§63[事物の価値] 使用される事物は、質的にも量的にも規定せられた一個の個体であり、そして特殊な欲求にかかわるものである。しかし、それらの特殊な有用性は同時に、同じ有用性のある他のものと量的に比較の可能なものであり、それによって充足される特殊な欲求は、欲求一般であり、
— review (@myenzyklo) 2019年1月13日 - 22:53
そして欲求一般という点において、その特殊性にしたがって同じく他の欲求と比較が可能であり、そして、そこからまた事物はそのようなものとして、他の欲求に対して使用される事物とも比較できる。この事物の普遍性は事物の特殊性から生じてくる単純な規定性であって、したがって、その特殊な質から
— review (@myenzyklo) 2019年1月13日 - 22:58
抽象されるのであり、この事物の普遍性とは、事物の価値のことであり、その事物の価値の中に、その真の実体性が規定されており、そして意識の対象となる。事物の完全な所有者として私はその使用についてと同じく、その価値についても完全な所有者である。 中世の家の子郎党らは、その所有においては
— review (@myenzyklo) 2019年1月13日 - 22:59
彼らは単に、使用権の所有者にすぎないのであって、事物の価値の所有者ではないという違いがある。
— review (@myenzyklo) 2019年1月13日 - 23:04
※ ここでヘーゲルはマルクスに先駆けて、事物における「価値」と「使用」の区別にについて論及している。事物の価値は、さまざま使用における特殊な欲求から抽象された、欲求一般としての普遍性のことであり、そこに事物の真の実体性が規定されることによって意識の対象になる。
— review (@myenzyklo) 2019年1月13日 - 23:04
※20190114追記
ここでは「die Sache」を「事物」と訳したが、「事柄」とも、単に「もの(物)」とも訳すこともできる。人間の所有の対象はかならずしも「物」のみに限らないから、とりあえずここでは「事物」と訳しておいた。「die Sache」と 「die Dinge」の違いがここではよくわからない。
この「die Sache」はのちにマルクスが「商品(die Ware)」として、資本論のなかで詳細に分析し、そのなかに含まれる要素として、使用価値と交換価値 Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgrose) を見出し、さらに、その価値の実体として人間の労働力を対象としたことで知られる。
しかし、価値の実体とは、ここでヘーゲルが明らかにしているように、欲求一般という普遍性であり、「特殊な欲求」を抽象化することによって、その真の実体として「価値」を人間の意識の対象としたものである。したがって事物の真の実体、価値の実体は「人間の欲求」であって、かならずしも「人間の労働力」ではない。