怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.88 ゲゲゲの境港~下巻

2008年04月17日 02時14分24秒 | 怪道
まるでお経を転読するかのように猛スピードで書籍を読み漁る厨子王サンの傍らで、わんこそばを給仕するかのようにハイッ、ハイッと次なる本を渡し続けるワタシ・・・という謎な夢で朝を迎えました、二日目です。寝起き後30秒ばかし沈黙したのは言うまでもございません。うぅん、前日にサインとか見たせいですねきっと。

米子まで戻ってレンタカーを借り、向かった先は弓ヶ浜半島の付け根付近、中海側に所在する、粟嶋神社。粟嶋は古くは『日本書紀』や『出雲国風土記』、『伯耆国風土記(逸文)』にその名が見える地名で、『伯耆国~』ではスクナヒコナがここから常世の国に渡ったことになっています(「少彦名命、粟を蒔きたまひしに、莠実りて離々りき、即ち粟に載りて常世の国に弾かれ渡りたまひき。故、粟嶋と云ふ」)。かつては中海に浮かぶ小島でしたが、江戸時代の中頃以降、周囲の干拓により地続きになったとのこと。かつては山自体が神体とみなされ、山の麓に社があったようなんですが、元禄3年(1690)、現在の山頂に社殿が構えられることになったようです。


粟嶋全景。

山腹に荒神さんがあったりとオモシロイんですが、それに加えてですね。ここには「八百比丘尼」伝説があるんですネ。八百比丘尼といったら、あやまって人魚の肉を食ってしまった娘が不老不死の身を得てしまい800年余生きるという話。伝説の地としては福井県小浜の空印寺が有名ですが、その他にも高知県須崎、愛知県春日井市、三重県津市などなど、全国的に分布するポピュラーな話。ふぅむ、鳥取にもありましたか!というところです。この伝説は一般的には「比丘尼」というだけあって寺と結びつきやすいんですが、まずここは古くからの神域と結びついているのが変わりどころといえばそうですね。

ここで伝えられている話はまた竜宮伝説ともまざりあっていてちょっとおもしろい。案内板からそのまま引用しますと、
「昔、粟嶋の周辺に11軒の漁師が住んでいて、粟嶋神社の氏子として「講」(ママ)という集まりをもっていた。ある時、一人の漁師が村に引っ越してきて、講の仲間に加えてもらった。
一年後、(新しくきた)その漁師が当番になった時、今までのお礼にとみんなを船に乗せ、竜宮のような立派な御殿に案内してもてなした。何日か経って帰る時、最高のご馳走として人魚の料理が出されたが、誰も気味悪がって食べず、たもとに隠して帰る途中で海に捨てた。
ところが一人の漁師が捨てるのを忘れたため、その家の18歳になる娘が父の着物をたたむ時に見つけ、しらずに食べてしまった。それから後、娘は不老不死の身体になり、(略)この世をはかなみ、尼さんになって自らこの洞穴に入り干柿を食べ、鉦を鳴らしつつ息絶えたという。(略)村人達はこれをあわれんで、娘のことを「八百比丘さん」(ママ)とか「八百姫さん」と呼んで、ていねいに祀ったという」

比丘尼さんがいた洞穴は今も「静の岩屋」と呼ばれていますが、『万葉集』巻3に「大汝 少彦名のいましけむ 志豆の岩屋は 幾代経るなむ」なる歌が掲載されておるそうな。千数百年昔の人が、こんな岩の隙間まで観ていたことには本当に驚かされますわけですが、何にせよ万葉の昔には神サンの居所だったこの岩屋がなぜに八百比丘尼の住まう処となったのか、実に興味深いところです。粟嶋神社にはかつて神宮寺があったのかもしれませんね。そして「八百姫」な呼称は場所柄、幕末~近代以降ぐらいにあえて呼び変えたんじゃないカシラ。とりあえず出典が知りたい。

何はともあれ、なんせ800年ですからね。しかもこの案内板、「講」とかゆってるし、八百姫さんは少なくとも中世以降に人魚食うてはりますでしょ。時期によっては今でも生きてるかもしれん、あるいはつい最近まで生きていた計算になるわけですよ。

そこで思い出すのがのんのんばぁなわけですw のんのんばぁは、「現在の八百比丘尼」と言われているというクダリがありますね(「黒姫山の主」)。のんのんばぁ、顔は確かに少々シワクチャですが、「ほとけかずら」で披露する上半身の裸体は、意外に若い!というか相当若い!これは18歳ぐらいかもしれないわけですねッ。・・・粟嶋の八百姫さんはのんのんばぁですね、きっと。


粟嶋神社の参道を右にそれて山のほぼ裏手まで出たところにある、「静の岩屋」。鳥居の額には「八百姫宮」とある。

続いて向かいましたのは、中海を渡って島根県側にある弁慶島。弁慶島の弁慶とはもちろんあの武蔵坊弁慶。彼は熊野別当湛増の子と言われるわけですが、この辺りでは松江の生まれだと伝えられており、母親が手に負えないほど腕白な弁慶を捨てた島がここ「弁慶島」と言われます・・・という話を去年MZ学会でうかがったわけですね。近くまで来たからついでに寄ったろかと。

写真を撮ったつもりがあやまってデータが消えてしまいまして今はご紹介できないんですけど(そのうちジジサマが撮影したデータをもらってupしときますんでw)、近くで畑仕事をしていたオッチャンに聞きましたらば、弁慶島、なんと私有地なんだそうですョ。島に住居をかまえてらしたおばちゃんがいたそうで、かつては船で行き来していたようですが今は地続きになっています。「弁慶のおばちゃん」と呼ばれていたその方はすでに大阪に出られたとかで、島は無人の廃墟となってました。探検したらちょっとオモシロそうな島でした。

さてさて、大根(ダイコン)島に寄り道して高麗人参の産地をのぞいたりなんかしてから、次なる目的地、正福寺へ。・・・境港へ行って水木ロードだけで帰っちゃそりゃ片手オチというモノですからネ♪説明するのもまどろっこしいですがw、正福寺は小さい頃のんのんばぁに連れられたしげーさんが、「別の世界」の存在を知るキッカケとなったという、地獄極楽図があるお寺です。


正福寺。


再現、のんのんじぃとワタシ。


えー、ひとまず一反化繊くんあたりにツッコミいれてもらいましょうかw

位牌堂へ向かう本堂裏の廊下に飾ってあった昔の写真とくらべると、現在の境内はずいぶんスッキリ木々を抜いてしまった感じですが、建物はしげーさんが小さい頃と同じまま。拝観料は要らない上に、親切な住職さんが1000円相当のお守りセットをくださいました(申し訳ないのでコッソリお金置いてきましたけど^^;)。

お寺でのんびりした後は、『のんのんばぁとオレ』などでしばしば登場する弓ヶ浜まで再び車を飛ばし、日本海の風に吹かれてきました。人はその人生においては、かくれんぼしているシアワセ達を探してまわるオニみたいなものなのかもしれません。境港でのんびりしてると、そうやって隠れているシアワセの見つけ方がうまくなるような気分になりますネ。今年もよい誕生日でした

・・・とかヒタっていたら、砂浜へ前進しすぎた車がタイヤを砂に取られて脱出不能になり、JAFのお世話になるハメになるという素敵なオチがついたところで(いやホンマにw)、境港の旅はお開きといたしましょう~。


弓ヶ浜の海岸は延々、米子まで続く。

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2 コメント

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比丘尼とは (いつきの某)
2008-04-17 21:36:19
不思議なもので、中世~近世には絵解き、唱導、売笑までやりながら歩いてます。つまり歩き巫女と歩き比丘尼はどうもよく似てるんじゃないかと思うんですね。そして巫女と山伏は夫婦であることが多かったとも言います。風土記の聖地が修験の聖地になり、比丘尼の語りの場になっていく。ありそうですね。
ところで八百比丘尼伝説は交通の要衝に定着していると思うのは私だけ?
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ありがとうございます (主催者)
2008-04-18 02:54:06
逆に、八百比丘尼伝説のように交通の要衝と言われる場所に定着している話って、他にはないんですか?

確かに、この辺りは大山の麓になりますものね。弁慶誕生地伝説があるのは本文にもある通りで、その弁慶が大山中腹にある大山寺の鐘を出雲大社の近くにある鰐淵寺まで一日で運んだなんていう伝説があるんですが、これなどはこの辺りを東西に修験の道が走っていることを示唆しますしネ。歩き巫女もきっとウロウロしていたことでしょう・・・この辺りの地域性とか、よくわからないですが。

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