>> <<引き続き、尾高からのノート。
— review (@myenzyklo) 2018年1月8日 - 21:33
かように、戦争をも理念化しようとするヘエゲルの現実絶対肯定の歴史哲学は、世界精神を神となし、あるがままの世界史を神の摂理の顕現としてこれに惑溺する態度である。しかしながら、世界精神が特定の国家に宿ってこれを世界最大の強国たらしめ、
世界理性が強大国家に勝利を与えてこれを世界史の運載者たらしめるといっても、その筋書が個人精神の窺い知り得ぬ彼岸に秘められている以上、人間の知識がなし得ることは、歴史の歩みを後から跡づけて、その起き伏しを一々理念のなす業として随喜して行く以外にはない。だからこそ、ヘエゲルは、
— review (@myenzyklo) 2018年1月8日 - 21:34
哲学をば世界史の黄昏になってはじめて飛び出すところの「ミネルバの梟」であるとなしたのである。そうなると、国際政治の現実は、事前における正邪・曲直の批判を全く無意味なこととして、これを無視し、ひたすらに実力の蓄積と利剣の研磨とに邁進すればよいということになるであろう。
— review (@myenzyklo) 2018年1月8日 - 21:34
そうして、敵の虚を衝いて戦争を挑み、いかなる謀略、いかなる無道を行っても、結果において勝利を占めさえすれば、そのすべてが理念の自己実現として是認されるということになるであろう。かくては、人類の世界は飽くなき実力抗争の修羅場と化する外はないであろう。
— review (@myenzyklo) 2018年1月8日 - 21:37
だから、ヘエゲルの絶対化された理念主義は、実は絶対化された現実主義と一致するのである。
— review (@myenzyklo) 2018年1月8日 - 21:38
(s.265)
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