夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

概念とは何か②

2005年10月16日 | 概念論

私たちは特定の音楽家を指して、「彼は音楽家そのものである」とか「彼は真の音楽家である」と言ったりする。ここで言う「そのもの」とか「真の」という言葉で表現されている事柄が「概念」である。そのとき、このように判断する者の頭の中には、「真の音楽家」についての観念が存在する。そして、現実の芥川也寸志や武満徹といった音楽家と、頭の中に存在する彼の「真の音楽家の観念」を比較することによって、「彼は真の音楽家である」とか「彼は偽の画家である」とか判断している。

現実に存在する事物と、頭の中に持っている「概念」とを比較することによって、また、事物がその概念にどれだけ近いかによって、「真理である」とか「優れている」とか「偽物である」とかいった判断を彼は下している。

「概念」とは、このように「何々という事物についての真の観念」のことである。だから、たとえば病気の人間や犯罪を犯す現実の人間は、「人間」という「概念」に一致しないから、そのような人間は真理とは呼べない。このように事物の実在がその概念に一致していることが真理であるとヘーゲルは言う。

これに対して、一般に解されている「概念」とは、多くの事物の中に共通する要素を抽象して得られた観念を言うに過ぎない。たとえば、Aという人間、Bという人間、Cという人間、Dという人間、さらにE ,F ,Gなど現実に存在する一定の共通の性質を備えた個々の具体的な人間から、経験や観察を通して、「言葉を話す」とか「道具を作る」とか「火を使う」などの共通の特徴を抽象して「人間」という「観念」を作り出す。そして、その観念は特定の「人間」という言語と結合させられる。そして、無限の言語活動を通じて、「人間」という言葉から、「人間」という観念を条件反射的に結びつけるようになり、言語という社会的に共通の信号を形成することによって、知識や情報の伝達を可能にしたのである。

だから、一般に理解されている「概念」とヘーゲルの用語法としての「概念」とは、少し異なっている。一般に理解されている「概念」は、正確には「観念」もしくは「表象」と呼ばれるべきものである。

そして、人間は事物が真理であるかどうかは、現実に存在する事物と、頭の中に観念として存在する(実際に概念は観念でもある)「概念」と比較されることによって判断される。したがって、哲学が真理を研究するとき、まず概念とは何かが明かにされなければならない。

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