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あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

どういうものであれ暴力は最後の手段に

2022-03-30 | from:sachiaki
戦争ってやーね。

藪から棒に何を言い出すんだ?
なんてドギマギさせちゃうsachiakiです。
ドギマギさせるのなら
もっと艶っぽいのでドギマギさせたいですものですが。

今日はお店当番の日だったので
湯島にあるお店にお出かけしてきたら
とあるお客様がウクライナとロシアの戦争について
長くお話をされていきましてん。
長く話をされていましたけれど、
なにが本題なのだろう?って思いながら
ずっと耳を傾けていたのですけれど
あぁ、これはどうやら「人類がなぜこんなにも愚かなのか」
という話なのだろうなぁ〜と。
「どうして戦争が起こったのか?」とか
「フェイクニュースと言われているが本当だろうか?」とか
別の問いも立てられていたけれど、
よくよく聞いていれば人間の理性についての話なのだなと
そんな風に理解したので、
先日のアカデミー賞での殴打事件を持ち出しながら
”人間は暴力を捨てることができない”
という進撃の巨人の中でイェレナが言っていたことを引用させてもらい
どんなに正義がこちらにあろうとも
暴力を持ち出すのは理性がない証拠だって話をしました。
別の友人は「侮辱には怒らないといけない」と言っていたし
私も不当なことに負けっぱなしはいけないって思うけれど、
その正当性を訴える時に暴力であって良いのか?
っていうのはすごく疑問に残るんですよね。
それってどのぐらいの暴力なら許されるのか?とか
どういった理由なら許されるのか?とか
それこそ千差万別の答えが返ってきてらちがあかないし
そういう差分の延長上に戦争があると考えているので
やっぱり「いかなる理由があろうとも暴力は許さない」と
発表されたアカデミー賞の言い分の方に
私は理があると思っています。

まぁ、人間の心情としては共感できる部分だけどね。
自分のことは悪く言われても「ヘヘ」って笑い飛ばせるけれど
家族や友達っていうのは別のものだったりするからね。
でもそれって、ようは怒れる理由が自分にないという
ズルでもあるんですよね。
”誰かのため”っていうのはタガが外れやすいんですよ。
だからこそ、先日アニメの最終回を迎えた
「王様ランキング」では「誰かの願いを叶えたい」とか
「誰かを助けたい」という欲について
ものすごく考えることを要求してくるものだったので
ここでたくさんのことを感じることができて良かったなぁと。
未見、未読の方はぜひ。

そしてもっと分かりやすく、説明不足だなぁとは思うものの
言葉として分かりやすかった「鬼滅の刃 遊郭編」での
「人のために怒る人は自分の身を顧みない所があるから」
「そのせいでいつか大切なものを失くしてしまいそうだから怖いよ」
というのは、とても良い戒めの言葉だなぁと思いました。

自分の身を顧みないってことは、
自分自信を粗末に扱うことでもあるし、
その結果大事な人たちまで粗末に扱われてしまう結果を
導き出してしまうこともある。
大切なものを大事にしておきたいなら
グッと堪えていなくてはならないことがあるし
「ヴィンランド・サガ」の中でトルフィンが言っていたように

 傷つけていい人間なんてどこにもいないんだ

 暴力は最後の手段だ
 なら最初の手段……
 一番いい方法ってなんだったんだろう
 いつも「最初の手段」を選び取れるようになりたい
 そしてどこまで「最後の手段」を選ばずにいられるか……

が響いてくるんだと思います。

どんなに自分の側に正義があると思っていても
その正義は暴力を駆使した時には汚れに変わるんです。
私は「正義」というものが大好きです。
だからこそ「寛大は正義の花である ーホーソン」を
忘れずに歩んでいかないとって思うんです。

と、すごく偉そうなことを書いているけれど
私自身は恥の上塗りで生きてきて
「正義」を語る口なんて持っていないんですけどね。

寝言ねごと。

あ、寝言で思い出したけれど、
【201】[feat. こはならむ, ぜったくん]ねぐせ / MAISONdes
って曲が最近好きでよくリピッています。
”週5ぐらいで君の気分”だった男の子が
盛り上がりにくい彼女に押しかけ続けた結果
彼女の方にエンジンがかかってきたら
あっという間に消えていってしまう
ありがちで若い歌詞に心をかき乱されながら聞いています。

「好きにさせるならいなくなんないで」
って歌詞がこう…心臓をキュッとするんですよ…

彼女の重すぎる気持ちから逃げたくなるのもわかるんだけど。

【201】[feat. こはならむ, ぜったくん]ねぐせ / MAISONdes


この曲に対するアンサーは
ずっと昔に魚喃キリコが描いていた漫画の中にあった
同棲している彼女持ちの男の子を好きになった女の子が
同棲カップルが買い物をしている姿を見て
その買い物袋の中に「たくあん」があることに
入り込む余地がないってことにないってことに気づくってやつですかね。

他人から見た時にどうでもないことまで共有している二人っていうものには
入り込む余地なんてどこにもないぐらい
ぴったりしてるもんなんですよね。
いや、ぴったりでもないか。
「たくあん」という泥臭さい生活臭に
「恋」なんて非日常は太刀打ちできないって話。

牛乳を買って帰ろうか?って言えた二人だったのだから
「たくあん」を一緒に買える日だってあったのかもしれない。
そんなことを思いながら聞いてる午後11時。
東京の夜は暮れていくのです。

さて、私も夕飯の片付けをしないとですわ。
面倒くさいけれど、これも生活。
それではまた。モイモイ。

追伸:正論学級員みたいな意見滅びろ!みたいなのも見かけたけれど
   理想も言えなかったら終わりだってamazarashiも歌詞にしてるし、
   私の好きな漫画の人たちも「暴力を選ばない」方法を
   一所懸命に模索してるに、偉そうに「暴力あり」を
   話すのはどうなんだろう?って思うよ。
   もちろん防衛は大事。だけど先手を打つのはおかしいじゃん。
   「最後の手段」と言っているのはそういうことです。
   暴力を肯定しないとフェミも語れないって書かれたけれど
   フェミ語るのに最も遠いのが暴力じゃんね?
   私は少なくともそう思います。
コメント
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