5月の末に宮原坑跡へ4年ぶりに行って来ました。三池炭鉱宮原坑は1898年~1931年まで年間40~50万トンを出炭した三池炭鉱の坑口の一つです。
昭和初期の恐慌、不況下において三池炭鉱でも、新たな四山坑、宮浦大斜坑の開鑿と同時に、それまでの主力坑であった大浦坑、七浦坑とともに宮原坑も1931年閉坑しました。
宮原坑では近くの三池集治監(今の刑務所)に収監されていた囚人を採炭労働に従事させていましたが、その厳しい労働から別名「修羅(シラ)坑」とも呼ばれていました。囚人労働は既に1873年から明治政府主導の下、官営三池炭鉱時代から行われていましたが、本格的に三池炭鉱の労働力不足を補うために、1883年に三池集治監が開庁しました。その後1931年には女性、子供の坑内労働とともに禁止されました
現在は、1901年に完成した第二竪坑が残り、鋼製の櫓や煉瓦造りの巻上機室、デビーポンプ室の壁などから、当時の様子を偲ぶことができます。
今、改めて光が当たり始めましたね。
「三池集治監」(現・三池工高)から
この宮原坑まで実際に歩いて見たことがあります。
ただでさえきつい距離なのに囚人たちは鎖を付けられて歩いたと言われています。
こうした負の遺産も語り継ぐ必要がありますよね。
囚人は脱走とか、無かったのでしょうかね(^_^;)
あまりにも過酷だったでしょうに・・・
最後の家の写真は?まだ新しいように感じますが(^^ゞ
どうなるのか登録になればと願ってますよ
赤レンガの建物が良いですね。
歴史を感じます
コメントありがとうございます。
三池炭鉱は明治時代に官営事業から三井組の方に
炭坑経営は移りましたが、採炭作業は昭和初期までは
主に三池集治館監に収容用されていた囚人たちです。
今現存している炭鉱の施設は宮原坑と万田坑がほぼ昔の
ままの状態で残っています。
コメントありがとうございます。
多分、炭鉱関連は世界遺産として登録されるのは
間違いないと思います。
昨年の秋に「三池集治監」の壁を見に行きましたが
壁がものすごく高かったです。
鎖に繋がれた囚人たちが宮原坑まで歩いた距離は
何キロもあったことでしょう!
坑内の作業は環境が悪くて病気になり、亡くなった
人も多いと聞いています。
私達は、過酷な坑内作業に従事した彼らの事を語り
続ける使命がありますね。
コメントありがとうございます。
坑内で使ってあった炭函(坑内で採炭した石炭を運ぶ物)は
野ざらしにしてあったので赤錆が付いていますし、坑内から
出る水を排出している配管にも同じ事が言えますね。
囚人たちは、過酷な作業に耐えかねて脱走を試みた人も
いたでしょうが、高い塀に囲まれていたので難しかったのでは
ないかと思います。
最後のコンクリートの家は職員住宅だそうです。
コメントありがとうございます。
政治の世界と文化財とは趣旨が違うので多分
世界遺産には登録されると思います。
赤煉瓦の建物は明治の頃に建てられたもので
歴史を感じますね。
コメントありがとうございます。
歴史あるものを保存すにはたくさんの資金が
必要だと思います。
建物の中に入って見ると、床は腐って危険な
状態です。