竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

「坂の上の雲」では分からない日本海海戦

2005-07-17 12:02:22 | BOOKS
別宮暖朗 「坂の上の雲」では分からない日本海海戦 並木書房 2005.04.25. 

東郷平八郎は、日本海海戦は勝つべくして勝てた戦いであるが、黄海海戦は本当に生死をかけた戦いだった、と生涯語っている。 
日清戦争の黄海海戦は距離3000メートル以内で砲戦たけなわとなったが、日露戦争の黄海海戦では1万2000メートルで開始されており、砲戦たけなわでも5000メートル以上の距離があいていた。 
ロシアの長距離射撃能力は、当時のイギリスやドイツよりも進歩した中央管制による射撃だった。 
試射を一門の砲でおこない、熟練した弾着観測員が前後を的確にみてとり、距離を推定する。艦橋にいる砲術将校グループは、黒板手書きなどの方法により、距離を各砲台・砲塔に知らせ、各砲門は艦速に応じて苗頭をマトの前方とみなして一発ずつ発射した。 
これに対し、連合艦隊は完全な斉射法、すなわち試射を複数の砲門でおこない、そのパターンを分析し、連続射撃につなげる方法を実行していた。これでは、連合艦隊と旅順艦隊の命中率の差が大きかったのは当然である。日本の砲術が上回っていたのだ。
艦砲の命中率とは、ハードやそれの訓練だけでは簡単に得られない。つまり砲術計算というソフトが死命を制する。日露戦争全期間を通じて、日本の命中率がロシアを常に上回っていたのは、砲手の訓練だったり、大和民族が優秀であったりしたわけではない。
日露戦争において日本の海軍が用いた方法(ソフト)と装備(ハード)は世界第一級、さらにその上を行くものであった。 
海戦のためのハードの大半はイギリスからの輸入品だった。だが、輸入したイギリス製品はイギリス海軍も十分使いこなしていないような最先端品ばかりだった。造れなくとも技術評価はできていた。明治維新から30年ほどしか経たず、このようなことができるのかと驚くと同時に、明治人の受容性、応用力に脱帽せざるをえない。 
ところが、日米戦争におけるハードの大半は国産だったが、世界第一級といえるものではなく、また新技術にしばしば対応できていなかった。 
艦砲は最大30キロしか弾丸を飛ばせないが、飛行機は500キロ以上飛ぶことが可能である。海戦における艦砲の時代は第二次大戦の太平洋では終了していた。 

華人社会がわかる本

2005-07-17 00:15:38 | BOOKS
山下清海 編 「華人社会がわかる本」 明石書店 2005.04.15. 

陳來幸 神戸華人社会の形成と特色 
神戸の華僑社会が形成され始めるのは横浜から遅れをとること9年。その歴史は、1868年1月に開港した神戸港とともに始まる。 
居留地の北限は旧西国街道、東限が生田川まで。正式な条約関係を持たないことを理由に、居留地での営業と居住は許されず、西側の制限的雑居地であった元町通から海岸通一帯に店を構えるようになった。神戸では居留地外に南京町が形成されていく。 
神戸の華僑社会は港神戸が持つ特異性を反映し、広東、福建、新江・江蘇など広範な出身地別構造を持つ。  
開港後の日本社会は、中国および東アジア各地の輸出入商と取引ができる才覚ある華商を必要とした。さらに、欧米系銀行や保険会社、商社が居留地を通じ日本市場へ進出を果たすためには、漢字を介する交易の仲立人として、英語を話す中国人買弁(ばいぺん)がなくてはならない存在であった。 
中華会館はじめ、三江公所、福建公所、広業公所、学校などの公産が生み出されたのは、神戸が海産物とマッチ輸出の魅力で華商を惹きつけた1890年代から20世紀初めの頃。神戸港および神戸華僑の最も華やかなりし繁栄期であった。 
神戸の華僑社会の構成は、歴史的に見て大きく3回の変動期があった。
第1は開港で華商が神戸港に惹きつけられ、華僑社会が形成された時期。
第2は、戦後、旧来の華僑とほぼ同数の規模で、「新華僑」台湾人が新たに華僑社会の一員となった時期。
第3は、改革開放後新移民が来日し、一部の者が「新華僑」として日本に定着するようになる、1980年代半ば以降、現在進行形の変動期である。
留学生からスタートし、ハイレベルの知識を身につけて定着した人びとが新華僑の特色を彩っている。また、「日本人の配偶者」資格の新華僑の多さにも注意を向けるべきであろう。 
神戸華僑の特徴を説明するのに、「共生」は重要なキーワードだ。
第1に日本製産品の販路を広げたパートナーとしての華僑貿易商の存在。
第2に1995年の阪神大震災での体験。華僑コミュニティがホスト社会とともに「共死」と「共生」を体験した。
第3は、大陸系と台湾系の共生である。