竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

先生の雑談 日本史の時間

2005-07-03 10:56:30 | BOOKS
雑談教育委員会 編 「先生の雑談 日本史の時間」 青春出版 2005.03.10.

『日本書紀』はなぜ捏造されてしまったのか 
720(養老3)年に作られた日本のもっとも古い正史と呼ばれるのが『日本書紀』です。その8年前に、やはり歴史書の『古事記』が作られています。両者で気づくのは、『古事記』は読みやすいように日本語の読みが入っているのに対して、『日本書紀』はすべてが漢文で書かれていることです。 
さらに、『日本書紀』は神代から7世紀までに起きたことを具体的な年紀入りで記しており、全体も30巻からなる壮大な史書なのです。ところが、『古事記』のほうとなると全9巻しかありません。
『日本書記』は、681年に天武天皇が川島皇子ら12名に日本の歴史書を作るように命令したのが始まりで、その後40年間をかけて、舎人親王らによって編集されています。漢文で書かれていることから中国で読まれることを意識しており、また出来事に具体的な年紀を入れていることで、時の権力者である天皇の正当性を神代までさかのぼって立証したいこともわかります。 
こうしてみると、『日本書紀』は日本の正史というよりも、対外的に日本の権力者が誰かということをアピールするために作られていたと考えられるのです。 このため、『日本書紀』の内容は編集された後もたびたび時の権力者に都合がよいように書き直されたものだと考えられており、これは歴史書というよりも、権力者の捏造の歴史書ということができるのかもしれません。 

日中の教科書問題もひどいものだけど、所詮歴史書に真実を求めるのは無理なこと、いろりろな解釈ができますよと言うことですね。

「間取り」で楽しむ住宅読本

2005-07-02 22:28:34 | BOOKS
内田青蔵 「間取り」で楽しむ住宅読本 光文社新書 2005.01.20.

玄関とは禅宗では「玄妙な道に入る関門」とし、武士の独自の身分制社会を維持するためにつくられ、格式を表す場として定着した。身分の高い人を招き入れるための場として用意され、玄関は主人と客だけしか使用できなかった。1910年頃から身分制度をそのまま残された玄関と内玄関の使い分けが批判され、出入り口という機能を直接示す言葉が提唱された。靴を脱いで生活するという生活様式は今日においても変わることはない。
戦後の住まいづくりでは、格式制とか身分制といった考え方は急速に消え去り、履物の置き場としての無機的な出入り口という玄関が当たり前となった。
玄関は送り・迎えたいという気持ちの表現の場。欧米の住まいにはないわが国独自の精神性の存在を示す場であり、外から内へ、あるいは内から外へ、という精神の切換の場であった。

ダメな会社ほど社員をコキ使う

2005-07-01 21:43:27 | BOOKS
宋文洲 「ダメな会社ほど社員をコキ使う」 徳間書店 2005.03.31.

多くの日本企業では、営業の売上や成績を営業マン個人に押しつけています。一人ひとりに厳しいノルマを課し、売上が思わしくないと、営業マンの努力が足りないからだということになります。責任がすべて自分にふりかかり、組織のサポートもありません。そうなると、営業マンは「自分」という人間を売り込むほかなくなるのです。
本来、企業がモノを売るときには、どのような人に、どのように売るかという戦略を立てて、効率的にセールスすることが必要なはずです。それを個人の才覚や熱意ばかりに依存しているために、「個人の思惑」だけの営業へとつながってしまうわけです。
日本の経営者はマルクス主義者?
本来、成果があがらないときは業務の形態やシステムの合理的な見直しこそが必要なのであって、個人の努力や精神性の不備を理由にしてしまっては、真の原因がうやむやになり、結局何も変わることができません。また、こうした教育が、強引な営業や違法販売、失敗の隠蔽など、さまざまな問題を引き起こす原因となっているのです。
日本にはムダがある。
人口の半分を占める女性は、失の高い教育を受けながらその能力を活かされていない。数百万のフリーターと言われる青年は充分に社会に貢献できていない。日本には豊富なビジネス経験と高度な能力を持つシニアの人たちがたくさんいる。どこの組織にも独創的な発想を持つ人材がいる。ムダを造り出したのはリーダーたちの古い発想である。精神論、独善性と結果論である。ムダの責任は科学性、客観性と本質論を放棄したマネジメントにある。日本にはたくさんチャンスがある。多くのムダをなくす努力をすれば、ムダは全部チャンスに変わる。