社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

藤原新「ケインズ『一般理論』の方法-『蓋然性論』における蓋然的推論の論理-」『統計学』第64号,1993年3月

2016-10-18 17:04:11 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
藤原新「ケインズ『一般理論』の方法-『蓋然性論』における蓋然的推論の論理-」『統計学』第64号,1993年3月

 ケインズには『蓋然性論(Treatise on Probability)』(1921年)という著作がある。この著作でケインズは,論理学の一部として蓋然性を体系化し,決定的な関係をもたない命題間に論理的関係が存在することを示し,蓋然的推論の論理学の確立を試みた。蓋然的推論は人々の「意識的行動」にも,「科学」にも不可欠であり,ケインズ経済学においては経済主体の行動にも,『一般理論』(1936年)の基礎にもなっている。筆者は本稿で,経済主体が意識決定という意識的行動の基礎におく「期待」と,ケインズ自身による経済過程の理論化の認識方法を検討している。それは『蓋然性論』で展開された蓋然的推論の論理が『一般理論』で果たしている役割を示すことであり,『一般理論』の方法的特質を解明することである。

筆者はまず,『蓋然性論』における蓋然的推論の論理を要約している。命題間の関係を表すケインズの蓋然性概念は,対象を認識する人間の意識のうちに存在する。蓋然性の論理学は,行動にかかわる命題間の合理的選択の基礎である。ケインズが『蓋然性論』で扱う対象は,論証によって獲得されながら論理的必然性をもたない命題である。この場合の論証は,手持ちの知識を前提にある結論命題を推測する行為であり,蓋然性とはその結論命題が真であることに対する主体の確信の度合である。蓋然的推論は,その論証を指す。ケインズは,ここに示される関係を蓋然性関係と呼んだ。

結論命題は証拠命題と相対的である。蓋然的推論を論じる際には,証拠命題の検討が不可欠である。ケインズのいわゆる「合理的確信」は,蓋然的推論を行う場合に必要な,厳密な論拠から導かれた確信である。結論命題と関連をもつ証拠命題が存在するかどうかは,その推論が合理的かどうかを規定する要である。証拠命題は,蓋然性関係において決定的な重要性をもつ。

 筆者は以上の点を確認し,ケインズが強調した次の2点に注意を喚起している。一つは,証拠命題の数によって,「論証の重み」が決定される。もう一つは,ケインズが蓋然性の主観的性格と述べたもので,同じ状況にあっても推論を行う主体が異なれば所持している知識も異なるので,推論の過程がひとしく客観的で論理的であっても,証拠命題の相違によって蓋然性や重みは異なり,したがって選択の仕方も異なるということである。また,証拠命題が蓋然的推論の結論命題として導かれたものである場合,この推論過程は二段階で構成されるが,その証拠命題がどれだけの証拠によって基礎づけられているかという「証拠命題としての重み」の問題は蓋然的推論の論理を『一般理論』に適用する際に,とりわけ重要になる。

ケインズによれば,現実は将来への不確実性に支配されている。不確実な状態とは,将来に関わる命題の蓋然性が小さい状態ではなく,論証の重みが十分でない状態を指す。蓋然性が主体の確信の度合いを表すのに対し,論証の重みはその論証に対する主体の自信の度合いである。不確実な状態にある人々が合理的な推論を行うとすれば,何らかの仮定をおいて手持ちの確信的・蓋然的な知識を証拠命題としなければならない。しかし,人々が証拠命題を入手する目的のために変化を期待する特別の理由がないとき,彼らは慣行にしたがう。慣行は経済主体の手もちの知識の一部をなし,彼らの目的や知識の相違に対応して多様である。筆者は経済過程に偏在するこの多様性を,企業者と金利生活者とについて具体的に考察し,『一般理論』では慣行に依存するこれら二者によって投資需要が決定される(資本の限界効率あるいは利子率をとおして)ことになると解説している。

 ところで,慣行は本来,証拠命題となるべき将来の出来事を,ある自信をもって推論できないことによる証拠命題の不在を避ける理由で用いられる。そして,これは「変化を期待する特別の理由がないかぎり,現在の事態が無限に存続する」という仮定にもとずいて理論に導入され,不確実性に起因するものであった。したがって「変化を期待する特別の理由」が生じたときには,慣行に従わなければならない理由が失われ,慣行はもはや証拠命題とならない。推論は新たな命題を証拠命題とし,それにもとずいて再度,形成され,その時点で不連続な変化をきたす。

 以上のように,経済主体の期待形成を『一般理論』のおける蓋然的推論の論理にもとづいて検討すると,『一般理論』における期待とは,多様で不連続に変化し,さらに相互依存関係にある人間が行う合理的であるが蓋然的である推論に他ならない。 

 筆者は最後に,ケインズ経済学を新古典派経済学と対比し,その方法的特質を整理している。それによると,新古典派経済学は同質的な経済主体が極大化原則という普遍的原理にしたがって行動する「ホモ・エコノミカス」を想定した枠組みをもつのに対し,ケインズ経済学が扱う経済主体は具体的な人間関係の観察からもたらされたもので,経済主体は異質で相互依存的であり,彼らの選択行動の安定性を保証するかのようにみえる慣行は突然の変化を内包する主観的要因にすぎない。このような対象から一般化命題を引きだすためには,分析者は多くの具体的な観察結果や推論によってえられた多様な知識のなかから,重要だと思われるものだけを選び出し,帰納的推論をもちいて一般化命題を認識しなければならない。このように導かれた理論は,直接に観察され,ある自信をもって推測された現実の経済的事実の集合を証拠命題とし,合理的推論によって導かれた結果命題の体系になる。

 さらに『一般理論』が蓋然的推論によって導出された体系の命題であることは,その背後に代替的な命題の体系が存在することを含む。経済学はモデル(数理モデルではない)の選択の技(art)であるというケインズの主張は,ここから生まれる。経済学をこのようなものと考えると,時間的に変化する経済過程から具体的にどの要因を証拠命題として選び出すかに関して,絶対的基準はないことになる。その判断は理論を構成する個人の経験と内部洞察力とに裏打ちされた直観にもとづく。理論はこうして得られた証拠命題から論理的に導出された結論命題の体系である。ケインズ経済学の方法の最大の特徴は,この点にある。経済学がモラルサイエンスであるとケインズが主張するのは,このためである。

藤江昌嗣「確率前史研究序説-Ian Hacking『確率の出現』をめぐって」『思想と文化』1986年

2016-10-18 17:01:11 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
藤江昌嗣「確率前史研究序説-Ian Hacking『確率の出現』をめぐって」『思想と文化』1986年

本稿の目的は,Ian Hacking『確率の出現-確率,帰納そして統計的推測についての初期の概念の哲学的研究』(以下,『出現』と略)を取り上げ,その内容の紹介,そして若干の課題の提示である(この著は,2013年に広田すみれ・森本良太の訳で慶應義塾大学出版会より刊行された)。筆者はこの再検討が,D.Huffによる統計的確率と帰納的確率との関係の考察,また確率的思考が認識あるいは科学にとってもつ意味の考察に有意味である,としている。確率前史の研究はまた,実証科学としての統計学にとって,その論理構造を解明のための不可欠な準備作業である,とも指摘されている。

 『出現』の構成は,以下のとおりである。1章:観念不在の時代/2章:二重性/3章:判断/4章:証拠/5章:徴候/6章:最初の計算/7章:ローネッツ・サークル/8章:偉大な決定/9章:思考の技術/10章:確率と法/11章:期待/12章:政治算術/13章:年金/14章:等可能性/15章:帰納論理/16章:推測術/17章:最初の極限定理/18章:秩序/19章:帰納。

 本稿の大半はこの『出現』の要約である。確率の概念は17世紀に出現したが,それはヤヌスの顔をもっていた。それは一方で偶然過程の確率法則に関するかぎり統計的であったが,他方で命題に関する合理的信頼度を評価することに関するかぎり認識論的であった。当初からのこの確率の二重概念の存在は,現代的意味での確率という概念空間内部での現在にいたる競い合いの条件(確率についての可能な理論空間)であった。この確率についての可能な理論空間の前提条件は,Hacking の立論の展開方法を予定する要素である。この空間に関して,それは1660年から現在に至るまで不変な形で存在し,さらにこの空間は全く異なる概念構造の変換から生まれたものであった。それらはわれわれの思考図式に少なからぬ影響を与えているので,この空間ないしその前提条件について理解することこそが確率理論の歴史的循環からわれわれを解放することになる。

Hacking が注目するのはmetatheory としての概念空間であり,過去の著者の論述のなかにこの概念を発見することが関心事である。そして,彼の研究する確率の前史は,15-16世紀(ルネサンス)からほぼ17世紀までとされる。研究対象である概念空間の形成に関係している諸概念は,次のものである。
知識knowledge,判断opinion,理由reason,因果cause,徴候sign,証拠evidence,実験experiment,診断diagnosis,可能性possibility,等可能性equipossibility,帰納induction。
これらの分析と懐疑が問題となる。Hacking が『出現』で考察しているのは,ルネサンス以降17世紀までに限定し,科学の内容との関連を意識しつつ,上記の諸概念が確率概念の形成に向け,どのように変化してきたかである。

 筆者の要約は,上記の章別構成のうち次の諸点に限定されている。観念不在の時代(Pascal以前),知識と判断,徴候と診断,確率と統計,等可能性,帰納。
Pascal以前に西欧では確率理論がなかったのは,何故か。Hackingのこの問いに対する解答として,世界についての決定論者の見解があったこと,数値体系と経済的誘因がなかったことを挙げている。中世の認識論では,事実はそれ自体で信頼できるか否かが問題になるもの,科学は必然性という点で普遍的真理である知識であるもの(論証により得られるもの),論証により得られない信念・原理・命題に関するものは判断として区別された。古い確率は判断の属性であり,①権威者により賛意を得られるか,②テストされるか,③古典により支持されるか,これらのいずれかの場合に確からしいものとなった。

 ルネサンス期には確率概念の必要性も,本格的使用も見られなかった。この時期には徴候という概念が存在した。この概念は確実性よりむしろ確からしさという性質をおび,その確からしさは頻度と関わっていた。Hackingは彼が確率の出現と呼ぶ概念空間の変形のための材料は,この徴候という概念から作り出された,とする。この徴候は実験による獲得,自然の研究に人々の目を向けさせた。
中世では実験は解剖,試験,やま(・・)の三態(証拠を提供する種類)で考えられた。徴候を読み取る診断は,ルネサンス期に新たに概念化された「実験」である。このような診断は,「因果の実験的方法」が高い地位についた17世紀の解釈と関係があり,「実験」によって事物の作用を説明する直接的因果である。徴候,診断は古い科学における論証的性格から帰納的科学における仮説に対する帰納的証拠という性格と結びついている。この流れは,外在的証拠から事物にそなわる内在的証拠の経路と重なる。この時期,確率はその名称を除くすべての形で出現し,証明と安定的規則性との結合は内在的証拠という概念誕生の結果として成立した。

 Hackingによれば,確率と統計の概念の利用は因果関係から独立に認識論的基準が把握されるときに,すなわち証拠という因果関係と認識論的概念を区別するときに,出現した。確率の認識論的概念の出現は,①事物の原因となるもの,②それが起こったことをわれわれに告げるものとの区別の必要のために必要とされた(Leibnizの自然法学)。等可能性(その簡単な定義は「もしあるケースが他よりも起こり易いとする理由がない場合」というものである)は,18世紀に盛隆をみた思考方法で,フランスに生まれたが,イギリスにはなかったものである。Leibnizは,確率を可能性の程度であると捉えた。だが,その可能性は,①さまざまな事象を得る力,あるいは②等しく容易であるという意味でのfacile に対応する。もし,厳密に客観的可能性,すなわち容易さfeasibility,傾向proclivity,性向propensityなどを定義するならば,このような容易さの程度は正確さの程度を変えつつ知られるような知識の対象となる。

 確率の出現は,ルネサンス期の徴候から証拠への概念の変形を背景にもつ。このことは事物の作用を説明する仮説に対し,テスト-実験に合格した結果が新たな帰納的証拠となることを意味した。判断の確率すなわち,論証によって獲得された属性としての確からしさは,自然に関する徴候=頻度の証拠による確からしさ=知識の確率へと形を変えることになる。1660年までに内在的価値という概念が確立すると,因果性に関してはその対象領域が知識から判断へと転移した。判断は従来,低次科学の主要部分をなし,知識は高次科学の目標であったが,このことによって知識の潜在的領域のかなりの部分は判断の領域の一部となった。低次科学と高次科学の区別がなくなり,判断と知識の差異が程度の問題となっていくのが17世紀であり,それは帰納への懐疑的問題の出現-確率の出現の前提条件であった。これがHackingの結論である。

 筆者は最後に課題を確認している。ひとつは確率の二重概念(経験的な概念としての統計的確率と論理的概念としての帰納確率)に関し,Hackingは後者の意味合いに関心をよせているが,認識が対象をどの程度反映しているのかを問題にするならば,前者の方向での認識論的確率の検討が課題となる。また,筆者は確率に関する二重概念(統計的確率,帰納的確率)はそれぞれの役割を統計理論で演じるが,Hackingがこの問題をどのように考えているか,をあらためて検討する価値がある,としている。

是永純弘「確率概念の本質と確率論主義批判」内海庫一郎編『社会科学のための統計学』評論社, 1973年

2016-10-18 16:58:38 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
是永純弘「確率概念の本質と確率論主義批判」内海庫一郎編『社会科学のための統計学』評論社, 1973年

 計量的手法をとる近代科学は確率論の数理を応用する。そのなかには, 統計値を含めて一団の数値(集合)が与えられれば, ただちにそこに大数法則があてはまるものと決めこみ, 確率論を適用し, 確率計算を行い, その結果によって一定の規則性の安定度を確率で表現する。確率論主義といわれるものが, これである。確率論主義の本質は, 筆者によれば, 自然および社会の諸現象に関する数値(観測値や統計値)の一団が与えられたとき, それらの研究対象を固有の研究方法で分析するのではなく, これらを抽象数の一団とみなし, そこに確率論を適用し, 分析することである。換言すれば, 自然科学, 社会科学を問わず, それらの固有の対象を明らかにするために不可欠な独自の研究方法にたよらず, 確率論だけで問題に接近しようとする姿勢が, これである。本稿の目的は, この確率論主義を批判的に検討することである。

 筆者は問う。そもそも確率とは何なのか。それは物質の客観的な運動形態のいかなる側面を反映したものなのか。具体的な事実を特徴づけるために確率概念を適用したとき, それはいったいどのような実質的意味をもつのだろうか。

 確率論がその理論的帰結として予定する「大数法則とは, ある統計値集団において特定の単一標識の特定の値があらわれる度数のその集団の大きさ(総度数)に対する比率, すなわち特定事象発現の相対素数が, 集団の大きさが大きくなる(数学的には無限となる)につれて, 一定の値(先験的確率に近づくことがほぼ確実(確率1)になることである」(p.90)。「相対度数」「先験的確率」「確からしさの程度をあらわす確率」という3つの概念がここでは重要である。

 筆者は問題の所在を以上のように整理し, 次いで確率が事物の運動形態の一側面の反映であることを, たとえ部分的でも意識して確率を定義しようとした(1)古典的確率論と(2)頻度説的確率論をとりあげ, それらの意義を確認している。

 古典的確率論は, われわれの経験に先立って事物の存在そのもののうちに, 一定の条件のもとにではあるが経験の結果としての一定の規則性という属性を認める。経験の背後に, 事物の存在が予定されている。問題は物自体の一属性が確率にあらわれるメカニズムに関して, 不完全な説明しかできていないことである。これに対して, 頻度説(R.v.ミーゼス)では, 確率は無規則な現象系列の中での特定事象の発現の相対頻度の極限値と定義され, 相対頻度の極限値が出現するメカニズムが客観的である。この頻度説の欠陥は, 経験がすべての大前提におかれ, そのような経験の結果が生ずることを経験以前の「物自体」の属性とされていないことである。

 ミーゼスは物質の一属性が確率として発現するメカニズムを, 同一現象の繰り返し試行, あるいは同種の自然物の集団という二つの類型をもった客観的事実としてのコレクティフの性質に見出した。問題はその発現条件を事象の確率的性質の成立または存在の条件と同一視したことにあった。

 以上の理解にたって, それでは先に述べた確率論主義はいかに克服されるべきなのだろうか。確率論主義が有している欠陥は, 確率論とその適用の結果が統計値集団にみとめられる安定的規則性の発現の強度を示すにすぎないにもかかわらず(なにゆえにこの集団がこの集団性をこの強度において示すかという原因機構の解明が次の研究段階である), その延長で既存の知識で対象の認識に到達しえないとなると, ただちに対象的真理, 絶対的真理が認識しえないとし(不可知論), 認識の相対性が一面的に強調されることにある(「相対主義」)。この弊を避けるには, 相対的真理の認識を徐々に高め, 全体として一歩一歩, 対象の絶対的真理に接近していく以外に方法はない。

 筆者は最後に, 確率論的な認識論の不可知論的な相対主義は, 物理学の世界における古典物理学から量子力学への発展についての誤解に根拠があり, それが社会科学にもちこまれたとして, そうした物理学的世界観そのものを批判的に考察している。物理学でも, 確率概念が物理量のもつ客観的な意味をあきらかにする単なる指標とみなされず, 観測の誤差, 情報の不完全さといった認識の技術的限界が物理的認識の絶対的限界と解釈され, 確率論主義にたよることがあった。ハイゼンベルクの思考実験によって「証明」された「不確定性原理」がその一例であるという。この世界でも重要なのは, 確率概念の公理論的基礎づけや実証主義的道具化ではなく, この概念の客観性の解明である, という先見的見解の表明もある。筆者は, 社会科学もこの見解に学ぶべきだと説いている。

杉森滉一「『客観的可能性』としての確率」『岡山大学経済学会雑誌』第5巻第2号,1973年11月

2016-10-18 16:53:45 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
杉森滉一「『客観的可能性』としての確率」『岡山大学経済学会雑誌』第5巻第2号,1973年11月

 筆者は本論稿で,J. v. Kries(1853-1928)の「客観的可能性」概念を検討している。M.ウェーバーは「理念型」的方法を構成する要素のひとつに「客観的可能性」を措定した。この概念を詳しく論じたウェーバーの論文は,「文化科学の論理学の領域における批判的研究」と題する。筆者によれば,ここでは理念型論で「客観的可能性」概念が重要な役割を果たしているが,この概念をクリースまで遡って考察することはウェーバー理解にとって意味がある。

クリースの所説(「客観的可能性の範疇とその幾つかの応用について」)は,19世紀後半から盛んに展開された確率基礎論の一つである。クリースは数学上の確率論を「客観的可能性」へと一般化し,さらに「適合的因果連関」論まで展開させている。彼の議論の特徴は,確率を存在論,認識論,論理学一般のなかで論じ,これによって後者の枠組みが再規定されるとしている。クリースからウェーバーへの継承関係が確認されれば,確率あるいは確率的思考が理念型論に入りこみ,その構成要素のひとつになっている関係をみることができる。また,「理念型」が歴史学,社会学などの限られた分野で「有力」な方法論であるのに対し,科学的方法論における支配的傾向は新旧二つの実証主義(論理的および感覚的)のそれである。後者のうちの論理実証主義的方法(=分析哲学的方法)は「理念型的」方法論と全くの異物と考えられがちであるが,両者は類似した面をもつ。筆者はクリース説を吟味することが両者の親近性を知るために必要である,と述べている。

 構成は次のようである。「Ⅰ『無理由原理』と『充分理由原理』」「Ⅱ『領域原理』」「『客観的可能性』と合法則性」「Ⅲ『客観的可能性』と因果性」。

 古典的確率論では,確率論の基礎は「等可能性定義」と「無理由原理」にある。前者は,ある事象の確率を「その事象の生起にとって好都合な諸場合の数/等可能な諸場合の数」(ただし,等可能な場合は相互に排反かつ独立である)とする。後者は「生ずる可能性のある諸事象のうち,とくにどれが生ずるという根拠がないとき,それらの諸現象を等可能とする」原則である。クリースは前者を承認するが,それを意味あるものとするのは後者であるとして,その妥当性如何の問題を考察する。従来,「無理由原理」は,「起こりうる諸事象のうち,特にどれが生じるということを我々が知らないとき,それを等可能であるとみなす」という意味で解釈されてきた。この解釈では,「無知であること」が等可能と見做すことの根拠であるが,この意味での「無理由原理」を根拠にした等可能性判断から確率を計算すると種々の背理が生じる。背理が生じる理由は,「無理由原理」の下に「無知」が等可能性判断の根拠とされているので,判断主体の無知の程度によって,同一事象に恣意的なさまざまな等可能な場合が設定されることにある。このような恣意性を排除するには,等可能な場合の設定が「信頼に足る方法」で行われなければならない。これは,「無理由原理」との対照で「充分理由原理」と呼ばれる。「無理由原理」では等可能性の設定は「無知」が反映され,確率自体が無知の程度を表している。これに対し「充分理由原理」は無知ではなく知識が必要とされ,知識と言うかぎりでは客観的な何ものかについての積極的提示であるから,確率自体は知識として把握された特定の客観的事態を表す。

 クリースは一方で確率の客観性を強調するが,他方で確率における無知の要素をふまえた主観的要素を積極的に主張している。要するに,クリースは確率の成立する根拠として無知と知識とをともに要求する。結局,「充分理由原理」による等可能性判断は,無知と知識の混合した,あるいは無知の要素を含む特定の知識形態である。確率はそういう特定の知識形態の帰結である。この帰結の性格は確率が知識一般のひとつの形態であることにある(無知の要素を含んでいるが客観的な根拠において限定された,知識のひとつとしての無知)。確率は得られる知識がこのようなものであった場合にわれわれが採らざるをえない帰結であり,またその意味での推理の形式のひとつ(論理的関係)である。クリースは一方でこれを確率の「論理的理解」と名づけ,他方で「無理由原理」にたった場合の確率を確率の「心理的理解」と規定し,両者を対立させる。筆者はこの事情をみて,クリースにあっては,「客観的」と「論理的」(または「主観的」と「心理的」)とが同一視されているとみる。

ところでクリースの言う確率の「主観性」は,主観と言っても現実の個々の主観の精神状態を表すものではない。それは個々の主観の現実的状態如何にかかわらない,思惟必然的に妥当する精神状態を指す。これが実はクリースにおける確率の客観性の説明であるが,内容的にみるとこれは確率の論理性の説明である。クリースによる確率の客観性は,確率の「一般的妥当性」のための単なる理由もしくは材料として扱われ,結局「客観性」が「論理性」に還元されている。その「客観性」は主観の外にあるという意味のそれではなく,一般的に妥当する主観性であり,主観内での「客観性」である。ただ,クリースは,ところを変えて,本来の意味での確率の主観性を主張することもある。その結果,外的現実状態の要素が主観内客観性としての一般的妥当性の一部を支えるという関係になっている。要するにクリースの確率概念は,主観性と客観性,論理性と客観性という基本的次元で異なる原理を併存させることで成立している。

上記の「充分理由原理」で要求されているのは「積極的知識」であった。この「積極的知識」とはいかなるものなのか。どういう知識状態であれば等可能性設定が正しく行われるのか。確率についての「論理的理解」からみて,等可能性判断の基礎となる知識状態は論理的にいかなるものであるのか。筆者はこうした問題をクリースの確率論について考察する。

クリースはその確率論の最深の基礎概念に「領域(Spielraum)」をすえる。この概念は,問題とする事象がおこりうる「範囲」(確率はその一部が現実化したもの)のことである。この「領域」の性質は,3点ある。第1に,等可能性は「領域」のどの部分も他に比して論理的に優先しない。第2に,同一の事柄について無差別な「領域」が複数成立することがある。このとき,どの「領域」に依拠するかにより,等可能性の設定の仕方が異なる。第3に,「領域」は測定(もしくは比較)可能でなければならない。以上の3点が満たされれば,何かの事象が起こる確率は,その仮定がもつ「領域」の大きさにより計量できる(領域原理)。
この領域原理にはさまざまな問題点がある。まず「領域」とは,「客観的可能性」のことである。この概念には,2つの基礎がある。一つは一般的結果がその実際の出現に際し,幾つかの具体的諸形態をとると解釈できること,もう一つは一般的結果の出現自体が確実とみなすことである。「領域」の意味内容は,事象における一般的結果が現実化するさいにとる個別的諸形態としての行動余地もしくは形態可能性に他ならない。「領域」は,形式的にはこの個別的諸形態の集まりである。

一般的結果の確実性は,各個別形態に分有される。「分有された確実性」は,「領域」の実体であり,ある事象を構成する個別的諸形態の多少がその事象に必然性の程度すなわち「可能性」をあらわす。クリースにあっては「確実性の分有」は「確実性の程度」であり,「確率」は主観内的なものとされるので,このような解釈が可能とされる。ただし,概念的次元でも,「領域」と確実性とは原理的に異なるもので,このことはクリースも認めている。要するにクリースの「領域」(可能性)概念は事象の現質的個別的形態を並べたもので,事象の現実的生起を説明するものではない。

 注意すべきは,「領域」自体は一般的結果がいかなる個別的形態において実現するかが不明なときには常に成立するということである。加えて,「領域」が先の三条件をもし備えていれば「領域」を分割し,相互の大きさを比較することができる。もし数値化できない「領域」の場合には数値化できない確率があることになり,蓋然性だけが示される。確率は蓋然性一般ではなく,その中の「領域」一般でもなく,特殊な性質をもった「領域」を表現しているにすぎない。結局,筆者によれば(「領域」の三条件を踏まえると),量化しうる「領域」すなわち確率の基礎である知識とは,無差別な(想定しうる個別的現象形態のうち,現実化する形態を指定しえない),根源的な(客観的事態に支えられている),測定可能な(個別的諸形態が比較可能な)それである。

クリースは,あらゆる現象が先行条件の必然的帰結であるという一般的合法則性を認める。同時に,確率の基礎としての「領域」は,先行条件からの結果の一義性を決定できないところに成立する。外見的に矛盾するこれら2つを調和させるには,どのような説明が可能であろうか。クリースは認識結果一般を2つに分ける。一つは合法則的連関の認識である(法則論的規定)。もう一つは法則が規定する仕方で事象が経過するさいに,その経過の「出発点」を与えるもの,あるいはその経過に具体的形態を与えるものの認識である(存在論的規定)。確率論の基礎である「領域」は,「法則論的規定」によって指定された限界内で「存在論的規定」が変化するところに成立する。換言すれば,「法則論的規定」について完全(既知)であり,「存在論的規定」について不充分(無知)であるような知識形態(=積極的知識)が「領域」の基礎にある。クリースによれば,この2つの規定ないし知識の区別によって,「領域」の存在が保証される。一般的合法則性は先行条件と帰結の一義的結合という意味で「客観的可能性」の特殊な場合ということになる。「領域」および「領域原理」に関して付言すると,それらの特質は「領域」自体の「客観的性格」および領域成立の基礎にある2つの事柄,すなわち確率を一般的結果-個別的諸形態(法則論的規定-存在論的規定)という関係のなかにもとめること,一般的結果自体に確実性を想定していることにある。

 クリースは以上の一般的合法則性における先行条件と帰結との結合を,原因と結果の関係(因果関係)として把握する。となると,因果関係が「客観的可能性」の形で存在するこことになるが,このことは因果関係の究明過程に対して「客観的可能性」の判断および因果連関の「適合性」の判断という手続きを必要とさせる。

筆者はこの手続きについて簡単に予約している。すなわち,クリースによれば,ある事象の原因を突き止めるにあたり,ある結果がある契機なしには起こらなかったと考えらえるとき,その契機が「原因」となる。因果律では例外のない継起的規則性を規定する関係は稀で,通常はある契機はある結果の実現を「助成」する。この「助成」には程度の差があり,その程度が比較的高いと考えられる時には,当該関係が「適合的」であると言う(そうでないときは「偶然的」)。以上がクニースの「客観的可能性」と因果性の解説である。

杉森滉一「ヴェンの確率基礎論」『統計学』第18号,1968年

2016-10-18 16:52:14 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
杉森滉一「ヴェンの確率基礎論」『統計学』(経済統計研究会)第18号,1968年

 本稿はJ.Vennの確率基礎論を Logic of chance (1866)の第4版(1888)と The Principles of Empirical or Inductive Logic (1889)により,紹介し,その意義を論じたものである。ヴェンは確率論史のなかでは頻度説の代表論者の一人としてとりあげられ,一般的な理解では確率を相対頻度の極限値と規定しただけのように扱われることが多いが,果たしてそうなのかというのが筆者の問題意識である。この問題意識のもとでヴェンにおける頻度説の形態はどのようなものであったか,それが頻度説,確率基礎論の歴史にいかなる意義をもったのか,これらが本稿の課題である。

 周知のように頻度説の立場にたったミーゼスは,一つの属性に関して①相対頻度の極限値と②分布の無規則性とを備えた集団現象をコレクティフと規定し,その説明原理を確率論にもとめた。この説は二面性をもつ。一つは確率数理に一種の形式性を認め,それとは別に確率数理がよってたつ経験的対象の規定を強調したことである。コレクティフが抽象されることで,特定の物質の運動形態は実質的に規定され,確率論の適用対象はそこに限定された。しかし,このことは他面で現象,経験を絶対化する認識論上の立場にたち,コレクティフが存在するための客観的構造,原因機構の究明がそれによって遮断された。頻度説の経験主義的側面を払拭し,確率基礎論のさらなる展開が必要な所以であるが,そのためには頻度説のもつ意味が明らかにされなければならない。これはミーゼスの学説がどのような系譜を経て出現したかを究明することでもある。ヴェンをとりあげる理由はこの点にあり,ヴェンの学説はそれにふさわしい多面的内容を含んでいるという。

 内容が難しいので,以下,筆者の紹介をピックアップしながらヴェンの学説を要約することにする。ヴェンは確率の基礎概念が系列すなわち事象または事物の連続ないし集合体であるとする。確率論の対象は系列一般ではなく,特定の性質(個別的不規則性と総体的規則性)をもった系列である。この系列における個別的不規則性と総体的規則性は,「事象系列」とヴェンが名付けたもので,系列の構成要素に部分的に共通するある属性が究極的に事例全体のある割合におちつくことを差して言う。このような事象系列には,①運任せゲームの結果,②同種多数の観察結果,③同一物の多数測定結果の三種類がある。これらのうち,①のみが確率論の理想的な対象で,②③は近似的な対象である。

 ヴェンはこの説を,確率の内容を主観における知識ないし心理的信頼であるとする主観的諸説に対立させている。ヴェンが強調するのは,推理の正当性の最終的根拠が経験にあり,経験と切断して信頼を云々することの無意味さである。ヴェンにあっては,主観に知識状態に確率を依存させるのは誤りであり,主観の側に確率を考えるとしても,主観をしてその様に思い込ませる経験の側における根拠が何かを究明しなければならない。確率の意味を問うには経験的世界との対応ということが根本問題であり,そのために頻度が媒介になる。ヴェン確率基礎論の意義は,経験世界と確率数理との対応をつけようとし,現象世界から事象系列を確率論の対象として抽出し,特定の客観的事物に確率を認め,そのような事物に特徴的な構造を明らかにする道筋をつけたことである。この方向は,経験主義に立脚するが事象系列をより詳細に規定しコレクティフを導出したミーゼスに継承される。

 ヴェンの確率基礎論が提起したものは,これだけではない。確率が事象系列全体に言われるもので,それの主観による受け取り方が信頼であるという上記の議論をさらに一般化し,様相(modality) をも頻度=確率の観点から解釈する。様相は,判断について,その確実性による分類である。ヴェンは様相の本質が信頼ないし確信の程度を区別することにあるとし,それを総て頻度に還元した。

 またヴェンは確率論の推理機能を一般的に問題にし,帰納法との関係を論じている。ヴェンによれば,経験的世界から事象系列を抽出し,そのなかで相対頻度を規定するのは貢納法の課題である。事象系列にみられる統計的規則性は,帰納法によって得られる。確率論はそれを受け,爾後の推理を担う。両方法は協働的である。推理の過程は,事物についての確実な知識の獲得が目的である。この過程は,①単なる推定,②仮説ないし理論,③事実三段階がある。確率が担うのは,②である。確率論による認識は,材料として統計的規則性しか得られない場合の不完全な中間的認識である。

 筆者は最後にヴェンの学説上の継承関係を読み解く。まずミーゼスとの関係,続いてライヘンバッハ,ケインズとの関係である。ヴェンは経験論者で,特定の物質構造としての事象系列ならびにその属性としての確率という意識は希薄であるため,専ら現象的に頻度の極限値イコール確率という規定の強調にとどまった。このため現象が確率現象であるか否かがどうしてわかるのか,それを決定する徴証が何かという問題に回答を用意できなった。こうした経験主義に固有の宿弊は,ミーゼスにも特徴的であった。
 またヴェンは確率の実体としての頻度を現象的に解釈する結果,客観的過程にあった確率が簡単に「方法」に転化する。事象そのものの確率から事象の判断の確率へと主題は,拡張される。事象の確率だけでなく一般的認識の確率を問題設定し,これを当該命題が経験と合致するかしないかの頻度に還元したのは,確率主義者のライヘンバッハである。筆者はヴェンとライヘンバッハとの異同と継承関係を指摘している。

 最後はヴェンとケインズとの関係であるが,ヴェンは確率を伝統的な帰納法の枠のなかに位置づけたが,ケインズはヴェンの確率基礎論が狭すぎるとして(統計的頻度に還元できない probable なケースがあることを強調),帰納法そのものを基礎づける新たな確率論の構築に向かった。ヴェンは方法として確率論を論じることで,判断の確率をも頻度で測ろうとしたのに対し,ケインズはそれが頻度とは別のより一般的論理的関係図式に包摂されること,そしてこの図式が帰納法の不確実性の処理を含むことを説いた。また,ヴェンは事象の確率,その事象について思考する主観における確率,一般的認識の信頼性としての確率という順序で問題をとらえ,それらをすべて頻度に還元したが,このことを考えるとヴェンはケインズが記号論理学に触発され,命題間の論理的関係について確率を考えるその直前の点まで基礎論を展開していたと言える。

 ヴェンの確率基礎論は視野が広く,その後の種々の発展方向の萌芽であった。