先日、関ヶ原他、琵琶湖周辺の歴史スポットに行ってきました。来年の大河は『江~姫たちの戦国~』この辺、信長、秀吉がらみの史跡が多い。また盛り上がりそう。
さて、私、歴史好きの歴男なんです。以前は世界史が好きでしたが、最近日本史の書籍をよく読みます。特に戦国時代、戦国武将が好きです。そして日本史上、最大級の戦いがこの関ヶ原の戦いです。徳川家康と石田三成による天下分け目の戦い。双方16万近い兵士がこの関ヶ原に集います。関ヶ原の戦いは、実際の戦いで象徴的にとりあげられるわけですが、日本各地の大名は、家康につくか豊臣(三成)につくか態度を決めなければなりませんでした。まさにお家の存亡をかけた究極の選択肢を迫られるわけです。ここにまた様々な人間模様があるから興味深い。
関ヶ原に関する書籍は数多い。今でも毎年何冊かは出版されたり、特集が組まれる。もうそんな斬新で新しい解釈はないですが。この関ヶ原の戦いにいたるまでの展開、その後。それぞれの武将がたどった運命はドラマのようです。前にも一度関ヶ原を訪れましたが、じっくり見たくて再来訪しました。今回私は、車に折りたたみ自転車を積んで旅立ちました。車でも周れなくはないですが、実際に距離感とかを感じたかった。昔は馬が一番速い移動手段だったわけですから、スピード的にはチャリも近いと思って。今回、35度近い猛暑の中、チャリンコで、各武将の陣地を周って見ました。めちゃマニアでしょ。今の関ヶ原は、田んぼと学校ののどかな風景が広がる。関ヶ原の戦いのバックボーンが頭の中にないと何も変哲も無い風景です。しかし、知っている人にとってはこの光景にいろいろな思いがめぐる。
まちがいなく家康は圧倒的なカリスマ。当時、家康につくほうが安全ぱい。しかし、この時点で家康は豊臣の臣下。秀吉、前田利家にも豊臣を守るという約束をかわした。しかし、彼らの死後、手のひらを返し豊臣を追い込んでいく。そこに忠義はない。しかし、家康もこれまで相当な苦労をしているのも事実。
そりゃ誰でも自分がかわいいですよ。自分の家が大事。目先の利益や思惑だけで動いたものもいれば、正義や忠義という心で不利と分かっていても動いた武将もいる。そして最後までどちらにつくか決めかねた武将や、土壇場で裏切った武将も。最終的に、この関ヶ原の戦いは、義が勝った戦いではないと思います。
徳川家康が勝ち、徳川幕府300年の幕開けとなるわけです。そして戦国の世が終わり、日本史上稀にみる戦のない安定した世の中になるわけですが、この300年を超閉鎖的な失われた300年という歴史家もいる。豊臣政権が続いていたら、また違った日本になっていたという人もいます。この辺はわかりませんし、難しいとこです。しかし、どちらにしろ君主制です。民衆が主役の政治ではなかったと思います。
上記が関ヶ原の布陣図です。(ネットでみつけのはりました)
歴史家もいっていますが、素人のおれが見ても、この東軍を挟み撃ちにしている布陣だと西軍の勝利でしょう。それは、この布陣の通り、各武将が全力で戦っていたらという仮定です。西軍・石田三成は8.3万、東軍・家康は7.4万。(兵力も西軍の方が1万も多い)双方合わせて約16万の兵が、東西4km、南北2kmの関ヶ原に集結します。しかし実際に、動いた(戦ったのは)半分。残りの半分は、静観です。家康本陣の3万は実際、圧力はかけたけどほとんど戦ってない感じ。
出だしは、西軍が優勢。主力の宇喜多の1.7万、三成の6千が東軍を押した。三成の家臣の島左近は相手を震え上がらせた。(三成本陣へはすぐに行けます)
東軍の家康軍の3万は後ろに控え、福島正則5千、黒田長政5千、細川忠興5千の豊臣恩顧の武将が前線で戦った。前線の徳川系は、伊井直政、本多忠勝、松平忠吉くらい。
西軍の、小早川1.6万、家康の背後にいる毛利勢2.6万はまったく動かないのです。そんな状況で、西軍は午前中よく戦ったと思います。
午後になり、苛立つ家康軍3万が前線へ出てきます。(家康が前線に出た位置から三成本陣までチャリで行きましたが、1kmくらいはありました)
家康の圧力に呼応して小早川の1.6万が裏切ったため、西軍は疲れていない5万近い相手に、消耗している3万で戦わなければならない状態になるのです。ここで家康背後の、毛利勢2.6万が動いたら、また戦況はすごい事になり、こう着状態に陥ったでしょうが、動かなかったため、西軍は総崩れになります。
午後に入り流れを変えたのが有名な小早川の裏切りです。この小早川も、もとは秀吉の養子。秀吉に秀頼という実子が生まれていなければこの人が後継者だった。秀頼が生まれてから、逆にやっかいな存在になったという経緯があります。そして秀吉に冷遇、場合によっては殺されていたかもしれなかったのです。
この時小早川の兵は1.5万。この中でも最大級の兵力です。小早川が西軍として動いていたら圧倒的にが西軍有利になったでしょう。しかし、前述の点を家康につけこまれた。戦後、小早川は良心の呵責に耐えかねてか、精神的なバランスを崩して狂死したと言われています。戦国時代は裏切りなんて日常的、三国志なんて裏切りの物語。この小早川秀秋は、関ヶ原合戦というという天下を二分する象徴的な戦いで、キャスティングボードを握ったためこうして裏切り者の代名詞のようにずっといわれ続けるの気の毒のように思います。
そういった意味でも、小早川が布陣した松尾山に登ってみたかった。この山はちょっと普通にはいけません。前回は山の入口わかったのですが、今回はわからなかった。鳥獣のわながしかけてるとかの注意書きがやたらとあるし、超暑かったのでくじけました。頂上まで40分くらいかかるそうです。関ヶ原全景が見渡せるそうです。家康が、小早川に向かって銃撃させ、それにびびって動き出したという話がありますが、松尾山と中心の戦闘区域はけっこうな距離を感じます。
実質的に、裏切ったのは小早川ですが、個人的には毛利の中途半端な煮え切らない姿勢、このへたれぶりはなんだかな~って思います。毛利が腹をくくってれば、もっと展開はちがってたはず。実際、西軍の総大将は石田三成ではなく毛利輝元なわけです。この時、毛利家が一枚岩でなかったのも家康につかれた。
豊臣恩顧の大名も、家康について戦ったというのもよーわからん。そこには、福島を筆頭とする武闘派が三成への憎しみを募らせ対立した背景があるそうです。福島や加藤清正らはいつも前線で、朝鮮でも命をかけて戦った。しかし、後ろの安全なとこで裁量をふるった三成が評価され、秀吉にかわいがられた。そこら辺を、家康がついた。福島なんて、この人なりの忠義で家康についていたわけですから。そしてそのバックにいたのは、秀吉の妻・北の政所だと思います。この人の存在も大きいと思う。秀吉のいない、自分の子でない(or秀吉の子でもないかもしれない)ものが継ぐ豊臣政権など未練はなかったのかもしれません。結局、関ヶ原の戦いって嫉妬心が(北の政所の淀君への、武闘派の三成への)勝敗を決めたようにおれは感じてしまうのです。
結果的には、家康が勝ちますが、情勢はけっして楽なものではなかった。会津には、上杉120万石がいた。関ヶ原ではなく、徳川と上杉が東北でガチで衝突したら、この関ヶ原のようにあっさりとは終わらなかったはず。家康は250万石ですが、上杉の120万石と毛利の120万石が合わされば同等です。上杉には直江兼続という知将もいます。でもそれが衝突したらそれこそこそすごい事になっている。ある意味、武将たちも戦いによって得られるものより失うものの方が大きいということを戦国時代から感じていたのかもしれません。
2代目の徳川秀忠本隊の3.7万も真田家(大好き)の活躍で信州で足止めされ、関ヶ原の本戦に間に合わなかった。(あえて遅らせて温存した説もありますが)結局、家康は豊臣の恩顧の大名の力を借りなくては、三成と互角に戦えなかったのです。関ヶ原は、いわゆる天下分け目の東軍対西軍の戦いと言われていますが、ちょっとつっこんで知ってる人は、豊臣の内紛だと解釈されています。そして内紛のような展開にもっていったのが家康の手腕であり、政治力であると思います。単純に徳川対豊臣なら豊臣恩顧の代表格の福島なんか家康につくわけがない。忠義心だけで戦い、政治力が三成に足りなかった。
ですからこの時、豊臣の内紛なわけですから、毛利輝元が秀頼をつれて関が原に参戦していたら、まちがいなく情勢はかわっていたでしょう。
おれ、個人的には大谷吉継が好きな武将なんです。石田三成の盟友で、三成の挙兵に応じて立ち上がった武将です。一般的には、メジャーな人ではないかと思います。しかし、その智略は秀吉も一目置いたと言われています。その状況分析が出来る吉継だからこそ、勝てる見込みのないこの戦いに、一度は三成に挙兵を止めさせようとしますが、三成の忠義心と友情に応えます。しかし、吉継も西軍・三成のもとに8万近い兵力が集結したというのは想定外ではなかったのでしょうか。それは家康も誤算だったはず。吉継は、開戦時大いに勝てると思ったのではないでしょうか。
しかし、8万近い兵力が集まったとはいえ、ほんとの信頼できる兵力は半分。逆に計算にいれてた兵力が裏切るとなると話は全然変わってきます。吉継は小早川の裏切りを想定していたと言われており、小早川陣営のふもとに陣をかまえます。あと、加賀の前田家を関ヶ原に参戦させなかったのは吉継の策略だったそうです。家康的には、前田家が西軍についたらやばかったでしょうが、そこも家康の政治力。そもそも前田家が豊臣を守る立場だったのが、利長は父・利家の言いつけを守れず豊臣から離れ、母・松が人質になったとはいえ家康側につくのですから。
三成と吉継の絆の深さを示す、知ってる人は知ってる茶会のエピソードがあります。吉継はらい病を患っていました。秀吉主催の茶会で豊臣の武将が一同に介したとき、感染(病ではないのですが)を恐れて、吉継の飲んだ茶碗を誰も手をつけませんでした。しかし、三成はただ一人何事も無く口をつけたと言います。この話に心をうたれました。三成は人望がないといわれていますが、この大谷、上杉、真田と義の心をもつ、本質をわかる人間は三成を支持した。そういう勇気ある人は後世ずっと英雄として伝承されるのは名誉でしょう。
そんなわけで大谷吉継のお墓に参りたかったのですが、案内標識がでてるのですが入口がわからなくてめちゃうろうろしたのですが、結局わかりませんでした・・・残念。
ほんとこの関ヶ原を見ると、現代社会にも通じる、いろいろな思惑を感じて興味深い。義、忠義という言葉も日本的なんでしょうか。今、前回大河の直江兼続や真田幸村、そして近年益々評価が上がる石田三成が人気があるのも、義という尊いものを持っているからなのだと思います。
最後に、毛利、島津は関ヶ原ではへたれのイメージが強いですが、これらが後の長州・薩摩となり徳川幕府を倒すというのも、すごい因縁を感じます。
3回目の関ヶ原またいつか行きます。今度は、松尾山と大谷吉継のお墓に参りたい。
さて、私、歴史好きの歴男なんです。以前は世界史が好きでしたが、最近日本史の書籍をよく読みます。特に戦国時代、戦国武将が好きです。そして日本史上、最大級の戦いがこの関ヶ原の戦いです。徳川家康と石田三成による天下分け目の戦い。双方16万近い兵士がこの関ヶ原に集います。関ヶ原の戦いは、実際の戦いで象徴的にとりあげられるわけですが、日本各地の大名は、家康につくか豊臣(三成)につくか態度を決めなければなりませんでした。まさにお家の存亡をかけた究極の選択肢を迫られるわけです。ここにまた様々な人間模様があるから興味深い。
関ヶ原に関する書籍は数多い。今でも毎年何冊かは出版されたり、特集が組まれる。もうそんな斬新で新しい解釈はないですが。この関ヶ原の戦いにいたるまでの展開、その後。それぞれの武将がたどった運命はドラマのようです。前にも一度関ヶ原を訪れましたが、じっくり見たくて再来訪しました。今回私は、車に折りたたみ自転車を積んで旅立ちました。車でも周れなくはないですが、実際に距離感とかを感じたかった。昔は馬が一番速い移動手段だったわけですから、スピード的にはチャリも近いと思って。今回、35度近い猛暑の中、チャリンコで、各武将の陣地を周って見ました。めちゃマニアでしょ。今の関ヶ原は、田んぼと学校ののどかな風景が広がる。関ヶ原の戦いのバックボーンが頭の中にないと何も変哲も無い風景です。しかし、知っている人にとってはこの光景にいろいろな思いがめぐる。
まちがいなく家康は圧倒的なカリスマ。当時、家康につくほうが安全ぱい。しかし、この時点で家康は豊臣の臣下。秀吉、前田利家にも豊臣を守るという約束をかわした。しかし、彼らの死後、手のひらを返し豊臣を追い込んでいく。そこに忠義はない。しかし、家康もこれまで相当な苦労をしているのも事実。
そりゃ誰でも自分がかわいいですよ。自分の家が大事。目先の利益や思惑だけで動いたものもいれば、正義や忠義という心で不利と分かっていても動いた武将もいる。そして最後までどちらにつくか決めかねた武将や、土壇場で裏切った武将も。最終的に、この関ヶ原の戦いは、義が勝った戦いではないと思います。
徳川家康が勝ち、徳川幕府300年の幕開けとなるわけです。そして戦国の世が終わり、日本史上稀にみる戦のない安定した世の中になるわけですが、この300年を超閉鎖的な失われた300年という歴史家もいる。豊臣政権が続いていたら、また違った日本になっていたという人もいます。この辺はわかりませんし、難しいとこです。しかし、どちらにしろ君主制です。民衆が主役の政治ではなかったと思います。
上記が関ヶ原の布陣図です。(ネットでみつけのはりました)
歴史家もいっていますが、素人のおれが見ても、この東軍を挟み撃ちにしている布陣だと西軍の勝利でしょう。それは、この布陣の通り、各武将が全力で戦っていたらという仮定です。西軍・石田三成は8.3万、東軍・家康は7.4万。(兵力も西軍の方が1万も多い)双方合わせて約16万の兵が、東西4km、南北2kmの関ヶ原に集結します。しかし実際に、動いた(戦ったのは)半分。残りの半分は、静観です。家康本陣の3万は実際、圧力はかけたけどほとんど戦ってない感じ。
出だしは、西軍が優勢。主力の宇喜多の1.7万、三成の6千が東軍を押した。三成の家臣の島左近は相手を震え上がらせた。(三成本陣へはすぐに行けます)
東軍の家康軍の3万は後ろに控え、福島正則5千、黒田長政5千、細川忠興5千の豊臣恩顧の武将が前線で戦った。前線の徳川系は、伊井直政、本多忠勝、松平忠吉くらい。
西軍の、小早川1.6万、家康の背後にいる毛利勢2.6万はまったく動かないのです。そんな状況で、西軍は午前中よく戦ったと思います。
午後になり、苛立つ家康軍3万が前線へ出てきます。(家康が前線に出た位置から三成本陣までチャリで行きましたが、1kmくらいはありました)
家康の圧力に呼応して小早川の1.6万が裏切ったため、西軍は疲れていない5万近い相手に、消耗している3万で戦わなければならない状態になるのです。ここで家康背後の、毛利勢2.6万が動いたら、また戦況はすごい事になり、こう着状態に陥ったでしょうが、動かなかったため、西軍は総崩れになります。
午後に入り流れを変えたのが有名な小早川の裏切りです。この小早川も、もとは秀吉の養子。秀吉に秀頼という実子が生まれていなければこの人が後継者だった。秀頼が生まれてから、逆にやっかいな存在になったという経緯があります。そして秀吉に冷遇、場合によっては殺されていたかもしれなかったのです。
この時小早川の兵は1.5万。この中でも最大級の兵力です。小早川が西軍として動いていたら圧倒的にが西軍有利になったでしょう。しかし、前述の点を家康につけこまれた。戦後、小早川は良心の呵責に耐えかねてか、精神的なバランスを崩して狂死したと言われています。戦国時代は裏切りなんて日常的、三国志なんて裏切りの物語。この小早川秀秋は、関ヶ原合戦というという天下を二分する象徴的な戦いで、キャスティングボードを握ったためこうして裏切り者の代名詞のようにずっといわれ続けるの気の毒のように思います。
そういった意味でも、小早川が布陣した松尾山に登ってみたかった。この山はちょっと普通にはいけません。前回は山の入口わかったのですが、今回はわからなかった。鳥獣のわながしかけてるとかの注意書きがやたらとあるし、超暑かったのでくじけました。頂上まで40分くらいかかるそうです。関ヶ原全景が見渡せるそうです。家康が、小早川に向かって銃撃させ、それにびびって動き出したという話がありますが、松尾山と中心の戦闘区域はけっこうな距離を感じます。
実質的に、裏切ったのは小早川ですが、個人的には毛利の中途半端な煮え切らない姿勢、このへたれぶりはなんだかな~って思います。毛利が腹をくくってれば、もっと展開はちがってたはず。実際、西軍の総大将は石田三成ではなく毛利輝元なわけです。この時、毛利家が一枚岩でなかったのも家康につかれた。
豊臣恩顧の大名も、家康について戦ったというのもよーわからん。そこには、福島を筆頭とする武闘派が三成への憎しみを募らせ対立した背景があるそうです。福島や加藤清正らはいつも前線で、朝鮮でも命をかけて戦った。しかし、後ろの安全なとこで裁量をふるった三成が評価され、秀吉にかわいがられた。そこら辺を、家康がついた。福島なんて、この人なりの忠義で家康についていたわけですから。そしてそのバックにいたのは、秀吉の妻・北の政所だと思います。この人の存在も大きいと思う。秀吉のいない、自分の子でない(or秀吉の子でもないかもしれない)ものが継ぐ豊臣政権など未練はなかったのかもしれません。結局、関ヶ原の戦いって嫉妬心が(北の政所の淀君への、武闘派の三成への)勝敗を決めたようにおれは感じてしまうのです。
結果的には、家康が勝ちますが、情勢はけっして楽なものではなかった。会津には、上杉120万石がいた。関ヶ原ではなく、徳川と上杉が東北でガチで衝突したら、この関ヶ原のようにあっさりとは終わらなかったはず。家康は250万石ですが、上杉の120万石と毛利の120万石が合わされば同等です。上杉には直江兼続という知将もいます。でもそれが衝突したらそれこそこそすごい事になっている。ある意味、武将たちも戦いによって得られるものより失うものの方が大きいということを戦国時代から感じていたのかもしれません。
2代目の徳川秀忠本隊の3.7万も真田家(大好き)の活躍で信州で足止めされ、関ヶ原の本戦に間に合わなかった。(あえて遅らせて温存した説もありますが)結局、家康は豊臣の恩顧の大名の力を借りなくては、三成と互角に戦えなかったのです。関ヶ原は、いわゆる天下分け目の東軍対西軍の戦いと言われていますが、ちょっとつっこんで知ってる人は、豊臣の内紛だと解釈されています。そして内紛のような展開にもっていったのが家康の手腕であり、政治力であると思います。単純に徳川対豊臣なら豊臣恩顧の代表格の福島なんか家康につくわけがない。忠義心だけで戦い、政治力が三成に足りなかった。
ですからこの時、豊臣の内紛なわけですから、毛利輝元が秀頼をつれて関が原に参戦していたら、まちがいなく情勢はかわっていたでしょう。
おれ、個人的には大谷吉継が好きな武将なんです。石田三成の盟友で、三成の挙兵に応じて立ち上がった武将です。一般的には、メジャーな人ではないかと思います。しかし、その智略は秀吉も一目置いたと言われています。その状況分析が出来る吉継だからこそ、勝てる見込みのないこの戦いに、一度は三成に挙兵を止めさせようとしますが、三成の忠義心と友情に応えます。しかし、吉継も西軍・三成のもとに8万近い兵力が集結したというのは想定外ではなかったのでしょうか。それは家康も誤算だったはず。吉継は、開戦時大いに勝てると思ったのではないでしょうか。
しかし、8万近い兵力が集まったとはいえ、ほんとの信頼できる兵力は半分。逆に計算にいれてた兵力が裏切るとなると話は全然変わってきます。吉継は小早川の裏切りを想定していたと言われており、小早川陣営のふもとに陣をかまえます。あと、加賀の前田家を関ヶ原に参戦させなかったのは吉継の策略だったそうです。家康的には、前田家が西軍についたらやばかったでしょうが、そこも家康の政治力。そもそも前田家が豊臣を守る立場だったのが、利長は父・利家の言いつけを守れず豊臣から離れ、母・松が人質になったとはいえ家康側につくのですから。
三成と吉継の絆の深さを示す、知ってる人は知ってる茶会のエピソードがあります。吉継はらい病を患っていました。秀吉主催の茶会で豊臣の武将が一同に介したとき、感染(病ではないのですが)を恐れて、吉継の飲んだ茶碗を誰も手をつけませんでした。しかし、三成はただ一人何事も無く口をつけたと言います。この話に心をうたれました。三成は人望がないといわれていますが、この大谷、上杉、真田と義の心をもつ、本質をわかる人間は三成を支持した。そういう勇気ある人は後世ずっと英雄として伝承されるのは名誉でしょう。
そんなわけで大谷吉継のお墓に参りたかったのですが、案内標識がでてるのですが入口がわからなくてめちゃうろうろしたのですが、結局わかりませんでした・・・残念。
ほんとこの関ヶ原を見ると、現代社会にも通じる、いろいろな思惑を感じて興味深い。義、忠義という言葉も日本的なんでしょうか。今、前回大河の直江兼続や真田幸村、そして近年益々評価が上がる石田三成が人気があるのも、義という尊いものを持っているからなのだと思います。
最後に、毛利、島津は関ヶ原ではへたれのイメージが強いですが、これらが後の長州・薩摩となり徳川幕府を倒すというのも、すごい因縁を感じます。
3回目の関ヶ原またいつか行きます。今度は、松尾山と大谷吉継のお墓に参りたい。