ものとなった。今ようやく奥平康弘氏の著書そのものを読みはじめたけれども、改めて痛感させられることは、奥平康弘氏 の憲法学の学識に比べれば私のそれなどは到底及びもつかないものであることである。それにしても、奥平康弘氏の「天皇制」に対する嫌悪感というものが、一 体何に起因するものなのか、
という疑問が生じる。そもそも「天皇制」という用語自体が、マルクス主義の用語であるし、少なくとも皇室に敬意を抱く ものは不必要にそうした呼称は使用しないものである。少なくとも「天皇制」という用語には、自然法思想を認めない実定法主義のにおいがする。ヘーゲル主義 の立場からは必要とあれば
「君主制」という用語を使用するだろう。それはとにかく、確かに憲法学に関する学識には奥平康弘氏の足許にも及ばない 私が、「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつく」として裴 富吉という朝鮮人学者らしい人によってまとめられた奥平氏の 『「萬世一系」の研究』の結論
に対して「その悟性的で、破壊的、革命的な氏の結論」として批判したのも、ヘーゲル哲学を支持する者としての立場から だった。ヘーゲルはその著書『法の哲学』の中で「立憲君主国家制」の意義とその必然性を論証している。その論理を正しいと認める立場からすれば、奥平康弘 氏の著書に示された
「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」という結論は、ヘーゲルの終生 批判した悟性的思考そのものでしかないものである。その悟性的思考の論理の帰結は、フランス革命や中国の文化革命といった暴力的で破壊的な結末をもたらす ものとして歴史的事実として
も明らかである。ヘーゲル哲学の特質はその科学としての性格にある。彼が「国家と自然法思想」の論理を明らかにした著 書『法の哲学』もそうで、ヘーゲルは国家の形態としては『立憲君主制』を至高のものとして絶対的なものとして論証している。このヘーゲル哲学を支持する立 場からは、奥平氏のように
国家の論理として「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」という結論は 出て来ない。憲法学者としてのこうした奥平氏の思想に対して、「こんな悟性的な思考しか出来ない三文学者が、日本の「最高学府東京大学」の法学部で学生た ちに憲法を長年教えてきた。
これでは日本国がアメリカや中国のような悟性国家になるのも無理ない」と批判した根拠もそこにある。ヘーゲル哲学は 「科学」でもある。『法の哲学』によって論証された結論としての国家の論理としての「立憲君主国家体制」に対して、奥平氏が「共和制国家」を主張するので あれば、少なくともヘーゲルの
『法の哲学』を批判してからでなければならないだろう。マルクスなどはそれがわかっていたから、それが正しかったか間 違っていたかはとにかく『ヘーゲル法哲学批判』を行ってから彼自身の「共産主義国家観」を明らかにしようとしたのである。それに対して、奥平康弘氏の著書 『「萬世一系」の研究』を
読み始めても、奥平氏にはヘーゲル哲学を研究した足跡はほとんど見あたらない。ヘーゲルは彼自身の哲学を少なくとも 「科学」として主張している。論証された必然的なものとして国家体制としての「立憲君主国家体制」をヘーゲルは結論としている。だからもし、奥平氏が憲法 学者として「共和制国家」を
主張するのであるならば、ヘーゲルが彼の著書『法の哲学』のなかで明らかにした「国家と自然法思想」の論理の破綻を証 明すると共に、「天皇制は民主主義とは両立しえない」「民主主義は共和制とむすびつくほかない」ところの奥平氏自身の「共和制国家観」を論証する必要があ るだろう。
奥平康弘氏の『「萬世一系」の研究』は今ようやく読み始めたばかりで何とも言えないけれども、多少読みかじっただけで の印象ではあるけれども、奥平氏の「国家観」や「共和制論」には、悟性的思考の特徴しか感じられないように思う。そこには抽象的で無味乾燥の、観念的で具 体性を見いだせない。第一に
頻出する「天皇制」という用語がそれである。そもそも奥平氏には「自然法思想」はなく、ケルゼンの人工的な「実定法思 想」しか頭の中に無いようでもある。いかにもアメリカ人のような「人権」の所有者としての抽象化された「人間」と「自由と民主主義」の「合衆 国=united nations」しか
存在しないようで、伝統とか民族とか皇室とかいった、歴史と風土の印影を帯びた人間も国家も見あたらない。一体どのよ うな時代を背景に奥平康弘氏のような思想が育まれたのだろうかと思う。私の拙い書評に対して懇切な返信を送ってくださった都立大学で教授をされていた橡川 一朗氏のことを思い出した。
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