怪道をゆく(仮)

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怪道vol.58 墓場めぐろう(1)

2007年03月10日 06時22分17秒 | 怪道
墓めぐりをしています。

五木のおじいちゃんにオモシロサをご教授いただいて以来、墓を見れば吸い寄せられるようにフラフラと入りびたる日々。とはいえワタシが特別思いいれのあるお墓は、主に軍人墓。お国のために戦って散られた、いわゆる英霊サマのお墓です。

家から徒歩5分の墓地から職場の行き帰りに見かけた墓地、お寺の墓地やらをのぞいてはデータをとったりなんかしております。皆さんも墓地へ行けばよくお見かけになると思いますが、軍人墓、一般的に形は先端がとがったいわゆるオベリスクに似たもので、高さはだいたい2m程度のものがほとんど。家族墓と同じ敷地内にあるのもあれば、単基でそびえるものもあり、また墓地内で英霊を集合させている場合もありますが、共通するのは、「英霊は一人にせねばならぬ」と言われるように、一基につき一人の名が刻まれた碑が高々とそびえていること。

通常の墓地で見かけるのは二等兵一等兵上等兵などの兵卒、最高でも曹長などの下士官レベル。なので尉官佐官レベルの軍人墓とはいったいどの程度のものなのか、あるいはこれら軍人墓には大きさなどに一定の規定があったようだがそれはいかなるものか、などの疑問から、大阪は玉造の真田山にある陸軍墓地を訪れてみることにしたわけです(カレコレ2週間ほど前の話)。

敷地の北東角から入ったわけですが、いきなり強烈でしたよ、「三光神社」とかあるんですもの(笑)。祭神がアマテラス・ツクヨミ・スサノヲの神話三兄弟ですから、社名はおそらくそのあたりから来ているのだと推察されますが、陸軍で「三光」と来たらもう別のもの想像しちゃいます。それはさておき、三光神社は日本で唯一の中風除けの神社として知られ、境内には真田山の名の通り、「真田の抜穴」跡があったりします。その他、この辺りは狐の住む穴が多かったという話も残っているようで、聞き込み次第ではいずれ化け化け合戦めいた話が見つかるかもしれませんね。

さて、真田山陸軍墓地です。

明治4年8月、わが国初の鎮台(近代陸軍成立当初の編成単位で、後に「師団」に改編されて以降は廃止)が置かれた時に、陸軍墓地となりました(案内板より)。約4800余柱の墓標が立ち、納骨堂には4万3千基のお墓が納められているそうです。戦後、陸軍省の廃止により国の手を離れ、現在は「大阪靖国霊場維持会」が中心となって管理されているとのこと。墓地の中央にはお墓を守ってらっしゃると思しき方のお家があります。

墓地の構成と、各区域における大まかな被葬者は以下の通り。

Ⅰ区:明治初年の兵卒
Ⅱ区:明治10年代の兵卒
Ⅲ区:明治10年代の兵卒
Ⅳ区:日露(明治37年)、第一次大戦没の兵卒
Ⅴ区:日清戦争(明治28年)没の兵卒
Ⅵ区:日清戦争没の兵卒
Ⅶ区:下士官(曹長・軍曹・伍長)
Ⅷ区:尉官
Ⅸ区:佐官及び慰霊碑

ざっと見渡して申しますと、墓石の規模といたしましては、兵卒墓はだいたい1m前後の高さ、下士官で1m20~1m50程度、尉官は2m~2m50、佐官となると3m~4m級という傾向があります。また、形状は正確にはオベリスクのように上方に向かって徐々に細くなるというものではなく、底面が正方形の直方体で先端が四角錐になっているのがほとんど(オベリスク型のものは尉官墓に稀にあるのみ)です。

兵卒墓はまず台座は一段のみ。明治初年から10年代初めの頃は、先端部はカマボコ型で四角錐ではないのですね。後に確立する四角錐の形おそらくは明治10年代から徐々に現れ、明治20年代になって確立するようです。


Ⅰ区の墓群。先端はカマボコ型。


Ⅱ区の墓群。カマボコ型と四角錐型が混在する。


Ⅳ区の墓群。全て四角錐で統一されている。

士官の墓は、Ⅷ・Ⅸ区に収まってしまうほど数も少ない上に、敷地内での配置はバラバラです。年代別になっているわけでもなく、階級別でも名前の順でもなく、どのように現在の並びになっていったのかは全く分かりません。

今の所最も古いのは「西南の役」で亡くなった方のもの。この頃の墓は、中には30cm×30cm程の太さを持つ背の高いものもありましたが、後の下士官レベルに対応する、1m20~30程度で底面が20cm×20cm程度の、いわゆる砂岩質の石でできたシンプルな直方体+四角錐のタイプが多いようです。軍人墓に特徴的な先端が尖った墓というのは一体いつ頃から発生するんだろうという疑問があったわけですが、以外にも当初からこの形であったことがわかりました(ただし建立年代がイマイチはっきりしないのが難点)。

士官墓は明治27年頃までは、形式はまるで一定せず、角柱部分が巨大化(30cm×30cmから最大で底面50cm×40cmの太さ)、石材も様々。先端が角錐のものもあればかまぼこ型もありますが、強いて言えば古いほど角錐部分の高さが低いと言えましょうか。


これが明治28年の日清戦争あたりを境に、ほぼ22、3cm四方の細長い直方体+四角錐タイプに定型化していきます。日露戦争で戦死した尉官の墓となると、完全に規格外はなくなります。その形が、現在、ワタシの近所の墓地などにもあるような各地の墓でみられる下士官や兵卒の墓の形・サイズとほぼ同一。つまり、身近で見られる軍人墓は、その頃に定型化した、陸軍墓地内では尉官レベルの規格にあたるものということになるようです。

つづく。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
わしは下士官だった. (ピップ)
2007-03-12 20:20:03
 陸軍で言うと伍長,海軍で言うと三等兵曹.
 なので2メーター級かのう.
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やー (主宰者)
2007-03-13 02:14:43
死んじゃダメw
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あの墓標は… (スミヤン)
2007-03-24 07:17:32
はじめまして
滋賀の安土のあたりも探索されているように拝見しまして、以前から気になっている「お墓」の質問をさせていただくんですが…

ちょうど近江八幡と篠原の中間、JR東海道本線の西側の田畑の真ん中に風変わりなお墓が立ち並んでいるのが見えてます。 気になって一度ドライブがてら見学に行きましたが、80~120cmほどの木製の細長い角柱のてっぺんに小さな屋根がついているような造りで、それらが100基はあるように見えました。
恥ずかしながら、日ごろ幽霊その他まったく信じていないと考えていたんですが、真冬の夕方ということもあり、薄暗くなっているだだっ広い田んぼの真ん中の奇妙な墓地に、一人ウロウロしているのが少々気味悪くなってきまして、あまり長居はできませんでした…

いったいどういう経緯の墓地なのか… もしお調べいただけたらお願いできないでしょうか? 1年前まで南彦根に出張でおりまして、やや記憶があいまいなのですが、JR東海道本線の野洲(篠原か)から近江八幡まで、線路の西側に注意していただいてると広い田んぼが見えてきまして、その真ん中あたり、線路から100m足らずのあたりに比較的目立つ20m四方くらいのお墓の一群がご覧いただけると思います。
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スミヤンさま。 (主宰者)
2007-03-24 09:40:12
はじめまして。興味深い情報をありがとうございます。
木製のお墓が100基も。それはなかなか壮観でしょうね。
ワタクシ、大阪は北河内の在住なもので、滋賀の方まで足をのばすことはあまりないんですが、おもしろそうなのでそのうち見に行ってみようと思います^^。
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