バイブルランドin福井

安田由久が驚くべき聖書の世界をご案内します

ハビヤンの日本教の本質 07 比較文化論なき日本   

2024-07-02 04:00:00 | 日本教から脱出するにはどうするのか
ハビヤンの根底にあったものは、今も日本に生きて働いています。

キリスト教しかり、民主主義でも共産主義でも、ひとたび日本に入ると、

日本以外のキリスト教、民主主義、共産主義が

すべてニセモノにされてしまうのことが日本教ということなのです。

したがって日本には「比較文化論」(注・01)が成り立たないのです。

日本では、「裸同士のつきあい」ように言葉に出さなくても互いに通じ合う、

空気を第一としますが、これも日本教の中でしか通じないことなのです。

なぜなら比較を他の宗教や思想などと

比較してみようとすることがまったくないのです。

日本教には相手との比較するための相対的な言葉、

そして体系がないのですから、相互理解ということにはなりません。

比較よりもまさに問答無用なのです。

そして精神的鎖国を江戸時代も明治時代からも今日まで続けているのも

日本教の働きなのです。

その結果、生まれた精神的鎖国は、

八紘一宇を生み出し、日本的な独善保守主義を生み出して、

太平洋戦争で比較文化論の盛んな欧米と戦います。

人間は常に自分のもつている伝統を意識しますから、

他の文化、民族性とを比較して伝統の正当性を証明しようとします。

少なくとも日本にキリスト教が伝えられた戦国末期には、

こうした比較文化論があってよかったはずですが、

ハビヤンには、比較するという思考がまったくなかったのです。

ハビヤンの思考では殉教は許せないことでした。

しかもそれを説くものは、にせもの仏教とまでいい、排撃しました。

また江戸時代初期の仏教指導者が

キリシタンと徹底した比較論をしなかったことが、

キリシタンの増加になったと反省している文書を残しています。

そしてキリシタンの天国や地獄の教えは、子供だましだと語っています。

そのような飛躍した思考では、比較文化論などあり得ないことです。

それは今日、日本には本当の共産党は存在せず、

中国共産党では、日本の共産党を「日修」だといいます。

つまり日本しか通用しない日本教共産主義であり、

同時に日本のキリスト教もキリスト教修正となり、

日本教キリスト派なのです。

これまで述べてきましたように「鎖国的限定普遍主義」と

大きく変質したキリシタンが日本に生まれていきました。

ハビヤンの「鎖国的限定普遍主義」に裏付けされた

「破提宇子」が書かれてから10年後、貝原益軒を生み出すのです。

 次回は日本教の第二の担い手である貝原益軒が登場します。



「比較文化論」(注・01)

山本七平著「比較文化論の試み」(講談社文庫・1967)

経済的破綻に更生はありえても、文化的破綻はその民族の自滅につながる。

文化的生存の道は、自らの文化を、他文化と相対化することによって

再把握し、そこから新しい文化を築くことしかない、とする著者が、

日本人とヨーロッパ人、ユダヤ人、アラブ人との差異を、ことばや宗教、

あるいは法意識などを通してわかりやすく解明した独特の比較文化論。

日本文化の特性が如実に浮き彫りにされ、

私たち自身を見直すうえで絶好の書。(アマゾンの紹介文から)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする