笠間界隈の栗の木たちも、いよいよ満開になりました。
写真は我が家のご近所の栗畑です。
白い雄花の房が、一面に満ち満ちて、この季節の里山の彩りとして、はなかなか壮麗なものです。
愛犬家の皆さんにも、とっておきの散歩コースになっています。
クリ畑の親父さんが農道の草まで刈ってくれているので、ありがたい。
この、凛とした一筋の道も、里の宝です。
栗の花たちに見送られて、昨日は早朝に出発、東京・小石川植物園のご近所で仕事をしてきました。
こちらのお客様とは、都内で長らく世話になった親方の時代からのご縁です。
お庭には、昔からの太い椎の木があります。
長らくお庭にも椎の木にもご無沙汰しておりましたが、9年前から、またお世話になっています。
その理由は、親方の後をよろしく、とのご依頼でした。
前年の晩秋に、親方が亡くなったのです。
親方は、とても面倒見のいい人でした。
急な病で亡くなったので、皆が悲しみました。
私もとてもお世話になりましたから、驚きと悲しみを痛感していました。
どこか、親方の死を素直に受け入れられない気持ちを抱きながら・・・
時間もだいぶ経った、ちょうど今頃の季節、本当に久しぶりにお庭を再訪しました。
そして、なつかしい太い椎の木に触れた時のことです。
突然に、涙がとめどなく溢れてきました。
私はこの時、はじめて親方の死を受け入れることができたのかもしれません。
椎の木が、真実を伝えてくれたのでしょうか。
この幹のどこかに、記憶のアルバムがあるのかもしれない。
木に接していると、木の素晴らしさというものを本当に感じます。
精神的なものまでも伝えてくれる、気高い、尊い仲間です。
それは、木の生き方によるものでしょう。
毎日毎日少しづつ少しづつ、お天道様に感謝し、地道に根を伸ばし、葉を広げる。
空気のよみがえりと水のめぐりを支え、生き物に安らぎをもたらす。
木の活動は、着々と現場にて、自然とともに地道に生きています。
考えるだけでなく、地道に動いている。
小さいことも大切にしながら。
その実際の積み重ねこそが、いつか、精神に大きな感慨をもたらす源泉になるのではないだろうか。
耕して天に至るとも言います。
これは、洋の東西を問わず、地上の真実でしょう。
ジャンジオノさんという方の本に「木を植えた男」というのがあります。
友人が働く出版社では、絵本も出しています。
主人公は、地道に、失敗にもくじけず、木を植え続け、ついには緑の森が地上に育っていく物語。
その男は来る日も来る日も、たんたんと木を植え、生きた。
その生き方こそ、木の心そのものではなかったか。
木のような心で生きるということが、実は一番幸せなことかもしれない。
ひとつひとつの木は、平凡かもしれないけれども、この世に無くてはならないもの。
故郷の風景も、清々しい散歩道も、地道に栗の畑を草刈る親父さんたちあってこそ。
親方を偲びつつ、椎の木にしばしの別れを告げ、無事に一日の仕事を納めました。
写真は我が家のご近所の栗畑です。
白い雄花の房が、一面に満ち満ちて、この季節の里山の彩りとして、はなかなか壮麗なものです。
愛犬家の皆さんにも、とっておきの散歩コースになっています。
クリ畑の親父さんが農道の草まで刈ってくれているので、ありがたい。
この、凛とした一筋の道も、里の宝です。
栗の花たちに見送られて、昨日は早朝に出発、東京・小石川植物園のご近所で仕事をしてきました。
こちらのお客様とは、都内で長らく世話になった親方の時代からのご縁です。
お庭には、昔からの太い椎の木があります。
長らくお庭にも椎の木にもご無沙汰しておりましたが、9年前から、またお世話になっています。
その理由は、親方の後をよろしく、とのご依頼でした。
前年の晩秋に、親方が亡くなったのです。
親方は、とても面倒見のいい人でした。
急な病で亡くなったので、皆が悲しみました。
私もとてもお世話になりましたから、驚きと悲しみを痛感していました。
どこか、親方の死を素直に受け入れられない気持ちを抱きながら・・・
時間もだいぶ経った、ちょうど今頃の季節、本当に久しぶりにお庭を再訪しました。
そして、なつかしい太い椎の木に触れた時のことです。
突然に、涙がとめどなく溢れてきました。
私はこの時、はじめて親方の死を受け入れることができたのかもしれません。
椎の木が、真実を伝えてくれたのでしょうか。
この幹のどこかに、記憶のアルバムがあるのかもしれない。
木に接していると、木の素晴らしさというものを本当に感じます。
精神的なものまでも伝えてくれる、気高い、尊い仲間です。
それは、木の生き方によるものでしょう。
毎日毎日少しづつ少しづつ、お天道様に感謝し、地道に根を伸ばし、葉を広げる。
空気のよみがえりと水のめぐりを支え、生き物に安らぎをもたらす。
木の活動は、着々と現場にて、自然とともに地道に生きています。
考えるだけでなく、地道に動いている。
小さいことも大切にしながら。
その実際の積み重ねこそが、いつか、精神に大きな感慨をもたらす源泉になるのではないだろうか。
耕して天に至るとも言います。
これは、洋の東西を問わず、地上の真実でしょう。
ジャンジオノさんという方の本に「木を植えた男」というのがあります。
友人が働く出版社では、絵本も出しています。
主人公は、地道に、失敗にもくじけず、木を植え続け、ついには緑の森が地上に育っていく物語。
その男は来る日も来る日も、たんたんと木を植え、生きた。
その生き方こそ、木の心そのものではなかったか。
木のような心で生きるということが、実は一番幸せなことかもしれない。
ひとつひとつの木は、平凡かもしれないけれども、この世に無くてはならないもの。
故郷の風景も、清々しい散歩道も、地道に栗の畑を草刈る親父さんたちあってこそ。
親方を偲びつつ、椎の木にしばしの別れを告げ、無事に一日の仕事を納めました。
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