夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

尾高のヘーゲル批判への評注

2018年01月09日 | 書評

 

尾高のヘーゲル批判への評注

尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』をツイッターでノートをとりながら読んでいますが、ここまで読んできて、彼のヘーゲル批判にかなりの違和感というか問題を感じたので、まだ途中ですが、尾高のヘーゲル批判に対するコメントを書いておくことにしたものです。

尾高はヘーゲルの歴史観、歴史哲学を次のように批判しています。

「かように、戦争をも理念化しようとするヘエゲルの現実絶対肯定の歴史哲学は、世界精神を神となし、あるがままの世界史を神の摂理の顕現としてこれに惑溺する態度である。」
そして、そこから更に、
「そうなると、国際政治の現実は、事前における正邪・曲直の批判を全く無意味なこととして、これを無視し、ひたすらに実力の蓄積と利剣の研磨とに邁進すればよいということになるであろう。そうして、敵の虚を衝いて戦争を挑み、いかなる謀略、いかなる無道を行っても、結果において勝利を占めさえすれば、そのすべてが理念の自己実現として是認されるということになるであろう。かくては、人類の世界は飽くなき実力抗争の修羅場と化する外はないであろう。だから、ヘエゲルの絶対化された理念主義は、実は絶対化された現実主義と一致するのである。
(s.265)」

しかし、ヘーゲルは本当に「国際政治の現実は、事前における正邪・曲直の批判を全く無意味なこととして、これを無視し、ひたすらに実力の蓄積と利剣の研磨とに邁進すればよい」と言っていることになるのだろうか。しかしながら、ヘーゲルの為に多少の弁解をして置くならば、
ヘーゲルは『法の哲学』の§345において次のように述べている。

「正義と美徳、不公正、暴力と悪徳、才能とその行為、小さな、そしてまた偉大な情熱、罪と無実、個人と民族の生の栄光、独立、国家や個人の幸運と不幸は、意識された現実の領域において、その明確な意味と価値を持ち、そして、その領域の中で、その評決が下され、また、なお不完全ながらも正当性を見出す。

(しかし)世界史はこれらの観点を超えたものである。

その段階が現在にあって、世界史の中に保持されている世界精神の理念のその必然的な要素は、絶対的な権利を手に入れ、そこに生きる民族と彼らの行為は、達成感と幸福と栄光とを手に入れるのである」

つまり、ヘーゲルは「正邪・曲直の批判を全く無意味なもの」ではなく「意識された現実の領域において、その明確な意味と価値を持ち」としているのである。ただ、世界史はそうした観点や次元を超えているというのである。

ここで、尾高がヘーゲルの歴史観を評して「ヘエゲルの絶対化された理念主義は、実は絶対化された現実主義と一致するのである。」と批判しているのは、ヘーゲルが『法の哲学』の序文のなかで述べている「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である。」という命題に対して、尾高が先に投げかけた批判と本質的に同じである。

私が先のツイッターで尾高のこの批判を「尾高の独り相撲」と言ったのは、ヘーゲルが何をもって「現実」と呼んでいるか、を尾高は正しく理解しないで批判しているからである。ヘーゲルは「現実」については次のように説明している。

「・・・形式の点から言って、一般に存在は一部は現象であるから、現実であるのは一部に過ぎない、ということも知っているだけの教養が必要である。日常の生活ではあらゆる気まぐれ、誤謬、悪と言ったようなもの、および、どんなにみすぼらしい一時的な存在でも、手当たり次第に「現実」と呼ばれている。しかし、われわれは普通の感じから言ってもすでに、偶然的な存在は真の意味における現実という名には値しないことを感じている・・・・・
私が現実という言葉を使っているとすれば、人々がそれについてとやかく言う前に、私がどんな意味にそれを用いているかを考えてみるべきであろう。なぜなら、私は論理学を詳細に述べた本のうちで現実(Wirklichkeit)という概念をも取り扱っており、それをやはり現存在(Exisistenz)を持ってるところの偶然的なものから区別しているだけでなく、さらに定有(Dasein)、現存在およびその他の諸規定からはっきり区別しているからである・・・」『小論理学§6』(岩波文庫版)

ヘーゲルも人間であるし、彼の思想のすべてが正しいとは思わないし、批判される点はどこにも無いなどと、別に彼を崇拝し信仰しなければならない理由もないけれども、ただヘーゲルのような哲学者、思想家に対しては、批判しているつもりになっている批判者が独り相撲をとっているに過ぎない場合が多いということは、心しておく必要のあることだと思う。

ヘーゲル哲学を批判する者は無数にいる。しかし、注意すべきは、彼らの批判が正当なものであるか、彼らのヘーゲル理解やその批判を「盲目的に鵜呑み」していることになっていないか、注意深くある必要はあると思う。

かと言ってヘーゲルそのものを彼らの解説書に頼らずに理解するのも難しいとなれば、あまたの註解は、だから「群盲象を撫でる」の類いで、すべからく「彼らの理解する所のヘーゲル」と言うことになる。もちろん私の場合も例外ではないのは言うまでもない。

 

 法の哲学§ 345

Gerechtigkeit und Tugend, Unrecht, Gewalt und Laster, Talente und ihre Taten, die kleinen und die großen Leidenschaften, Schuld und Unschuld, Herrlichkeit des individuellen und des Volkslebens, Selbständigkeit, Glück und Unglück der Staaten und der Einzelnen haben in der Sphäre der bewußten Wirklichkeit ihre bestimmte Bedeutung und Wert und finden darin ihr Urteil und ihre, jedoch  unvollkommene Gerechtigkeit. Die Weltgeschichte fällt außer diesen Gesichtspunkten; in ihr erhält dasjenige notwendige Moment der Idee des Weltgeistes, welches gegenwärtig seine Stufe ist, sein absolutes Recht, und das darin lebende Volk und dessen Taten erhalten ihre Vollführung und Glück und Ruhm.

 


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