社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

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浦田昌計「C. Th. Hermanの統計思想-その「統計批判」論を中心として-」『経済学会雑誌』第3巻第3・4号,1972年2月

2017-04-10 00:19:21 | 4-2.統計学史(大陸派)
 C.ヘルマン(1767-1837)は,シュレーツエルの下で学んだ国状派統計学者である。ドイツで生まれたが,ロシアで活動したので,ドイツの統計学史では取り上げられることはほとんどないが,ロシアの統計学者の間では高く評価されている。本稿は,ヘルマンがドイツ国状学派の統計思想をどのように継承発展させたかを,統計資料論と統計批判論に重点をおいて検討することを課題としている。

 筆者は最初に,ヘルマンの経歴を知りうる範囲で紹介している。1767年,ダンツィッヒで生まれ,1793年にロシアに移住し,後のロシアの大蔵大臣トゥリエフの家庭教師となる。その直前までにゲッチンゲン大学で「歴史,官房学,統計学」を学ぶ。ロシアに移住したその年に,陸軍第一幼年学校の「歴史,地理および統計学」の教師となる。1798年にアカデミー附属ギムナジウム(中学校)の校長に就任。1805年にペテルブルグ科学アカデミーの経済学および統計学の助手に任命される。1804年に「ロシア林業の歴史と現状」を執筆。1806年,高等師範学校の統計学教授に任命され,ロシア最初の「統計学雑誌」を創刊。1809年,『一般統計理論,この教科の教師のために』を発刊。1811年以降,ロシアの最初の統計機関となった警察省統計課(後の内務省統計課)の指導を委ねられる。1819年,高等師範学校がペテルブルグ大学に改組され,引き続き統計学の正教授。1818年以降,財政学も担当。1821年,ペテルブルグ四教授事件で告発され,大学から追放される。1827年に自由な活動を許され,1834年にアカデミーのの正教授として迎えられる。

 ヘルマンはシュレーツェルの影響を強く受け,統計学を政治的科学の一環として位置づけた。彼は統計学を狭義には顕著事項の記述としたが,広義には「ある一定の時期の国家の状態にかんする基礎的な知識」とした。国家の状態については,政府の状態と人民の状態とに区分し,後者を第一においた。ヘルマンはシュレーツェルのいわゆる「国家の基本力」(社会的経済的現象)の体系化を試みた。その背景にあったのは,シュレーツェルの啓蒙的国家観より進んだ市民的国家観,社会観である。また統計学の新しい段階をスミスに代表される政治経済学との結びつきにもとめたことは特筆できる。このような新しい統計学の課題にこたえる統計理論の中心的内容は,統計学=国状記述の指標体系の設定とそのための統計資料論(資料の批判的利用)であった。

 ヘルマンがシュレーツェルを継承して取り組んだのは,統計的認識の真実性の問題である。この点について論じたのが「ロシア統計のための材料,序説,統計的著作の効用および詳細な統計的情報に付随する困難について」(1806年),『一般統計理論』第4章「統計学の資料源泉について」(1809年)である。前者では,「下級警察行政機関の報告」を例に,その不完全さが指摘され,その原因の分析(書式の不完全性による回答の不完全性,写字生の誤読および下級職員の怠慢)が与えられている。ここではまた「統計批判」の実際的手順が予約列記されている。後者では諸種の統計的資料の真実性とその批判の問題が総括的に論じられている。『一般統計理論』第3章「統計学の典拠について」では,統計報告のイデオロギー的性格,下級官庁とその職員の故意あるいは怠慢にもとづく誤りとともに,被調査者の回答の不真実にもとづく誤差の問題,被調査者の利害の程度に言及している。
ヘルマンの統計学で扱われる資料は,その大部分が数量的資料であり,表式調査を中心とする政府調査の結果である。未整理な部分があるとはいえ,1806年と09年の論文によって,統計調査結果の吟味批判の主要な論点は提示されている。ヘルマンの「統計批判」論は,シュレーツェルから彼が学んだものであり,その本格的な展開であった。このことは,「統計批判」が国状学派統計学の共有財産となりつつあったことの証左である。同時にヘルマンはその厳しい統計批判論をもちながら,統計に対する懐疑論,否定論に一貫して反対した。筆者は最後に次のように述べている。「われわれはこのヘルマンの楽観的な言明が,単なる主張ではなく,彼のロシアにおける現実の統計的資料にもとづく諸研究によって裏づけられていることを見なければならない。そしてまた,これらの研究がロシアにおける「国家の状態」,「諸階級にあいだの関係」の解明をその究極の主題とし,結局,統計学がそれを通じてロシアの農奴制社会の矛盾とその改革の必要をあきらかにしうることに彼がはっきりと確信をもっていたことと無縁ではないであろう。この統計的研究を支えるものが,彼にあっては,スミスに代表される新しい社会科学をふまえた統計理論そして「統計批判」であった」(136頁)。
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浦田昌計「ドイツにおける最初の国民所得と階級構成の研究-L.Krug『プロイセンの国民的富にかんする考察』(1805)-」『経済論叢』第115巻第3号,1975年3月

2017-04-09 00:17:44 | 4-2.統計学史(大陸派)
 本稿の目的は,19世紀初頭のプロイセンにおけるレオポルド・クルーク(leoporld Krug,1770-1843)の国富と国民所得に関する統計的研究を紹介し,考察することである。クルークは重農学派の経済学者の一人で,スミスの経済学に影響を受けているが,とりわけ重要なのは1835年までプロイセン統計局の中心人物で,その設立(1805年)に寄与したことである。主要著作は『プロイセン国家の国民的富およびその住民の福祉にかんする考察』(1805年)(以下『考察』と略)である。他に『経済的統計学試論』(1807年),『国家経済学概要』(1807年)がある。本稿での検討は,『考察』が中心である。クルークについては統計学史研究ではあまり注目されていない。しかし,筆者はシュレーツェルが強調したドイツ国状学派による統計学と官庁統計との結合のプロイセンにおける具体化をクルークにみることができるとしている。

『考察』(二冊本)は1200頁をこえる大著である。内容はプロイセンの統計学(国状学)の一環として執筆されたもので,当時のプロイセンにおける経済・財政問題についての誤った重商主義的見解に自らの見解を対置するかたちで叙述され,経済学の概念および階級関係という認識目標をふまえた統計材料の加工・分析を意図している。クルークはまた,その研究が「もっぱら国民の福祉を問題にする」と明確に述べ,経済的福祉あるいは国民の富またその指標について検討を加えている。指標に関しては具体的に,「ある地方で産出された諸商品の価格」「土地の価格」「すべての土地の純収益の大きさ,ないし小作料」「輸出入商品の価値」「輸出される工場商品および加工生産物の量」「貨幣」「金と銀の貯えの量」などをあげている。この延長線で,国民の富の指標として,「国民所得」「純所得」「国民資産」の定義と計算を示している。重要なのは,これらがどの階級によって生み出され,またどの階級によって享受されるかということが常にクルークの念頭にあったことである。

 クルークは「国民所得」を定義して,それは「この国で年々生産される使用可能な財貨の総計であり,なおこれに所与の国の住民が産業によって他の諸国民の所得から手に入れる部分が加わる」という。財貨は土地の生産物で,「流通所得」から区別される。またクルークが「国民所得」と呼ぶのは「総収益」である。これに対し,「純収益」は国家と国民にとっての可処分所得である。この部分が国家と国民の富と力の指標である。「国民資産」は「国民的利子ないし真の利子をもたらす資本」と「どんな利子も生まない資本」とを区別し,後者だけで経済的福祉を判断してはならず「純収益をもたらす土地と用益の資本価値」としての前者の意義を強調し,これら二種の「資本」合計を国民資産としている。

 筆者は次にクルークの推計方法を紹介している。国民所得の推計方法に関しては「年々の地代を生じる全土地の真実価値の見積もりと,国民資本としてのこの額から年々生じる地代によって」計算する方法と「国内で年々生産される利用可能な全財貨の見積もりによって」計算する方法とをあげ,前者は既存資料では不可能なので,後者を選択している。その他,耕地の所得計算,牧草地および牧場の所得をはじめ林業,園芸・ブドウ栽培等,鉱山業等,漁業,狩猟業,工場・手工業など,そして輸出向け加工業の「外国からの所得」の計算を行い,結果として19世紀初頭の「プロイセンの国民所得」を推計している(261,000[千ターレル])。これをもとに一人当たり国民所得(27.25ターレル),国民の純所得(82,942[千ターレル]),産業階級の純収益が計算されている。さらに土地およびその用益の資本価値(20億ターレル),全国民資産(3,385,600[千ターレル])が推計されている。

クルークによるプロイセンの国民所得推計の特徴は,階級相互の,また社会全体と諸階級との関連を解明する目的で試みられたことである。本稿に掲載されている「プロイセン国家における国民所得の分配の概況」(167頁),「プロイセンN県の階級構成」(170頁)は,その実例である。クルークは当時における必要な統計の欠如,欠陥の多い統計という制約のなかで,独自の所得推計を行った。どの階級ないし層が社会の富を支えているか,富や貧困を生み出す社会的関係が何であるかを明らかにすることが重要であり,その分析がなければ彼にとって推計は無意味であった。

筆者は述べている。「国民所得や国富の研究を諸階級の経済状態の分析としてとらえなおしたところに,われわれはクルークの研究の積極的な意義を認めたいと思う。そしてそれは,プロイセンに対するブルジョア滝改革の必要性を意識したクルークの問題意識によるものであった」(175頁)。さらに,「クルークの・・・統計学にたいする考えは,基本的には国状学の考え方に立つものであったが,それが国民所得,国富の推計と人口の階級区分との統合による社会の経済状態および階級構造の解明をその中心課題にすえ,統計学の基礎を明確に経済理論に求めたという意味で,この時期のドイツ国状学の重要な展開を示すものであったといわなければならない」(175頁),「クルークの統計学のもうひとつの特色は,それがこの時期のプロイセンの官庁統計行政と直接的な結びつきをもつに至ったということである」(175-6頁)とも述べている。『考察』が契機となってプロイセン最初の統計局が設置され,クルークはシュタインを長とする「商工業及消費税省」の下に設けられた最初の「統計局」で指導的局員としてプログラム作成の仕事に従事したことがこのことを示している(「統計局」はナポレオンの占領によって短命に終わり,それとともにクルークのプログラムは頓挫した)。
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浦田昌計「クローメの表統計学と統計調査論」『初期社会統計思想研究』御茶の水書房,1997年)

2017-04-08 00:17:13 | 4-2.統計学史(大陸派)
A.F.クローメ(A.F.Crome,1753-1833)は,ゲッチンゲン国状学派(ドイツ国状学派)に対する新学派の代表者の一人である。表統計学派,線的算術家と呼ばれた人々の最初の人物でもある。1753年にオルデンブルク領クニップハウゼンの聖職家の家に生まれ,最初,神学を志したが,1778年からデッサウに設立された博愛学院で地理学と歴史学の教師を務めた(1783年まで)。1782年に最初の著作『ヨーロッパの産物,新しいヨーロッパの産物図表の利用のために』が出版された。次いで,デッサウ公国の世嗣の教育係に任じられた(1786年まで)。1787年にはヘッセン・ダルムシュタット大公国のギーゼン大学に迎えられ(統計学および官房学の正教授),ここで50年間,勤めることになる。公表された書物に「ヨーロッパ諸国の面積と人口について」(1785年),「ヨーロッパ諸国の文化関係について」(1792年),「ドイツ連邦加盟全ラントの国力の地理的・統計的叙述」(1820-28)がある。

 本稿は「ヨーロッパ諸国の面積と人口について」をとりあげ,クローメの統計学を紹介することである。構成は次のとおり。「はしがき」「1.クローメの略歴と主著の構成」「2.主著の対象とクローメにおける統計学」[3.クローメの人口調査論]「4.クローメの人口調査論の意義」
主著「ヨーロッパ諸国の面積と人口について」の内容は,以下のようである。
序文/第1章 数量誌の重要性,そのこれまでの運命,この科学を容易にする試み/第2章 一国の大きさあるいは面積を調べる手段について/第3章 人口誌の重要性,それの運命,それをさらに完全にまた一般的にする提案/第4章 この著作に付属するヨーロッパの数量図表の用途と仕組み/第5章 ヨーロッパ諸国の面積と人口についての,一部は図表そのものに一部は後続の諸表に現れる,様々な報告についての注釈,ならびにそれが得られた典拠の指示/第6章 ヨーロッパの全地域全国家の面積と人口についての14の表。
クローメは諸国家の「面積誌と人口誌」を一個の科学とみたて,その意義,歴と現状を明らかにし,そのための資料的基礎と方法の改善を具体的に追及する。この著作の第一の目標は,「面積誌と人口誌の個々の部分を明らかにし,正しくし,またはその暗い部分を引き出して,政治学者,政治家,愛国者は昔は偏見がそれらを国家機密として仕舞っておいたそのような知識の暴露に促されるようにすること」である。第二の目標は文字通り「ヨーロッパ諸国の面積と人口」の数え上げであり,国別に各種の典拠から得られる面積と人口の数字と人口密度が示されている。

クローメにあっては,「国土誌(=国家誌)」と「統計学」とはとくに区別されていない。このことを前提として,クローメは自らが取り組もうとした「数量誌」を,「国土誌」あるいは「統計学」のなかで新たに発展させるべき部分と考えていた。彼が「面積・人口誌」を「国家誌」=「統計学」において特別な領域と考えた場合に,その方法としての数量的観察が意識されていた。その限りで「政治算術」との関わりが問題となる。実際に,本書の序文,第1章,第3章で,人口誌発展のための「政治算術」の役割に言及がある。ここで言われている「政治算術」は出生・死亡記録による人口研究である。彼の主題である「諸国家の数量誌」は人口推計において「政治算術」の成果を活用するが,「政治算術」の内容はこれだけではないから,その対象の全体をカバーするものではない。筆者は次のように述べる,「彼が『政治算術』の数量的観察方法を重視していることは明らかであるが,・・・彼が考えているのは,『出生・死亡リスト』=人口動態統計の分析を中心とする狭義の『政治算術』を国家誌=統計学に置き換えることではなくて,こうした研究の成果も活用しつつ,彼の『面積=人口誌』を中核として『国家誌=統計学』を再構築することであったと思われる」と(147-8頁)。

クローメは「面積・人口誌」で資料の批判的な検討が必須の前提であるとしている。そのために自身の統計表に使ったデータの典拠と正確性の具体的な検討を行っている。それだけでなく,可能な場合には,別の典拠とつきあわせて検証に努めている。当該の著作では,個々のデータの説明だけでなく,「数量誌」の基礎資料の獲得方法についての一般的考察とその歴史の叙述にも言及するべく努力している。第2章では,土地面積の測量の方法・手段とその歴史・現状について説明を行っている。第3章では,人口誌の資料,それの基礎 データの作成の手段と方法をとりあげている。この章は人口静態調査の部分と人口動態(教会リスト)の利用に関する部分からなる。

クローメは一国の人口数を知る手段として「数え上げ調査」をあげ,それを部分的調査と一般的調査とが分けて論じている。部分的調査は国家の個々の部分あるいは個々の階級,または年齢層などにかかわる調査である。地域的部分だけでなく家屋や家族の調査もここに含まれる。クローメはこれらの部分的調査の有用性を認めつつ,全国土の人口誌にとっては「全国土に,またその全住民に及ぶ」一般的調査が必要であるとする。この調査は人口数の確定だけでなく,人口構造や人口の発展法則の解明についても価値があるというわけである。その先進的事例としてクローメがあげているのは,プロイセン(1733年開始,1773年改正),ヴェルデンブルグ(1769年開始),スウェーデン(1746年のストックホルム科学アカデミーによる開始,1749年以降身分制議会の人口調査委員会が担当)である。

 筆者はまた人口調査に関するクローメの議論のなかで調査に対する住民の抵抗(負担にもとづく),隠し立て,虚偽の報告を問題にしているところに興味が惹かれると書いている。その他,人口調査が本来の目的以外の副次的目的を掲げることなく実施されなければならないこと,調査員が調査の実状に習熟するために,また住民の側で調査に慣れてもらうために毎年繰り返して実施すべきこと,が指摘されている。

 静態人口調査に関するクローメの所説は,当時の若干の諸国で始まっていた統計調査についての知見にもとづいている。議論の内容はとりたてて斬新なものではないが,そこに意義があるとすれば,それはクローメが人口誌ひいては統計学との関連で政府による統計調査論を展開していることである。
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山本正「アドルフ・ケトレーの『平均人間』について」『山梨大学学芸学部研究報告』第3号,1952年11月

2016-11-23 11:11:38 | 4-2.統計学史(大陸派)
山本正「アドルフ・ケトレーの『平均人間』について」『山梨大学学芸学部研究報告』第3号,1952年11月

本稿はケトレーの統計学研究の基礎である「平均人間」の理論を解明することである。この課題を筆者は,その著『人間について』(1835年),『確率論についての書簡』(1845年),『社会体制論』(1848年)の検討をとおして究明している(「平均人間」の思想は「世人成長の規範に関する研究」[1826年],その用語は「各年齢犯罪癖の研究」[1831年]にあらわれている)。

構成は次のとおりである。「緒論」「ケトレーに於ける『平均人間』の理論の発展過程」「以上の要約,及び『平均人間』の効用」「統計学史上に於ける『平均人間』の理論の評価及び結語」。これらのうち,主要部分は「ケトレーに於ける『平均人間』の理論の発展過程」である。ここでは,(イ)『人間について』における「平均人間」,(ロ)『確率論についての書簡』における「平均人間」,(ハ)『社会体制論』における「平均人間」というように,「平均人間」の理論の発展過程が細かく,丁寧に跡づけられている。

 『人間について』では,「平均人間」は社会の重心である一個の仮想人(犠牲人)としてあらわれている。「社会物理学」でケトレーは,人間と人間社会を支配する「法則」を統計的大量観察によって発見し,この法則を支える原因を追究しこの原因に変更を加えることで法則を人間に有利に変化させることを意図する。人間社会は遊星系統と同一視され,力学における重心のように人間社会にもそれをもとめ,「平均人間」を措定する。「平均人間」は,社会の諸要素がその周りを動揺する一つの平均で,数学的に計算された一個の擬制人で,「社会物理学」の基礎である。ただし,ここで言われる「法則」は人間社会の恒常性である。

 「平均人間」はどのようにしてもとめられるのか。それは観察と計算による。ケトレーはこれを肉体的「平均人間」と精神的「平均人間」(道徳的「平均人間」と智的「平均人間」)とに分けてもとめる。前者はある集団に属する人々の肉体的特性の測定値の算術平均により,後者はある集団における精神的行為数(犯罪数,結婚数など)の割合である。このような議論の延長線上にケトレーは,肉体的「平均人間」が美の典型であり,道徳的「平均人間」が善の典型であること,「平均人間」とは一般的なもの,普遍的なものが個別化されたものとみなし,もし現実の人間が「平均人間」と合致するなら,その人は真の偉人となると述べた。これは法則の人格化と考えられるの仮説である。

 『確率論についての書簡』では,前著で仮説として提起された「平均人間」の存在が,人間の肉体的特質の測定値の分布として示されることで,正常誤差法則と一致するとの判断に到達し,これをもって仮説の数学的証明とされる。ケトレーは平均に2つの意味内容をもたせる。一つは実在としての平均,もう一つは算術平均である。ケトレーは,その分類を考慮したうえで,もし単なる算術平均的関係しか認められない一群の測定値において平均を中心とする諸値の分布の関係を見いだすことができるならば,その時,算術平均は実在する平均なるものの真値を表すことになる(算術平均の平均への転化),と結論づけた。筆者はこれを,スコットランドの兵士の測定値で実験的に裏づけることで,「型」としての「平均人間」の概念の前提となる結論とした。「平均人間」は人間的誤差が互いに相殺された自然の本質そのままの現象とみられ,人間の「型」となり,これをもって真理の顕現とみなされるのである。他の人間はこの「平均人間」からの偏倚,誤差と考えられる。ここに表れているのは,ケトレーの自然主義-自然決定論的特色である。

『社会体制論』では,上記の「平均人間」が人間の精神的特性にまで拡張され,道徳的「平均人」が算術平均的道徳性向をもつだけでなく,同時に自己の周囲に偶然的原因の法則にしたがって分布する現実の道徳的諸個人とされる。道徳的「平均人間」は,肉体的「平均人間」同様,「型」となる。また智的「平均人間」も「型」となる。ただし,留意すべきは,これらの道徳的あるいは智的「平均人間」は,何らかの実験例によって裏付けをもたないまま,単なる「偶然的原因の法則」からの演繹によって導出されたことである。
以上のようにケトレーにあっては,「平均人間」は人間の道徳的,智的,肉体的特質の典型とされ,それが全人類的規模で算出されるならば,善と美の絶対的典型になると考えられた。社会におけるすべての人間集団はこの「平均人間」を中心に,肉体的にも道徳的にも智的にも一定の法則にしたがって分布する。この法則は社会法則である。それを支えるのは本質的かつ恒久不変な「自然的原因」と人為的な「攪乱的原因」である。「自然的原因」は美と善の典型としての肉体的,道徳的「平均人間」に対応し,「攪乱的原因」は智的「平均人間」に対応する。人間の道徳的自由意志のようなものは,大量のなかでは消滅する偶然的原因にすぎないが,人間の智的作用は真に自然法則に影響をあたえる攪乱的原因である。以上の言明は,言うまでもなく,ケトレーによる特殊な世界観にもとづいて定式化されたものである。「社会物理学」の原因論と「平均人間」の理論とは,このように常に相呼応していたのである。   

 ケトレーの「平均人間」論は,多くの統計学者に影響を与えた。その学説を受け入れたのは,Adolf H.G.Wagnerである。多かれ少なかれ批判的であったのは,M.W.Drobisch, G.F.Knapp, A.Held, F.H.Hankins, Maurice Halbwachs, 日本では有澤広巳,岡崎である。

 筆者は本稿を次のようにまとめている。第1に,ケトレーの体系は「平均人間」を中心とする各個人の分布の総体が社会を構成し,「平均人間」を道徳的肉体的に自然の維持する「型」とし,「社会物理学」の自然的原因,攪乱的原因の分類に照応する,とされた。「平均人間」の理論は,ケトレーの全体系,すなわち「社会物理学」の基礎である。
第2に,「平均人間」が自然の維持する「型」という見方は,ケトレーの掲げるスコットランド兵士などの実験例の確率論的処理だけから出てくるのではなく,自然的決定論的世界観に由来する非科学的結論である。したがって,「平均人間」が善と美の典型であるという主観は承認できない。しかし,人間のある種の肉体的特質がその平均を中心に正常誤差法則にのっとって分布しているという見解は,科学上,意義のあるものである。
第3に,人間のある種の特質に関する計算単位としての「平均人間」はその算出に於いて十分社会的自然的条件の同質化が保証されていれば,価値がある概念である。
第4に,ケトレーの「平均人間」の理論の根本的欠陥はその自然的決定論すなわち非歴史性にあるが,これは同時代の社会理論に共通のものである。ケトレーの著者に貫かれている主知主義的進歩主義,「平均的人間」中心の理論の根底にある同質的人間観に接すると,ケトレー理論がいかに第三階級,第四階級の台頭する時代を反映していたかがわかる。この意味で,「平均人間」の理論は一時期の時代精神を反映する社会観=人間観である。それゆえに,ケトレー理論は非歴史的自然的欠陥をもつとはいえ,永遠に顧慮されるべき資格を有する。
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吉田忠「シモン・フィセリングの統計学-19世紀中葉オランダでの大学派統計学の展開-」『統計学』(経済統計学会)第103号, 2012年9月

2016-10-17 15:25:22 | 4-2.統計学史(大陸派)
吉田忠「シモン・フィセリングの統計学-19世紀中葉オランダでの大学派統計学の展開-」『統計学』(経済統計学会)第103号, 2012年9月,(『オランダの確率論と統計学(第8章)』八朔社,2014年)

 筆者は本稿の目的をシモン・フィセリングの統計学をとおして,大学派統計学の展開過程とその要因を明らかにすることである。大学派統計学とは,19世紀半ばごろのオランダで講義された統計学を指し,その内容は国家,国土,国民,産業に関する事実説明で,その内容は18世紀前半にこの国に流入した国状学に似たものであった。以下,筆者の叙述にできるだけ忠実に,大学派統計学の流れとフィセリングによる統計学の展開を書き留める。
本稿は最初にオランダに国状学が入ってきた経緯を明らかにし,これを受けてフィセリングの統計学(前期,後期)を解説する構成をしている。

 まず,オランダへの国状学の導入過程である。オランダでの国状学は,実は17世紀頃から既に,幾つかの大学で講義されていた。直接の契機は,ユトレヒト大学で1720年から国状学を講義していたオットーが1726年に国状学のテキスト『学生のための諸国家知識の概論』を上梓してからであると,筆者は推測している。このテキストはユトレヒト大学で,オットーの後任だったウェセリングの講義で使われ,それを聴講したクルィトはライデン大学で初めて「統計学」という名称の国状学の講義を行った。このクルィトの講義をライデン大学で聴講したのがタイデマンである(タイデマンはゲッチンゲン大学のシュレイツァーによって書かれた『統計学の理論』を出版直後に蘭訳した)。クルィトはゲッチンゲン学派を継承し,統計学と経済学を同義のものとみていた。この点はライデン大学を拠点とした大学派統計学を担った人々に共通した特徴だった。そのクルィトは不慮の事故死をとげ(1807年),ライデン大学の統計学の講義はトリウスが,次いでタイデマンが1812年から48年までの長期にわたり受け継いだ。オランダの統計学は,この頃から新しい方向をとりはじめた。それはイギリスのペティ,グラント,ドイツのジュースミルヒ,オランダのストルイク,ケルセボーム,ロバトを含む政治算術派の方法論の吸収であった。

 フィセリング(1818-88)は1850年,ライデン大学法学部の統計学担当教授に就任した(財務大臣となった1879年まで)。筆者はフィセリングの統計学を解説するに先立ち,彼の教授就任講演「経済学の基本原理としての自由」を取り上げ,そこで利己心と隣人愛,科学と信仰という一般的には対立状態にあるものが両立的に受容され,オランダ的中庸論がフィセリングの思想としてあったことを確認している。

 フィセリングの統計学の内容は,1860年代半ばを境に前期と後期とに分かれる。筆者はそのことをフィセリングが発表した論文のなかに追跡している。すなわち前期の統計学観を,「オランダの統計学」(1849年),「我が国の統計」(1859/60年),幕府留学生の西周と津田真道に対しての講義録(1863/65年)で,後期のそれを「統計学研究の手引き」(1875年),「統計学の理論」(1877/78年),「大学における統計学」(1977年)で考察している。

 フィセリングの統計学の前期の特徴は,その内容が19世紀前半の大学派統計学と基本的に同じで(統計資料論),統計学に経済学(理論ではなく経済政策)の補助科学としての役割を与えられている。この特徴は60年代に入っても大きな変化はないが,部分的にオランダの政治算術の成果が組み込まれていることが確認できる。

後期になると,フィセリングの統計学は,その対象と方法に大きな変化があらわれている(その枠組みには大学派統計学の残滓がみられるが)。統計学の目的と領域を限定する定義が示され,「数字による表現が統計である」とする誤った見解に警告が与えられ,統計学の対象が非数量的領域を含む人間の社会生活と限定される。統計学研究では数量的方法に目が向けられている。平均の意義がとりあげられ,安定的現象と変動的現象の重要性が強調される。自らの統計学がゲッチンゲン学派,英国政治算術,オランダ政治算術の総合ととらえている。

 筆者は最後に次のように,フィセリングの統計学(後期)をまとめている。すなわち,彼の後期の統計学では,統計資料の加工・利用が目指す終点に,政治・経済に関わる社会問題だけでなく,人間の健康と疾病に関わる社会問題の科学即ち社会疫学が追加されている。また彼はゲッチンゲン学派を後退させた「新しい傾向」のなかでケトレーの役割を評価したが,人間の知的道徳的側面も自然法則的に捉える部分には賛成しなかった。この点には,フィセリングの自由意思の問題がかかわっている。その延長で,社会物理学の代わる社会倫理学が提起された。この社会倫理学は,その根源に自由意思をもつ人間が利己心を隣人愛で止揚したところに形成する社会の成立発展を因果法則的にとらえる学問である。フィセリングは,統計学の終着駅としてこの社会倫理学を構想した。
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