constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

虐殺のヌートピア

2008年01月15日 | knihovna
伊藤計劃『虐殺器官』(早川書房, 2007年)

「短い20世紀」と「長い21世紀」を区分する指標のひとつとして、戦争形態の変容、すなわち圧倒的な数の大量破壊兵器を保持した超大国同士による「世界戦争」から、権力資源や手段、および抗争主体間の非対称性が顕著であり、かつ前線と銃後、国内と国際、政治と経済などの既存の境界線を無意味化する形で進む「世界内戦」への移行が指摘できる。あるいは日常性を基準とするならば、これまでの(国家間)戦争が戦時/平時という時間観念の切り替えに基づいている点で非日常の領域に属すものである一方で、「対テロ戦争」という呼称が物語っているように、日常生活に浸透し、その内部からの撹乱・転覆を志向するテロリズムが非日常性を喚起する戦争と結びついている点で従来の日常/非日常あるいは戦時/平時の区分は通用しない。したがって外部領域の存在しえない世界において戦われる抗争は不可避的に「内戦」の様相を呈していく。

そのような状況にあって、平穏で安全をもたらしてくれる日常を得ようとするならば、自分たちの領域の外側に非日常性を見出し、分節することが必要となってくる。しかし発見され、措定された非日常性は不安定性を内在し、それゆえ絶えずその意味を固定化しておくことが要請される。言い換えれば非日常性を分節することによって担保されたはずの日常性はつねに侵食される不安を抱えた流動的なものでしかない。その不安感あるいは脅かされているという感覚は日常性の領域それ自体を縮小し否定しかねない状況をもたらす。この非日常性の全面化ともいうべき現象は9.11以後の世界において監視社会という形で顕在化している。しかもその場合、少数(権力者)が多数(一般市民)を監視するパノプティコン型ではなく、多数が少数(テロリストなどの逸脱者・不審者)を監視するシノプティコン型であることが特徴として挙げられる(テッサ・モーリス=スズキ『自由を耐え忍ぶ』岩波書店, 2004年: 3章)。

冷戦の終結は米ソ/東西/二極といった慣れ親しんだ世界表象がもはや無効となったことを意味し、その結果、一種のアイデンティティー喪失状態が生じた。「長い21世紀」の最初の10年間、いわゆる「名もなき90年代」はまさしく冷戦に代わる新たな拠り所を探求する過程だといえる。代表的なのはフランシス・フクヤマの議論に見られる「ポスト歴史世界/歴史世界」であり、それにデモクラティック・ピ-ス論を加味した「平和圏/紛争圏」という世界表象だろう。こうした漂流状態にあったアイデンティティーを再編し、固定化していくひとつの方向性を与えたのが9.11とその後の「対テロ戦争」であり、それに伴って加速度的に新たな境界線の設定に進み、定着しつつある。

「スパイと兵士のハイブリッド」組織であるアメリカ情報軍特殊検索群i分遣隊所属のクラヴィス・シェパード大尉を主人公とする本書は、こうした9.11以後の世界表象に依拠し、その延長線上に語られる物語である。サラエボでイスラム原理主義者が手製の核爆弾を使用したことによっていわゆる「核の禁忌」が解かれた近未来の描写は「長い21世紀」を特徴付ける意匠が至る所に散りばめられ、今後の政治的な重層的な(非)決定次第では現出する可能性を排除できない潜勢力に満ちている。現代紛争の特色であるところの戦争/暴力の私有=民営化については、民間軍事会社ユージン&クルーノブスがソマリアやインドなどで実質的な平和維持活動に関与し、「戦争はもはや国家が振るう暴力から、発注し委託されるもの」(63頁)となった世界が描かれる。あるいは小説世界において最新テクノロジーである人工筋肉の生産拠点がアフリカのヴィクトリア湖周辺にあり、その利権をめぐって「ヴィクトリア湖沿岸産業者連盟」と周辺諸国の間で紛争が生じている様子は、いうまでもなくドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」を想起させるし、一方の紛争当事者が企業連合である点などはかつての東インド会社の系譜に連なり、暴力の多元化を示唆するものであろう(東インド会社については、羽田正『興亡の世界史(15)東インド会社とアジアの海』講談社, 2007年参照)。このように現実とフィクションの距離はそう離れていないところに小説世界が成り立っていることを読者に強く印象付ける。

さらにいうならば、民間情報セキュリティ会社(インフォセック)が提供する、生体認証技術などに基づいた情報管理は、犯罪者やテロリストの特定・追跡を容易にし、安全を保障してくれるとともに、嗜好に応じた消費行動を促す意味で消費者の利便性を飛躍的に向上させる。しかしそうした情報管理社会の恩恵は、行動を束縛される感覚と引き換えにもたらされる逆説性を持っていることは昨今の監視社会をめぐる議論からも明らかである(たとえばデイヴィッド・ライアン『9・11以後の監視――〈監視社会〉と〈自由〉』明石書店, 2004年)。ネットワーク上で流通する情報に一義的な意味が付与されることで、物理的な身体に対するヴァーチャルな情報の優位が常態化していくが、それを逆手に取ることによって、身分を偽装することも可能となる。その拠点、すなわち「追跡可能性ゼロ」の「人間の消える町」としてプラハが舞台となっていることは興味深い(93頁)。20世紀の全体主義を象徴するソ連とナチスからの亡命者が集った戦間期のプラハは、全体主義に抗う空間としての表象を纏い、また記憶化されている(篠原琢「プラハ――亡命者の交差点」荒このみ編『7つの都市の物語――文化は都市をむすぶ』NTT出版, 2003年)。個性が脱色され、平準化される形で(テクノ)全体主義の傾向が情報管理社会に内在しているとすれば、そこからの亡命者たちを受け入れる空間としてプラハはまさしく適所だといえる。

あるいはポスト植民地ないしポスト共産主義国家で生じた人道危機とそれに対応する形で断続的に実施される介入のサイクルは、メディアを通じて「紛争圏」の表象構築を促し、「平和圏」に住む人々のヒューマニズムと恐怖が入り混じった反応を呼び覚ます。つまり「紛争圏」で起こっている危機が喚起する、危険に晒されている人々への同情、共感そして憐みは、「平和圏」という境界線の内側にいる安心感と表裏一体であり、また「紛争圏」の危機や混乱が「平和圏」へと波及してこない方策として人道的介入による危機の封じ込めが行われる。人道危機と介入が「紛争圏」を転移していく限り、その行為は「平和圏」の人々にとって一種の見世物として提示され、平和な日常におけるカタルシスの役割をも担う。

皮肉にもノーム・チョムスキーをモデルにしたと思われる「内戦を渡り歩く旅行者」ジョン・ポールの認識を支えているのは、このような心性だろう。言語学の教授であったジョン・ポールは、ペンタゴンの研究プロジェクトに関わる中で、「内戦というソフトウェアの基本仕様」(53頁)となった虐殺に共通する文法、すなわち「虐殺文法」を見つけ出す。サラエボで爆発した核兵器によって妻子を失ったポールは文化宣伝顧問などの肩書きで世界各地の紛争地域に入り込み、「虐殺文法」を実証していく。その根底にあるのは、彼自身の言葉に倣えば「彼らの憎しみがこちらに向けられる前に、彼ら同士で憎みあってもらおうと。彼らがわれわれを殺そうとする前に、彼らの内輪で殺しあってもらおうと。そうすることで彼らとわれわれの世界は切り離される。殺し憎しみあう世界と、平和な世界に」(264-265頁)という論理であり、また「愛する人々を守るため」(262頁)という論理で補完されている。

「愛する人々」と「殺し憎しみあう世界で生きる人々」を分けるのは身体感覚といってよい。「虐殺文法」の実験地で起こる死はヴァーチャル空間における平準化した情報と同じく無味乾燥なものであり、身体あるいは感情に直接作用するだけの痛みを伴わず、情報として消費される記号でしかない。人の死に対する格付けはたしかに嫌悪感を覚えさせるが、「わたしは命を天秤にかけた。わたしたちの世界の人間の命と、貧しく敵意の影がさす国の人間の命。わたしは目を見開いたまま、完全に正気で、その選択をした」(272頁)とジョン・ポールが語る選択を否定するだけの論拠は乏しいのもまた事実である。それは「何百万という人類の滅亡よりも、自分の小指のけちな痛みのほうが心配なものだ」という格言と通底する意味で、人間本性に根ざしているのではないかと首肯させるほどの説得力を持つ。

命の格付けをめぐる葛藤は、物語り全体に流れるテーマであり、主人公クラヴィス・シェパードを縛り付けている。任務として幾多の暗殺を実行してきたクラヴィスであるが、それが罪の意識や人格崩壊につながらずにいられるのは、CEEP(幼年兵遭遇交戦可能性)などを考慮した痛覚マスキングや戦闘適応感情調整によって保護されているからに過ぎない。しかし交通事故で脳死状態に陥った母親の延命処置を拒否すること、つまり安楽死の選択は、クラヴィスを悩ませ、彼の心に重い影を落とす。「たっぷりの銃とたっぷりの弾丸で、ぼくはたくさんの人間を殺してきたけれど、ぼくの母親を殺したのは他ならぬぼく自身で、銃も弾丸もいらなかった」(11頁)と述懐するように、いっけん殺人行為とはいいがたい延命拒否同意のサインがクラヴィスに強い罪の感覚を生じさせる。それまで任務として奪った無数の命に比べて延命拒否という形で母親の命を奪った決断は死の意味合いにおいてまったく異なり、それゆえに殺人意識を具体的な感覚として生じさせていく。

したがってクラヴィスがジョン・ポールの言い分を非難することはできず、むしろ日常性の領域にある母の死と非日常性の領域で遂行された暗殺任務を区分する境界線が疑問視され、相対化される。平和で安全な日常性の領域を守るため、世界各地で暗殺任務に携わってきたクラヴィスは自明の前提、あるいは自らの存在理由を失ってしまう。そしてアメリカ以外の命を背負うことを引き受けたのがジョン・ポールだとすれば、その責任を反転させて、つまり「アメリカ以外のすべての国を救うため」、クラヴィスは「虐殺文法」の物語を「平和圏」に向けて語り出す。「エピローグ」で語られるように、公聴会におけるクラヴィスの証言は、「平和圏」と「紛争圏」を分ける境界線を無効にする効果をもたらす。「虐殺文法」で綴られる物語は「紛争圏」に留め置いておくことができない、言い換えれば深層文法である「虐殺文法」はそもそも外部性を必要としない遍在性を有している点で、「平和圏」という名のユートピア/ヌートピアは擬制でしかない。あるいは「虐殺文法」によって生まれる「紛争圏」を構成的外部として措定する作業を通じてのみ成立する束の間のユートピア/ヌートピアと見るべきかもしれない。
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