ガラパゴス通信リターンズ

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すぐりし精鋭 闘志は萌えて

2006-08-27 00:45:28 | Weblog
 たとえばあなたがあるアイドルタレントのファンだとしよう。ところが彼女は某宗教の熱心な信者。あなたはその教団があまり好きではない。これが「認知的不協和」の生じている状況である。認知の不協和を人間は耐え難く思う。だからあなたは認知が整合するように、アイドルタレントか宗教団体か、いずれかに対する好悪の感情を変えるのだ。フェスティンガーの認知的不協和の理論は、「あばたもえくぼ」や「坊主憎けりゃけさまで憎い」という心理が生じるメカニズムを巧みに説明している。

 ところが最近どうにもこの理論が使えなくなってきた。学生のなかに嫌韓的言辞を弄する者がいたが、同時に彼女は韓流ドラマの大ファンなのであった。フェスティンガーの教えるところによれば、彼女は韓国を好きになるか、韓流ドラマが嫌いになるかしなければならないだろうに。 韓国や中国の若者の間にも同様の現象がみられると聞く。彼らは日本という国や日本人は大嫌いなのだが、アニメやテレビドラマのような日本のポピュラーカルチャーは大好きなのだ。

 田中康夫が敗れた長野県知事選でも同様のことが起こっている。反田中派は一致して田中へのネガティブキャンペーンを続けた。その結果長野県民は田中の人間性にノンを突きつけた。しかし不思議なことに長野県民は、田中県政の改革路線は高く評価していたのである。だから新しく知事になる村井という男も「改革路線の継承」を公約に謳わざるを得なかったのだ。あれだけ嫌われた男の政策が支持を受け続けるというのは、何とも奇妙な話ではないか。

 「あばたはあばた。えくぼはえくぼ」。「坊主は憎いが袈裟は大好き」。なんとも変てこな時代になったものである。認知の不協和を苦痛と思う近代的主体の没落が、フェスティンガー理論の死を招いたのであろうか。トリヴィアルな対象に妄想を働かせ、見境もなく発情することを意味する「萌え」ということばの流行と、認知的不協和理論の衰退とは軌を一にするもののように思われる。それにしても「ハンカチ王子」とは…。