’08/08/11の朝刊記事から
小さくとも怒りの声を〜風 論説委員室から 加藤利器
東京都内で作家辺見庸さん(63)の講演を聴いた。
4年前に脳出血で倒れ生死の境をさまよった。
後遺症がなお残る。
「ぶざまな姿をさらしても最後まで書きつづりたい」。
権力と向き合う姿勢は揺るぎない。
以前、道内で辺見さんに会った時、日本人の沈黙が気になるといっていた。
「人間は(怒らないという現状に)慣れていく。
どんどん慣れていく。
違和感もさっぱり感じなくなるんです。
小声でもいいから口に出してみる。
怒りの声を発していかなければ」
最近の日本の現状をみていて、その言葉がよみがえってきた。
原油価格の高騰が世界経済を揺さぶる中、各国のテレビニュースが連日、国民の怒りを伝えている。
欧州ではトラックやタクシーの運転手が製油所を襲撃したかと思えば、漁民が港湾を占拠して流通が大混乱に陥っている。
決して許される行為ではないが、その迫力あふれる表情に圧倒される。
原油高がいかに深刻なのか。
むしろ海外メディアを通じて思い知らされる。
日本では何も起きないのかと思っていたら、漁業者や酪農家が東京の都心部で抗議行動に出た。
普段は寡黙な漁民や農民が、控えめながらもこぶしを振り上げている。
これはよほどのことだ。
生産者だけではない。
われわれ消費者の暮らしも異常事態といっていい。
食料品や生活用品の値上げに次ぐ値上げ。
こんなことが近年あっただろうか。
それでも国民の怒りは極めて抑制的だ。
かつて暮らしたフランスでは、国民の抗議行動が日常の光景の中にあった。
世の中がおかしい。
そう思うと迷わず街頭に出る。
警察官まで待遇改善を求めてデモを行っていた。
抗議行動は、市民の共感を呼び、連帯の輪が広がる。
デモの参加者がどんどん膨れ上がっていくのには驚かされた。
日本でこうした現象に遭遇したことがない。
社会を根底から変革する市民革命はもちろん、本格的な政権交代も経験していない。(注 '09/09/16民主党政権発足 ブログ管理者追記)
これが沈黙の背景にあると指摘する人がいる。
あながち誤りではないかもしれない。
辺見さんは、最近の言論を取り巻く環境も視野に入れながら、「沈黙を保つ若い世代の存在が最も気になる」と話していた。
日常の中で自然な形で発散されるべき怒りのエネルギーが、思わぬ方向に向かっていることへの強い危惧があるからだ。
国内で相次ぐ、残虐な無差別殺傷事件を目の当たりにして、同じ思いを抱かざるを得ない。
格差に悩み、苦しみ、社会に憤る若者たち。
その怒りは本来、過酷な現状をもたらしている政治や企業に向けられてしかるべきだ。
ところが、激しい怒りは同じ側にいる市民に向けられ、命まで奪っていく。
「若者たちは、自分の境遇を他者と連帯して変えようとするすべを知らない。
そこにあるのは若者の無力感であり、脱力感であり、極めて孤独な姿だ」
精神科医の香山リカさんがこう分析していた。
こんな現状を放置していいはずがない。
より良い社会に変えていかなければ。
そのためには、小さくてもいい。
一人一人が怒りの声を発することだ。
正当な怒りを失った社会は衰退する。
辺見さんはこうも言っていた。
その通りだと思う。
いつまでも「沈黙は金」ではいられない。