児院で生活をし、養子となり、フランス人と結婚して5人の子を授かった。しかし、旦那が早く亡くなったために毎日毎日働き詰めだったらしい。あまり子供たちに接することが出来なかったと言う。とても苦労をしてきて今がある人だ。だから、厳しい中にもとても暖かい優しさがある。孫のお姉ちゃんのNaraナラは11歳、妹のAlexsisアレクシスは8歳。母親が別居し、今はマリアの息子(お父さん)と暮らしている。ナラは食べては吐いてしまう癖があり、アレクシスは未熟児1kgで産まれ生まれ持っての喘息があり、ここに来るまで、ベレンと、テレジアという町によって、病院通いしていた。みんないろいろ抱えているのにとても陽気で笑顔の耐えない日々だった。まあ、しかしマリアは超“スパルタ”で、子供達は必死にがんばっていた。でも、全て彼女達の為にマリアが心を鬼にしてやってることが分かっていたので、あえて何も言わなかった。子供達は、それでもマリアが大好きだった。そして、とても行儀がよくそして子供らしい子供たちだった。彼女達は私のことを“Tiaチーア(親戚の叔母ちゃん)”と呼び、私は、マリアの子供になった!いっきに姪っ子が出来た。かわいいかった!!!5日間、泊った。私達が、外出中は、こっちの不動産や、イギリスからの電話がめずらしく多かったらしく、マリアは、電話交換手のように、私達が帰ってくるまで、電話番をしてくれた。子供達は、ビーチで遊んだり、砂丘に登ったり、家の犬と遊んでいたようだ。最後の日は、仕事がなかったので、町で買い物をして、みんなでジェニパブのビーチで楽しむ事になった。子供達は大喜びだった。マリアも新しくオレンジの“ビキニ”を購入し、笑った!!海に入って思う存分遊んだ。夜、“この子達があと1ヶ月居れば、喘息とかのいい治療になるね。。”マリアと話した。まあ、またやってくる!と言っていたので、次回会うのを楽しみにしようと思っています。ここには、隣の家に住むジェニパブの“お母さん”がいるけど、また一人マカパのお母さんが出来、姉妹、姪っ子が出来た。8月25日2007年

私の人生あれこれ エピソード6

2007年08月26日 04時13分37秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
ジャマイカからアメリカに戻る日が来た。ちょっと、寂しかったが、それよりも先進国アメリカに帰りたくなっていた。(一応“シティーっ子”なので。。)アトランタに着いて友達の家に帰った。何もかもが先端をいってる国だから、家に着いてホッとした。蚊に悩まされることもなく、電気や水に悩まされる事も全くない。快適だ!!アメリカの家は大体、全ての部屋にいきわたるようにエアコンも暖房もつけてある。ので、どこに行っても涼しいし、暖かい。ご飯もおいしい!あー極楽極楽。。さて、私は、チケット代をケチりにケチって旅行を立てるので、日本からアメリカまでのチケットは一番安いのを選んでいて、もう期限は過ぎていた。(計画では片道アメリカ日本間をアメリカより格安で購入して日本に帰る事だった。)私のビザの期限は9月13日までだったので、10日11日頃にプロモーションのチケットを獲得予定だった(大体前日とかに“明日のみ!日本まで2万!!”とかバーゲンが出る。それを狙っていたのだ。。)11日の朝、様子が変わった。友達にたたき起こされリビングルームに行くと、奇妙な映像が流れていた。そういわゆる“911”。飛行機が、ビルに突入していたのだ。アメリカの何十とある全てのチャンネルが飛行機事故のニュースになった。なんだこりゃ?と、それに見入ってると、ライブ映像で、もう一つ飛行機がビルに突入した。みんな、最小は角度を変えているか?と錯覚を起こしたが、コメンテイターが“ああ!もう一つの飛行機が突っ込んでいます!!”という声で2基の飛行機がしかも同じトレードセンターに突っ込んだのだ。という事が分かった。と見てるうちに、ワシントン郊外での飛行機の胴体着陸や、ニュージャージーで、飛行機の墜落事故などが次々に入った。誰もが呆然となった
それから、何時間後、ブッシュの臨時スピーチが入る。最後は教会からだった。宗教が絡むとアメリカは視野が狭くなる
今まで、ブッシュを推薦していなかったアメリカ人達が、ブッシュのスピーチにより変わった。“これは、管制塔のミスでも操縦士のミスでも、飛行機の不整備でもない。これはイスラム教によるテロリストによる攻撃なのです!!宗教戦争だ!”と。全てのクリスチャンがブッシュを支持。すぐさま、空と陸と海とバリアがひかれ、空港や政府機関には厳重体制が引かれた。もちろん全ての空港は閉鎖だ。アトランタはアメリカでも2番目に大きな空港だったのでかなりの体勢だ。多くの旅行者が空港の外に座っていた。ホテルに泊れない人も沢山いるのだ。そのうち、その中に紛れて盗難が発生した。私は、たまたま、優しい友人達がいたので、そういう場所にいる必要がなかった。
(私事ですが、困った事に、飛行機のチケットも買っておらず、ビザの期限は切れ不法滞在の身となった。ある程度落ち着いた頃に、イミグレーションセンターに問い合わせたところ、事件が事件だけに、チケットを購入して帰るまでは、異常事態として滞在を許可してくれる事になった。thanks!!
毎10分ごとに新しい情報が少しずつ入ってきた。全ての人がブッシュを支持するようになった。私の友人の家族も、“みんなでブッシュを支持してテロリストに立ち向かわなければ!!”というようになった。出兵もいたしかたない。これもアメリカを守る為だと。幸い私の友人には、旦那と、2人の息子がいたが、旦那は、教会で働いていたのでなし。で、一人はまだ高校生になったばかり。あと一人は、海軍に以前いたが、前年にヘルニアにあり退隊したばかりだったので、誰も出兵はなかった。彼らの前回の家には、アラブ系のご近所がいた。が、引っ越してきてアラブ系の隣人はいないので、安心したとまでいうようになった。みんながみんなメディアの支持に従うようになった。ガスマスクの購入もまんざら嘘ではない。みんあ、国旗を購入して、家につけた。
1週間ほど経って空港の閉鎖が解かれた。が、なんと、飛行機のチケットが半端じゃない金額になったバーゲンなんてないのだ私が考えていた金額はまあ、高くて5万円。それが、未だに多くの空港会社が動いてないことなどもあり、安くて片道15万だった私は、お金がなかった。さっそくお姉ちゃんに電話をし、アメリカの友人の家にお金を振り込んでもらった。でも、銀行も混ぜ繰りかえっていて、送金にも時間がかかった。そして、その安い予定だったとっても高いチケットを購入したしかも、福岡までではない。。。成田までだ。。ああああ!最初っから3ヶ月のチケットにしとけばよかったのに。。と悔やんだ。
でも、もし、時期がずれてまだ、ジャマイカにいたら、アメリカにさえも帰れなかったかもしれないのだ。それを考えるとラッキーだったのかな。。。??
私が、日本に帰ったのは、911から約1ヶ月後だった。

最近の生活。

2007年08月19日 22時55分25秒 | LIFE
ナタールは私が今住んでいる町。今は、一応、冬。でも、ここは、殆んど、四季が無い。ずーっと夏。今の時期は、サンパウロ等南に住んでいる人たちが、寒さから脱出するために、こっちに来る人たちがいる。しかも、カラッとしているので、エアコン要らず。冬なので、ちょっと、涼しくなっている(日本の初夏くらいかな。)けど、昼間の太陽は今が、一番、ナタールに近づいている時期。
不思議なのは“蚊”。あの人達は、まあ、立ち去らない。こやつらは、年中いる。幸いにも、夜5時から7時くらいの間に一斉に襲ってくるので、その間は、家の中で彼らが通り過ぎていくのを待ってる。(ま、大げさすぎですが。。)でも、マカパや、ベレンのような、湿気地帯に行くと、朝から晩まで、蚊達ははびこっているので、それから考えると、幸せなのかも。ここの“蚊”は、日本の蚊と違って、痒みがあまりしつこくない事が、分かった。2,3分後には、消えているのだ。そのあとも、痒みを感じる事は、あまりないし、膨れあがらない。(もしくは、私もここの蚊に慣れてしまって、麻痺してるのかもしれない。。)いや、私の唯一のナタール日本人大友達“鈴木尚美(最強柔術女子)”も、同じ事を言っていたから、間違いない!!
昨日、鶏肉を買った。ここブラジルでは、鶏肉をまるまま売っている。牛肉は、大体“固まり”が多い。スーパーでは、内臓を綺麗に処理して冷凍で、売ってる。ジェニパブの小さなスーパーでは、フレッシュなのが、売っている。大体、行って、いつフレッシュが入るか聞く。昨日はその日で“おー。さっき捕まえていたから、あと、30分もすればフレッシュが来るよ!”と言うので、家まで配達してもらう事にした。日本のどれくらいの奥様方が鳥を丸一匹裁ける人がいるだろうってふっと思った。私は、幸いにも、職業が職業だっただけに、牛肉、牛の内臓、鶏肉など、筋引きも、解体も、普通に(普通ってなんだ??)出来る。昨日は、鳥はとてもフレッシュだった!なんと、気持ち悪い事に、ビニールに入れられてきた時点でちょっと、生ぬるさを感じた。裁いて、内蔵の処理をする時も、人肌のぬくもりがあって、日本のレストランで扱っていた鳥とは新鮮さの違いが明らかだ残念だったのが、今回は、“きんかん”が入ってなかった。。“きんかん”とは、日本の鳥屋さんにいったら分かるけど、玉子の黄身みたいなのがつらら状態で、売ってることがある。(新鮮な鳥屋にしかない。)それのこと。甘辛い醤油で炊くととても酒のつまみになっておいしいのだ。しかも、安い。(おやじか!
砂ずりも、ちゃんと、処理して食べる。ずり刺ししたいくらいに綺麗なのだ。(魚は、刺身で食べれる見分けはつくけど、鳥は新鮮でも生で食べれるのか??と不安なので、まだ、生ずり、生レバーは試していない。。。ここで、食中毒とかになりたくないもんね!)手と胸とささみに分けて、後は、骨と、内臓と、それに付いてる身で、SAKURA(家の犬。。)のご飯を作ってあげる。捨てるところ無しなのだ。(私は、鳥マニアか??いいえ、普通です。。。)ちなみに、1匹で8R$(約400円くらい。)。
ここの村には日本人は私だけなので、みんな、“ねえ、日本人は何でも生で食べるんだよねぇ??”って
みんなから言われる。でも、“超新鮮なものだけよ!特に海のものは、活きてないとね!”と、言いまわるので、魚屋さんも、魚介類屋さんも、生きがいいときだけ、家に来てくれるようになった。魚はあまりおいしくない。でもロブスターはおいしい(すぐ沖で採れるのだ)!!活ロブスターは、ちなみに1KGで、10R$から15R$(500円から750円の間。)。よく、私は、“この値段じゃ買えなーい(泣)。。”と、よく値切るので、みんな“この日本人は貧乏な子だ。”と安くしてくれる。たまに、“これは、プレゼントだよ。。”と哀れんでくれる。まあ、あの人達も、商売だから、来た時点で外国人価格でふっかけてくるから、それを、地元価格に落としてくれるだけなんだろうけどね。。まあ、地元では、筋金入りの値切り屋だ。その代わり、よく買うので、とてもいいお客さんでもある。。。みんな楽しんで私の値切りに応じてくれるのだ。みんなと共に、たくましく生きているのだ!写真は、昨日の鳥さん。。。おごちそうさま

サンパウロ飛行機事故

2007年08月17日 05時59分55秒 | ブラジル(NATAL)情報2007
みなさんは、知っているでしょうか、空港の管制塔システムの仕組み
私には、ちんぷんかんぷんで、なんのことやら
オーストリアにはその管制塔システムを常に新しくしていくテレコミュニケイトの会社があります。(世界で10社ほどあるらしく、その会社は、全体の35%を独占しているのだ!)世間では、全く知られていない会社なのですが、ヨーロッパはもちろん、アメリカ、アジア諸国で、彼らが活躍しているそうです。もちろん、軍事基地などからも要請があるそうです。
なんで、そんな小さなオーストリアから??なんで、アメリカじゃないの??”って聞くと、
“じゃ、時計はなんでスイスがいいのか?って聞いてるのと一緒さ。時計は、みんなが買えるけど、興味がなきゃ、一生管制塔のシステム会社なんか知らないだろうよ。どんな訓練をしてるのかとかさ。”
と言われ、納得。
しかも、ワシントンには、既にトレーニングを積んだオーストリア人で、彼の同僚が既に、在籍しているらしい。どこそこの管制塔のシステムのトレーナーとして、オーストリア人がいるのだ
さて、アマゾン周辺でアメリカの機体とぶつかった飛行機事故ですが、あれは、アメリカ側が、レーダーの感知をオフにしていた。。。でも、問われているのはブラジル。もちろん、その時も管制塔がちゃんとしていれば、ちゃんとした支持をブラジル側の飛行機に送れていたはずだった。何か秘密事項だったのだろうか。
今回、数回に及んだ、サンパウロでの大小の飛行機事故。大きな事故の方は、地面についた後に後輪のブレーキが利かなかった、で、もう1度離陸しようとしたが、飛び上がるまでの充分な距離と、エネルギーを持ち合わせていなかった、それで、芝生に向かって曲がった。でも、芝生に入ったが、ブレーキ代わりにはならず、そのまま外に出た。というわけだ。それをきっかけに、私達の友人ルーパーはサンパウロに行って、先週だったかな?帰ってきました。
その後、幾人かの管制塔の頭が解雇となった。
今月中に新管制塔システムの導入と、あと、トレーニングに彼は、総指導者として、行く。それは、彼は、ポルトガル語が堪能であること。彼もエンジニアであること。英語も喋ることなどから、いう事なしなのだ。彼が、オーストリアの会社から引き抜かれ、彼を中心にぞくぞくと、オーストリア人がやってくることになる。
“こんな小さな村にこんな人が住んでいたなんて!!”っと、尊敬した。もっと、彼からいっぱいはなしを聞きたかったが、
“それ以上話すと、多分、君達、2度と飛行機に乗りたくなくなるかもしれないし、秘密事項が多いので、止めておこう”
と、話は終わった。なんだか、その秘密部隊に加わった気分がした!
コンゴーニャスの導入は11月中に終わる予定らしい。それが終わったら、ブラジル国内の管制塔システムをどんどん、変えていくそうだ。
何だか、あくせく働いてる私達が、ちっぽけに見えた。彼らの特殊部隊で、ブラジルの空港が生まれ変わるのだ。是非、がんばっていただきたい。そして、帰ってきたら、また、話を聞きたいと思う。

家のお姉ちゃん 1

2007年08月16日 01時36分21秒 | 家族
家のお姉ちゃんは、とてもすごい人です
小さい頃、お姉ちゃんは、私が近所のガキにいじめられると、仮面ライダーメットをかぶり、一目散に私を助けに来てくれた。もちろん、結果は、お姉ちゃんが勝った。男の子たちよりも小さいのに、負けん気が強く、常に"勝"事だけを考えているのだ!!いつも助けてくれる半面、お姉ちゃんとかち合うと大変な目にも会う。。。二人で兄弟喧嘩が始まると、最後は"グー"で、殴られるのだ。。お姉ちゃんの思い通りにならないと、癇癪を起こす。。。
1。お姉ちゃんの命令で肩車をした時、お姉ちゃんは、小さな体で無理に大きな私を背負い、仕舞いに、バランスを崩し、オルガンの上に降りるはずだった私は、フラフラになり、タンスの取手の角に頭をガッツリ打ち、頭から血がお垂れてきた母のを見た瞬間にお姉ちゃんは真っ青になり近所のおばちゃんに知らせ、私は、その血を見てグワングワン泣いた。お母さんがあわてて帰って来て、大きな身体でワンワン泣いている私を背中におぶって病院に連れて行ってくれた。もちろん、お姉ちゃんには、悪びたところはなく、怒られている間も、舌をペロっと出して笑っていた
2。押し入れに私を押し込め、ワンワン鼻水も垂れ、泣いて"開けてええー!"と言ってる最高潮の時に襖を開け、"カシャ!"っと写真を撮られたこともある。。
3。私より小さなお姉ちゃんは、常に一息で勝てる方法を知ってるので、未だに勝ったことがない。。
4。お姉ちゃんにグーで殴られ、"どうしたの??"と学校で心配され、お姉ちゃんだと言うと、みんな黙った
5。えんぴつで、ヒザを刺された。いまだに、ある。。
そんなお姉ちゃんだけど、お父さん、お母さんの事を1番にいつも考えている。。あと、動物と昆虫が大好き。昔は、採ってきてたけど、今は、クワガタを眺めて夏を感じたりして、やんちゃは 消えつつある。私は、一応妹だけど、どうやら、両親、旦那、レオ(私が拾ってお姉ちゃんが飼っているネコ)、そして私の順だ。
でも、とてもお姉ちゃんが私は大スキ
まだまだ、お姉ちゃんの度肝を抜く話は続く

私の人生あれこれ エピソード5(Jamaica)

2007年08月13日 02時37分42秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
ジャマイカの殆んどの自営業主は銃を持っている。。。私は、初めて手に取った。“ほお、、、こんなものか。。重いなあ。”って感じ。ていうのと、“え??ちょっと待って!そんなに危険なの??”と、びびった。
まあ、しかし、ジャマイカは、水は止まるは、停電はするわで、ちょっと、考えもの。。停電は分かるけど、なんで、水??きっと、水タンクがなかったのかな??
スパニッシュタウンの繁華街で、“お前はパンプキンっていう日本人のDJを知ってるか??”と何人かの人に聞かれた事がある。
“パンプキン”ってジャマイカで言うときは、“かわいい子”とか“おいしそうな子”とか、意味を持つのだ。私は、そんな事知らないときに“パンプキン”と言われて“ま!失礼な!デブじゃないもん!”って、はらかいたことがある。。。“かわいいね!”って言われて怒ったのだ。。。
そう言えば、そのころアメリカでは、“Hey,Darling”と呼ぶのを“Hey,Boo(ブー)”と呼ぶスラングがあった。それも、私は、“豚じゃない!!高木ブーじゃあるまいし!!”と、切れた事もあった。(私は、切れやすい性格なのかもしれない。。)ヒヒヒ。ブラジルでは、ガトー、ガター()って猫ちゃんってかわいいよな。。
キングストーンのアップタウン近くの大きなクラブに仲間達と行った。もちろん、みんな、金持ちではない。その日は、“Ladies Day”で、入場無料、そして、ドリンクまでもがフリーなのだ!いたれりつくせり。そのかわり、男子は、全て支払いが必要となる。でも、色それぞれのジャマイカ女子が、セクシーコスチュームをまとってクラブに入っていくのを、指を咥えてみてるはずがない!もちろん、残り少ない給料から、チケットを買ってクラブに入り、どの女子がおいしそうか壁によっかかって、拝見するのだ。そして、女子のために飲み物を取りに行ってあげたりするのだ。ごますりごますり。。まああ、クラブに行く前から、私は、女子達から、お尻の振り方を伝授してもらっていた。まあ、あの人達は、なんで、そんなにクネクネと、お尻が動くのか不思議でならん。まるで、違う生き物。私は、レゲーも大好きだけど、ラガー(ベースの聞いたダンスホールの音楽なのですかねえ。。)が、大好き。ま、だいぶ、私のケツも女子達の指導で、だいぶ見られるようになって、クラブデビューしたのだ。でも、私は、どちらかというと、男子のダンスの方が、好きで、よく、片手を挙げて“Bom!Bom!Bom!”とか、“Bomber....”と、パトワ語(ジャマイカに昔から伝わる奴隷用語で、スパニッシュ、フレンチ、英語と、言葉がミックスされてるのだ。)を、叫んで、騒いでいた。もちろん、Bobの曲がかかると、どこからともなくライターの火が点けられるのだ
ジャマイカといえば、もちろん“マリファナ”。誰もが、びっくりしていたのが、私が、一度もマリファナを吸わずに帰ってきたこと。。わたしは、タバコを吸うのが好きなのだ。マリファナは、とても香りが好き。別に、吸いたいと好奇心に駆られたこともなく。。でも、お茶としては、飲んでいた。いわゆるハーブティー。いろいろな庭で、とても綺麗なマリファナの木(?草?)が、茂っているのだ。幾人もの本物の“Raster”達にもあった。彼らは、肉食ではない。魚と野菜を主に食べる。塩を取らないのだ。塩は全て、海産物から自然に頂く。全ては、自然から頂いて、自然に帰すというものだ。そして、マリファナ。ノンビリしている。その人達と話していると、何か癒されている感じになるのだ。不思議な人たち。。。ま、中に、“ニセモノ ラスタマー”もいるのだがね。。。そういう人は危ないので、気をつけてね。
どこだったかな、、、近くに、たしか、Milky Riverていう、温泉があった。海底のマグマから温かいお湯が出るのだ。しかも、海水。。おもしろかったな。。
わたしは、殆んどのジャマイカ生活は、南側で、過ごした。北側は、リゾートなので、高いのだ!でも、ビーチは、北側は、とても綺麗だった。日帰りで、ちょくちょくビーチには行った。(でも、わたしは、泳げないのと、足の裏恐怖症??で、海の中を裸足で、入るのが苦手だったので、もっぱらビーチ浴だけ。。)。大きな滝も登った。でも、ブルーマウンテンだけは、誰も行きたがらなかったので、行かなかった。。有名なのにね。。
キングストーンのダウンタウンにある、ボブマーリーの家を車で通った。降りて写真が撮りたかったけど、周りから“エミ!危ないから降りては駄目!近くまで寄ってあげるから、そこから写真とりな。な!”と言われ、“ヒイイイ!!”って、ここが、噂のダウンタウンなのだ。。。って、改めて思った。肝っ玉が縮んだ
食べ物は、もちろんジャークチキン、ジャークポーク、ジャークフィッシュ(ま、どれも、BBQてなだけ。)、みんな、どこがおいしいか?とか知ってるのだ。あと、コーンスープ。これは、ヤギの内臓とか、かぼちゃとか、具沢山なのだ。超おいしかった。あと、アキーという果物みたいな野菜。ソルトフィシュとともに炒める。ジャマイカンペアーは、アボカドのこと。チョウチョウ(瓜の一種)、フルーツは盛りだくさん!マンゴーからパイナップル、ジャックフルーツ、スイートサップ(カスタードアップル)、ETC.カレルー(アメリカ南部では、カレグリーン、イギリスでは、ケール。あの青汁の葉っぱだ。ブラジルでは、カーボと言う)が大好きだった。カレルーは、ベーコンやトンソクなどと、繊維がやわらかくなるくらいまで、じっくり煮込むとおいしい。とても女子には必見の野菜で、とても通じが良くて、新陳代謝も良くなる。南国とか(たいてい黒人が多く地方にある)行く人は、食べてみるとはまるかも。。ヤギとか牛の足とかのカレー煮込み。あ、ジャマイカの一般家庭では、朝食に茹でたレバーとダンブリン(薄力粉で作った団子みたいなの。英語では、餃子とか、シュウマイとか、包子とかの類のものを指す。)と、ヤム(繊維が超太くて、長芋のようなもので、でもパサパサしてる。。)を食べる!!何でも食べる私だが、あさからのレバーはちょっと苦しかったかな。。ま、私のジャマイカ生活はこんなものだったかな。。。まあ、ジャマイカに行くときには、後ろにも目をつけましょうね。写真がここにないのが残念なところ。。

私の人生あれこれ エピソード4(Jamaica)

2007年08月07日 22時21分09秒 | 私の人生!!独身時代のハチャメチャ履歴書
ジャマイカへの飛行機の中、私は、ジャマイカの地元ミュージシャン達と出逢った。有名所の人たちだったみたいだけど、忘れた。。
まあ、ジャマイカの男性は99%軟派が多い。(私は、その前後でも地元博多でジャマイカ人のバーで週末働いていて、何人ものジャマイカ人を知ってるけどその全ての奴らは、他の国の奴らよりも、とにかく軟派だった。頭が日本に来ておかしくなったのか??とも思っていたが、どうも、そうではなく、ジャマイカ自体がそんなんなのだった。。行って解った。)
空港に着いた。本当は、ジャマイカ人の知り合いが迎えに来てくれる予定だったのに、忘れていたらしく、2時間待った。私が、一時ステイしたのは“スパニッシュタウン”というけっこうスラムに近い街。家から外に出るときには、必ず誰かに付き添ってもらうとか、いろいろ制限させられた。。まるで監獄。。着いてすぐ、私は、お風呂にはいった(といっても、たらいに水を溜めてもらっただけなんだけど。。)。それから、私は、泊らせてもらう代わりに、車の中古部品屋で、遊び半分働いた。まあ、みんな週に5千円くらいの給料で朝から晩まで働くのだ(毎週金曜日は給料日で家庭の奥さん達は、夕飯は作らないのだ。だからKFCとか、PIZZAの店には長蛇の列が出来る。)。
年別、車種ごとに整理されている何十万個とあるパーツを売っていくのだ。日本では、解体屋に運ばれ、鉄くずになっていくものだ。ここジャマイカは、90%の人がトヨタに乗る、古い型のカローラ、コロナが多い。。ハンドルも同じ右ハンドルだから日本からの輸入が多い。(カローラに乗ってて、廃車にする為にお金を払わなきゃいけないんだよなあ。とお困りのあなた!ジャマイカ人を見つけたら聞いてみてください。きっと喜んで引き取ってくれますよ!!!)
着いて2日後、何と内戦らしきものが始まった。古タイヤを道にいくつも転がして焼くのだ。だから、道が塞がれ通れなくなるのだ。。。もちろん、その間、私は外出禁止令がでた。んんんん
ある日私は、一人でスパニッシュタウンの町を歩いた。まああ、その日だけで“え??私って綺麗??”って錯覚を起こすほど電話番号をひっきりなしにもらった。。
一つ私が嫌いだったのは、みんな“Miss Chin!!”と声をかけることだった。。
最初は分からなかったけど、あとで、“はあ???中国人??”って思って、反逆に踏み切った。中国人サン!と声をかけられるたんびに、そいつを呼びとめ、
“ちょっと、あんた!あんたの乗ってる車はなんだい??トヨタだよ??どこからか知ってるかい??日本だろーよ!私も日本産なんだよ!!どうせ呼ぶならMiss Japと呼べばかやろお。”
と、沢山のジャマイカ人にまくし立てた。みんな、もちろん悪気もなく、もちろん教育も行き届いてないから、アジア人=中国人なのだ。私が何で怒ってるのかも知るはずもない。。私は、国籍を間違えられるくらいなら“アジア人”と呼ばれたい。
でも、彼らには分からない。“じゃ、アフリカ人って言われてもいいの??”って聞くと、“ヤーマン!僕らの祖国は、アフリカなのさ!光栄だよ!”と。。。
でも、一人一人呼び止めたおかげで、すぐにみんな、Japaneseと呼ぶようになった。(ジャマイカ編続く)


サンパウロ空港

2007年08月03日 05時11分05秒 | ブラジル(NATAL)情報2007
飛行機事故。あれは、パイロットの個人ミスという判決に出ましたね。同じようなみすが、アジアの国でも起こったようですが、滑走路が長かったために、惨事は免れたそうです。サンパウロは、滑走路が短かったために免れぬ事故になったと、新聞にありました。。。
さてさて、とうとう、先週の日曜日、私たちの友人RUPERT(参照)は、サンパウロに飛んでいきました。ブラジル政府が動き出したんですね!1週間ほどで、戻るらしいのですが、でも、管制塔のシステムってどうなってるんでしょうね。。。
あと、こっち(NORDESTEだけでしょうか??)には、先進国が使ってるような、高級な、ホットシャワーは、あまりありません。(高級な家か、5星ホテル位は普通のホットシャワーが付いてるみたいですが。。)。簡易なホットシャワーの機械を取り付けるんですが、約3ヶ月ほど私達のホットシャワーは、壁から外れ、ぶら下がってしまい、水シャワーのみを使ってました。で、ちょっと、最近“水はちょっと。。”って思えるくらいの涼しさになってしまったので、“そろそろ修理して付けようか。”なんて言いながら、電気の修理屋を探していたところ、このTELE COMUNICATE のエンジニアRUPERTは、“おい、気をつけたほうがいいぞ。ここらの電気屋は、上二つに走ってる電気は、知ってるが、下に走る電気を知らないやつらが多い!もし、まかり間違えてつけられると、シャワー水が上から地面に落ちたときに、地面に走ってる電気に通関して感電するぞ!”と、ゾクーッとさせられた。わたしは、ブラジルの電機じたいを信じていないので、言われて“ありえる!”と納得して、未だに水シャワーを使っている。。。ま、来週RUPERTが帰ってきたら、直してくれるらしいので、“感電する位なら”っと、冷たい水で我慢することにした。ひよっこの私たちである。。。。。
はやく、サンパウロのシステムが新しくなるといいなああと思う。