constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

横領されたホッブズ

2006年06月12日 | nazor
「国際関係はアナーキーである」という言明は、国際政治(学)の大前提であり、それを支える根拠として言及されるのがホッブズの「自然状態=戦争状態」という認識である。そして弱肉強食の空間としての国際関係において最優先されるのが安全保障の確保であり、その手段として軍備増強や同盟締結などが提示される。こうして権力政治が支配する国際関係をホッブズが描写した自然状態と重ね合わせることは半ば所与の前提となっている。ここから現実主義者としてのホッブズ像が浮かび上がってくる。

しかし17世紀半ばのイングランド内戦という時代状況を背景として論じられた『リヴァイアサン』の論理構造と、国際政治学一般で消費されているホッブズ・イメージを分けて考える必要があるだろう。しばしば指摘されているように、ホッブズが共通権力としてのリヴァイアサンの創設を構想したのは「国内社会」においてであり、今日で言うところの「国際関係」を念頭に置いたものではない。したがって個人間の自然状態からコモンウェルスの設立へという過程を、国際関係に類推適用するうえで一種の論理的飛躍が介在する。

たしかに現実主義の伝統にホッブズを含める議論は広く受け入れられているが、E・H・カー、ハンス・モーゲンソー、ヘドリー・ブルなどの「現実主義者」の多くは、ホッブズ的な自然状態とそこから共通権力創設に至る過程を切り離している点に留意しておく必要がある。すなわち現実主義者はホッブズの議論に全面的に賛同しているわけではなく、自然/戦争状態という前半部分を強調し、共通権力の創設による自然状態の超克がきわめて困難である点を主張しているのであり、共通権力創設までを含めてホッブズの議論を受容する者は「現実主義者」ではなく世界連邦や世界政府の設立を目標に置く「理想主義者」であり、むしろ現実主義者にとっては批判の対象であった。

この背景には、国際領域と国内領域を明確に区別する空間分節の論理が作用している。国際と国内をまったく異なる原理が支配する空間とみなす現実主義者にとって、地球大のリヴァイアサンを創設しようとする発想は「国内類推」の典型例として退けられる。つまり個人間の関係と国家間の関係は質的に異なるものであり、類推が容易に適用できない。この点についてホッブズ自身も自覚しており、またスピノザの言葉を引く形でブルが論じているように、強者であっても睡眠などによって脆弱性を抱えている個人間の関係はある程度平等的である一方で、眠る必要性を感じない国家間においては、個人間ほど安全の確保が逼迫していないし、また圧倒的な力の非対称性のため、平等状態には程遠く、したがって平等から戦争状態へというホッブズの前提自体が成立しない(『国際社会論』岩波書店, 2000年: 59頁)。

現実主義者によれば、国家間関係において共通権力を創設しようとする考えは国際と国内の分節という存在論的前提を考慮に入れていない点でまさしく「理想主義的」とみなされる。ちょうどカーが徹底的に批判した19世紀の利益調和説との共通点が国際領域において共通権力の設立を構想する発想に看取でき、それは先に述べた「国内類推」として国際秩序構想を展開するに当たって重大な論点となっている(『危機の20年』岩波書店, 1996年: 4章参照)。「国内類推」を批判して登場してきた現実主義にとって、共通権力の創設といったホッブズの論理の後半部分は国際領域では検討するに値しないものとなる。また国内と国際の分節を設定することによって、自然状態の克服という発想自体が「進歩」よりもむしろ「停滞」や「循環」を特徴とする国際領域の本質にはそぐわないものとみなされ、国内社会で見られた自然法の獲得を通じた共通権力創設の契機は、国際領域では先験的に欠如している。

このようにホッブズを取捨選択的に援用してきた国際政治(学)で、ホッブズとホッブズ・イメージはほとんど別物と言っていいほどまでに乖離している。あるいは17世紀人であるホッブズ、そして『リヴァイアサン』から国際政治(学)が何らかの含意を直接的に引き出すことはきわめて困難であるといえる。『リヴァイアサン』をいくら精読したところで、「国際関係」についてホッブズは何も語ってくれないだろう。英国学派がホッブズではなくグロチウスに注目する理由もこの辺にあり、ホッブズの自然状態から類推して国際関係を考える発想には限界が内在している。むしろホッブズ的状況が現代的意義を持ちうるのは破綻国家や紛争国家の再建過程の方であり、平和構築論の領域でホッブズの知見が意味を持ってくる。したがってホッブズを国際政治(学)の文脈で考察する作業は別の方向性で進められるべきものだと言える。

現実主義の伝統に名を連ねるホッブズを国際政治(学)の文脈で取り上げ、意味のある含意をそこから引き出すための道筋としておそらく以下の2つが考えられる。第1に「ホッブズが何を語っていたのか」ではなく、「ホッブズはどのように読まれたのか」と問いを立てる道筋である。この問題関心で重要なのは、ホッブズ・イメージがどのような過程を経て形成され、受容されていったのかという点である。現代の国際政治を考えるに当たって、依然としてホッブズ・イメージが強力な影響を及ぼしていることはロバート・ケーガンなどネオコンの世界観や議論の展開からも明らかである(『ネオコンの論理』光文社, 2003年)。ここから、たとえばネオコンの祖とされ、ホッブズ研究でも知られるレオ・シュトラウスを媒介として、ホッブズ・イメージの系譜を辿ることができる。

また現実主義の国際政治(学)を打ち立てたモーゲンソーに関しても、彼が国際政治を権力闘争とみなした背景にアメリカ亡命以前のワイマール・ドイツ時代における思想形成に注目する議論がある。とりわけこの点で興味深いのが、カール・シュミットとモーゲンソーの思想的つながりである(たとえば、篠田英朗「国際関係論における国家主権概念の再検討――両大戦間期の法の支配の思潮と政治的現実主義の登場」『思想』945号, 2003年: 95-98頁を参照)。いうまでもなくシュミットには『リヴァイアサン――近代国家の生成と挫折』(福村出版, 1972年)と題した著書があり、モーゲンソーの提示した国際政治観に反映されているホッブズ像はシュミット風のアレンジが施されていると理解できる。こうして大陸ヨーロッパ思想に受け継がれたホッブズ=シュミット=モーゲンソ-という系譜も浮かび上がってくる。あるいはシュミットとシュトラウスの交流を念頭に置けば、「戦間期」ドイツは、ホッブズ・イメージを考える上で興味深い知的資源であるといえる。

第2の道筋として考えられるのが、ホッブズと同時代を生きた思想家ジェームズ・ハリントンの思想と対比させるものである。近年「国際関係思想」の分野で注目を集めている共和主義の代表的思想家であるハリントンは、絶対王政を事後的に正当化したホッブズとは対極に位置すると考えられている。17世紀イングランドの内戦を経験した二人が対照的な思想の源流に位置づけられる点は「国際関係思想」的に興味深い。さらにいえば、マキャヴェリにおいて同居していた現実主義と共和主義が17世紀に入ると分化していった過程を追うことで明らかになってくる面もありうることだろう。

国際政治(学)は20世紀に入って成立した「新しい学問」であり、その多くがほかの学問分野からの借り物で形成されている。学問としての正当性を主張するため、過去の思想家たちの著作に「国際政治(学)」的な兆候を探ることが求められてきた。しかし多くの場合、恣意的な援用に終始し、政治思想史や哲学(史)からみれば、まったく異なる議論が展開されている状況が一般化している。ここで論じてきたように、ホッブズや『リヴァイアサン』を単独で取り出し、国際政治(学)に対する含意を導き出そうとすることは生産的だとはいえず、国際政治(学)の作法に則った形でホッブズを戦略的に援用することが求められる。

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