浦田昌計「統計学史(西欧)」『統計学(社会科学としての統計学-日本における成果と展望-)』(経済統計研究会)第30号,1976年3月
統計学史研究の分野は,経済統計研究会会員の寄与が大きい。その対象範囲は,政治算術,国状学,ケトレーの統計学は言うまでもなく,英米数理統計学,あるいは確率論の分野にまで及ぶ。筆者は戦後の会員の業績を,「政治算術と国状学」「ケトレーの統計学」「ドイツ社会統計学派の成立と解体」「数理統計と確率論」の節を設定して,手際よく整理し,研究会会員による研究業績の豊富さと充実さが自ずとわかるようなサーヴェイを行っている。
中身に入る前に,蜷川虎三の史的把握を参照している。蜷川によれば,統計学の歴史はケトレーを境に「先駆的統計学」と「近代統計学」とに分けることができる。「ケトレー以前に在っては,専ら国状の記述を目的とする独逸大学統計学と,社会現象の数量的記載並びにその分析を目的とせる政治算術とが全く別個に存在し,発展して来たのである。然るに,ケトレーにおいて,よく此の二つの流れにおける本質的な問題が把握され,政治算術における社会現象の数量的研究を更に発掘し,これを一個の社会科学として主張するとともに,統計学こそその学問であるとした・・・」(『統計学概論』1934年)。蜷川のこの把握の仕方は,ドイツ社会統計学派の統計学史観を継承するものであり,通説になっている。筆者はケトレー以降の統計学を「近代統計学」と位置づけるとしても,ケトレーにおいて二つの流れ(政治算術と国状学)の本質的な問題が取り入れられたとするとき,その本質的問題が何であり,それがどのように発展させられたかが問題である,と前置きしている。
筆者はその問題に直接回答を与えることなく,本題のサーヴェイにはいっている。最初に松川七郎の問題提起を紹介している(松川七郎『統計学史研究における5つの時期』[1961年])。松川は従来のクニース,ワグナー以来定式化された統計学史の政治算術に対する見方が方法論史的に割り切った一面的理解であるとし,グラント=ペティの政治算術を「統計的実証方法」の創始とみるのは誤りで,それを生み出した社会的土壌,萌芽的にあった経済理論との関連で捉えなければ,グラント,ペティの理論の重要な諸点が全て見失われてしまうと指摘した。筆者は松川のこの見解の紹介にスペースをさいて,肯定的な指摘と評価している。関連して,ジュースミルヒ研究にも言及し,自身の研究成果とともに,会員(青盛和雄,内海健寿)の業績をあげている。
さてケトレーに関してであるが,筆者はケトレーが政治算術,国状学から受け継ぎ発展させたのは,これらのごく限られた側面であることをまず確認し,しかし統計学の歴史を再検討するうえでその統計理論と学問業績の性格,歴史的基盤の究明は,以前として重要であると述べている。数ある業績のなかから,山本正,高橋政明,岡崎文規,高岡周夫,足利末男,佐藤博,吉田忠のそれをあげている。とくに山本(「アドルフ・ケトレーの“平均人間”について」[1952]),高橋(「わが国におけるケトレー研究」[1975]),吉田(『統計学』[1975])の業績の紹介が,詳しい。
筆者によれば,「山本は,ケトレーの平均人の理論が,人間を支配する法則を『重心』としての平均人をつうじて把握するという力学的な発想から出発しており,しかも偶然誤差の法則と人間の肉体的道徳的性質についての自然決定論とがこれに結びつけられたものであることを明らかにした。さのさい山本は,人間のある種の肉体的性質についての正常誤差法則の妥当性の発見,また充分同質化された集団における計算単位としての平均人間の意義を評価しながらも,ケトレーの平均人間の理論の根本的欠陥は,自然決定論すなわち非歴史性にあることを認める」と述べている。
高橋については,彼が従来のケトレー研究が専ら政治算術の系譜に位置づけられ,また力学的世界観から来るケトレーの限界が『人間について』の所説からなされていることを不満とし,ケトレーの思想形成,業績,歴史的役割の研究を多面的に考察することを実践している。また吉田は,ケトレー評価を社会現象への「統計的な方法」の意識的適用にもとめる見方に対して,統計調査の実践とのかかわりで評価されるべきとした。
筆者は,次に自身の専門領域であるドイツ社会統計学の成立と解体に視点を移し,この分野での研究成果を整理している。ドイツ社会統計学は,G.マイヤーによって代表される。マイヤーの統計学は,ケトレー統計学の影響を受けながらも,自然現象と社会現象との相違についての認識のもとに,後者の数量的研究(統計方法の適用)の根拠を社会現象の集団的性格にもとめ,大数法則や確率論を副次的地位に限定した。この考え方は,長くドイツ社会統計学の共通認識となる。
マイヤー統計学成立前史については足利末男『社会統計学史』(1966年)が,また後期社会統計学を念頭にドイツ社会統計学の成立過程と問題性を論じたものとしては有田正三『社会統計学研究』(1963年)が記念碑的労作である。前者は17・18世紀の国状学と関税同盟以後の官庁統計の歴史を先行させつつ,ケトレー派統計学,ケトレー以降の国状学,形式人口学と数理統計学を網羅的に紹介した。筆者は,「足利がケトレー以後の国状学の根強い存在を示しつつ,ドイツ社会統計学の対象規定における国状学の伝統を強調したことは重要である」と評している。後者はマイヤー統計学,ひいてはドイツ社会統計学の成立にリューメリンの果たした役割がきわめて重視されることを明らかにし,とくにマイヤーの「社会集団」概念がリューメリンの成果に立脚することを示した。
筆者は他に,マイヤーにおける「存在たる集団」と「意識的に構成された集団」の不分明を指摘した蜷川虎三,社会集団と社会構成体との関係についてのマイヤー的見解の問題点を洗い出した大橋隆憲,マイヤー統計学を丹念に研究した高岡周夫,ドイツ社会統計学と歴史学派の関係に着目した吉田忠,マイヤー統計学に論理的基礎を提供したのはリューメリンをはじめとする論理派であるという有田の主張を受け継ぎ,別途リューメリン,ジグワルト,キスティアコフスキー,ティシャーの統計対象論,統計法則論をテーマに掲げた長屋政勝の仕事に言及している。
マイヤー以降,ドイツ社会統計学は徐々に解体の過程をたどる。それは実体科学としての統計学から形式科学への統計学への移行,あるいは転換として特徴づけられる。有田はこの時期を20世紀,とりわけ第一世界大戦後とし,具体的にはチチェク,フラスケンパーの統計学を追跡した。後者は数理統計学の批判的導入によって社会統計学の豊富化を意図し,「認識目標の二元論」「事物論理と数論理」を唱えたことで知られる。有田はこの転換を必然としながらも,認識目的や主観の構成機能を強調し,方法を客体に優位させる形をとったため,大きな制約をともなうことになったと指摘した。有田も含め,後期社会統計学,そしてフランクフルト学派に至るドイツ社会統計学の変遷をめぐっては,内海庫一郎,関弥三郎,大橋隆憲,田中章義,大屋祐雪,佐藤博,岩井浩,足利末男など多くの会員が議論に参加した。
筆者は最後に,数理統計学,確率論の分野での統計学の歴史を扱った研究をフォローしている。ここでは,英米数理統計学(ゴールトン,K.ピアソン,エッジワース,ボーレー,ユール,ジェボンス,ムーア,フィッシャー,ネイマン,E.S.ピアソン),大陸数理統計学(レキシス,ボルトケビッチ,アンダーソン,チュプロフ),確率論・確率基礎論(ミーゼス,ヴェン)の3つの領域について行き届いた整理がなされている。
岩井浩には相関分析法の歴史的展開をあとづけた業績(「初期の相関係数法について」[1963])がある。大橋隆憲(「近代統計学の社会的性格」[1949]),是永純弘(「R.A.フィッシャーの帰納推理論について」[1956]など),伊藤陽一(「有意抽出法の検討」[1963年])は推測統計学の批判的研究である。近昭夫はA.A.チュプロフを系統的にとりあげた(「『ノモグラフィア的科学』と『イデオグラフィア的科学』」[1967]など)。
確率論基礎論に関わる史的検討の嚆矢となる論文を公にしたのは,是永純弘(「確率論の基礎概念について」[1960])である。確率論の認識論的基礎に対する批判的研究には,伊藤陽一(「確率に関する諸見解について」[1964]),岩崎允胤(「帰納論の歴史とわれわれの若干の見解」[1964])が,決定論との関わりでは,岩崎(「『決定理論』とその基本性格」[1965]),吉田忠(「確率の形式化と主観化」[1967-8]),田中章義(「長期経営計画とその『科学的』手法[1966]」),宍戸邦彦(「『ベイズの確率論』について」[1972]),木村和範(「投資決定問題への統計的決定論の利用について」[1975])が,また計量経済学における確率論的手法に対する批判的研究には,是永(「計量経済学における方法論争について」[1958]など),伊藤(「計量経済学におけるパラメータの確率的推定法」[1965]),近(「いわゆる『逐次モデル』について」[1971]など),吉田(「マルコフ連鎖の社会統計への擬制と公理主義確率論」[1965])の諸研究がある。他にも確率論に関する代表的論者の所説を検討した杉森滉一の研究(「ヴェンの確率基礎論」[1968]),伊藤(「ケインズの確率論について」[1966])も重要な論稿として,あげている。数理統計学,確率論の史的展開と関わる会員による研究は,以上のようにきわめて層が厚い。
なお松川七郎は,筆者の以上のサーヴェイに対して,「教えられるところがきわめて多」いとしながらも,「筆者が統計学史の研究方法の問題を意識的に不問に付している」とコメントしている。
統計学史研究の分野は,経済統計研究会会員の寄与が大きい。その対象範囲は,政治算術,国状学,ケトレーの統計学は言うまでもなく,英米数理統計学,あるいは確率論の分野にまで及ぶ。筆者は戦後の会員の業績を,「政治算術と国状学」「ケトレーの統計学」「ドイツ社会統計学派の成立と解体」「数理統計と確率論」の節を設定して,手際よく整理し,研究会会員による研究業績の豊富さと充実さが自ずとわかるようなサーヴェイを行っている。
中身に入る前に,蜷川虎三の史的把握を参照している。蜷川によれば,統計学の歴史はケトレーを境に「先駆的統計学」と「近代統計学」とに分けることができる。「ケトレー以前に在っては,専ら国状の記述を目的とする独逸大学統計学と,社会現象の数量的記載並びにその分析を目的とせる政治算術とが全く別個に存在し,発展して来たのである。然るに,ケトレーにおいて,よく此の二つの流れにおける本質的な問題が把握され,政治算術における社会現象の数量的研究を更に発掘し,これを一個の社会科学として主張するとともに,統計学こそその学問であるとした・・・」(『統計学概論』1934年)。蜷川のこの把握の仕方は,ドイツ社会統計学派の統計学史観を継承するものであり,通説になっている。筆者はケトレー以降の統計学を「近代統計学」と位置づけるとしても,ケトレーにおいて二つの流れ(政治算術と国状学)の本質的な問題が取り入れられたとするとき,その本質的問題が何であり,それがどのように発展させられたかが問題である,と前置きしている。
筆者はその問題に直接回答を与えることなく,本題のサーヴェイにはいっている。最初に松川七郎の問題提起を紹介している(松川七郎『統計学史研究における5つの時期』[1961年])。松川は従来のクニース,ワグナー以来定式化された統計学史の政治算術に対する見方が方法論史的に割り切った一面的理解であるとし,グラント=ペティの政治算術を「統計的実証方法」の創始とみるのは誤りで,それを生み出した社会的土壌,萌芽的にあった経済理論との関連で捉えなければ,グラント,ペティの理論の重要な諸点が全て見失われてしまうと指摘した。筆者は松川のこの見解の紹介にスペースをさいて,肯定的な指摘と評価している。関連して,ジュースミルヒ研究にも言及し,自身の研究成果とともに,会員(青盛和雄,内海健寿)の業績をあげている。
さてケトレーに関してであるが,筆者はケトレーが政治算術,国状学から受け継ぎ発展させたのは,これらのごく限られた側面であることをまず確認し,しかし統計学の歴史を再検討するうえでその統計理論と学問業績の性格,歴史的基盤の究明は,以前として重要であると述べている。数ある業績のなかから,山本正,高橋政明,岡崎文規,高岡周夫,足利末男,佐藤博,吉田忠のそれをあげている。とくに山本(「アドルフ・ケトレーの“平均人間”について」[1952]),高橋(「わが国におけるケトレー研究」[1975]),吉田(『統計学』[1975])の業績の紹介が,詳しい。
筆者によれば,「山本は,ケトレーの平均人の理論が,人間を支配する法則を『重心』としての平均人をつうじて把握するという力学的な発想から出発しており,しかも偶然誤差の法則と人間の肉体的道徳的性質についての自然決定論とがこれに結びつけられたものであることを明らかにした。さのさい山本は,人間のある種の肉体的性質についての正常誤差法則の妥当性の発見,また充分同質化された集団における計算単位としての平均人間の意義を評価しながらも,ケトレーの平均人間の理論の根本的欠陥は,自然決定論すなわち非歴史性にあることを認める」と述べている。
高橋については,彼が従来のケトレー研究が専ら政治算術の系譜に位置づけられ,また力学的世界観から来るケトレーの限界が『人間について』の所説からなされていることを不満とし,ケトレーの思想形成,業績,歴史的役割の研究を多面的に考察することを実践している。また吉田は,ケトレー評価を社会現象への「統計的な方法」の意識的適用にもとめる見方に対して,統計調査の実践とのかかわりで評価されるべきとした。
筆者は,次に自身の専門領域であるドイツ社会統計学の成立と解体に視点を移し,この分野での研究成果を整理している。ドイツ社会統計学は,G.マイヤーによって代表される。マイヤーの統計学は,ケトレー統計学の影響を受けながらも,自然現象と社会現象との相違についての認識のもとに,後者の数量的研究(統計方法の適用)の根拠を社会現象の集団的性格にもとめ,大数法則や確率論を副次的地位に限定した。この考え方は,長くドイツ社会統計学の共通認識となる。
マイヤー統計学成立前史については足利末男『社会統計学史』(1966年)が,また後期社会統計学を念頭にドイツ社会統計学の成立過程と問題性を論じたものとしては有田正三『社会統計学研究』(1963年)が記念碑的労作である。前者は17・18世紀の国状学と関税同盟以後の官庁統計の歴史を先行させつつ,ケトレー派統計学,ケトレー以降の国状学,形式人口学と数理統計学を網羅的に紹介した。筆者は,「足利がケトレー以後の国状学の根強い存在を示しつつ,ドイツ社会統計学の対象規定における国状学の伝統を強調したことは重要である」と評している。後者はマイヤー統計学,ひいてはドイツ社会統計学の成立にリューメリンの果たした役割がきわめて重視されることを明らかにし,とくにマイヤーの「社会集団」概念がリューメリンの成果に立脚することを示した。
筆者は他に,マイヤーにおける「存在たる集団」と「意識的に構成された集団」の不分明を指摘した蜷川虎三,社会集団と社会構成体との関係についてのマイヤー的見解の問題点を洗い出した大橋隆憲,マイヤー統計学を丹念に研究した高岡周夫,ドイツ社会統計学と歴史学派の関係に着目した吉田忠,マイヤー統計学に論理的基礎を提供したのはリューメリンをはじめとする論理派であるという有田の主張を受け継ぎ,別途リューメリン,ジグワルト,キスティアコフスキー,ティシャーの統計対象論,統計法則論をテーマに掲げた長屋政勝の仕事に言及している。
マイヤー以降,ドイツ社会統計学は徐々に解体の過程をたどる。それは実体科学としての統計学から形式科学への統計学への移行,あるいは転換として特徴づけられる。有田はこの時期を20世紀,とりわけ第一世界大戦後とし,具体的にはチチェク,フラスケンパーの統計学を追跡した。後者は数理統計学の批判的導入によって社会統計学の豊富化を意図し,「認識目標の二元論」「事物論理と数論理」を唱えたことで知られる。有田はこの転換を必然としながらも,認識目的や主観の構成機能を強調し,方法を客体に優位させる形をとったため,大きな制約をともなうことになったと指摘した。有田も含め,後期社会統計学,そしてフランクフルト学派に至るドイツ社会統計学の変遷をめぐっては,内海庫一郎,関弥三郎,大橋隆憲,田中章義,大屋祐雪,佐藤博,岩井浩,足利末男など多くの会員が議論に参加した。
筆者は最後に,数理統計学,確率論の分野での統計学の歴史を扱った研究をフォローしている。ここでは,英米数理統計学(ゴールトン,K.ピアソン,エッジワース,ボーレー,ユール,ジェボンス,ムーア,フィッシャー,ネイマン,E.S.ピアソン),大陸数理統計学(レキシス,ボルトケビッチ,アンダーソン,チュプロフ),確率論・確率基礎論(ミーゼス,ヴェン)の3つの領域について行き届いた整理がなされている。
岩井浩には相関分析法の歴史的展開をあとづけた業績(「初期の相関係数法について」[1963])がある。大橋隆憲(「近代統計学の社会的性格」[1949]),是永純弘(「R.A.フィッシャーの帰納推理論について」[1956]など),伊藤陽一(「有意抽出法の検討」[1963年])は推測統計学の批判的研究である。近昭夫はA.A.チュプロフを系統的にとりあげた(「『ノモグラフィア的科学』と『イデオグラフィア的科学』」[1967]など)。
確率論基礎論に関わる史的検討の嚆矢となる論文を公にしたのは,是永純弘(「確率論の基礎概念について」[1960])である。確率論の認識論的基礎に対する批判的研究には,伊藤陽一(「確率に関する諸見解について」[1964]),岩崎允胤(「帰納論の歴史とわれわれの若干の見解」[1964])が,決定論との関わりでは,岩崎(「『決定理論』とその基本性格」[1965]),吉田忠(「確率の形式化と主観化」[1967-8]),田中章義(「長期経営計画とその『科学的』手法[1966]」),宍戸邦彦(「『ベイズの確率論』について」[1972]),木村和範(「投資決定問題への統計的決定論の利用について」[1975])が,また計量経済学における確率論的手法に対する批判的研究には,是永(「計量経済学における方法論争について」[1958]など),伊藤(「計量経済学におけるパラメータの確率的推定法」[1965]),近(「いわゆる『逐次モデル』について」[1971]など),吉田(「マルコフ連鎖の社会統計への擬制と公理主義確率論」[1965])の諸研究がある。他にも確率論に関する代表的論者の所説を検討した杉森滉一の研究(「ヴェンの確率基礎論」[1968]),伊藤(「ケインズの確率論について」[1966])も重要な論稿として,あげている。数理統計学,確率論の史的展開と関わる会員による研究は,以上のようにきわめて層が厚い。
なお松川七郎は,筆者の以上のサーヴェイに対して,「教えられるところがきわめて多」いとしながらも,「筆者が統計学史の研究方法の問題を意識的に不問に付している」とコメントしている。