hishikaiさんの記事に対するコメント――民族の独自性について―
hishikaiさんの論考にコメントしようとしましたが、長くなってしまいましたので新たに投稿記事にしました。
菱海孫さんが次のように言われる時、たしかに文化の自立性と独立性について自意識とこだわりを持っている者には、他国、他民族の文化の摂取にはつねに葛藤が伴います。
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文化と云うものには否応もなく引かれた国境があり、それ自体は国境に区切られた一個の血の通った有機体であること、そういうことが常識である人々にとって、文化の輸入は常に苦しみを伴う。
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引用終わり
その点で私の論考にコメントを寄せていただいた「らくだ」氏などは、hishikaiさんが論考のなかで指摘されておられるように、文化の受容についても、幸福なことにそんな葛藤とは無縁の人であるようです。
自由の意識と民主主義の程度について、欧米人の尺度からすれば12歳のBOYにすぎない日本人にマッカーサーによって下賜されたこの現行「日本国憲法」を今なおありがたく押し頂いています。日本国憲法下で生きることについての文化的な違和感も民族的個性の変質についても、また下僕的な屈辱感なども問題意識としてもいささかも頭の片隅にすら掠ることがないようです。
歴史的に伝統的に日本人や朝鮮人は圧倒的な漢文化の影響の下にみずからの民族文化を形成せざるを得ませんでした。そのためにみずからの自尊心が、あえて自国文化における中国文化の影響を無視させたとも言えます。
日本文化や朝鮮文化の中に入り込んだ漢字をはじめとする中国文化、モンゴル民族や漢民族の影響の圧倒的な現実を直視することができないがゆえに無視しようとしたのだと思います。そして、そのような伝統的な文化的習性が太平洋戦争の敗戦によってマッカーサーに与えられた「日本国憲法」に対する国民的な受容にも現れていると思います。
しかし、結局においては、最良のもの最高のものを選択して自分のものとしようとすれば、その前に膝を屈して、狭量な個人的な誇りや民族的な自尊心を捨て去るしかないのです。涙をのんで、世界の歴史から、みずから最良、最高と信じるものを摂取してそれを消化して、個人や民族の血と肉に化してゆくしかないと思います。
とくにユーラシア大陸の辺境に位置する日本民族には、純然たるみずからのオリジナルな文化はほとんどなく、カタカナ、ひらがなに見るように、みずからの民族文化の独自性というものがすべて、異民族文化の受容と変容によって形成されたものであること、それを宿命として自覚し引き受けるしかないと思います。日本の民族文化のオリジナル、独自性というもがあるとすれば、この自覚のうえにはじめて生まれてくるものだと思います。