つぶやき日記

毎日のつぶやきをまとめた日記

座禅を極める - 迷いに迷う

2010年11月03日 20時59分31秒 | Weblog
仏教の原点を考え現代と比較すると、そこから何が学べるか?
お釈迦様の生きた古代インドのカースト制度や御布施などの時代環境を意識する。輪廻思想が蔓延し、日々の不安は計り知れないものである。今の時代であれば一番夢のある子供や青年の疎外感、閉塞感は想像するに余りある。そんな状態で人生をどうやって生きていくのか?釈迦の教えに救いを求めた人々は何を思ったのか?そんな時代の思想が、なぜ現代でも何故通用するのか?
時代は変わり今は、自由な世界である。自由に生きられる分だけ、今はストレスも大きくないか?昔とちっとも変わらないのではないか?
ストレスや三大苦(いやいや、怒り、迷い)は、いつの時代も変わらない。形を変えて存在する。自由なだけ、心のストレスは大きくはないのか?それにしても、いつも感じる圧倒的な疎外感、絶望感は、何故なのか?
インド出張時に見た光景、痩せこけた妻を乗せたリヤカーをタクシーの中から見た。道が混んでいたので、しばらく追い抜いたり、追い抜かれたり、しばらく並走した。妻のとても澄んだ瞳、でも輝きがない、希望という輝きがない。悲しいほどに生きている証しのない瞳、でもとっても澄んで綺麗な瞳。閉塞感、絶望感を感じた。昔はもっと悪い状態だったのであろう、こんな状況の中で生まれた仏教とはどんなものであったのか?何に人々は心の安心、安定を求めたのか?輪廻転生を信じ、次に生まれてくる時は、もと身分の高い位に生まれてくることをひたすら信じ、念じたのであろうか?それとも、そんな輪廻転生の呪縛から逃れることを祈って、もっと自由に生きることを願ったのか?
日本の仏教の原点は聖徳太子や聖武天皇が、飢饉や疫病から人民を守って、安らかな国を作るため。平安京への移転、平安平和で安らかな国を目指した。そこには、人知をはるかに超える神の力を感じていたからか?それとも、欧米のように、荒れ狂う国民を手なずけるために宗教の力を利用したのか?
仏教と神道だと、仏教の方が早い、神道は天皇支配を確立するためのもの。それ以前の卑弥呼の時代などは占い師、祈祷師の支配する時代。自然に対する恐れが根底にある。雨乞いのような祈祷は、雨が降るまで続ければいいのだから。それを考えると、仏教が日本に入ってきたのは、キリスト教に近く国を支配するためのもの。お釈迦様の異に反して、だから日蓮など本来の仏教思想に相いれない宗教は反逆として、当時の幕府に弾圧された。
宗教は同じ価値観を前提としたもの。違う価値観を肯定することはあり得ない。仏教がキリスト教の考えを肯定する訳がない。同じキリスト教の中でも、カトリックとプロセスタントと宗派が違えば、価値観も違う。宗教とは、人民を管理する仕組みであるから、他の考えを受け入れることはない。そこが、今日のグローバル化の時代にそぐわない一番の理由である。

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