つぶやき日記

毎日のつぶやきをまとめた日記

徒然なるままに 11月21日

2010年11月21日 19時05分43秒 | Weblog
妻と江の島を散策した。鎌倉に行こうか、江の島に行こうか悩んだが、乗った小田急が江の島行きだったので、そのまま江の島に行った。中国人の観光客がたくさんいたのには驚いた。まさかこんなシーズンオフの海に観光に来るとは、何を見に来たのであろうか?

妻は春に来た時に食べた生シラス丼が忘れなれないらしく、島に着くなり生シラス丼、生シラス丼とうるさいが、まだ10時半なので、どこの店もやってない。江の島神社にお参りに行くことにした。

私が学生だった40年ぐらい前は、江の島に行くカップルは別れるという伝説がったので、江の島本島は空いていたが、今若いカップルもたくさんいる。いつもまにか、恋結びの神社になっていて、恋愛成就の絵馬もたくさん飾ってある。島の上の方には、「恋人の丘」があり、観光のホームページには、「相模湾を望む高台にあります。その昔、海にすむ五頭を持つ邪悪な龍が、島に現れた天女に恋をし、改心の末に結ばれるという島の伝説(天女と五頭龍)があり、ここで鐘を鳴らした二人は決して別れないといわれています」と書いてある。

そう今、江の島はとてもロマンチックな若い恋人達の島になったのです。

辺津宮にお参りし、朱印状を書いてもらう。

参道のレストランで妻が食べたがっていた、シラス丼を食べる。おいしい、大変美味しい。もうすぐ、また捕れる量が減って、1月から3月まで禁漁だから、来年の春まで食べられなくなる。

TVでやっていた「タコせんべい」を妻がどうしても食べたいというので、彼女は行列に並んだ。私は、その間に参道を見て回って、妻夫まんじゅう、みたらし団子、シラスさつま揚げを食べる。結局妻は30分以上も並んだ。あつあつのタコせんべいも、大変美味しかった。

その後、江の島水族館の前を通って、海岸を鵠沼海岸まで歩く。父と小学生の息子や娘が一緒にサーフィンをやっている。とてもうらやましい、私が中学生の頃、サーフィンなんてやってやつはいなかった。なんて言っても、サーフボードを手に入れるのが不可能に近い時代。友達が樫の木(だったと思う)で、できた今でいうロングボードを持っていたので、その超重いロングサーフボードを二人で抱えて、海にサーフィンに行ったことを思います。

鵠沼海岸の商店街を抜けて、小田急の「鵠沼海岸」駅から帰った。

やっぱり海はいいなぁ。砂浜近くの遊歩道を歩きながら、つくづくそう思った。いつかは、定年になったら、どこか静かな海の側で暮らしてみたい。


徒然なるままに 11月10日

2010年11月20日 20時45分49秒 | Weblog
徒然なるままに、その日に感じたこと。

親の経済格差(年収)が子供の学力格差を生んでいる。間違って報道されていないか?官僚の責任転嫁の戦略に騙されていないか?学力格差を生むのは当然子供のやる気、勉強量だ。
例えば付属の小学校や中学、高校のある大学を小学生かた調査してみるといい。本当に親の年収と生徒の学力が比例しているのか?

それでもある程度の年収までは、相関として関係が現れるかもしれない。年収の低い親は、きっと勉強しないし、してこなかった。そうおう過程では勉強する環境もない。そんな環境の子は当然勉強しない。
子供達の無限の可能性を潰さない為にも、特に公立小学校の責任は大きいが、学校だけではもう対応しきれないだろう。地域で我々で何か出来ないか?定年退職した父親は暇だ。パチンコにうつつを抜かすよりは地域に貢献できたら何よりだ。と思う。

朝日新聞の社説「幼保一本化」やっと具体的な数字が出て来た。これまで参院選で子供手当と待機児童対策を同じ土俵で比較してきた。具体的数字(待機児童の数、あとどれだけ保育園が必要なのか?それを実現するためのコスト等)もなく、待機児童を持つ母親などのインタビューを掲載したり。
また、子供手当は中学生までが対象、待機児童対策は未就学児が対象、比較対象にならない政策を比較してきたが、やっとことの本質に気付いたのではないか?これは評価したい、これからもこの姿勢で報道することが求められる。

群馬県の痛ましい小学生の自殺、去年一年間の小学生の自殺者の数は165人だそうだ。これだけの数になるともはや、個別の学校や教師の問題ではない。自殺者ゼロに向けて文科省はどんな対策をしているのだろう?その対策の現状は?
娘が通った地元の公立小学校でも六年の時にイジメがあった。担任の先生は若く父母会を開いて対策を話し合った。根本的な解決には至らなかったけど、いじめられた生徒の不登校は避けられた。

座禅を極める どうやって座禅をする?

2010年11月04日 20時31分26秒 | Weblog
どこでも座禅はできる。背筋をピンと伸ばした方がいいと思うが、それができない状況でもいい。無心の境地に達するのは難しいので初心者のうちは、電車の中でもいいし、オフィスの中でも、どこでもいい。呼吸に集中して、鼻に集中して、手や足や体の一部分に意識を集中して、何も考えない努力をする。それだけでいい。

できれば一日の終わりに、布団やベットの上で一分でもいい、できるといい。

逆にストレスの多い電車の中はうってつけの場所である。ストレスの多い中で、無心になる努力をする。電車の中で騒ぐ若者達や主婦、騒ぐ子供を注意しようともしない母親、足を投げ出して座る若者達、たくさんの刺激がある。敢えてその中で訓練する。聞きたくもない話を精神の集中で聞かないように、意識的にできるか?会社もそうである、絶好の精神修行の場所である。そんな時、無心でいられるか?そう考えると電車の中も会社も悪くない。修行の場とかす。

座禅を極める - 迷いに迷う

2010年11月03日 20時59分31秒 | Weblog
仏教の原点を考え現代と比較すると、そこから何が学べるか?
お釈迦様の生きた古代インドのカースト制度や御布施などの時代環境を意識する。輪廻思想が蔓延し、日々の不安は計り知れないものである。今の時代であれば一番夢のある子供や青年の疎外感、閉塞感は想像するに余りある。そんな状態で人生をどうやって生きていくのか?釈迦の教えに救いを求めた人々は何を思ったのか?そんな時代の思想が、なぜ現代でも何故通用するのか?
時代は変わり今は、自由な世界である。自由に生きられる分だけ、今はストレスも大きくないか?昔とちっとも変わらないのではないか?
ストレスや三大苦(いやいや、怒り、迷い)は、いつの時代も変わらない。形を変えて存在する。自由なだけ、心のストレスは大きくはないのか?それにしても、いつも感じる圧倒的な疎外感、絶望感は、何故なのか?
インド出張時に見た光景、痩せこけた妻を乗せたリヤカーをタクシーの中から見た。道が混んでいたので、しばらく追い抜いたり、追い抜かれたり、しばらく並走した。妻のとても澄んだ瞳、でも輝きがない、希望という輝きがない。悲しいほどに生きている証しのない瞳、でもとっても澄んで綺麗な瞳。閉塞感、絶望感を感じた。昔はもっと悪い状態だったのであろう、こんな状況の中で生まれた仏教とはどんなものであったのか?何に人々は心の安心、安定を求めたのか?輪廻転生を信じ、次に生まれてくる時は、もと身分の高い位に生まれてくることをひたすら信じ、念じたのであろうか?それとも、そんな輪廻転生の呪縛から逃れることを祈って、もっと自由に生きることを願ったのか?
日本の仏教の原点は聖徳太子や聖武天皇が、飢饉や疫病から人民を守って、安らかな国を作るため。平安京への移転、平安平和で安らかな国を目指した。そこには、人知をはるかに超える神の力を感じていたからか?それとも、欧米のように、荒れ狂う国民を手なずけるために宗教の力を利用したのか?
仏教と神道だと、仏教の方が早い、神道は天皇支配を確立するためのもの。それ以前の卑弥呼の時代などは占い師、祈祷師の支配する時代。自然に対する恐れが根底にある。雨乞いのような祈祷は、雨が降るまで続ければいいのだから。それを考えると、仏教が日本に入ってきたのは、キリスト教に近く国を支配するためのもの。お釈迦様の異に反して、だから日蓮など本来の仏教思想に相いれない宗教は反逆として、当時の幕府に弾圧された。
宗教は同じ価値観を前提としたもの。違う価値観を肯定することはあり得ない。仏教がキリスト教の考えを肯定する訳がない。同じキリスト教の中でも、カトリックとプロセスタントと宗派が違えば、価値観も違う。宗教とは、人民を管理する仕組みであるから、他の考えを受け入れることはない。そこが、今日のグローバル化の時代にそぐわない一番の理由である。

禅を極める - 途中経過

2010年11月03日 09時46分05秒 | Weblog
禅を極めたい。そもそも何故禅なのか?

7つの習慣など、世の中には素晴らしい、原則があるが、実行することは、とても難しい。やること、やらべきではないことは、わかっているが実際の行動は、全く別物になってします。精神力や意思が弱いのはわかっている。それとも、精神の使い方がやり方がわるいのか?のどっちがであるが、誰でも、精神のコントロールの仕方がわかれば、実行に移せるのではないか?

禅の目的は、眠りの状態を意識的に作れるようにすることである。眠り、すなわち新脳が静止した状態になり、古い脳は活動状態しているが、古い脳は考えることをしない。すなわち考えない状況を意識的に作る。

では日常生活で禅を応用できないか?サラリーマンで生活の糧であるお金を稼がなければいけない私は、お坊さんのような生活はできない。常に考えて行動しないといけない。

仏教や座禅を勉強しても、信仰をもつことが目的ではないので、何故かピンとこない。どうやって日常生活に生かすか?何が違うんではないか?こんな修行は役に立つか?どんな効果があるのか?仏教って何だ?と疑問に思っていた。お坊さんになるわけではない。日常生活に活かすのだ。

相手の言うことは、よく聞いて理解しないといけない。相手の話には必ずそこに、「自分」(私心)があるから、相手によってはストレスが溜まる。でもだからと言って、相手の話を聞き流すことはできない。ましてやグローバルの時代、外資系で働いている私は、いろんな文化の違いにぶち当たる。

今後ますます、国際化が進む。中国人やインド人、その他今まで低開発国と言われてきた国の人間が上司や同僚、部下になる場合も十分あり得る。彼らの場合は、日本以上に競争社会であり、そこを勝ち抜いてきた彼らの自己主張はきつい。白人の場合は、自分達が一番頭がいいと思っている。他の国は教育も劣ると信じ込んでいるので、他の国の言うことは聞くことは稀である。

その他、いろいろある文化や考え方の違いをどうやって乗り越えるか?

全てを受け入れることである。あるがままに、抵抗しても、ストレスためても、状況は何も変わらない。価値観が違うし、信条、育った環境、カルチャー、コンピテンス全て違うし、埋められるものではない。

多様性を認め、ただ受け入れるしかない。でも受け入れることは、従うことではない。

鎌倉 長谷寺の写経に行ってきました

2010年11月01日 22時09分39秒 | Weblog
2010年10月21日、鎌倉の長谷寺で写経を行った。
その前の準備として、般若心経を理解しようと勉強した。写経は、般若心経を書くので理解しようと試みた。主に本を読んだ。どの本も全ては空である、何も考えないようにどりょくする。何故なら煩悩が刺激され、結局はそれがストレスになるから、
煩悩とは、108個あるが、怒り、迷い、欲望(欲しい、見て欲しい、注目して欲しい、自己顕示欲、所有欲など)の三つに集約される。

写経には、ネガティブな印象があったが、実際に行ってみると結果は正反対であった。気持がポジティブになった。何か吹っ切れた。こだわりが消えた。こだわりは、煩悩が消えた訳ではない。その煩悩にこだわっていた自分のこだわりが消えた。

全ては空、全ては空と心で念じながら、心も空になることを念じる
ながら、無心で書いた。そして、ある時突然ひらめいた。緒戦は人間の人生、全てが思い通りになることわない。たったの50年から80年、何をやっても、結局人間は死んで行く、それだった好き勝手に生きてみよう、現実を、全てをあるがままに受け入れてみよう、足したことはない。お釈迦様の手のひらで、暴れている孫悟空のようなみんである人生なんて、結局はそんなものだ。この宇宙の運命の中で、弄ばれるだけだ、それだったら、好きなように、思いっきり生きてみよう。
そんな気になった。それから長谷観音や阿弥陀観音にお参りした。彼らは鎌倉時代から、ずっとこんな煩悩だらけの人間を見守ってきた。彼らの目は、今日は「そうだ、人生なんて、この宇宙に比べたら取るに足らないちっぽけな物だ。君が死んでも、この宇宙は変わらない。周り続けるだけだ、思いっきり好きなように生きればいい」