漁村と農村の関係が、交換のシステムの発達を物語っている、かつては、農村のコメと漁村のサカナを交換した、そこに、さまざまのドラマとトラブルが発生した。
コメとサカナを交換するが、ゼッタイに婚姻はしない、そんなコトがあった、今でも、インドネシアのある島では、この交換スタイルが継続している、かつてのニッポンの農村では、寺にコメを奉納していた、正月には、袋に入ったコメかモチを持ってきた、だから、須弥壇の前には、コメやモチが山積になった、あれは、どうしたんだろう、米屋で現金と交換したのだろうか。
江戸時代は農本主義で、大名の規模は何万石何十万石で表された、その国の経済は、このコメを換金することが必要で、そのため、商人の影響力が大きくならざるを得なかった。
1730年に大坂の堂島にコメ会所が設置され、ここで、コメの値段が決定した、その価格は、旗(はた)信号で、日本全国に伝達された、光通信ではなく旗通信、なかなかシャレている。
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