再度「ソフト・パワー」について。
ソフト・パワーをめぐる議論の多くが、その出自の関係から、国際政治に関わるものであり、国家がソフト・パワーを持つ意味、その行使の仕方などに焦点が当てられる傾向があった。別言するならば、ソフト・パワーの理論的位相よりも、その実践的位相に関心が向けられ、そもそもソフト・パワーとはいかなるパワー(権力)であり、それは、これまでさまざまな論者が議論し、提示してきた権力概念/論に対して、どのように位置づけられるのか、という点が十分に検討されていないのではないだろうか。
権力をめぐる区分として、権力を人間の所有物とみて、一定不変の権力の存在を考える実体概念と、人間同士の相互作用の中に権力が発現するという見方に立つ関係概念がまず思い浮かぶ(たとえば、丸山真男『増補版・現代政治の思想と行動』未来社, 1964年: 3部6章)。その後、権力論の関心は、関係概念としての権力に移り、多くの研究成果を生み出した。こうした権力論の見取り図を整理した社会学者ルークスによれば、すくなくとも3つの権力観が見出せる(スティーヴン・ルークス『現代権力論批判』未来社, 1995年)。
一次元的権力観とは、典型的にはロバート・ダールの定義「AがBに対して、そうしなければBが行わなかったことをさせたとき、AはBに対して権力を行使した」とするものである。この権力観の特徴は、明確な意図を持った二者(主体)と、二者間に争点が存在することを前提としている点にある。
こうした権力観に対する批判として提起されたのが二次元的権力観である。この見方が注目するのは、二者間に顕在化した争点をめぐる権力関係ではなく、二者が争う紛争が現出される以前、あるいは問題化する前に、無力化してしまうような、一般に「非決定権力」あるいは「決定回避権力」と呼ばれる権力である。
ルークスは、この2種類の権力観に対し、三次元的権力観を提起する。一次元的権力観に対する批判である二次元的権力観も、明確な意図を持った2つの主体という前提を共有している、つまり二者間の紛争が顕在化しているか、潜在化されているかという違いに過ぎず、そこに紛争それ自体の存在は当然視されている点で、批判される。一方ルークスが言う三次元的権力観は、「Aにとって好ましくない行動をBがしないようにする権力」であり、そこではAとBが争うべき紛争自体が欠落している。杉田敦の言葉を借りれば、三次元的権力観は「AがBを洗脳させてしまう権力」(杉田敦『権力』岩波書店, 2000年: 4頁)であり、2つの主体間の権力作用という前提からはみ出し、非人称的(impersonal)な、主体なき権力観へとつながる見方ともいえる。
以上の権力論の系譜をまとめれば、まずどのような権力資源を持っているのかという実体概念から、それら権力資源を他者に対し行使することで生じる関係性の変化に焦点が移っていった。そしてその関係性についても、2つの主体による可視的な関係における権力作用から、主体を包摂するような、不可視化され、非人称的な構造における権力作用を視野に入れる権力観が生まれてきたといえるだろう(杉田敦は、この流れを関係的権力観から空間的権力観へと整理している)。
さて、このような権力論の流れにソフト・パワーを位置づけてみたとき、どのようなことが明らかになるだろうか。おそらく第一に指摘できるのが、権力論の分類それぞれにソフト・パワー的な要素を見出すことができることだろう。そのことは、言い換えれば、ソフト・パワーが概念として十分に成熟していない、曖昧模糊としたものであることを示唆している。
たとえば、ソフト・パワーをハード・パワーと対比する際に、軍事力や経済力ではなく文化や理念の重要性を説くのがソフト・パワーであるとされるが、この言明は実体概念としての権力論である。一方、「相手を取り込む力」としてソフト・パワーが提示されるとき、言うまでもなく関係概念の側面が強調されている。また「課題設定する力」であるともいわれるが、この理解は、主体の存在を必ずしも想定していない点で、三次元的ないしは空間的権力観として捉えられる。
であるとすれば、このように複数の異なる意味内容を含んだ扱いにくい概念であるソフト・パワーを使う際にはかなりの慎重さが求められる。概念的側面に関しては、権力観の混同/混乱が付き纏う。ソフト・パワーが語られる場合、「アメリカの・・・」、「日本の・・・」というように、主体(ここでは国家)が暗黙裡に措定されていることが多い。しかしソフト・パワーには「課題設定力」という単なる主体間の関係に還元できない権力観が内包されていることを考慮したとき、主体を超えた/によって統御されていない権力作用を十分に捉えることを困難にさせてしまう可能性が排除できない。
また同じソフト・パワーを使っていても、論者によって意味するところが違っている状況が生じてくることもある。たとえば、対人地雷禁止条約締結に向けたオタワ・プロセスの推進者であったカナダ外相ロイド・アクスワージーは、頻繁にソフト・パワーを喧伝した。しかし、ソフト・パワーとハード・パワーを対抗関係に位置づけ、ソフト・パワーの優位を謳うアクスワージーに対し、提唱者であるナイ自身を含め、多くの論者から批判が出されたことは、ソフト・パワーの多義性を物語る事例だろう。
国際政治学において、ソフト・パワーとほぼ同様の意味内容を持つ概念は、スーザン・ストレンジの構造的権力(『国際政治経済学入門――国家と市場』東洋経済新報社, 1994年)、グラムシ学派のヘゲモニー概念(スティーヴン・ギル『地球政治の再構築――日米欧関係と世界秩序』朝日新聞社, 1996年)に見られるように、ソフト・パワーに先行する形でほかにも提起されているが、アカデミズムの世界を超えて、人口に膾炙するまでにはいたっていない。その意味で、概念的な不透明性を持つソフト・パワーであればこそ、そこにさまざまな意味を持たせることが可能となり、単なる学術用語としてだけでなく、政策用語として流通していく潜在力を有しているともいえるだろう。
換言すれば、その流通度の高さに比して、概念的内実は限りなく空虚に近いのがソフト・パワーであるとみなすこともできるだろう。
ソフト・パワーをめぐる議論の多くが、その出自の関係から、国際政治に関わるものであり、国家がソフト・パワーを持つ意味、その行使の仕方などに焦点が当てられる傾向があった。別言するならば、ソフト・パワーの理論的位相よりも、その実践的位相に関心が向けられ、そもそもソフト・パワーとはいかなるパワー(権力)であり、それは、これまでさまざまな論者が議論し、提示してきた権力概念/論に対して、どのように位置づけられるのか、という点が十分に検討されていないのではないだろうか。
権力をめぐる区分として、権力を人間の所有物とみて、一定不変の権力の存在を考える実体概念と、人間同士の相互作用の中に権力が発現するという見方に立つ関係概念がまず思い浮かぶ(たとえば、丸山真男『増補版・現代政治の思想と行動』未来社, 1964年: 3部6章)。その後、権力論の関心は、関係概念としての権力に移り、多くの研究成果を生み出した。こうした権力論の見取り図を整理した社会学者ルークスによれば、すくなくとも3つの権力観が見出せる(スティーヴン・ルークス『現代権力論批判』未来社, 1995年)。
一次元的権力観とは、典型的にはロバート・ダールの定義「AがBに対して、そうしなければBが行わなかったことをさせたとき、AはBに対して権力を行使した」とするものである。この権力観の特徴は、明確な意図を持った二者(主体)と、二者間に争点が存在することを前提としている点にある。
こうした権力観に対する批判として提起されたのが二次元的権力観である。この見方が注目するのは、二者間に顕在化した争点をめぐる権力関係ではなく、二者が争う紛争が現出される以前、あるいは問題化する前に、無力化してしまうような、一般に「非決定権力」あるいは「決定回避権力」と呼ばれる権力である。
ルークスは、この2種類の権力観に対し、三次元的権力観を提起する。一次元的権力観に対する批判である二次元的権力観も、明確な意図を持った2つの主体という前提を共有している、つまり二者間の紛争が顕在化しているか、潜在化されているかという違いに過ぎず、そこに紛争それ自体の存在は当然視されている点で、批判される。一方ルークスが言う三次元的権力観は、「Aにとって好ましくない行動をBがしないようにする権力」であり、そこではAとBが争うべき紛争自体が欠落している。杉田敦の言葉を借りれば、三次元的権力観は「AがBを洗脳させてしまう権力」(杉田敦『権力』岩波書店, 2000年: 4頁)であり、2つの主体間の権力作用という前提からはみ出し、非人称的(impersonal)な、主体なき権力観へとつながる見方ともいえる。
以上の権力論の系譜をまとめれば、まずどのような権力資源を持っているのかという実体概念から、それら権力資源を他者に対し行使することで生じる関係性の変化に焦点が移っていった。そしてその関係性についても、2つの主体による可視的な関係における権力作用から、主体を包摂するような、不可視化され、非人称的な構造における権力作用を視野に入れる権力観が生まれてきたといえるだろう(杉田敦は、この流れを関係的権力観から空間的権力観へと整理している)。
さて、このような権力論の流れにソフト・パワーを位置づけてみたとき、どのようなことが明らかになるだろうか。おそらく第一に指摘できるのが、権力論の分類それぞれにソフト・パワー的な要素を見出すことができることだろう。そのことは、言い換えれば、ソフト・パワーが概念として十分に成熟していない、曖昧模糊としたものであることを示唆している。
たとえば、ソフト・パワーをハード・パワーと対比する際に、軍事力や経済力ではなく文化や理念の重要性を説くのがソフト・パワーであるとされるが、この言明は実体概念としての権力論である。一方、「相手を取り込む力」としてソフト・パワーが提示されるとき、言うまでもなく関係概念の側面が強調されている。また「課題設定する力」であるともいわれるが、この理解は、主体の存在を必ずしも想定していない点で、三次元的ないしは空間的権力観として捉えられる。
であるとすれば、このように複数の異なる意味内容を含んだ扱いにくい概念であるソフト・パワーを使う際にはかなりの慎重さが求められる。概念的側面に関しては、権力観の混同/混乱が付き纏う。ソフト・パワーが語られる場合、「アメリカの・・・」、「日本の・・・」というように、主体(ここでは国家)が暗黙裡に措定されていることが多い。しかしソフト・パワーには「課題設定力」という単なる主体間の関係に還元できない権力観が内包されていることを考慮したとき、主体を超えた/によって統御されていない権力作用を十分に捉えることを困難にさせてしまう可能性が排除できない。
また同じソフト・パワーを使っていても、論者によって意味するところが違っている状況が生じてくることもある。たとえば、対人地雷禁止条約締結に向けたオタワ・プロセスの推進者であったカナダ外相ロイド・アクスワージーは、頻繁にソフト・パワーを喧伝した。しかし、ソフト・パワーとハード・パワーを対抗関係に位置づけ、ソフト・パワーの優位を謳うアクスワージーに対し、提唱者であるナイ自身を含め、多くの論者から批判が出されたことは、ソフト・パワーの多義性を物語る事例だろう。
国際政治学において、ソフト・パワーとほぼ同様の意味内容を持つ概念は、スーザン・ストレンジの構造的権力(『国際政治経済学入門――国家と市場』東洋経済新報社, 1994年)、グラムシ学派のヘゲモニー概念(スティーヴン・ギル『地球政治の再構築――日米欧関係と世界秩序』朝日新聞社, 1996年)に見られるように、ソフト・パワーに先行する形でほかにも提起されているが、アカデミズムの世界を超えて、人口に膾炙するまでにはいたっていない。その意味で、概念的な不透明性を持つソフト・パワーであればこそ、そこにさまざまな意味を持たせることが可能となり、単なる学術用語としてだけでなく、政策用語として流通していく潜在力を有しているともいえるだろう。
換言すれば、その流通度の高さに比して、概念的内実は限りなく空虚に近いのがソフト・パワーであるとみなすこともできるだろう。
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