社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

菊地進「計量経済学批判の方法と課題」『統計学』49・50合併号,1986年8月

2017-10-06 15:08:37 | 12-2.社会科学方法論(計量経済学)

筆者は1970年代半ば以降,計量経済学をめぐる状況に変化があると見る。一つは60年代から70年代にかけて開花した計量経済学がケインズ型マクロ計量モデルの破産を契機に,方法論的反省を余儀なくされたことである。もう一つは批判経済学の側で計量経済学の有効性を認め,その批判的摂取図るべきとする見解が台頭したことである。この論文は,1976年からの10年間のこの分野の回顧と分析であるが,筆者はこの間の意見対立がどこにあったのか,対立克服の条件と方向がなんであるのかを明らかすることが必要なこと,述べている。
筆者は最初に10年前の𠮷田忠によるこの分野での業績の総括を整理する。𠮷田は計量経済学批判を,方法論的批判,弁護論批判,経済計画における利用形態批判の3つの系譜に分け,それぞれの特徴と問題点を指摘した。𠮷田によると,「方法論的批判」は研究室レベルにおける計量経済学者の目標・意識と結びついた計量経済学の方法を対象とし,「弁護論批判」は計量経済学の資本主義弁護論的性格を主張した。これは計量経済学の一定程度の有効性の承認と結びつく可能性を秘めているが,計量経済学の適用範囲にまで対象を広げ,より体系的に批判したもの,と評価できる。これを実践したのが「経済計画における利用形態批判」である。しかし,この批判は方法論的に無効である計量経済学が実際にどのような役割を果たすのかを十分に明確にしえなかった。今後の批判の方向は,批判の対象を国家と総資本の本質的意図の具体化の全過程=経済計画策定過程にまで広げることが必要である。このように計画批判のプランを示した吉田は,計画の内容としての政策体系が計画作成方法と無関係に与えらえるという「二元論的構造」を指摘する。

この吉田の「二元論的構造」説には二つの立場から異論がだされた。浜砂敬郎は,中期経済計画を検討し,そこで算出されたマクロ計画値が「計画」の政策体系と対応関係があり,𠮷田にそれがみえないのは科学方法論的視点にたつからで,マクロ計画値の社会的依存性が問われていないからである,とする。筆者はこの吉田と浜砂の対立の要点は,計量経済学批判の課題からすれば,計量経済学=方法説の是非にあると述べる。
もう一つの異論は,計量経済学の有効性を認めるべきであると主張する山田(彌)によるものである。山田(彌)は,「長期や中期の計量モデルによって,独占資本によって必要な限りでの整合的な経済見通しと政策の大枠を決定することができる」との見解を表明し,𠮷田の「二元論的構造」説を否定した。

計量経済学の利用を推進するためには従来のそれに対する否定的評価を一掃しなければならないと考えた山田(彌)は,方法論的批判説に対する批判を開始する。山田(彌)の主張は要するに,方法論的批判は計量経済学(モデル)の全面的批判,全面的否定である,計量モデルは因果関係を表現することができるし,因果性を付与して解釈できる,モデルの評価は,具体的かつ個別的に行わなければならない,現実の本質的側面を正確に反映した計量モデルの作成は可能であり,そうしたモデルを使って政策シミュレーションが意味をもつ,というものであった。
批判的経済学の側でこのような研究が進められていた時期,近代経済学の側では計量経済学の従来型の方法に対する懐疑と批判が顕在化していた。批判の矛先は,経済政策の実施の有無にかかわらず構造パラメータを一定と仮定していること,モデルの大型化=作業量の厖大化に比し,予測成績が悪いことに向けられた。批判の急先鋒は,合理的期待形成を旗幟に掲げる論者であった。計量経済学の従来型の方法にみられる上記の難点にたいして,彼らがとったやり方は予測変数の導入,これを説明する方程式(合理的期待仮説)の導入である。このような方法をとると,モデルと統計データとの対決,すなわちモデルの妥当性の検証は,構造方程式のレベルで行うのではなく,それから導かれた誘導方程式のレベルで行わなけれならなくなる。この方法を首尾一貫させるためには,同次連立方程式モデルを退けねばならない。モデルの検証方式をめぐる意見対立は,同次連立方程式モデルの登場以来,常に発生してきたことであり,今回の対立はその延長線上にある。

山田(彌)は合理的期待説による批判点は方法論的批判説が指摘した論点と同一であるとして,同次連立方程式モデルを擁護する観点からこれを拒否した。筆者はこのことを確認しつつ,しかし問われるべきは計量経済学の有効性を主張するのであれば,計量経済学の内部で上記のような対立と混乱がなぜ生まれたのかについて回答を用意しなければならないと,迫る。他方,近昭夫,山田貢は合理的期待説の批判の論点は方法論的批判説が指摘してきたたことと同じと考えその見解を評価する。ただし,筆者によれば,合理的期待説の批判は近,山田がとらえたように,計量経済学の外部からなされたのではなく,内部での混乱である。この視点は,計量経済学の今後を考えるうえで非常に重要である。なぜなら,こうした混乱の結果生み出されるのは,そこで認めざるをえなかった問題点を糊塗する手法の新たなモデル開発であるからである。
計量経済学が何かを考えようとすると,過去におけるその展開目を向けざるをえない。今日の計量経済学がこれまで直面してきた方法上の困難,

また混乱の原因を解く鍵が計量経済学のこれまでの展開そのものの中に与えられているからである。
計量経済学の方法は,純粋に手法の面から言えば,自然科学における統計的方法ないしその展開にすぎない。条件の違いを無視して社会科学の分野で適用すれば,何らかの形でその欠陥を認識せざるをえなくなる。計量経済学の変遷は,新しい方法の開発で古い手法の欠陥を一時的に覆い隠し,モデルのスクラップ・アンド・ビルドが繰り返される過程であった。こうした点を踏まえると,計量経済学の評価をめぐる意見対立は,その有効性をめぐる対立ではなく,計量経済学=方法説を認めるか否かにつきる。

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