これから韓国の教会が史上、類をみないクリスチャンが急増し、
教会は1万人、10万人というメガチャーチが続々と誕生していく
経過を鈴木牧師の研究を紹介しながら連載していきます。
私は無教会の独立伝道者、高橋三郎(注・01)師の伝道旅行にお供して
1977年に韓国に行きました。
そして1万人の延世のメガチャーチの礼拝に参加しましたので、
その礼拝の熱波を体験していたのですが、
残念ながら私は保険の代理店が軌道に乗り、
韓国の教会成長の要因を探求せず、仕事に邁進していきました。
ようやくそれから16年後、韓国(世界)最大のキリスト教会、
ヨイド純福音教会(注・02)の礼拝に参加し、
日本担当の金長老との出会いや
教会直営の「オサンリ祈祷院」で断食祈祷をして、
ようやく韓国の教会成長のナゾが解明されたのです。
それは鈴木牧師が解明されたことなのですが、
その世界で稀に見る韓国教会成長要因の第一は、
祈りだったということです。
しかも単なる祈りではなく、「断食祈祷」だったのです。
その「断食祈祷」というキーワードは、
無教会時代23年間で恩師の高橋三郎師からも
他の指導者からも一度たりとも聞いたことがなかったのです。
その発見というか出会いで私の人生は大転換します。
年商2憶、従業員20名の日本でトップクラスの保険代理店経営を棄て、
断食祈祷院建設への献身への道を歩むことになったのです。
私の人生はこの世の栄華をかなぐり捨てていくことを決意させるほど
韓国教会急成長のシンボルであったヨイド純福音教会の出会いは強烈でした。
ゆえにこれから鈴木牧師の分析と同時に私の知り得た経験を踏まえて、
筆を進めていきたいと思います。
高橋三郎(注・01)師
1920年10月20日 - 2010年6月24日)は、無教会主義の独立伝道者。日本統治時代の朝鮮の忠清南道生まれ。1945年東京帝国大学工学部卒、1948年恵泉女学園高等学校教師、1950年昭和女子大学助教授、1954年東京大学教養学部卒、同大学院で西洋古典を学ぶ。1955年から1958年まで西ドイツ・マインツ大学大学院博士課程、1958年神学博士。矢内原忠雄に師事し、無教会高橋聖書集会責任者。月刊誌『十字架の言』編者。内村鑑三から3世代目に当たる無教会主義の中心人物。(ウィキ)
ヨイド純福音教会(注・02)
キリスト教新教ペンテコステ運動派の牧師、趙鏞基(チョー・ヨンギ)牧師が1958年に大韓民国で創設した教会である。純福音聖書学院を卒業した趙鏞基伝道師が友人の崔子実(チェ・ジャシル)伝道師と1958年3月15日最初の祈祷集会を開いたのが教会の始まりである。ソウルのチェ・ジャシル宅居間で開かれた祈祷集会の最初の参列者はチェ・ジャシルの3人の子供とたまたま雨宿りにきた老婆だけであった。しかしその後、ふたりの伝道師の熱心な活動によって次第に信者数を増やし、近くに天幕教会を増設するようになる。1961年には西大門区に最初の教会を建設し、1973年には開発計画があった汝矣島に大会堂を建設するまでになった。漢江の中洲・汝矣島はやがてソウルのマンハッタンと呼ばれる大都心となり、汝矣島純福音教会は韓国のキリスト教の代表的な教会となる。1988年には日刊新聞「国民日報」も創刊した。またアメリカ生まれのペンテコステ運動アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のなかで汝矣島純福音教会が最大教会となったため、趙牧師は同教団国際組織の議長にも就任した。現在ソウル市内を19の大教区に分け、別に障害者と青年宣教のための教区を設けている。同教会から発展し信徒数は78万を数えたが、地方聖殿の多くを独立させたために現在は登録信徒56万人となってい。国際的に世界最大の教会と認定され、ギネスブックにも登録されている。1976年には趙牧師が設立した国際教会成長協会は世界宣教にも熱心であり、パラグアイ、ブラジル、ウズベキスタンにそれぞれ3千人以上の信徒がいる。世界伝道の指導者養成機関として韓世大学校(1986年設立)も運営している。(ウィキ)