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社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

是永純弘「仮説の検証と『最尤法』の原理について-M.G.ケンダールの『最尤法』論-」『経済学研究』第11号,1957年

2016-10-04 11:12:00 | 2.統計学の対象・方法・課題
是永純弘「仮説の検証と『最尤法』の原理について-M.G.ケンダールの『最尤法』論-」『経済学研究』第11号,1957年

 確率の頻度説にもとづいて「最尤法(method of maximum likelihood)」の理論を展開したM.G.ケンダール(M.G.Kendall)の所説を検討した論稿。「最尤法」は英米数理統計学の代表者であるR.A.フィッシャーが,数理統計学の推定論における母数推定の手続きとして推奨した方法である。ケンダールは論文「最尤法について」(1940年)で,この方法の数学的性格ではなく,その論理的性格を明らかにすることを試み,とりわけ科学一般の仮説の検証でこの論理が果たす役割の解明を課題とした。筆者は本稿で,そのケンダールの言う最尤法が科学の仮説検証にとってどのような意義をもつと考えられていたのかを考察し,数理統計学における統計的研究の論理的意義を,とくに数理統計学における統計的推理が自然及び社会の科学的研究で重要な役割をもつ科学的な仮説の構成と実践的検証にとっていかなる意義をもつかを明らかにすることを目的に掲げている。

 最尤法に関するケンダールの見解は,筆者の要約によると,次のとおりである。
(1)最尤法は多数回の推定行為をその項とする仮説的母集団における母数の分布型に関する一つの仮定である。
(2)最尤法は,個々の推定行為の規則として,個々の統計的仮説の検証の基準とはなりうるが,最尤法自身を有限回の試行によって実験的に証明することはできない。
(3)最尤法に関する上記の主張は,確率の頻度説にもとづく。

ケンダールは最尤法(method of maximum likelihood)を,「一推定値のとりうるいくつかの可能な値のうち,観測された事実に最大の確率を与えるものをとる」方法と定義している。この最尤法に対して,ケンダールは「この方法の原理が行為の過程を示す」という意味を与えている。そして,この原理の検討によって「行為の規則(rule of conduct)」が採用されるかどうかが明らかになるとしている。ここで言われる「行為」とは,標本から母集団の母数を推定すること,より正確には,多数回の試行結果として母数の真値を得ることである。すなわち,最尤法は多数回の推定行為の規則である。ケンダールにあっては,上記のように,最尤法は多数の推定行為をその項とする仮説的母集団の分布型の想定という意味で理解されている。この理解が確率の頻度説的解釈に立脚していることは,言うまでもない。

 しかし筆者によれば,ケンダールが何故,最尤法を確率の頻度説的解釈によらなければならないのかに関しては,立ち入った考察をしていない。ケンダールは,この点を省略し,最尤法適用の問題と最尤法自身の妥当性の問題を,数学的証明によるのではなく,その適用結果の実験的証明,すなわち最尤法の原理を統計的仮説の検証に具体化する問題として検討する。最尤法を統計的仮説の検証に関連させて再定義すると,この方法は,「ある事象が,相互に排反する一組の仮説のひとつひとつによって説明される場合,・・・被観察事象に最大の確率を与えるような仮説(そういう仮説が存在するならば)を採る」ということである。しかし,この最尤法そのものが一つの統計的仮説であるとしたらどうなるのか。これを最尤法で証明することはできない。なぜならば,もしそうしたならば,それは循環論法に陥るからである。そこでケンダールは,最尤法そのものの妥当性を,被推定母集団の分布が最尤法の想定するように先験的に分布しているという仮定をもちだして,説明する。

 筆者は以上のケンダールによる最尤法の原理に対して,いくつかの疑問を呈している。すなわち,ケンダールのいわゆる「推定行為をその項とする母集団」はどのような現実に対応しているのか,と。同一の母数についての推定が反復されるためには,この母数そのものに同一性,不変性がみとめられなければならない。しかし,現実に観察された資料を標本とする第一次集団の母集団の母数が,刻々と変化する存在の一側面を示すものだとしたら,母数の同一,不変を前提することはできない。かりに推定がこうした同一不変の母数に対して行われることが可能としても,推定行為自体が一定の分布をするという仮定は,直ちに承認できない。

 このことは仮説の検証にもあてはまる。ケンダールはすべての科学の法則が,結局は母数決定の問題に帰着すると言う。これは科学分析の頂点に,定量的分析をおくという一種の数理主義に他ならない。このことは,ケンダール自身が仮説を推定行為との関連で考察する際に,経験論的な仮説観を克服しえなかったことの反映である。すなわち,現実に種々の互いに相反する多くの仮説が生じた場合,ケンダールが提唱するのは「最も確からしい事象は,最も頻繁に生起する事象」である信念(・・)への依存である。結局,現実には真理に到達することはできず,真理に近づくには,現象の世界にたちかえって多数回生起する事象(試行の反復)に救いをもとめる。しかし,事象の反復性は真理性の基準にはなりえない。

最後に,確率の頻度説の立場からの最尤法の理論について。最尤法の原理を母数推定の一規則であり,母数推定に関する命題としての統計的仮説を統計的に検証する方法と考えるケンダールは確かに,ベイズ定理における換位確率の推論を攻撃するために却って最尤法を過大評価し,これに帰納推理の視角を与えたフィッシャーの誤謬,最尤法の数理的展開のみに腐心するネイマン,ピアソン,ワルト流の純数理的最尤法論への偏向,公理論的確率論の無矛盾な体系における最尤法の同義反復的「証明」を事とするジェフリース的確率論の主観性に陥ることなく,経験論的立場からのアプローチをとることができた。しかし,ケンダールは最尤法を「実際に生起した事象に最大の確率を与える仮説を採る」と理解するのであるから,これは「仮説が確率を与える」ということに他ならず,確率を事象の客観的な内的な特性ではなく,実験によって生まれると理解していることになり,頻度説にたつとは言いながら,事実上,確率の客観性を否定している。

ケンダールの主張から,それを「よく実践の検証にたえうる基礎概念によって構築された統計的推理論とみなすことができようか,やはり否といわなければならないであろう。しかもその理由は,他ならぬケンダールの主張がよってたつ経験論的な仮定のうちにある。けだし,一般に経験論的な立場にある論者がそうであるように,ケンダールもまた,相互に排除しあう仮説の数が多く,またそれが交替してゆくという事実を前にすると,事物の本質を認識することができないと考え,ただ現象的記述の量を増すことしかできないと考えているからである」。筆者の結論である。

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