蓮の花だより・・・不定期便

季節のうつり変わりと花の香りを求めて、筑後地方を中心に紹介して行きたいと思います。

2015-06-14 09:31:42 | 日記














5月に咲いていた我が家の花々と、家の近くで咲いていた花々を撮ったものです。四季咲きバラやクレマチス・ペチュニア・アブチロンは我が家の花々です。そして家の前の路上には可愛い小さなタンポポが一輪咲いていましたし、ドクダミの花は元気が良かったです。マツバギクは多年草で団地の駐車場付近に咲いていました。
どの花も夏に向かって咲く花々ですが、既に咲き終わったお花もあります。しかしバラの棘は痛くて防犯の役目もしてくれるので重宝しています。
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明治日本の産業革命遺産・・・・・宮原坑(みやのはらこう)

2015-06-11 09:38:38 | 日記






















5月の末に宮原坑跡へ4年ぶりに行って来ました。三池炭鉱宮原坑は1898年~1931年まで年間40~50万トンを出炭した三池炭鉱の坑口の一つです。
昭和初期の恐慌、不況下において三池炭鉱でも、新たな四山坑、宮浦大斜坑の開鑿と同時に、それまでの主力坑であった大浦坑、七浦坑とともに宮原坑も1931年閉坑しました。

宮原坑では近くの三池集治監(今の刑務所)に収監されていた囚人を採炭労働に従事させていましたが、その厳しい労働から別名「修羅(シラ)坑」とも呼ばれていました。囚人労働は既に1873年から明治政府主導の下、官営三池炭鉱時代から行われていましたが、本格的に三池炭鉱の労働力不足を補うために、1883年に三池集治監が開庁しました。その後1931年には女性、子供の坑内労働とともに禁止されました

現在は、1901年に完成した第二竪坑が残り、鋼製の櫓や煉瓦造りの巻上機室、デビーポンプ室の壁などから、当時の様子を偲ぶことができます。
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小袋焼(しょうたいやき)

2015-06-08 10:19:26 | 日記




















小袋焼とは熊本県の北部、小袋山麓で約400年前から焼き継がれている陶器の系譜を言います。2003年に、晴れて国の「伝統工芸品」に指定され、現在は荒尾市を中心に12の窯元が小袋焼を受け継いでいます。その起源は文禄の役後、加藤清正に伴われてきた朝鮮の陶工達が、小袋山麓に窯を拓いた事に遡ります。

小袋焼の特徴は鉄分の多い小袋粘土を使った素朴で力強い作風にあります。粗めの陶土に、藁や笹の灰からとった白釉や黄色釉を流しかけて焼成します。釉薬の微妙な配合の違いで青小袋、黄小袋、白小袋の3系統に分かれるのが、最も際立つ点です。
藁灰と土の中の鉄分が融合する事で青く発色します。白小袋は藁灰を多めに、黄小袋は木灰を多くします。この調合によって釉薬の深い色合いと躍動感あふれる自由奔放な流しかけの文様が素朴ながら、品格のある器を作り出します。

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祈り

2015-06-05 10:03:32 | 日記




















5/17に長崎へ数十年ぶりに行きました。長崎は見るものが多いので二十六聖人殉教の地・浦上天主堂・眼鏡橋と一応絞って行き、現地で大浦天主堂・崇福寺・西坂教会を追加しました。
長崎は古くから外国への玄関口として発展してきた港湾都市です。江戸時代は国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパから多くの文化が入ってきました。外国からの文化流入の影響や坂の多い街並みなどから日本国内の他都市とは違った景観を保持しています。

浦上天主堂は1945年8/9に長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在ったのでほぼ原形を留めぬまでに破壊しました。投下当時、8/15の聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていましたが、原爆による熱線や崩れてきた瓦礫の下敷きになり、主任司祭や助任司祭を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡しました。
1959年に浦上天主堂は再建され、1962年以降カトリック長崎大司教区の司教座聖堂となっており所属信徒数は約7,000人で日本最大規模のカトリック教会です。

西坂教会は26聖人の一人、メキシコ人聖フィリッポ・デヘススに捧げた記念堂です。教会の壁、塔に埋め込まれている焼き物は、京都から長崎までの道沿いで作られた焼物等で、26聖人が歩いた道のりを表すそうです。
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旧三井港倶楽部

2015-06-02 12:58:18 | 日記
















前回の続きです。三井三池炭鉱三川坑の見学を終えた後、お隣に建っている旧三井港倶楽部へ行ってみました。

旧三井港倶楽部は歴史的建造物&庭園です。2005年12月に大牟田市指定文化財の指定を受けていますし、2007年に経済産業省の近代化産業遺産に認定されています。

広大な庭園を持つ優雅な西洋建築の旧三井港倶楽部は、三池港に入港する外国船などの高級船員たちの宿泊所・招待所として1908年の三池港と同時に開館しました。炭鉱全盛期には三井財閥の社交場となり、皇族や政財界人、外国人技術者などの迎賓館としても使われました。

近年はレストランや結婚式場として使われていましたが、所有している三井鉱山が産業再生機構の支援を受ける中で営業を停止することになり2004年12月に閉館されました。三井鉱山は大牟田市に買い取りを打診しますが財政難によりそれを拒否されます。しかしすぐに保存を求める声があがり、地元経済界有志により保存会が設立し、市民やNPO法人「大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ」と共に、保存へ向けた署名運動がスタートします。その結果、約1ヶ月余りでおよそ28,000人もの署名が集まりました。すでに地元経済界により(株)三井倶楽部保存会が設立され三井鉱山と売買交渉を進めた結果、譲渡が決定します。閉館から約1年後、多くの人々の願いにより新会社のもと旧三井港倶楽部は再びオープンすることができました。

現在も結婚式場やレストランとして営業されています。レストランは本格的なコース以外にも手軽なランチや喫茶メニューがありますし、見学もできます。
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