君が僕を嫌いになった理由は…
真実味がなかったっていうことなのか?
そんなに冷たく君の愛を
置き去りにしたなんて僕には思えない
女が男を嫌いになる理由なんて
いくらでも
なんだってある。
この歌の時代背景からみると
まだストレートな愛情表現の
受け渡しでお互いの気持ちを
交差していた真っ直ぐな時代
今の時代みたいに複雑で
屈折している難しさはない
真実味がなかった…
今でいうと
チャラい、軽い
真心が見えないといったところか…
本音を隠して
建前て生きるのは
愛情をもって生活していたり
付き合っていたりしてれば
本音を隠して建前で相対すれば
そこには溝が生まれる
当然別れを意識する。
どちらかが
「もう、終わりだなぁ〜」
「もう、これ以上ないなぁ〜」
と心がつぶやいた瞬間に終わりの扉は見えてくる
出会いがあれば
別れもある
出会いは
突然だったり
ゆっくりだったり
別れも突然だったり
ゆっくりだったり
初めがあれば
終わりもある
どこからが始まりで
どこからかが終わりなのか
それもまた
全てが終わった時に
振り返る瞬間に理解ること
必要とされなくなった
入りこむ隙間もなくなった
どんなに尽くしても
それに対しての評価や感動、感謝も
表してくれないことや
自分の気持ちが優先されて
相手への思いやりがなくなった瞬間
サヨナラの文字は浮き上がる
♪〜二人でどこへ行っても
一人と一人じゃないか〜
と歌われるように
向き合ってない心には
かろうじてどちらか一方が
そこに最後の爪痕を残して
いこうとするけれど
特に女が
あちらの方を向いてしまえば
もうコチラには振り返らない生き物。
もうどうにもならない状況になれば
なるほど
修復も再出発もない
あるのはサヨナラだけ
僕の唄はサヨナラだけ
当時吉田拓郎さん28歳
それまでの人生は濃縮された
早送りの人生
幸せも、成功も、不幸も失敗も
慌ただしく詰め込められ
押し出されるように次の時代を迎える
扉の前に押し出されていた1974から75年
そこから先の扉を開いて
進み始めた歌の世界は
まさしく
自由で希望に満ちた
開かれたものへと
変貌していく準備はできあがっていた
よしだたくろう
から
吉田拓郎へ
吉田拓郎の唄は
サヨナラだけを内包したものに
変わっていってた
強烈にして
身を切るような
メッセージソングとして
「今はまだ人生を語らず」の
アルバムにおいて
「知識」とともに
エッジの立った
メッセージを突き刺しにきた
2作品。
血を吐くように
歌う
「僕の唄はサヨナラだけ」
終わりの見えた男と女
その男の未練がましさと
それを振り切る男らしさと
別れの時の女の冷たさと
サヨナラへ向かう
気持ちの重くなる作品でもあった
魂込めて歌うには
充分すぎる作品でもあり
R&Bティストのアレンジで
吉田拓郎さんがやりたかった音楽性で
オブラートして作り上げた
名曲
でもある
当時の瀬尾一三さんのアレンジが
やはり絶品なのだ。