constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

デタント史の前途

2006年12月26日 | knihovna
齋藤嘉臣『冷戦変容とイギリス外交――デタントをめぐる欧州国際政治 1964-1975年』(ミネルヴァ書房, 2006年)

近年、日本のイギリス外交史研究では、若手研究者による質の高い研究成果が相次いで生み出されている。君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交――パーマストンと会議外交の時代』(有斐閣, 2006年)や、細谷雄一『外交による平和――アンソニー・イーデンと20世紀の国際政治』(有斐閣, 2005年)は、その一例である。またモノグラフとして刊行されていないものの、脱植民地化過程からイギリス帝国の終焉を考察している半澤朝彦の一連の研究(たとえば「国連とイギリス帝国の消滅 1960-1963」『国際政治』126号, 2001年)もイギリス外交史の充実ぶりを示すものである。

このような活況を呈しているイギリス外交史研究の一翼を担う本書は、歴史研究としては「新しい過去」である1960年代から1970年代のヨーロッパ地域における冷戦構造の変容に焦点を定める。一般に「デタント」と呼ばれる1960年代および1970年代の国際環境において、ドゴールやブラントのような強烈な個性を持つ政治指導者によって率いられたフランスや西ドイツの役割をめぐる議論が中心となってきた(たとえば、西ドイツの東方政策については、高橋進「西欧のデタント――東方政策試論」犬童一男他編『戦後デモクラシーの変容』岩波書店, 1991年)。他方で、大陸諸国から距離を置いてきた外交的伝統やアメリカとの「特別な関係」という事情もあって、デタントの成立において果たしたイギリスの役割に対する関心は等閑視されてきたといえる。こうした研究上の盲点に着目し、イギリス外交の視座からデタントの成立、とくにヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE)開催をめぐる政治過程を考察し、「冷戦の終わりの始まり」としてのデタント史の構築を展望するのが本書の目的とされる。

イギリスのデタント政策の特徴は、東側諸国との関係改善の重要性を十分に認識しながらも、確実な成果につなげるために西側同盟内部での緊密な連携と調整を重視していた点にある。著者の言葉を借りれば、イギリスの貢献は「フランスのデタント政策に挑戦し、西ドイツの東方政策を支持し、CSCEの交渉過程では超大国デタントの論理とは別の論理を構築すること」に求められる(14頁)。西側同盟の維持と結束を重要視するイギリスにとって、調整の場となったのがNATOである。米ソ関係が安定期に入り、またフランスの独自路線によって「正統性の危機」に直面していたNATOは1967年のアルメル研究を通じて、新しい役割を担うように変貌していく。このNATOの存在理由の転換はイギリスがデタント政策を推進するための足場となっていく。さらに通時的に見た場合、1968年に起きたソ連のチェコスロヴァキア侵攻を契機にイギリスの姿勢は大きく転換することになる。本書の言葉を引用するならば、「1960年代中期から後半にかけて、デタントのダイナミズムを形成し、同盟を維持することで西ドイツ東方政策の基盤を提供するが、1970年代にデタントが大きく花開いた時に、同盟の団結を目的としてデタントの言説を利用する」ようになる(11頁)。

本書の議論からは多くの示唆を汲み取ることができるが、ここでは冷戦史研究の文脈に関わる論点をいくつか検討しておきたい。序章「デタント史の構築」における問題設定から明らかなように、本書はいわゆる「新しい冷戦史」研究に属する。この研究潮流にとって最大の利点は冷戦を「始まりと終わりを持つ一つの完結した時代」(2頁)と把握することによって、冷戦の複合的性格を分析する地平が開かれたことにある。その結果、本書が軸足を置くイギリスのように米ソ以外の主体が冷戦の展開においてどのような役割を果たしたのか、また東西の対立関係だけでなく、同盟内部の協調と対立の錯綜した相互作用を射程に入れた研究が可能となっている。

他方で、冷戦の終焉という結末が明らかになったことは、歴史叙述の問題を重要な論点として浮かび上がらせる。旧東側諸国公文書の第一次解禁ブームの成果ともいえるジョン・ルイス・ギャディス『歴史としての冷戦――力と平和の追求』(慶應義塾大学出版会, 2004年)の原書タイトルが端的に象徴するように、「われわれは今や知っている We Now Know」立場から、冷戦史を叙述することができる。それによって同時代においては不明確であった数々の事象に関して正確な理解が得られるようになる。

しかしながら、「冷戦が終わった」という事実は、冷戦の複合性をありのままに把握する視座を提供する一方で、複合性を縮減してしまう方向性も併せ持っている。すなわち冷戦を勝ち負けの次元で捉え、その終焉を西側、とくにアメリカの勝利と同一視する観点に立つならば、冷戦史は最終的に勝利に帰結する単線的な過程として描かれることになる。とくに冷戦体験が同時代性を失い、歴史の範疇に組み込まれるようになるにしたがって、画一的な冷戦像が浸透していく。この点がもっとも如実に顕在化したのが近年のアメリカ外交、とくにイラク戦争に至る過程で聞かれた言説だろう。冷戦とは米ソの対決であり、アメリカの勝利によって終わったもの、換言すれば戦後対ソ政策の基本原則であった「封じ込め政策」の成就として捉える見方、あるいは「力による平和 peace through strength」政策こそが冷戦終結の決定的要因であったという理解が一定の説得力を有している。その背景には、藤原帰一が論じるように、冷戦の終結に至る過程(Cold War Endgame)において「合意による平和」から「力の平和」へと冷戦終結観が変化し、冷戦に「代わる新秩序の樹立ではなく、それまでの封じ込め政策と、武力行使の正当性を確認する、旧秩序の勝利として終わった」という認識がかなりの説得力を持っていることを示している(「冷戦の終わりかた――合意による平和から力の平和へ」東京大学社会科学研究所編『20世紀システム(6)機能と変容』東京大学出版会, 1998年: 301頁)。

このことは、冷戦史研究が単なる過去の研究に留まらないことを意味している。すなわち「過去を支配する者は未来まで支配する」というジョージ・オーウェルの言葉に擬えて(『1984年』早川書房, 1972年:47頁)、ケン・ブースは「冷戦期の国際関係史を支配する者はポスト冷戦期の国際政治まで支配する」と述べたように("Cold Wars of the Mind," in Booth ed., Statecraft and Security: the Cold War and Beyond, Cambridge University Press, 1998: 36)、「冷戦とは何だったのか」という問いはすぐれて今日的な意味あいを持っている。またブースが指摘する冷戦的思考の持続力についていえば、同時多発テロ後にブッシュ大統領が描き出した「文明か野蛮か」と二項対立的構図が、二つの生活様式の選択を突きつけた1947年のトルーマン・ドクトリンを容易に想起させたように、現在の国際政治において冷戦の体験、そこからの教訓、そして記憶と忘却の力学は重要な政治要因として作用している。さらに付言するならば、『諸君』2007年2月号の特集「『冷戦』は終わっていない!」で展開される中西輝政たちの安直な反共主義的言説に冷戦的思考の残影を看取することは困難なことではない。

西側/アメリカの勝利物語として冷戦史を叙述する限り、本書が注目する1970年代のデタントは1980年代の新冷戦状況に至る「小休止」に過ぎず、冷戦構造に対する衝撃度は表面上のものであり、その重要性が省みられることはない。その一方で現代世界を表象する言葉であるグローバリゼーションを考慮に入れたとき、1970年代の国際関係は地殻変動の只中にあると理解することができる。この点を敷衍するならば、1945年以降の戦後秩序における冷戦の拘束力、言い換えると戦後史をどこまで冷戦史として語ることができるのかという問題へとつながっていく。20世紀後半の世界を冷戦時代と見ることは間違いではないが、同時にそうした見方はあらゆる事象を冷戦と関連付ける一種の還元主義、あるいは米ソ関係の従属変数とみなす単純化した歴史観をもたらす。冷戦の終焉を知っている現時点から改めて冷戦史を振り返るとき、戦後史との差異や乖離を念頭におく必要があるだろう。冷戦を「アメリカのイデオロギー的プロジェクト」と把握するアンデルス・ステファンソンの挑発的な問題提起を受け止めるならば("Fourteen Notes on the Very Concept of the Cold War," in Gearoid O Tuathail and Simon Dalby eds., Rethinking Geopolitics, Routledge, 1998.)、冷戦の終焉は米ソ間で交渉可能性が認識された1963年に求められる一方で、一般に冷戦の終結過程である1989年から1991年は、第二次大戦の戦後処理として凍結状態にあったドイツ統一問題が解決し、東欧諸国からのソ連軍の撤退が開始されたことが物語るように、戦後(秩序)の終焉を象徴する年として理解されるべきだろう。

以上の冷戦の時期区分をめぐる問題を踏まえると、デタントの位置づけも微妙な修正を受ける。単なる「小休止」と見るデタント観も、あるいは「冷戦の終わりの始まり」と見るデタント観も、冷戦構造を所与としている点で共通性を持っている。しかし戦後秩序との乖離に注意を払った場合、1970年代の国際関係に脱冷戦的な兆候を見出すことができるのではないだろうか。この点で、歴史として冷戦を眺めることができる現時点の研究者よりも、同時代史として1970年代を生きていた研究者たちのほうが鋭い洞察力を持っていたといえる。たとえば、ソ連のアフガニスタン侵攻によってデタントが崩壊し、「新冷戦」という言説が広まっていた1980年に、高坂正堯は「米ソの対立の激化が事実であり、それが世界政治に影響を与えることも確実であるとしても、冷戦の再来という言葉で捉えることは、誤った判断を生むだけである」と指摘し、デタントを経た後の「新冷戦」を安易に「冷戦」への回帰と見る考えに対して、イデオロギーの後退、闘争の多元化、米ソの内政上の問題という3点において文脈的な違いの存在を挙げて異論を唱えた(「再熱した米ソ対決の見落とせぬ性格」『高坂正堯外交評論集――日本の進路と歴史の教訓』中央公論社, 1996年: 168頁)。同様に永井陽之助も、「西側諸国とソ連との関係は力を背景とした、いかにきびしいものであっても、冷戦時代のように『単独行動の応酬』ではなく『交渉可能性の相互期待』がある以上、かるがるしく『冷戦の復活』等の語をもちいるべきではない」と論じている(『冷戦の起源――戦後アジアの国際環境』中央公論社, 1978年:10頁)。あるいは「米ソ首脳部が冷戦の終わりを語り、アジアの局地紛争にも終止符が打たれた1970年代こそ、新たな国際秩序の概念を作り出すべき絶好の機会であった」と述べる入江昭の指摘を(『20世紀の戦争と平和』東京大学出版会, 1986年: 193頁)、藤原帰一は「卓見」と評し、「覇権にも競合にも依存しない国際協調を基礎においた秩序を形成するためには、70年代の中葉は貴重な機会だった」と1970年代を位置づけている(『デモクラシーの帝国――アメリカ・戦争・現代世界』岩波書店, 2002年: 113頁)。

「冷戦の中のデタント」からデタント史を構築する作業は、1970年代の国際関係の特徴に照らし合わせたとき、当初の問題枠組みを超えたものとなる。冷戦構造を所与としたデタント認識はあくまで冷戦的思考の圏内にあり、戦後史との交叉領域を視野に入れたデタントに向けた一種のパラダイムシフトが求められるといえるだろう。そのために必要となるのが、第1に英米、英仏、独仏のような二国間関係の考察を積み上げると同時に、西側同盟関係を総体として立体的に捉える作業だろう。この問題意識は萌芽的に本書においても看取できるが(また川嶋周一「冷戦と独仏関係――二つの大構想と変容する米欧関係の間で 1959年-1963年」『国際政治』134号, 2003年も参照)、多言語による公文書の比較読解作業が必須となるため、複数の研究グループによる包括的な作業とならざるをえないことは確かだろう。

第2に、西側同盟内部の政治過程を検証する作業は、対抗関係にある東側の同盟政治に焦点を当てた研究によって補完されることで、ヨーロッパ冷戦の全体像を把握する地平に導かれる。しかしながら米ソ冷戦史観から西側同盟内政治へと分析の射程を広げつつある日本の冷戦史研究において、冷戦期のソ連外交は、下斗米伸夫の研究に代表されるように、主としてアジア冷戦史の文脈で著しい進捗が見られるが、東欧諸国との関係、すなわち東側の同盟政治、およびワルシャワ条約機構やコメコンなどの制度に関する研究は、ほとんど手付かずの状態にある(例外として、ちょうど今年が50年目にあたる1956年のハンガリー革命を考察した荻野晃『冷戦期のハンガリー外交――ソ連・ユーゴスラヴィア間での自律性の模索』彩流社, 2004年がある)。日本における冷戦/戦後国際関係史の成果としては、文部省(当時)特定研究「国際環境に関する基礎的研究」から生まれた「叢書国際環境」(中央公論社)が思い浮かぶが、その中で現在まで未刊行になっているのが伊東孝之が担当予定の『ソ連外交と東欧』であることから推察されるように、ソ連および東欧諸国関係が日本の冷戦史研究における空白地帯となっている状況には長い(悪しき)伝統がある。

以上の議論とは別の文脈で本書のもつ今日的意義を挙げるとするならば、デタント成立に向けたイギリスの取り組みは、アメリカとの緊密な同盟関係やユーラシア大陸の縁に位置する地政学的状況から、日本にとって、北朝鮮問題に象徴される東アジアの秩序形成に関して多くの示唆を与えてくれる。もちろんヨーロッパ/アジアという空間的、および1970年代/2000年代という時間的な差異を念頭におく必要があるが、六カ国協議などの場において、日本政府の影が薄い状況を改善するうえで、イギリスの事例は大いに参照されるべきだろう。日本の目指すべき国家モデルとしてイギリスを挙げる外交担当者や評論家が多い中で、現実には東アジアにおいてアメリカ以外の友好国が皆無という、中東におけるイスラエルを想起させる孤立状況にある点を考えたとき、改めてイギリス外交の叡智に学ぶことは重要だろう。安易に北朝鮮の脅威や異質性を叫ぶだけの「無外交」から脱却し、北朝鮮の核開発や半島の分断状況の解決に貢献する外交を展開する場合、CSCE開催に向けた交渉過程でイギリスが「人的交流」を重視し、後に「ヘルシンキ効果」と形容される形で東側諸国の体制基盤の侵食に一定の影響を与えたことに注目すべきだろう(宮脇昇『CSCE人権レジームの研究――「ヘルシンキ宣言」は冷戦を終わらせた』国際書院, 2003年を参照)。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 帰巣本能 | トップ | list22 »

コメントを投稿

knihovna」カテゴリの最新記事