一杯の水

動物であれ、人間であれ、生命あるものなら誰もが求める「一杯の水」。
この「一杯の水」から物語(人生)は始まります。

無明

2005年06月03日 00時20分29秒 | インド哲学用語集
無明

非アートマンである、変転止まない身体や自我などを不変のアートマンと誤解執着すること。その誤解執着によって、人生の様々な行為と苦悩が生じ、輪廻が続く。

無明に基づく輪廻は無始であるが、アートマン(=ブラフマン)を正しく認識することによって、人は輪廻から解脱する。

また、無明は、世界開展の原動力と考えられることもある。

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2 コメント

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しつもーん (筆ペンX)
2005-06-03 20:26:58
輪廻の始まりはないのに、終わりがあるって、どうしても納得ゆかないんですが・・・。



ほんとに無始なのかなぁ・・・。

全てに始まりがあって、終わりがあるような気がしてしまうのだけど
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う~ん。 (便造)
2005-06-04 01:32:25
輪廻が無始ということは、一つには、輪廻の始まりは探りようがない、ということだったような……。



インドの宇宙論では、この宇宙は、創造・維持・破壊を繰り返し、破壊のときには、今まであった存在物は種子(あるいはDNAのようなものか?)のように残り、新たな創造の時期に、またそれが展開していくということで、探りようがないほど昔、ということですね。たぶん。。。



しかし、輪廻の終焉は、ブッダやシャンカラのようなある種の人々にとっては、確かにあり得る、ということですね。

また、「この世は虚妄。ブラフマンのみが実在」という立場に立てば、輪廻の始まりや終わりどころか、輪廻さえも、否定されてしまう立場もありますね。



ブッダに関しても、輪廻を説いたか否か、という問題になると、学者の間でも意見が分かれるようです。



いずれにせよ、ままならないこの世から解脱する道はあるのだ、とブッダやシャンカラは語るのでしょう。

それが、現代人にとって簡単かどうかは別にして、道はある、と。



また、業思想と絡めると、こういう風に考えることもできるかもしれませんね。

たとえば、過去世の業が、今ある自分を創ったとするならば、我々が存在している限り、我々には過去があり、そして「無」から何かが生まれることはないとするならば、我々の過去に、(あるいは、我々に)始まりがあったらおかしい、と。



うまく伝わったでしょうか?



ということで、答えるのがとても難しい質問でした



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