夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

§279f[国民主権について]

2018年06月20日 | 法の哲学

§279f[国民主権について]

Volkssouveränität kann in dem Sinn gesagt werden, daß ein Volk überhaupt nach  außen ein Selbständiges sei und einen eigenen Staat ausmache wie das Volk von Großbritannien, aber das Volk von England oder Schottland, Irland, oder von Venedig, Genua, Ceylon usf. kein souveränes Volk mehr sei, seitdem sie aufgehört haben, eigene Fürsten oder oberste Regierungen für sich zu haben.

国民主権とは、大英帝国の国民のように、一般に外部に対して独立した存在であって、一つの固有の国家を構成する国民という意味において言われうるが、しかし、イングランドやスコットランド、アイルランド、あるいはヴェネツィア、ジェノバ、セイロンなどの民族は、彼らが自分たちの君公や最高政府を独立して持つことを廃してからは、もはや主権をもった民族ではないといえる。

- Man kann so auch von der Souveränität  nach  innen  sagen, daß sie im Volke residiere, wenn man nur überhaupt vom Ganzen spricht, ganz so wie vorhin (§ 277, 278) gezeigt ist, daß dem Staate Souveränität  zukomme. Aber Volkssouveränität, als im Gegensatze  gegen  die  im  Monarchen  existierende  Souveränität  genommen, ist der gewöhnliche Sinn, in welchem man in neueren Zeiten von Volkssouveränität zu sprechen angefangen hat, - in diesem Gegensatze gehört die Volkssouveränität zu den verworrenen Gedanken, denen die wüste Vorstellung des Volkes  zugrunde liegt.

⎯⎯  また対内主権についても、もしただ一般的にのみ全体について語るなら、主権が国家に帰することを、先述した中で(§277、278)示したのと全く同じように、国民のなかに主権が存するということができる。しかし、国民主権は、君主のうちに存在する主権に対立するものとして受け取られているのが、一般的な意味であり、近代において国民主権について語り始められたのはそうした意味においてである。⎯⎯(しかし) こうした(君主の主権と)対立したものという意味では、国民主権は、"国民"という漠然とした観念の根底に存在している混乱した思想に帰着してしまう。

 

ヘーゲルが原典でイタリックにして強調している用語については、いちいちイタリックにしたり「”   ”」で強調することはできません。

「国民主権」はいうまでもなく現行日本国憲法の原理の一つとされているけれど、ここでもヘーゲルが指摘しているように、君主の主権と対立したものという意味で用いられている「国民主権」というこの抽象的概念がもっている問題点については深く批判的に検証してゆく必要があると思います。

 

※ご参考までに

国民とは誰のことか

 

 

 

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