パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

そうかもしれない(石川五右衛門の辞世の句)

2020年09月17日 09時02分02秒 | あれこれ考えること

少しばかり悲観的かもしれないが、きっとそうだろうな、、と思われるのが
石川五エ門の辞世の句
「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」

どんなに法律を作っても、どんにな警備を強化しても、そして(多分)教育しても
出てくるのは犯罪者とかルールを違反するひとたち
まるで雨後の竹の子みたいに絶えることなく現れる
それは人間の内の何%は、ルールに違反するように遺伝子にプログラムされているかのよう

進化が合目的に変化するのではなく、あらゆる可能性を求めて突然変異を起こして
生き延びる可能性を確保している、そのうちの丁度条件にあったものが生き延びている
このような進化論の考え方(自分が思ってるだけ?)からすれば
普通の生き方をする人間からはみ出たのは一種の突然変異で
自己の利益のみを考える一種生命力に満ちた存在は
人が生き延びる可能性を確保するための存在のように思えないこともない

とはいっても、流石にこのような存在は「人間社会」には適さない
人間社会はある種の漠然とした合意のもとに成り立っている
人を殺してはいけない、、とか盗んではいけない、、とか
それらは何故?という問を発することすらためらわれるほど、当たり前のようになっている
(何故?と問う人がいるから十戒が存在する?)
その当たり前のことを、当たり前と感じて、心地よく思うだけでは
例外の人の行動を社会的にコントロールできない
そこで、実力行使を伴う法律といった人工的なものを作り上げる

この法的なものは人工的であるがゆえに、完全ではなくてどこかに穴がある
その穴を見つけて、何%かの人は「合法的に(倫理的な)違反をする」

最近見られるのは、このような「違法ではないが正義(倫理的)ではない」
を実践する政治屋さんのたくましさで、それは国や地方自治体に限ったことではない
本来ならば明文化されていなくても、しないことが当たり前とか、紳士協定であったものが
書かれていないから、問題はない、、とする考え方が幅を効かせている

昔、ある店が周年記念セールで「コーラ飲み放題」とチラシに謳った
店に現れたのは若い男性の集団で、彼らは無料でもらえることになっているたこ焼き、
コーラを際限なく口に入れてしまった
そして何も買わずに店を去った

この行動に違和感を感じる人は多いと思われる
確かに彼らの行動は、悪いことはしていない、、
でも暗黙の了解の域を超えている
人が人として、このようなことはしないだろう、、と考える範囲を、、
書かれていないから、、といって、良心の痛みも感じずに済ませられる人たち

以前と比べて、このタイプの人が増えていないだろうか(政治屋さんに多い)
もし増えているとしたら、それはどういう理由で増えているのか
そんなことが気になる
田舎の小市民があれこれ愚痴っても片付く問題ではないけれど、、


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遠くへ行きたい(気分を思い出した)

2020年09月16日 09時56分09秒 | 徒然なるままに

録画しておいたウィーンの関するNHKの番組を見た
團伊玖磨がウィーンと日本の関わり合いをウィーン万博を
紹介するかたちで進められていた
1873年に行われたこの万博は藩ではなく日本が国家として初めて参加したもので
展示物の中には愛知県民とすれば嬉しような、自慢したくなるようなものがあった

名古屋城の金の鯱、その1つが展示されていた
もう一つは名古屋で展示されていたとのこと
一度屋根から降ろされたことがあったのは覚えていたが
こんなことがきっかけだったのか、、と雑学が増えた感じだ

パスポートが切れないうちに、もう一度海外へ脚を伸ばすことができるかどうかは
わからないが、ウィーンへは何度も行ってみたい(何故か京都みたいな印象で大好きだ)

満たされない夢とか希望、、それは若いときだけじゃない
夢も希望も欲望もなくなったらお終いだから
せめて、ああしたい、、、と思うことだけは続けなくては、、

徐々に体力と気力とお金の問題となってきているが、、(もう一つ、、も)

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自分との関係で生きているということ(ある人の話から)

2020年09月15日 08時35分08秒 | あれこれ考えること

 ある人の話、あるいは気持ちの変化

彼は家族とレトランに行った
毎月恒例でその日はメニューが安くなるので、もう数年前から続いている
食は保守的と言われるが、頼むものはほとんど毎回同じだ
その日も、前回とは違うが特に変えたというものではなかった
支払い金額は、〇〇くらい、、とメニューをみて計算した

慣れない手付きの男性がレジを行っていた
彼は注文書をみて一つ一つ声を挙げながら入力した
「〇〇になります」
「えっ?」
金額がいつもより1000円以上も安い

ここからが気持ちが揺れたそうだ
「彼(レジ係)は、間違えているかもしれない、ラッキー」
「いや合ってるかもしれない、あれだけ念入りにチェックしていたのだから」
「間違っていたとしても、間違えたほうが悪いから、要求された分だけ払えばいい」
「こんな時、都合の悪い話はみんな黙ってしまうに違いない、、間違った金額を払ったって、、」
彼はモヤモヤしながら要求された金額を支払ったそうだ

でも、心の中はすっきりしない
そこでレシートを確認することにした
するとやはりひとつ料理分がカウントされていなかった
「それで金額が思ったのと違ったのか」
金額の違いのモヤモヤは解決したが、それからどうすべきかは相変わらず残ったままだ
「今日はついてる、ラッキー!」
と考えるのと、
「いくら彼が間違えたからと言って、知らぬふりをするのはいけないのじゃないか」
この2つの思いが数多の中を巡る

結局、彼はレジ係に
「このメニューを打ち忘れてますよ!」
と正直に伝えることにした
その理由が彼らしいものだった
彼はそのレストランの会計が合わなくなること、損することを心配して正直に伝えたのではなかった
またモラルに反しているので行動したのでもなかった
彼は「そのような自分と、これからずっと付き合っていくのがとても耐えられない」
と思ったそうだ

これから折に触れて、あの時悪いことをした、、、とずっと思い続けていく
そして、その度に少しばかり落ち込む
そんな経験は、したくない
何よりも「自分が自分に対しがっかりしたくない」
と思ったのだそうだ

そう考えると、迷っていたのがウソのように晴れてさっぱりと行動できたそうだ
そして先程までは、自分にがっかりするかもしれないと思っていたのが
反対に、自分はエライじゃん、、と自分を褒めたくなった、、らしい

気持ちの移り変わりをわざわざ話してくれた彼
少し変わり者なのかもしれない
でも彼の気持ちはよく分かる
人は社会では他人との関係だけで生きている訳じゃない
「自分との関係」の中でも生きてる

判断基準が損得だけでなく、どういう人間でありたいか!
を追加すると、人は判断を間違えなくなりそうな気がするが、さて

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予算・決算委員会(新城市議会)

2020年09月14日 07時23分17秒 | 市政、市議会に関することなど

地元新城市の話題
あちらのを少し変更して引用(以下)

前年に会計を経験し、次の年に区長を担うようにしている行政区が多いようだ
一年の出来事を「お金の出入り」の視点で見ることによって区の全体像がわかるようになる

同様なことは区のみならず市でも言える
お金の流れを知ることで市政の全体像がわかる
なんとなく、いい塩梅でやっててくれている、、と信じたい市政だが
このお金の使い方がよく分かる市議会が「予算・決算委員会」だ

傍聴すると「全然おもしろくない」と「そうなのか」と感心したりすることがある
感心する方は、そんなふうに、そんなところまで、国・県の補助を受けながらやっているのか
と驚きを感じることだ(本当に細かいことまで及んでいる)
一方つまらないのは、会議があまりにも淡々と進行していくからで
仕方ないとはいえ、テーマに関心がないと睡魔に襲われる

9月11日(金)予算決算委員会が行われた(傍聴者は一般質問と比べて圧倒的に少ない)
聞いていればそれなりに興味深いところもあるが、基本的にはしんどい部分が多い
分厚い資料を読み込んで、その内容を行政に聞く、、というしんどい作業だが
そういう仕事を任された議員さんは、市民の代表としてではなく、分業化された
仕事に取り組んでいる(と理解している)

一般質問は流石に少し反省して、多くの議員がするようになっているが(あのM議員も)
だがこの予算決算委員会の質疑者は、悲しいくらい一部の議員に偏っている
あらゆる分野に渡って細かく質疑する人がいれば、自らの関心事に絞って質疑する人
だんまりを決めている人
この日、通告書を出して質疑したのは、佐宗、山口、竹下、丸山、澤田、小野田、浅尾、滝川議員
このうち山口、丸山、澤田、浅尾、滝川議員はネットワークの会のメンバーで
だんまりを決めている議員は、下江、中西、柴田、長田、山崎、山田、斉藤、鈴木長、鈴木達議員だ(村田議員は委員長)
この中で山田、鈴木長議員は議決前に反対・賛成討論を行ったらしい(この会議はあまりにも長いので途中で逃げ出した)
だんまりを決めている議員は何故か行政訴訟の対象者(中西、下江、柴田、山崎、竹下、村田)の中に多い
彼らは質疑はしないが議決権だけは持っていて、最後の段階で重要な市のお金の使い方に承認を与える
彼らの議決の選択はわかるが、どのような考えのもとに判断を下したのかは、だんまりではわからない

今回気になったのは浅尾議員のブログでも紹介された、道の駅「もっくる新城」にドッグランの設置のこと
1600万円の予算で、「もっくる新城」の東側の段々のステージの場所をごそっとドッグランにする計画だとか
その対象面積は100平米で、同時に施設に入ることができる犬は小型犬で10頭くらい
どうも中途半端大きさの計画のように思えてくる
財源は市債と国からの「コロナ感染症対策の補助金」(?)を当てるようだが
コロナ感染症対策とこの事業がどのようなのような関係があるのか、すぐにイメージはしにくい
そもそも補助金の申請は、作文がモノを言う
「革新的な」「先進的な」「雇用に役立つ」「地域活性」とか、
そうしたキーワードを織り交ぜて作成し、無理矢理のこじつけをするのが職員の仕事になっている
少しばかり情けないが、これが現実だ
でも今なぜドッグランなのかが、いまいち行政の説明ではわかりにくい
行政は、あるときは誘客のためだと言いながら、ドッグランを目的にわざわざ来ることはないだろう
と答えている(辻褄が合わない)
今、なぜドッグランか、本当に最優先で行う事業か、、、
その部分はどうしてもストンと腑に落ちるというわけにはいかなかった

一般の市民は自らの生活があり、大事な市のお金の使い方を決める会議とはいえ
時間を使ってまでチェックをおこなうのは、現実的ではないから
結局は議員にお任せするしかないのが現実
でも議員も人の子、あれもこれもできる訳じゃない
分厚い資料を読みこなすのはしんどそうと想像できる
だから、議員同士が質疑する分野を分け合って質疑するようにすれば良いのではないか
と部外者は思ってしまう

現実世界では上記の例のように、真面目な方とそうでない方たちと二分されてしまっている
質疑しない議員さんは「議決権だけの議員!」
そう思われないような行動をしてほしいものだ

 

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思い浮かべる風景はスイスのほうがふさわしい(立原道造 「萱草に寄す」)

2020年09月13日 19時06分42秒 | 徒然なるままに

今も思うのだけれど、立原道造のソネット「萱草に寄す」は
その思い浮かべる風景を彼の暮らした軽井沢ではなく
青い広々としたとした牧草と、青い空、ベランダに花を飾った木造の家
そして目の前にはアイガーの壁が見えるスイスのグリンデルワルトを想像すると
とてもしっくり来る気がする

とてもメルヘンチックで、切なくて、若いときしか感じられなかったり
作ることができない作品で、自分が初めて書き写そうとした詩だ

甘ちょろい、、かもしれないが、これらは静かでとても美しい
一番好きなのは「のちのおもひに」 次は「はじめてのものに」

 のちのおもひに


夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

 

はじめてのものに


ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明かつたが 私はひとと
窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

今でもこれらを読むと、なぜか心が不安になる
どうやら、最近余裕のない自分が自分自身に戻るためには
これを読む時間が必要かもしれない、、、

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他人からの受け売りだが、実感していること

2020年09月13日 08時51分17秒 | あれこれ考えること

ある本によると、どうやらヨーロッパ人にとっては第一次世界大戦はショッキングな出来事だったらしい
それまでにいくつも戦争をしてきて、それを避けるための知恵が共有されていたと思っていたのが、
無残に打ち砕かれてしまったからだそうだ
このあたりの感覚は、そこにいないと(体験していないと)わからないことかもしれない
東京にいるのと地方にいるのでは今の日本の感じ方が、リアリティの点で随分違うと思われるが
それと似たものかもしれない

「自由・平等・博愛」を掲げて民衆が成し遂げたフランス革命だが
この評価も、当事者の国、隣の国とでは随分違うと思われる
まして無条件にそれを良きものとして受け入れている日本人の考え方は少しばかり観念的すぎるようだ

フランス革命は確かに王政から民衆の手に権力は移った
しかしその後行われた悲惨な出来事、ギロチン、恐怖政治、ナポレオンの専制政治は
当初予想した(目標とした)高貴な未来を生み出しはしなかった
それは観念的に人の理性で考えた世界、未来は必ず良きものとなるの前提が
現実社会では、なかなか実現されない実験結果のようだ

人が理性でこうあるべきと考えたものは、もしかしたら片手落ちではないかと考える人達がいる
人はどうしても何割かの間違いを起こす
あるべき理想の姿の実現を、理性の力のみを信じて方法論を考え実行するのは、結局は間違いを
実行することにならないか、、というのだ
この考え方を持ったのが「保守」と言われる人々で、バークとかトクヴィル、チェスタトン、オルテガで
彼らは過去の人間が苦労して身につけた共有財産のような経験を顧みることなく、
人間の理性のみの力で急激に変革することは望ましいものではない、、としている

この感覚は、今の自分の年齢ではよく分かる
人が試行錯誤してきたものに敬意を払い、なぜそのような知恵に至ったかを顧みることは
現時点だけの視点をもった考え方の不足を補うと思われる
日本では「保守」という言葉は、「復古主義」のように思われているが、実はそうではなくて、
理性のみを盲信し急激な変化を求める人達に対しての言葉であるとするのが世界的な解釈らしい

保守は穏やかな変化を求める、、と保守を自認する人はいう
何代も続くお菓子の老舗は、昔のものを全く同じようにつくり続けているのではなく
時代の変化に合わせて少しづつ不断に変化させていて、それが生き延びるコツで
この考え方こそが「保守」の考え方そのものと説明する

なかなか実体験に基づいた考え方だな、、と思うが、若い時はなかなかこうは考えられない
やはり理想とか正義とかあるべき姿を、まっしぐらに求めてしまう
そこで思い出すのが、どうやらチャーチルの言葉ではなさそうだが、ちょいと有名なことば
「もしあなたが25歳のときにリベラルでなかったら、あなたは心がない。
 もしあなたが35歳のときまでに保守ではなかったら、あなたは脳がない。」
この感覚は、つくづくそうだな、、と思う

ということで、日曜の朝のボケ防止の投稿は、最近読んでいる本のおさらい
自分が考え出したものではなく、先人の知恵の受け売り
(ただ、しみじみ実感しているので)






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予想報道がなかったら、結果はどうなるか?

2020年09月12日 05時25分27秒 | あれこれ考えること

仮に選挙前の様々な報道(当選予想など)がなかったとしたら
選挙結果はどのように変わるのだろうか?
選挙当日の刻々と変わる投票率を報道しない国があるそうだ
投票率の高低で得する政党、損する政党、個人が出てくるから
それを避けるためとのこと

人を選ぶにはその根拠となる情報が必要だが、その情報は果たして
誰かが勝ちそうだ!といった類のものだろうか
現在の日本では時間が経てばわかる結果を、メディアは競って予想する

現在の自民党の総裁選は「勝ち馬に乗る」という言葉で代表される
政治家個人の後先の損得を考えた判断基準が大手を奮っているし
メディアもそれを、さも価値あるかのように報道する

報道とか知らされるべき事柄は、勝敗の行方の予想ではなくて
選ばれた人が何をなしうるか、、とか、
それを実行しうる胆力とか人間性を持っているか
という点ではないだろうか
もっとも、一般人がそれらを見抜く力があるかどうかは少し疑問だが

もしかしたら、見抜く力がない、、と自覚しているからこそ、
人は他人の選択が気になるのかもしれない
「多数の中に自分がいる」それを自覚するだけで安心するのかもしれない
それは同調圧力などと大げさなものではないだろう
ハンナ・アーレントのアトム化とか西洋の識者が使う「孤立化」が
不安に耐えられない(それを自覚していない)人々の安心する手段として
多くの中のひとり、、という選択をするのかもしれない

話は飛ぶが、(現時点では)結果的に我が国の首相を選ぶことになる
自民党総裁選は、自民党員(代議士・党員)だけで行われる
今回は時間の関係で(?)代議士票が重要視され、少し無視された感のある
地方の普通の自民党員だが、彼らはいったいどんな理由で自民党員になっているのだろう
自民党員は年会費として4000円支払うそうだ
そして党員募集の謳い文句には「あなたが選んだ人が首相になる」
といったニュアンスのことが書かれているらしい
自民党員だけに許された総裁を選ぶ権利、それを実行することで自分の選んだ人物が首相になる
この実感は、思いの外優越感をもたらすものかもしれない
ちょいと自慢したくなる自分の選んだ人が最高権力者になるという出来事、
だがその選択が間違って他の人がなってしまったら、彼は無駄なことをしたことになる
そこで彼は選挙の結果だけが気になる
そしてケインズの美人投票のように、誰が一番美人か?ではなくて、誰が選ばれそうか?
が選択の唯一の基準となる

こうしたことが自民党員の中だけでなく、広く一般社会でも起きているのではないか
もっともこれは日本特有のものか、それともどこにでもあることなのかわからないが

それにしても、最近思うことは、人には正しく人を選ぶ能力があるのだろうか?という点
4年に一度、公開討論会を行う事によって、市民が好ましい選択を行うことができるようになるか
は大いに疑問(ある条例への疑問)

最終的には(根本的には)教育という分野が重要になってきそうで、現在の関心事は
ボイテルスバッハ・コンセンサス
ドイツの政治教育のこと
これは自分が消化できたらいつか取り上げてみよう

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豊橋・豊川の市議会と比較

2020年09月11日 08時28分21秒 | あれこれ考えること

いろんなものは比較してみないとわからない
値段が高いか安いかは、同じメーカーの同じ型番や商品名を
チラシや現場で比べることができる
だが比較といっても、種類とか場合によっては限界があるが
とりあえず比較することは無駄がない生活防衛の方法の1つと思われる

先日、豊橋市議会の一般質問の傍聴に行ってみた
少しだけ知っている方が登場して、少しだけ興味がある内容(ユニチカ跡地の裁判のこと)
だったこともあるが、一番は地元の市議会との比較のためだ

別に政治に特に興味があるというよりは、「人の行うこと」の範疇の興味で
違いがあるとすれば、それは何故だろう?ということに興味がある
実は以前には、豊川市の市議会の一般質問も傍聴したことがある

前回の豊川市と同様、豊橋市のそれも「つまらなかった」が実感
つまらなかった理由は、一般質問が他の自治体の人間にとっては切実感のある内容では
なかったということではない
それよりは、一般質問の時間内の熱気が全然感じら得ないことだ
多くの議員は、よく勉強された(?)言葉の連続で発言に滞りがない
だがそれらの言葉は、自己のうちで消化された自分の言葉、自分の意思による内容になっていない
(ように思われた)
唯一、知り合いの方の質問のときは、少しぶっきらぼうな言いようで強引なところもあったが
彼は自分の言葉で話していたために、傍聴していた外野の人間にも何かが伝わってきた

つまらなかったのは、安倍さんが官僚の書いた文章を読んで、自分の言葉で語らないので
少しも聞き手の心に響かないのと似ている
話が上手いということは、淀みないとか、知らない言葉をよく知っていてそれを披露することではない
ボツボツと話しても、聞き手が実生活上の経験に直ぐ様思いが至る話し方をする人がいる
人と人の理解というのは、話す人の人間性をも含めた何がでなされるものだと思う

地元の市議会でもそうだが、新しく選出された議員でもその晴れ舞台(?)でいきなり
先輩議員と同じような質問をする人がいる
よく勉強している、、と思う半面、新人ならば新人でしか感じることのできない
(もしかしたら一般人が感じている)感覚とか考えを表さないのかな、、と思ったりする
その場を洗練されたかたちで終えるよりは、少しくらい羽目を外したようなところがあっても
新人だから仕方ない、、で済まされるような方が、結果的に議会に新風を起こすのではないのか

ところで豊橋市議会で傍聴者には何が起きたのか、、と思われる事態が起きた
ある議員の質問の最中に、後ろの議員席でなにか声がした、、と思ったら
議長が「一旦休憩に入ります」と宣言をした
そして、議長席の周りに数人が集まって何かを話し始めた
それは国会で時々見られる速記を止めた状態で各党の理事さん(?)たちが話し合う姿に似ていた

これは後で関係者の方に伺うと、質問者が通告の内容と離れた質問をしたために
議長からではなく議員の方から質問の仕方に異議が出され。それを検討する時間をもうけたとのこと

通告以外の質問をする事態は、良いことか悪いことか一概に決めつけることはできない(と思うが)
新城市では度々見ることのできる光景だ
その場合は議長が質問者に対して、質問を変更する要請なり警告(?)を行う
だが議員当人にしてみればストーリーを立ててきたことなので、部分的な流れの中では
違うかもしれないが全体の流れの中では必要だと不平をこぼす

ここで比較という冒頭の話になるのだが、豊橋市は議長ではなく後ろに座っている議員から
そういう声が出たというのに驚く
その声を挙げた方は、議会の運営上の技術的なことをよくご存知の方なのか
それとも、もしかしたら質問者との関係があまりよろしくない方なのか、、
などと余計な想像をしてしまった

議会運営上の技術的なことは、数年を経験した議員は自明のことでも
新人は何がなんだかわからない、、というのが現実と思われる
技術的な面を強調するあまり、素朴な(未熟な)考えを出しにくくなる状況は
あまりよろしくないのでは、、、と思ったりした
(もっとも自分は他の自治体の人間で余計なお世話、、との声も聞こえそうだが)

あと一つ、地元の一般質問と大きく違った点は、質問する議員が質問台に向かう時
(返る時だったかな)議員席から拍手が起きたことだ(新城ではそんなことはない)
これは党派・会派を超えて拍手しているのか、それとも自分たちの仲間故に拍手しているのか
先程のことがあっただけに気になった

一般質問は儀式化している、、と巷では言われるが、そうかもしれない、、とも実感する
今まで自分はいろいろと地元市議会に批判的な見方をしているが、それでも
もしかしたら新城市議会は他市よりもあまり儀式化していないかもしれないと
思えるようになったのは比較してわかったこと
でもなあ、、、、

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すぐやる課

2020年09月10日 08時32分19秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

地元の新城市のローカルな話題
先日市議会の一般質問の一部を傍聴した時に思い浮かんだことで
あちらのブログからのコピペ

「すぐやる課」
冗談のようなネーミングの自治体の組織が、一時期話題になった
いろいろ理由をつけてスピード感に欠ける行政に、熱気に燃える職員が
「これではいかん!」と立ち上げた文字通りすぐ行動に移すのを目的とした組織で
これが話題になると、他の地方自治体もこのネーミングの課を立ち上げたようだ
言い出しっぺの地方自治体は、今やこの課の存在自体が売りになっているようだ

「すぐやる」
そのほうが良い、、と思うことが、新城市の9月議会の一般質問の中にあった
一般質問は「質問」の文字があるが、聞いてばかりではなく、議員からの情報提供や提案がある
今回は、下江議員、小野田議員、浅尾議員の提案に、すぐやればいいのにな、、、
と傍聴していて感じた

小野田議員の提案は、小中学校の教職員トイレの洋式化
これは少し驚いたが、まだ和式トイレしかない教職員のトイレが市内の小中学校にいくつかあるとのこと
教師は「まずは子どのほうから、、」と自分たちの要求は控えめにしているようだが、
それは違うだろう、、と感じた
教職員の労働環境がどうの大げさに言う前に、そんなのは当たり前のことで
むしろ何故ほったらかしになっているのか、不思議で仕方ない
洋式化に必要な金額はべらぼうではない、、と思われるから、その気になれなすぐにでもできるのではないか

下江議員の提案は、今後増加が見込まれる認知症の人たちの間に起こると思われる問題
認知症の方が徘徊し、ある時踏切で電車を止めるようになってしまったとすると
鉄道会社は遅れに対する賠償を本人あるいは家族に請求することになる
(この例は実際にあったとのこと)
このようなときのために保険の加入が必要で、現在そのような保険を蒲郡市は利用している
その金額は一人あたり1620円/年で、蒲郡市が(希望者に)補助している金額はトータルでも
大したことのない金額なので、新城市も早急に考えてほしいというものだ
これは総額でもその金額の少ないことから「ウンもスンもなく」やればいいのに、、と彼の提案に賛同する

浅尾議員の提案は、最近個人的にも関心のある子どもの教育について
コロナ禍のせいだけでなく、教育は少人数教育へと移りつつある
少人数のほうが学習効果もあがり、感情も豊かになるとされるが、これはなんとなく想像がつく
なので少人数教育する方向に進むのだが、子どもたちの数が減り続けている新城市は
あえて少人数教育をしなくても今やそのような状況にあるので、皮肉にも教育の最先端を行っている
ところが市内には2つだけ人数の多い教室がある
2つだけなので、これを分けて少人数教室にしたほうが良いのではないか
そのための費用は臨時職員二人分の〇〇万円くらいだから、、、との提案だ

これもその通りとうなずく
以上の3つの例はものすごく慎重な検討を要するほど莫大な費用がかかる問題ではないのではないか
あるものについては専決処分とか補正予算でクリアできそうな気さえする
(市の予算提案・執行システムを理解していない者ゆえの無責任な考え方かもしれないが)

ここで肝心なのは、金額が小さいからすぐにやったほうが良い、、だけではないこと
そのことよりも「誰が言おうが良いものは良い」と取り上げる気持ちが必要ではないかということ
自民党だろうが、公明党だろうが、共産党だろうが、男だろうが、女だろうが
言い分に妥当性があればすぐにでも聞くべきなのではないか
(人間は感情を伴う生き物なのでこれが存外難しい)

あと一つ、議員からの提案が直ぐ様実行されるとなれば、提案した議員も達成感を感じることができる
その成功体験は「次も頑張ろう」とのモチベーションにもなる
こうした手応えを感じたいのは議員だけでなく、議員に声がけをする市民もそうだ
自分たちの起こした行動に何か反応がある、、
この実感はとても大事なことと思われる
市政を自分たちのこととして関心を持とう、、と大上段に構えるよりは、
こうしたちょっとした出来事が達成されることが結果的に市政の関心に繋がるように思われる
ただし、どこかで見られるように特別の人たちだけに達成感や利益が行くようになるのはまずいが

最初に戻って、今回の提案「すぐやる」ということになるかどうか、、、

 

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映画「レット・イット・ビー」

2020年09月09日 08時10分06秒 | 徒然なるままに

今は全然目にしないので不思議に思っている映画がある
有名なルーフトップのライブ演奏が最後に見られるビートルズの「レット・イット・ビー」だ
この映画はドキュメンタリーだが、画面に感じられる寒々とした雰囲気、
もうバラバラになっていると感じさせるエピソードや映像が見られ
(ポールとジョージの口喧嘩、歓迎されていないヨーコのポツネンとした様子)
彼らのファンにとっては手放しで喜べる作品ではない

それはグループの崩壊とか解散というのは、こうして行われていくのか、、と、
残念で悲しい思いを呼び起こす

ところがポール・マッカートニーの話によると、あの時期のビートルズは
音楽に関する限りあんなに寒々とした関係ではなかったらしい
一旦演奏が始まるとあの4人でしか生み出せない音楽がいつも生まれて
あの映画で感じられる雰囲気とは違うというのだ

あの映画は、ある意図をもって切り取りされた場面から成り立ちすぎていて
彼らの当時の全体を表したものではない、、というのだ
だからこそ、彼らはこのドキュメンタリー映画の再上演を拒んでいる、、
との話を見聞きした記憶がある(ある権利を侵害しているので公にできないとの話もある)

寒々とした関係だったか、それとも昔のように音楽が始まればすっかり元通りだったのか
それはわからない
ただ言えるのは、あのドキュメンタリーは間違いなく寒々とした印象を人にあたえたということ
その寒々とした関係は、最終的に解散となった後の出来事を納得させるものだった

ところでこの映画の再編集版が製作中であるとウィキペディアには掲載されている
完成したら、見に行かねば、、、

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