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米英の支配システムを揺るがす中露の戦略的同盟

2019.06.07
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 現在の世界情勢を象徴するふたつの出来事が6月上旬にあった。

 

 まず第1にドナルド・トランプ米大統領のイギリス訪問。エリザベス2世英女王の招待で6月3日から3日間滞在した。その中にはDデイ(ノルマンディー上陸の開始日)の記念日が含まれている。その正式名称はオーバーロード作戦。1944年6月6日に始まったのだ

 

 1941年6月、ドイツ軍の主力310万人は西部戦線へ90万人を残し、ソ連へ向かって進撃を開始する。バルバロッサ作戦だ。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーがそれを退けたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 

 東へ向かったドイツ軍の主力は1942年8月からスターリングラード(現在のボルゴグラード)に対する攻撃を開始するのだが、ソ連軍の反撃で手こずる。11月になるとソ連軍が猛反撃してドイツ軍は崩壊、生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは降伏した。主力が壊滅したドイツ軍の敗北はこの時点で決定的だ。

 

 その時点までアメリカやイギリスはドイツ軍によるソ連への侵攻作戦を傍観している。手薄になったドイツの西側を攻めることはなかった。両国が慌ててワシントンDCで会談するのはドイツ軍の敗北を見てから。1943年5月のことだ。

 

 そして同年7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸、9月にはイタリア本土を占領する。この段階でイタリアは無条件降伏したが、この作戦の際にアメリカはイタリアの犯罪組織マフィアと手を組んでいる。コミュニスト対策だった。ノルマンディー上陸はその翌年だ。つまりDデイはドイツ軍の主力が壊滅した後に実行された。

 

 スターリングラードでドイツ軍が降伏するとOSSの幹部だったアレン・ダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領に無断でドイツ側の要人と接触を開始、1945年に入るとナチスの幹部を含むドイツの要人を救出するサンライズ作戦をダレスたちは始めた。

 

 1945年4月の反ファシストだったルーズベルト大統領が急死、5月にドイツは降伏する。その後、ローマ教皇庁の協力を得てラテン・アメリカへナチス幹部などを逃がすラット・ラインも作られた。その後、現在に至るまでアメリカ支配層とナチズムの信奉者は同盟関係にある。ノルマンディー上陸作戦でドイツ軍は負けたという話はハリウッドが作り上げた幻影にすぎない。

 

 ここで時間を現代に戻す。

 イギリスでトランプはテレサ・メイ首相とも会談、EUからの離脱を賞賛している。アメリカとの結びつきを強めようということなのだろう。この離脱をエリザベス2世も賛成していたと言われている。

 

 トランプがイギリスを訪問した直後、もう一つの出来事があった。6月5日に中国の習近平国家主席がロシアを訪問、ウラジミル・プーチン大統領らと会談しているのだ。その中で両国が戦略的な同盟関係にあることを確認、さらに貿易の支払いや決済を両国の通貨で行うことで合意したという。ドルとの決別を意味している。基軸通貨であるドルを発行する特権で世界を支配してきたアメリカに対する挑戦とも言える。

 

 すでにロシアは保有していたアメリカの財務省証券の大半を売却しているが、今後、中国がどう出るかは注意しておく必要があるだろう。現在、新たな買い増しはしていない。

 

 6月6日から7日にかけてはサンクトペテルブルクで国際経済フォーラムが開催されているが、そこで中国は存在感を示している。アメリカによる中国に対する「制裁」でロシアは巨大な市場へ悠々と入れる環境が作られた。

 

 この後、中国とロシアを中心とするSCOの首脳会談がキルギス共和国で6月14日から15日にかけて開かれ、6月28日から29日にかけては大阪でG20首脳会議が開かれる。

最終更新日  2019.06.07 13:13:33 
 
2019.06.06
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 オーストラリアの放送局ABCの本社が警察の家宅捜索を受けた。同国の特殊部隊がアフガニスタンで違法な殺人を犯したことを国防省に秘密文書に基づいて報道したことが違法だとされたのである。





 

 いわゆる「国家安全保障上の秘密」の大半は支配層にとって都合の悪い情報にすぎず、国家安全保障とは無縁だという。実際、これまでに内部告発で明らかにされた情報はそうだった。

 

 内部告発を支援してきたウィキリークスを創設したひとりであるジュリアン・アッサンジは4月11日にロンドンのエクアドル大使館の中で逮捕された。

 

 アッサンジは2010年8月、スウェーデン滞在中にベッドの上でのトラブルに巻き込まれ、事情聴取を受けている。そのトラブルをスウェーデン警察がタブロイド紙にリーク、そのタブロイド紙が「レイプ事件」としてセンセーショナルに伝えた。

 

 ところが、その翌日には主任検事が令状を取り消す。事件性はないと判断したのだ。そこでアッサンジはスウェーデンを出てイギリスへ向かうにだが、その後、スウェーデンの検事局長が捜査の再開を決めた。アメリカ政府の意向を汲んだ政治的な判断だったと言われている。

 

 スウェーデンの検察当局はイギリスに対し、事情聴取をするためにアッサンジをスウェーデンへ引き渡すように求めた。それに対してアッサンジは12月にイギリス警察へ出頭、10日間留置された後に保釈された。

 

 保釈中に彼はロンドンのエクアドル大使館へ駆け込み、亡命が認められたが、この行為を保釈の条件に違反したとしてイギリス警察は今回、アッサンジを逮捕したのである。ちなみに、事件の発端になった事件は2017年5月に取り下げられ、逮捕後に捜査は再開された。

 

 しかし、保釈の前提になる引き渡し要請は無効だと考える人が少なくない。ヨーロッパの場合、裁判所の発行した令状でなければ無効とされているのだが、アッサンジのケースでは検察官が出したものであり、無効だと考えるのが普通。それをイギリスの裁判所は有効だと認めたのだ。

 

 アッサンジがエクアドル大使館へ逃げ込んだ理由はアメリカ支配層が彼を逮捕し、厳罰に処す意向だということを感じたからだと見られている。実際、アメリカの司法当局は2010年4月から11年初めにかけての時期に裏で起訴していた。バラク・オバマが大統領だった時期だ。

 

 ウィキリークスはさまざまな秘密文書を公表しているが、起訴に近い時期にも重要な情報を明らかにしていた。2010年4月にアメリカ軍がイラクで行っている殺戮の実態を明らかにする資料を公開したのだ。その中にはアメリカ軍のAH-64アパッチ・ヘリコプターがロイターの取材チームを含む非武装の人びとを銃撃、十数名を殺害する場面を撮影した映像が含まれていた。

 

 アッサンジは「1917年のスパイ活動法」に違反したという口実で起訴されている。すべてが有罪になると最大で懲役175年だ。

 

 安倍晋三政権は2013年12月に秘密保護法を公布、支配層が秘密にしておきたい情報を漏らすことを犯罪にした。アメリカの支配層が情報の統制を強化したことを受けてのことだろう。

 

 すでに日本を含む西側の有力メディアは事実を伝えず、支配層が庶民に信じさせたい情報を流すようになっている。報道の自由を放棄している。今後、支配層が統制できていない情報の発信者に対する取り締まりを強化するのだろう。



最終更新日  2019.06.06 03:29:59 
2019.06.05
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 NATO軍が空爆でユーゴスラビアを破壊したのは1999年3月から6月にかけてのこと。「人道」が攻撃の口実に使われたのだが、それが事実に反することは当時から指摘されていた。

 

 攻撃の目的はユーゴスラビアを解体し、コソボを奪うことだが、その背景には大アルバニア構想があったと言われている。コソボは歴史的にセルビア人の居住地域だと言えるが、そうした経緯を無視しての構想だ。その矛先はロシアに向いている。

 アルバニアはアメリカやイギリスなど西側の支配層にとって戦略上、重要な位置にある。第2次世界大戦後、アメリカが最初に秘密工作を実行したターゲットはアルバニアだった。


 1945年4月にフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死してホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還した後、アメリカやイギリスはソ連に対する秘密戦争を始めている。その一例がウィンストン・チャーチル英首相が作成させたアンシンカブル作戦。

 

 この作戦はイギリスの参謀本部が拒否、チャーチルは下野する。そのチャーチルは1947年にアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んだが、実行されなかった。

 

 イギリスでは1948年11月、「ロシア委員会」の「冷戦小委員会」はソ連の衛星国を武力で「解放」することを決定する。ある空軍中将は5年以内にソ連の体制を転覆させたいと考えていた。最初のターゲットがアルバニアだ。(Michael Holzman, “James Jesus Angleton,” University of Massachusetts Press, 2008)

 

 その作戦を実行するために小委員会の委員長はワシントンDCを訪問、アメリカ国務省の高官や破壊工作機関OPCを指揮していたフランク・ウィズナーと会って説得、アメリカ側はイギリスの提案を受け入れた。この秘密工作ではリビアにあったアメリカの空軍基地から物資を供給、軍事訓練はマルタで行われたという。

 

 しかし、この作戦は失敗、1949年になるとアメリカの統合参謀本部はソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容を含む研究報告を作成した。1952年には初の水爆実験を成功させ、54年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を立てている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 

 1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(前掲書)このドロップショット作戦は実行するつもりだったと見られている。この計画と沖縄の軍事基地化を無関係だと考えることはできない。

 

 軍事基地化が進められていた時期に琉球民政長官を務めていたライマン・レムニッツァーをドワイト・アイゼンハワー大統領は統合参謀本部議長に任命、空軍参謀長のカーティス・ルメイなど好戦派とソ連に対する先制核攻撃を準備していく。その準備が整い、ソ連側が反撃の準備ができていない時期ということで彼らが決めた実行日は1963年後半。こうした攻撃に反対していたジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。

 

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、西側の有力メディアは1991年12月にソ連が消滅して以来、旧ソ連圏へ軍事侵攻するように煽っていた。

 

 しかし、ビル・クリントン政権(1993年1月~2001年1月)は当初、その要求を拒否。そうした姿勢が変化したのは1997年1月に国務長官がクリストファー・ウォーレンからマデリーン・オルブライトへ交代してから。

 

 オルブライトはチェコスロバキア生まれ。コロンビア大学でポーランド生まれのズビグネフ・ブレジンスキーから教えを受けている。この人事を大統領に働きかけていたのはヒラリー・クリントンだったと言われている。

 

 ユーゴスラビア解体にオサマ・ビン・ラディンが関係、ジハード傭兵が作戦に参加しているが、コソボ略奪のために手を組んだKLA(UCK、コソボ解放軍)は麻薬業者。クロアチアのネオ・ナチも入り込んでいた。その指導者のひとりがハシム・サチで、後に首相や大統領に就任する。

 

 この人物はアルバニアの犯罪組織とつながっていると言われている。麻薬取引に手を出しているだけでなく、臓器の密売に関与していたと言われている。

 

 臓器密売については旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で検察官を務めたカーラ・デル・ポンテが自著の中で書いた(Chuck Sudetic, Carla Del Ponte, “La caccia: Io e i criminali di guerra,” Feltrinelli, 2008)ほか、欧州評議会のPACE(議員会議)のメンバーだったディック・マーティによる報告書にも書かれている。

 

 ほかのケースでもアメリカの支配層は犯罪組織、麻薬業者、ネオ・ナチ、サラフ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)、ムスリム同胞団などと手を組んできた。コソボでも同じ手法を使ったということであり、その手法が西側では支持されている。これが安倍晋三政権が共有する共通の価値観なのだろう。



最終更新日  2019.06.05 00:27:09 
2019.06.04
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 シリア西部、トルコと接したイドリブを奪還する作戦をシリア軍とロシア軍は5月30日頃から本格化させたと伝えられている。住民殺害や化学兵器の使用といった偽情報を西側の有力メディアは伝えていたが、止められなかったようだ。

 

 イドリブを支配している集団の中心的な存在はアル・カイダ系のタハリール・アル・シャーム(アル・ヌスラ)。アメリカ大統領特使としてダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)問題に取り組んでいたブレット・マクガークは2017年7月、イドリブは9/11の後、アル・カイダの最も大きな避難場所になっていると語っている。

 

 こうした集団に参加している戦闘員の中心はサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団で、チェチェン、ウクライナ、ウイグルなどからも来ている。

 

 こうした傭兵集団がシリアで戦闘を本格化させたのは2011年3月のこと。当時からアメリカの情報機関CIAが支援の中心にいたと見られているが、イギリスの特殊部隊SASやフランスの情報機関DGSEのメンバーが指揮に参加していると報告されている。

 

 侵略の最重要拠点はトルコにあるアメリカ空軍のインシルリク基地。そこで各国の情報機関員や特殊部隊員が傭兵を訓練してシリアへ送り込まれていた。そのルートは侵略軍の平坦線でもあった。2011年から2016年の前半までトルコは侵略勢力の一員で、配下の戦闘員がシリアへ入っている。

 

 そうしたトルコ系の戦闘員がまだイドリブには残っている。少なからぬ戦闘員がアメリカなどの手によってイドリブから非難したようだが、トルコ系は残ったようだ。国境を越えればトルコなので、慌てて逃げ出す必要はないのだろう。

 

 トルコは2016年からロシアへ接近、アメリカの圧力を跳ね返す形でロシアから防空システムS-400を購入する契約を結んでいる。

 

 シリア侵攻作戦が始まった当初、リビアと同じように政権転覆に時間はかからないとされていたのだが、そういう展開にはならなかった。しかも2015年9月にはロシア軍がシリア政府の要請で介入、傭兵集団の支配地域は急速に縮小。その一方で交易相手だったシリアやロシアとの関係を断絶した結果、トルコ経済が苦境に陥ってしまう。ロシア接近はその結果だ。

 

 そこでアメリカはレジェップ・タイイップ・エルドアン政権をクーデターで倒そうとするが、失敗に終わった。2016年7月のことだ。ロシアから事前にクーデター情報が伝えられていたと言われている。

 

 エルドアン政権はクーデターの黒幕をフェトフッラー・ギュレンの一派だとしているが、それだけでなく背後にはアメリカ中央軍のジョセフ・ボーテル司令官やジョン・キャンベルISAF司令官がいたと主張している。

 

 ボーテルは特殊部隊の出身。2016年12月、大統領選で勝利したドナルド・トランプに対し、アル・カイダ系武装集団やダーイッシュ、いわばジハード傭兵を支援し続けるように求めていた。

 

 そのジハード傭兵が支配するイドリブもシリア政府軍が制圧しようとしている。すでにジハード傭兵がアメリカ製の対戦車ミサイルTOW、ロケット・ランチャー、NATOが使用しているプラスチック爆弾C-4、装甲車などを保有していることが判明している。いずれもトルコから運び込まれているが、その輸送はアメリカ政府の承認済みだ。イドリブでの戦闘を利用し、アメリカはトルコを再び配下に置こうとしているのかもしれない。




最終更新日  2019.06.04 13:44:30
 
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