バンビの独り言

バンビことけーちんの、あくまでも「独り言」デス☆

2016.11.25★「MIBEL care(死生観)セミナー」講師・井上真由美さん

2016-12-02 00:17:38 | いなか暮らし・ちんちゃん亭

11/25、新潟から看護師でありホメオパス(2期生)でもある、井上真由美さんをお招きして、死生観セミナーとワークを開催しました。
実はわたし、子どもの頃から「死」への恐怖が人一倍。

けど、40代半ばになり、親しい友人の末期がん、高齢のじーじの老いなどと直面し、「怖い」とか言ってちゃダメだと思った。
ちゃんと向き合わないと! 

死生観セミナーとワークを終えて、もう6日は経ったのにまだ余韻のまっただ中にいる。
夫のけーすけとも、この学びは人生において一番大事なんじゃないかって話をしたよ。

「どう死にたいか」から始まる「どう生きたいか」。
「どう死にたいか」が明確だと、どう人と関わっていこうかシンプルに見えてくる。
夫婦の関係性、子どもたちとの関係性、友だちや仲間たちとの関係性を、どうしていきたいか。

これを受講して思ったことは、みんな受けるといいなと思った。
人は必ず死ぬ。
大事な人を失くす。
それは歳を取ってから、なんて保障は誰一人ない。
その時にどっしりと構えられるためには、今のうちに考えておくといいことが多いと思った。

 

今回参加できなかった方に、次回はぜひ参加して欲しい!
だから、また企画しちゃうね!

なかなかゆっくりまとめられないので、みんなのFacebook投稿をコピペさせてもらうね。

 

……「おとなのならいごと」相方である、たかちゃん……

小児科の終末期医療機関で、看護師として沢山の方の命の最期を見届けてきた現場でのお話から始まりました。

「誰もが生まれてきた瞬間から死と手を繋いで生きている」というお話。
吉村医院の吉村先生もその事を仰ってた。
生まれる、死ぬ、という事は神の領域、と。
そこを人が医療と言えども、どうこうしてはいけない、と。
吉村先生も終末期を過ごす場所についてお話をよくされていたな、と、ふと思い出しました。

自然に命が生まれてくること、自然に命を終えるということ、
それは同じこと。
それが難しい時代になっている今、私たちがバースプランを考えたり、自然分娩ができるお産を求める様に、
私たちの命の終い方を考えたり、そうできる環境を求めることは自然な事だね。・・・
大事なことは「意思表示をしておく」こと。
私がどうしたいか、ということは、話しておくだけでなく、
きちんと書面にしておくのがベストみたい。
もしも・・・自分の人生の最期が近いと知ったら?
回復する見込みもないと分かったら?
この先の医療、命の終わる日、そしてその後のこと。

自分自身のこととして想像してみて。
自分の命のことを選択する、という事を手放した場合、その先は、医師に任せるという事になる訳で。
医師は恐らく、医師が知る限りの精一杯の最善を尽くし、延命のための医療の提案をしてくれると思う。
これは義母の時に私も経験したことだけど、本人はもちろん、家族共々、医師から最善で最新の医療をチャレンジする様、励まされ説得させられます。化学療法を拒否していた義母も、毎日の様に担当医から丁寧な説明を受け、頑張りましょう!と励まされ、頑張る?ことを決意しました。
これはとっても難しい事だけど、病院というところでは、やはり色々な問題が起こらぬ様、延命処置をする事が最善の現場なのだから、そういう流れになって当然だね。

大事なのは自分がどうしたいか、という事をきちんと書面にしておくこと。
真由美さんも提案していた「事前指示書」を書いておくことが一番良いかな、と思う。
その中に、医療的措置は、何をお願いして、何を断るか、とかいざという時の為にも書いておこうと思う。
ホメオパス仲間にも、今回お願いしておいたので、
もし家族でゴタゴタともめたら、きっと説得してくれるはず(笑)。

そして涙、涙のセミナーの後は、これまた涙、涙のWS。
自分の「死」をゴールに、そこに向かっていることの確認、その為に今しておきたいこと、
これからしておきたいこと、そして大切なモノ・コト・ヒトたちへの今の私の想いなどなど。・・・
まぁ、こんな短時間で色々出てくる出てくる(笑)。
とにかく深い深い一日でした。
何気なく過ごしている日常も、存在するすべての命も、なんて美しく、尊いものなんだと・・・しみじみ感じた講座・WSでした。
WS後、この不思議な・・・自分自身の命と向き合う時間を共にした人たちが、とても愛おしく思えたの。
はじめまして!の方も、何だか同志の様な(笑)。
一緒に、深い世界を共にして下さった皆様、ありがとうございました♪
遠路はるばる新潟よりお越し下さった真由美さん、素敵な講座をありがとうございました!

…………大西ゆみこさん…………
 

今日は、ホメオパス 井上真由美さんの死生観のお話を聞いてきました。

井上さんは終末期医療機関(子供病棟で)でたくさんの死と向き合いその家族の思いにふれ、病院での死に違和感を覚え、そこから感じた自分の死生観を伝えてくれています。

感想、、、、深かったーーー。

人は例外なく、生まれた瞬間から死と一緒です。
死と手をつないで生きてる感じ。

そもそも病院で生まれるようになってから、人は病院で死ぬようになったそう。
昔はそのどちらもが自宅で、家族に囲まれ、日常のことだった。
だれもが家族の最期の1秒まで、最期のひと呼吸まで、体に触れて言葉は交わせなくても思いを伝え合い、当たり前に寄り添えていた。

 今は病院で多くの管につながれ、電子音の中、ピーーーー、っとバイタルがフラットになった瞬間が死。
そして生まれることも、死に逝くことも、どこかリアルさにかける現代の子供たち。

 自分は死なない、とか、3回まで生き返れるよ、と本気でおもってる子供が少なからずいるという現状。
(4年生〜中2のアンケートで、死なないって全体の10%くらいは思ってるみたい)

自己受容の講座でも思うけれど、今大人が、現状を当たり前におもって生きてちゃいけない気がする。怪しい部分は疑って、自分の心で判断しないといけない。
気づきだせばすぐ変われるから。 

私は割と死は怖くはないんだけど(正確には怖くなくなった)、ワークショップで大切なもの、人、事と、誘導瞑想のように、時間の経過とともに擬似的にお別れをしました。

涙が止まりませんでした。
最期家族の名前を書いた紙を捨てる(20個の大切な思いとお別れした)、つらかった。
最後には、人生最期の呼吸をする自分とイメージの中で対面し、この生に満足して死を迎える自分からたくさんのメッセージをもらいました。
またここでも、「今」ある幸せを感じ、自分を受け入れ、認め、愛する。

死にゆく私は、今を生きる私をたくさん励まし、すべて大丈夫だと抱きしめてくれました。

瞑想の中で旅立とうとしてる自分は、びっくりするほど全てを受け入れていて、満たされていて、怖さなんてみじんも感じなかった。こんな死だったら素敵だなと思えた。

尊厳死の話も聞き、帰ってうちのおばあちゃんとどんな死を迎えたいか話しました。
(おばあちゃん、「あぁ、私日記帳に書いてあるよ」って見せてくれた。書いてあるの知れてよかった〜急に倒れたらそんなの分からないもんね) 

私は介護、って感覚ではなく、家族として死に向かうおばあちゃん(誰が先に逝くかはわからないけど)をケアできたらうれしいなと思った。
介護も、なんか固定観念っていうか、どうもマイナスなイメージがラベリングされてる感じがするなぁ。
でもお医者さんに丸投げして死にフタをして責任から逃れるのはやだな。
せっかく今世で家族になったんだから、最期まで共にありたいなという気持ち。
そしてその死から家族はいろいろ受け取って、思いをつなげていく。

死は怖いものじゃない、人生の完成なんだと思いました。

死は隠してしまうから、怖いんだろうな。
死は特別なことじゃない。
死はまして敗北などでは決してない。

どう生きるかも、どう死ぬかも、すべて自分の選択。
各々が責任もって選択しておかないとね。

脳死も、臓器提供も、簡単に考えすぎてた。
免許証の裏に臓器提供意思表示があるけど、未記入だと「否定もしていない」と医療機関に受け取られるんだとか。そして突然残された家族に判断を委ねられるんだとか。

今日死生観の話し聞いて、どうしよう〜って思った。
臓器なんて脳死になったらあげればいいじゃんって簡単に思ってたけど、そんな単純じゃなかった。
臓器移植は一見良いことのように刷り込まれているけれど、でも提供を受けた人は一生免疫抑制剤を飲み続けるため、製薬会社の利権とも関わりがあるみたい。
自分の心で決めないといけない。

延命して、1秒でもながく生かすのが病院。
でもそれは本人の意思があれば違う死も選択できることを知って欲しい。
そして本人の意思を望んでいるのは、他でもない医療関係者なのだとか。
あきらかに苦しめている延命、あるんだろうね。

医療機関は入院している以上何か処置しなくてはならないから、死に瀕して、食べられなくなったら胃に穴をあけて栄養を流し込む。
水も飲めなくなるから点滴をする。
でも食べられなくてつらそうに思うのは、家族。
水が飲めなくてカラカラになっていくのを見ていられないのは周りの人間。
最期熱が出るのは、ぼんやりした意識で死の瞬間を迎えるためで、食べ物や飲み物を受けつけなくなるのも自然のこと、本人はつらくないそう。

そして多くは死期が近づくと、本当にお迎えが来るんだとか。
親は子にとって最高のタイミングで死ぬことで、最期の学びをもたらすのだとか。

私たちは体験をしたくて生きているのだけれど、死は人生を生ききり、最期に思いを手渡す最高の経験とも言える。
そしてそれは、その先を生きる家族への最大のギフトにもなりうる。

結局脳死は医者の判断する死、たくさんの臓器を提供するのに必要なため「新たに生まれた死」のカタチ。
脳死は心臓は動いているから、まだあたたかく、汗もかくし、涙を流したりもする。
それを死に逝く自分も「死」と捉えているか家族に意思表示しておかないと、答えはないから、本人はどう思ってたんだろうと出ない答えに家族を生涯悩ませる。
答えはそれぞれの心の中だけ。
それぞれの選択。

あぁ、想像できないほど、深すぎた講座だった。。。

尊厳死協会 http://www.songenshi-kyokai.com

 

………里美ちゃん………

名古屋二日目「井上真由美さんの死生観セミナー」午前の部

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誰にでも、いつか絶対に訪れる死、年齢も関係なく、いつ来るかもわからない。
そう分かっていても、ただただ怖くて、考えるのさえ嫌だった。
映画を見るときは、人が死ぬシーンがある物は選ばない、もしくはそのシーンは見ないようにする私は、極端に死恐怖症なのかもしれない。

そんな私が、死生観セミナーを受けようと思ったのは、
”死を思うことは生を思うこと”と言う友人の言葉を聞いたから。

セミナーでは、終末期看護の現場に関わり、たくさんの人の死を見届けてきた、真由美さん自身の死生観を軸に話してくださった。
病院で死ぬということ、家で死ぬということ、老いるということ、脳死、心臓死、臓器移植、尊厳死、子供たちの死生観...

死に場所が病院に移動し、生活の中で人に死に接することがなくなった。
その代償が、知らないからこその怖さ。
そして死のポルノ化。

死はただ怖いものではなく、ましてや、敗北なんかではない...
残された人への最後の学びの時間にさえなりうる。
怖がり、避けるのでなく、どう受け入れるのか...それが大切。
生きることと死ぬことは、どうしても切り離せないものだから。 

もし私の人生最後の時がきたら…
もし、回復する見込みがないと判断された時には、医療、ケアをどうしてほしいのか?
今までも幾度となく夫婦で話し意思確認はしてきたけれど、自分の意思を記しておくことは、家族の負担を大きく軽減する。
家に帰って早速、終末期の医療についての意思表明書をつくりはじめている。(これが書き出してみると夫婦で結構ちがうのです。)

そして、最後の時どう過ごしたいか想像する…
出来れば我が家で、出来れば最後の瞬間まで愛する人達とふれあって、声を聞きながらいけたら、人生のしまい方として最高だな。
そう考えると死への恐怖感はすこし薄れていた。

死生観、それはまさしく、生を思うこと、生きる精度を高めること、そして、どう生きたいのかをしっかりと自分で決めること。 

死生観セミナーに参加して感じたこと
それは命の尊さ。
命を生み育ててくれた両親、おじいちゃんおばあちゃん、一緒に生きることを決めてくれた主人、生まれてきてくれた子供たち、私に気持ちを寄せてくれる全てに感謝せずにはいられない温かい時間でした。

最後にこの言葉を両親へ
私は私が大好きです。この命をありがとう!

………

真由美さんと一緒にちんちゃん亭に泊まりに来てくれた素敵な方たち♡
 

 

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