ヴァーグナーの歌劇「タンホイザー」はヴェーヌスとの官能の生活から抜け出して
一般社会に復帰しようとするが、そこで語られる官能の世界をあまりにも無視した精神至上主義の
嘘っぽいところに嫌気を覚えてしまい、再び自堕落な(?)ヴェーヌスとの世界に戻ろうとする
だがタンホイザーの恋人のエリーザベトは神に自分の死との引き換えにタンホイザーの罪の許しを願った
そしてエリーザベトは亡くなりタンホイザーも許された上で安らかな死を迎える
というのが大筋の話
この話を源氏物語の後半「浮舟」の登場する場面を読んでいて急に思い出した
浮舟は理性的な(どんくさいと女性の評価があるみたいな)薫と
情熱的で性的欲望のブレーキが効かない匂宮との間で悩む
「浮舟」と名前がつけられることになった船で匂宮と秘密の家に行くシーンは印象的だし
そこでの二日間の情熱的な時間はあえてしっかり描写されていなくても、どんなだったかは想像がつく
浮舟は言いよってくるふたりの男の間で悩む
理性的な判断か、フラッシュバックのように浮かぶ濃厚な時間の記憶の振り回されるか
精神が突き詰めようとする世界は一見秩序だっていて理想的と思えるが、それ故に切り捨てるものが多い
その中に肉体的な欲望があるが、官能の記憶は簡単に捨て去ることができない
ここの難しさを上記の2つの作品は扱っている
人の判断の大きな要素は多分理性よりも感情・記憶を含めた経験
悩みの多い、理屈で割り切れない行動や判断をしてきた自分を振り返って
そうしたことを他人も同様にしていることを見て
人に過度に期待することもなく、しかしこうあってほしいとも願う
(どうしても流されてしまう人をあるときは仕方ないとも思い)
人には作話機能が備わっているというのがベルクソン
自ら作話することはなくても、作話されたものを別人が体験することによって
人には経験の量が増える
作話はきっと作者の自己表現欲求を満たすだけでなく、どういうわけか
それがあることによって世の中が上手く回らせる機能があるような気さえする
つまりは物語を誰かが創造するということは、、そしてそれを味わうということは
きっと何かの役にたっているのだろう
(漱石の草枕の冒頭にそのようなことが書かれていたような、、、)
と、ここまで来てなんの話だったかわからなくなってしまった
いつものこと、ま、いいか、、お気楽な話だし、、