§24(原典では§24は§23に含まれ、節としては独立していない。)
Nach dem Recht ist der Mensch dem Menschen Gegenstand als ein absolut freies Wesen; nach der Moral hingegen als ein einzelnes nach seinem besonderen Dasein als Familienglied, als Freund, als ein solcher Charakter u. s. f. Wenn die äußeren Umstände, in denen der Mensch mit Anderen steht, so beschaffen sind, dass er seine Bestimmung erfüllt, so ist das sein Glück. Eines Teils steht dieses Wohl in der Macht seines Willens, andern Teils hängt es von äußeren Umständen und anderen Menschen ab.
二十四〔道徳の対象とその限界〕
法律からみれば、人間は絶対的に自由な存在として、人間の対象となる。これに対して、道徳からみれば、人間は家族の一員としてとか、友人として等々のそうした性格をもったものとして、その特殊なあり方にしたがって人間の対象となる。人間が他者と関係するなかで、もしその外部の状況が、その人間の適性にかなったものであるなら、それは彼の幸運である。この幸福は、一面においては彼の意志の力のうちにあり、他面においては、外部の状況や他の人々に依存している。
Die Moral hat den Menschen auch nach seinem besonderen Dasein oder nach seinem Wohl zum Gegenstande und fordert nicht nur, dass der Mensch in seiner abstrakten Freiheit gelassen, sondern auch dass sein Wohl befördert werde. — Das Wohlsein als die Angemessenheit des Äußeren zu unserm Inneren nennen wir auch Vergnügen. Glückseligkeit ist nicht nur ein einzelnes Vergnügen, sondern ein fortdauernder Zustand, zum Teil des wirklichen Vergnügens selbst, zum Teil auch der Umstände und Mittel, wodurch man immer die Möglichkeit hat, sich, wenn man will, Vergnügen zu schaffen. Das Letztere ist also das Vergnügen der Vorstellung.道徳はなお人間を、彼の特殊なそのあり方(Dasein)について、あるいは彼の福利(Wohl)について対象としており、人間が抽象的な自由のうちに置かれることを要求するだけでなく、むしろまた、彼の福利の促進されることをも要求する。⎯ 私たちの内なるものが私たちの外なるものと適応しているような福祉(Das Wohlsein)をまた私たちは満足( Vergnügen)とも呼ぶ。幸福であること(Glückseligkeit) は、ただたんに個々人の満足だけをいうのではなく、一方においては、現実の満足そのものが継続している状態であり、他方においては、もし人々が満足を実現したいときには、つねに人々自らがその機会をもてるような環境と手段の継続しているような状態である。後者はだから想像上の満足である。
In der Glückseligkeit aber wie im Vergnügen liegt der Begriff des Glückes, dass es zufällig ist, ob die äußeren Umstände den inneren Bestimmungen der Triebe angemessen sind. Die Seligkeit hingegen besteht darin, dass kein Glück in ihr ist, d. h., dass in ihr die Angemessenheit des äußeren Daseins zum inneren Verlangen nicht zufällig ist. Seligkeit kann nur von Gott gesagt werden, in welchem Wollen und Vollbringen seiner absoluten Macht dasselbe ist. Für den Menschen aber ist die Übereinstimmung des Äußeren zu seinem Inneren beschränkt und zufällig. Er ist darin abhängig.(※1)
しかし、幸福であることのうちには、満足の中においてのように幸運の概念が含まれている。すなわち幸運の概念とは、衝動という内にある規定に外部の環境が合致しているかどうかは偶然であるということである。これに対して、至福は、そのうちには何ら幸運が存在しない。すなわち、至福においては、外部のそこの存在が内にある欲求に合致していることは偶然ではない。至福はただ神についてのみ語ることができる。神においては、その意欲することと成就することは神の絶対的な威力そのものである。しかし、人間にとっては、彼の内なるものと外なるものが一致することは限られており、偶然的である。人間はその偶然に依存している。
(※1)
法律は、意志における絶対的に自由な存在として人間をその対象にするが、人間の内心の信念や確信などの心情は問題にならない。それに対して、道徳は、家族の一員としてのあり方や友人としてのあり方などにおいて、その満足や福利など心情と幸福を問題とする。
人間のうちにある欲求と外部の人間関係や衣食住などの物質的な条件によって充足感と満足のもたらされるものであるならば、彼は幸福である。しかし、その充足、満足はあくまでも偶然的なものであるから、それは幸運(Glück)によってもたらされるものである。それが人間の道徳と幸福の限界である。
それに対して、至福(Die Seligkeit)とは自らの意欲するものが絶対的に、必然的に成就されることであるから、神についてのみ語ることができる。
法律は、意志における絶対的に自由な存在として人間をその対象にするが、人間の内心の信念や確信などの心情は問題にならない。それに対して、道徳は、家族の一員としてのあり方や友人としてのあり方などにおいて、その満足や福利など心情と幸福を問題とする。
人間のうちにある欲求と外部の人間関係や衣食住などの物質的な条件によって充足感と満足のもたらされるものであるならば、彼は幸福である。しかし、その充足、満足はあくまでも偶然的なものであるから、それは幸運(Glück)によってもたらされるものである。それが人間の道徳と幸福の限界である。
それに対して、至福(Die Seligkeit)とは自らの意欲するものが絶対的に、必然的に成就されることであるから、神についてのみ語ることができる。
ここで道徳の限界を超えて宗教の領域に入る。