constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

会議外交としての六カ国協議

2007年02月14日 | nazor
昨年の北朝鮮のミサイルおよび核実験再開と国連安保理の制裁発動によって一気に緊迫の度合いが増し、袋小路状態に嵌った感のあった朝鮮半島情勢は、先月ベルリンで開催されたアメリカと北朝鮮の二国間協議を契機に一気に動き出し、8日から北京で行われていた六カ国協議において、寧辺の核関連施設の停止と見返りとしての経済支援を明記した共同声明の採択に結実した。すでに合意内容の解釈をめぐるヘゲモニー闘争が繰り広げられているが、すくなくとも今回の合意によって、2000年代の東アジア国際関係の中心課題であった第二次核危機はいったん幕を閉じたとみてよいだろう。

ここで簡単に核危機の特質と歴史的な経緯を振り返ってみると、(ヨーロッパ中心主義的な)世界史観に基づいて米ソ冷戦の終焉およびソ連圏の解体が起こった1989-91年に時代の転換点を求めるならば、たしかに1990年代以降を「ポスト冷戦」と呼ぶことは間違いとは言い切れない。他方で、東アジアという特定の空間に目を転じれば、いわゆる「ポスト冷戦」時代の東アジアにおいてつねに中心を占めてきた朝鮮半島問題、とくに北朝鮮の核問題は、グローバルな冷戦構造の崩壊によって生じた秩序転換期に特有の流動的な状況に注目すればすぐれて「ポスト冷戦」的な問題である。その一方で、1970年代の米中デタントによる東アジア冷戦構造の部分的終焉というシステム変化が体制転換をもたらすのではなく、北朝鮮の国家体制あるいは国家/国民アイデンティティの再構成(主体思想や先軍政治)に逢着したことは、冷戦的な感覚や思考が完全に払拭されずに残っていることを意味している。その点で北朝鮮の核問題は、一般通念的には終わったはずの冷戦という文脈に強く拘束されている。別言すれば、冷戦的要素とポスト冷戦的要素が複合的に交錯している点が北朝鮮をめぐる核問題の解決をより困難にしているともいえる。

1990年代以降の東アジア国際関係は、いわば北朝鮮の核問題を中心に展開し、その秩序構想の行方も左右されてきた。グローバルな冷戦の終焉過程は、韓国の北方外交という地域的な対応を生み出し、それまでの東アジア国際関係の構図を大きく変えてしまう触媒として作用した。その過程で孤立感を深めていった北朝鮮が核兵器開発に打開の道を求めた結果、1994-1995年の第一次核危機が起こったわけである。第一次核危機が枠組み合意によって一応の妥結を見た後、南北首脳会談の開催に見られるように、世紀転換期前後には緊張緩和の機運が醸成された一方で、枠組み合意の実施において当事者間で認識の相違が浮き彫りになっていった。たしかにアメリカにおける政権交代と同時多発テロは、核問題をめぐる既存の規定条件を一掃してしまうだけの衝撃をもたらし、北朝鮮にどのように対応し、核問題をどのように解決し、そして東アジアにいかなる秩序を築き上げるのかという問題群をめぐって積み重ねられてきた取り組みは振り出しに戻ることになった。

こうして生じた第二次核危機に関しては、船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン――朝鮮半島第二次核危機』(朝日新聞社, 2006年)がその内実を詳らかに明らかにしている。すでに主要全国紙の書評などで高い評価を受けているが、その中で異彩を放つ評価を与えているのが木村幹の書評である(『論座』2007年2月号: 306-307頁)。「外交エリート達によるプロジェクトXの限界」と題するキャプションが示唆するように、船橋が描き出す六カ国協議における各国代表団の行動や発言は、18-19世紀の古典外交の情景と共通するものがある。木村は、こうした既視感を覚えさせる理由として、冷静で合理的な判断に基づいて「外交のプロ達」によって進められる外交交渉というエリート主義的な前提が暗黙のうちに措定されていると指摘する。そして「外交のプロ達」の行動の自由を束縛する各国の「空気」が十分に書き込まれていないために、第二次核危機を取り巻く状況の転調が看過されてしまったと論じている。

かつて高坂正堯は古典外交の特質として同質性・貴族性・自立性を挙げたが(『古典外交の成熟と崩壊』中央公論社, 1978年: 344頁)、六カ国協議の場に集う「外交のプロ達」もまた外交官という職業に携わる一種の貴族性を有し、一種の外交文化を身につけている点で同質的であり、また国内の「空気」が遮断されている意味で国内政治から自立した(閉鎖)空間として六カ国協議を捉えることができる。したがって厳しく対立しているようでありながらも、そこに外交官同士の奇妙な連帯感や和やかな雰囲気を看取することは困難ではない。高坂の言葉を借りれば、「外交の営みをゲームとして楽しむ感覚なしに、外交という複雑で微妙な技術はありえない」(169頁)という認識が依然として息づいているように感じられる。さらにいえば各国の次官級を成員とする六カ国協議という形式が、ちょうど君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交――パーマストンと会議外交の時代』(有斐閣, 2006年)においてパーマストン外交の特徴として指摘された会議外交(conference diplomacy)を想起させる点も、六カ国協議に内在する古典外交的な性格を示しているといえるだろう。君塚自身は会議外交が持つ今日的含意については明確に述べていないものの、その意義が失われていないという認識があることは確かだろう。

「外交はつねに時間がかかるものだし、それゆえに『待つ』ことがきわめて重要な美徳となる」(高坂: 151頁)と語り、君塚も外交の奥義を「ねばり強さ」に求めている古典外交が成立するためには、国内政治の影響を最小限に抑えておくか、あるいはハロルド・ニコルソンのように立法的側面と執行的側面を峻別し、前者への影響を是認することで後者の自立性を確保することが必要になる(『外交』東京大学出版会, 1968年)。しかしながら、19世紀的な国際政治から20世紀的な国際政治への変容はニコルソンの譲歩を無意味化するような形で進んでいった。つまり、国際政治認識がイデオロギー化し、勢力均衡政策の要である同盟の柔軟な組み替えが機能しなくなる一方で、既存の枠組みに対する物神化傾向が高まっていき、そして軍事的なるものに高い価値を見出す「市民社会軍国主義」が浸透していくことによって、古典外交が機能する素地は取り払われていってしまった(高橋進「1914年7月危機――『現代権力政治』論序説」坂本義和編『世界政治の構造変動(1)世界秩序』岩波書店, 2004年)。この傾向はさらなる展開を遂げて、地政学に代わって時政学の支配する「長い21世紀」において、「待つこと」に対する耐性が十分に備わっているとはいえず、反対にミラン・クンデラの表現を借りれば(『緩やかさ』集英社, 1995年: 165頁)、速さの魔力と忘却の願望が絡み合いながら、政治指導者も国民も視覚的効果のスペクタクル性に富んだ結果を期待し、そして求める。その結果、細谷雄一が指摘するように、感情による外交運営、すなわち「譲歩を拒絶し、弱さを嘲笑し、圧倒的な勝利を求めようとする外交姿勢」が時代の趨勢になっている(「新しい交渉の時代」『論座』2007年3月号: 30頁)。合意を作り上げていくプラスサムというよりもむしろ勝つか負けるかのゼロサムの観点で理解されるような外交は本来の意味における外交とはかけ離れたまったくの別物だといえる。

六カ国協議の内部空間において展開されているのが冷静な利害計算に基づく「古典外交」だとすれば、その外部空間を支配しているのは「情念外交」だといえる。この2つの外交をどのように整合させるのかが各国政府にとっての課題となっているが、北朝鮮の核問題に関連付けるならば、この課題が先鋭的な形で現れているのが日本である。すなわち日本の外交政策がアメリカ外交の従属変数として行動の自由を著しく制約されているという構造的な問題に加えて、安倍首相は、自らの権力資源の多くを拉致問題に典型的な「情念の領域」から引き出すことによって現在の地位とイメージを獲得してきた。そのため、アメリカの政策転換に影響されやすい一方で、そもそも外交交渉によってはカタルシスを提供するような形での解決が見込めない状況において国内に充満する情念をどのように宥めるかというアポリアに直面することになる。今回の六カ国協議の合意もこのアポリアを解消するだけのインパクトに乏しく、むしろ拉致問題の解決という目標と整合させていく作業がいっそう難しくなった印象が強い。

木村が言うように「外交のプロ達」が作り上げた六カ国協議には限界が内在しているとすれば、六カ国協議が現代版の会議外交として今後も機能するかどうかは未知数であり、多大な期待をかけるべきではないだろう。今回の六カ国協議とは、ほんの一瞬「長い21世紀」に開花した古典外交の残り香に酔いしれることができた稀有な時間が現出した場であったのではないだろうか。
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